アルフレッド・バークマン著
洪繁樹訳
『満洲国建国』
※著者紹介
イギリス東洋史学者。ケンブリッジ大学歴史学教授。国際史学会理事。東洋史学会理事。国際政治史学会理事。
※訳者紹介
新京帝国大学歴史学教授。東洋史学会理事。満洲歴史学会特任理事。
※翻訳本出版社
蘭華出版・満洲帝国新京特別市大同三丁目2-6
※初版
興信3年2月1日
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中華民国張学良政権による満鉄並行線、日系人を対象とする私法行為の一方的取消を始めとした日本資本への意図的な妨害工作に在満の日本人達は危機感を覚えた。彼らの感覚を重く受け止めたのは日本関東軍である。満洲は日露戦争で日本陸軍が多大な犠牲を払って獲得した権益であり、断じて奪われるわけにはいかない。彼らは後年『満洲事変』と呼ばれる武装闘争を発生させ、旧清朝最後の皇帝であった当時の溥儀氏を頂点とした満洲国を建国させた。
関東軍は強力に新国家を既成事実化しようと満洲国政府を叱咤し、各種法令の発布や行政機関の確立を強硬に推し進めていった。そして、日本本国の当時の犬養首相は、ジュネーブの帝国政府代表部に命じて、リットン報告書とその仲裁解決案の採択をできるだけ遅らせるように休会提案を乱発させた。さらには、英仏独墺露伊の列強に接触し、報告書の内容の審議に際して現地の実情を十分に考慮に入れるように説得した。
こうして『国際連盟日支紛争調停案』、いわゆるリットン報告書は作り上げられた。この内容は、西暦1878年の露土戦争における講和条約であるサン・ステファノ条約が規定したオスマン帝国の宗主権を認めた上でブルガリアへの広範な自治権の付与に関する既定を彷彿とさせる事変解決提案が入っていた。それは、中華民国の形式的な主権は認めないわけではないが、満洲地域における日本の特殊権益の保護のため満洲地域政府による広範な施政権を認めるという提案である。日本政府は、リットン報告書の採択に際して国際連盟は、この案件の特殊性を理解し、十分に公平な見地から採択されたものとして、採択の受入について、前向きな検討をしたいと述べた。
もちろん、この返答も列強各国とは調整済みであった。時期が降れば降るにつれ、既成事実化した独立国である満洲国の状態が広く認知されていく。正式な回答をたなざらしとすることで、なし崩し的に新国家建設を諸外国に認めさせる方法であった。
満洲の経済的基盤は未だ弱い。故に日本の力で満洲国を安定させたうえで、欧州列強に満洲市場への一部参加を認める方向で欧州列強の資本を満洲に引き込み、日本の満洲統治を後押しさせる狙いがあった。実際に、日本の国策会社南満州鉄道株式会社の増資が計画され、その株式の一部が列強の王室に売却される予定があった。リットン卿が、時の英国首相のラムゼイ・マクドナルドに語った所によれば、日本の思惑通りに事が運んだ時、莫大な利益は手にしないであろうが、確実に、また徐々にではあろうが英国の利益が見込まれると語っている。
しかし、事態は急速な転換を迎える。満洲事変の陰に隠れて軍需物資の売買で利益を図ろうとした財界と政軍関係者の一部の間で贈収賄事件が発覚したのである。収賄側に犬養内閣の閣僚が含まれており、犬養内閣は国民からの非難を浴びて、総辞職となった。
この後を継いだのが元祖ライオン宰相の渾名を持つ、濱口雄幸民政党総裁である。制限選挙ではあるものの選挙権を外地に拡大したこと、朝鮮台湾両総督に国務大臣の資格を付与し、東京在住とする官制改革など、日本の歴史教科書に黒字で掲載される彼であるが、ここで紹介するのは、リットン報告書の受諾である。
首相任命の1週間後、濱口首相は帝國政府代表部を通じて、国際連盟日支紛争調停案の受諾を宣言した。これにより、たなざらしの状態となっていた満洲国建国問題は一応の決着を見た。すなわち、日本陸軍とそれによって指導組織化された満洲国特別警備隊による満洲全土の占領の継続が図られ、満鉄並行線を含む数々の日本の特殊利益を侵害する各種の財産の接収が行われ、名義の書き換えが行われたのである。中華民国側は補填を求めたが、満洲国側はのらりくらりとかわし続けた。
更に中国側をいらだたせたのが、満洲国立法院の動向である。「建国」から準備されてきた立法院選挙が1936年に行われた。関東軍の紐付き議員も多数当選したが、それ以外の外国勢力(分離独立を阻止したい中華民国、スチムソンドクトリンによる満洲国否認・門戸開放路線が続いているアメリカ合衆国、寝た子を起こしたくない欧州諸国)も暗躍した結果、関東軍の紐付き政党の協和会は過半数とはならなかった。
だが、立法院は独自路線を継続し、過半数には達していないが第一党である協和会により満洲帝国基本憲章法案が提出された。1934年に制定された満洲帝国基本法の内容を踏襲し、皇帝溥儀の統治権の範囲を規定し、立法院の権限を明確化し、さらに前文に五族協和・王道楽土を目指すとの内容である。中国側は「憲法」という文字は使っていないが、実質的に憲法典の制定であり、満洲国側は分離独立工作を継続しているとして、中華民国側は国際連盟に調停違反を訴え出た。国際連盟は形式的審査のみを行い、地方議会による法令制定の範疇にとどまると回答し、中華民国側をいらだたせた。満洲国側も基本憲章の制定をいったんは棚上げした。
時は下り、リットン報告書を受け入れていた濱口・若槻の民政党内閣に代わって、近衛文麿公爵率いる政友会が衆議院選挙に勝利するとこの情勢に変化が訪れた。満洲帝国の首相は、初代鄭孝胥、2代張景恵に継ぐ3代目の李康正の時代となり、これ以後の李首相の行動については近衛首相との間に何らかの合意が掲載されていたというのが近代史学会の定説である。
1942年2月7日、第9回立法院会議本会議において李康正国務総理大臣は、満洲帝國憲法を制定すべきことを声明し、同日君主主権による独立国家であることを謳う満洲帝國憲法案が公示された。
日本政府は翌8日、近衛文麿内閣総理大臣が自ら記者団に対して、立憲国家の設立を歓迎する旨の声明を発した。声明を巡って、帝國議会は民政党の反対演説により混乱した。憲法制定決議が採択されたことを受けて、中華民国は分離独立工作は日本の関東軍を主導とする形を変えた第一次満洲事変の再来であり、明白な国際連盟の調停違反であり、これを認めることはできず、独立を強行する場合は強制力を以て排除することを辞さないとの声明を発表した。
国際連盟は再び調停に乗り出そうとした。しかし、中華民国は、これまでの国際連盟の対応を見るに、信頼に値しないと考え、これは国内問題であると抵抗し、国際連盟の介入を拒絶した。
しかし、満洲帝国側は調査を受け入れることを発表したため、戦争を避けるために国際連盟は調査団を派遣することを決議した。前回との比較のために再びリットン卿を長とする調査団が形成され、満洲に派遣された。この調査団派遣にも中華民国側は内政干渉であると反対した。調査を受け入れない頑なな態度に調査団側も態度を硬化させた。
新京に到着したリットン卿の一団は10年前と比べて建築物が多く建てられている新京に驚愕し、立法院議事堂において立法院議長林董、国務総理大臣官邸において李康正と会談した。視察地域としては、新京以外に奉天、吉林、ハルビン等の都市を視察した。地方都市においても議会が設置されているなど、議会政治を始めていることが確認され、初等学校、中等学校、高等学校、大学の教育機関も視察された。これらの視察の結果から、リットン調査団は、中華民国自治領満洲帝国が文明的であり、かつ文化的に中国本土よりも繁栄していると言うこと、(第一次)満洲事変のときとは違って、日本軍による軍事的な行動による独立計画ではないこと、国民の代表である議会の多数派が独立を決定したことという理由から、「満洲自治帝國」の独立要求は一部のものに強制されたものではないということが「確認」されたと結論づけた。そして、報告書は、満洲帝国は中華民国の一部足る地位よりも独立国家という地位を望んでおり、それは満洲自治帝国に居住する住民の意思であり、国際連盟としてはその声を無視することはできない。しかし、この問題は実に高度に政治的な問題である、と締めくくった。
この報告書は1942年11月3日の国際連盟理事会で採択され、報告書は可決された。これに付帯して、中華民国と満洲帝国の分離と満洲帝国の国際連盟加盟を認める付帯決議が日本代表によって提出された。この付帯決議は日、英、仏、独、墺、露、伊の各国に支持されたが、国際連盟設立から送れること4半世紀たってからようやく連盟に加盟し、同時に常任理事国の地位を与えられた、アメリカ合衆国の反対によって、付帯決議それ自体は採択されたものの、効力の発生が一年間凍結された。しかし、国際社会は、国際社会の一国家としての満洲帝国を認めたと解釈し、以後、日本をはじめとしてイギリス、フランス、ドイツなどの諸国家が特命全権大使もしくは特命全権公使を派遣した。
同年10月30日に立法院会議が召集され、付帯決議の採択された日に正式に満洲帝國憲法が議会に提出された。中華民国はこれに反発し、中華民国三軍に総動員令を発布した。これにより、中華民国と満洲帝国との間で戦争状態が勃発した。再編された満洲帝国陸海空三軍は、中華民国からの攻撃を国家主権に対する侵犯と位置づけて非難し、独立国家に対する侵略戦争であると声明を発表した。
中華民国は1943年1月13日に満洲帝国熱河省に向けて進軍し、中華民国陸軍の4個師団が攻撃を開始した。これに対して、国際連盟の調停を無視したことから国際社会は中華民国を非難したが、表だった行動は起こさなかった。満洲帝国陸軍は即座に応戦し、戦況は一進一退を繰り返した。日本政府は中国側を牽制するため、大本営と協議の上、佐世保を母港とする艦隊の一部を黄海北部の洋上に派遣した。一方で関東軍には、出撃の厳禁命令を発し、中華民国及びアメリカ合衆国に対して配慮する姿勢を示した。だが、それでも日本軍兵士たちのなかには休暇を申請して、戦地に飛び込んでいったものがちらほらいるというのは戦場の伝説であろうか。
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アルタラス王国王都ル・ブリアス ロウリア王国大使公邸
― アルタラス王国駐箚ロウリア王国大使 ローデリヒ・ベルシュ
別のことを考えようと、ようやく入手した第三文明圏共通語訳のこの本を読んでいたが、一行に気が晴れぬ。12日に手交された我が国への降伏要求文書についての本国からの回答がいまだ届かぬ。いったい何をやっているのか。マオス宰相を問いただしても調整に尽力しているとしか言わぬ。このままでは日満の我慢の限界がくるぞと言っても、なんとかなだめてほしいとの一転張りだ。
今日は、昼から大垣日本公使とマニャール満洲公使がうちの大使館にやってきた。人払いをし、遮音の魔道具を稼働させて話をしてよいという話であった。国内の混乱が部下やアルタラスなどに知られるのは、そちらにとっても拙いでしょうとのことであった。
人払い前と後では向こうの態度が違った。我が国の対応に相当な不満がある。大垣公使は、「国内では、このままの状態が継続すれば、戦闘再開やむなしという空気が広がっている。停戦についての条件交渉を行うというのならばまだしも無視という事であれば、流石に我々としても外交での打つ手はない。講和条件は今考えているものよりも厳しくならざるを得ない。」と言い、じっとわしを見据えた。確かにそうであろう。むしろ一週間もの間返答を待っているというこ奴らの方が異常なのだ。
そして、マニャール大使は無表情でわしに告げた。「近いうちに満洲空軍による特別軍事作戦が実施されるわ。目標は貴国首都。特別軍事作戦と言っても、貴国の人民に損害を与えることは無いわ。だから、ワイバーンによる迎撃など考えないようにすること。いいわね。本国に正しく伝えてください。」
満洲国が何を考えているのかはわからん。詳細は教えてくれなかった。だが、国民に被害は出さないと言った。それに、彼ら相手に迎撃など不可能だ。わしは、彼女の指示に従うしかなかった。最終的にどうするかは中央政府の判断だが、迎撃などすれば数少ないワイバーンをさらに失うだけだと伝えた。方法は分からんが、降伏を促すための示威行動に出るのだろうということは分かった。