大日本帝國召喚   作:もなもろ

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遂に犠牲者第一号が判明しますた。


「遠藤喜重郎先生追悼記事」「各界に聞く、人間遠藤喜重郎とは」『週刊帝都』(帝都出版) / 文部省発翰文書2件

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遠藤喜重郎氏(67)逝去

 

 木工職人として名高く、岐阜県の名誉県民、岐阜県指定無形民俗文化財保持者、岐阜県指定無形文化財保持者であった遠藤喜重郎氏が先月30日に亡くなられていたことが9月2日分かった。67歳であった。

 遠藤氏は、昭和22年10月2日、岐阜県高山市でお生まれになった。父は飛騨春慶塗の職人で、遠藤喜三郎氏。岐阜県内では有名な職人であったようだ。喜重郎氏も父と同じく職人の道を志し、高山市立丹生川青年学校を卒業後は、父の工房にて本格的に修業を始めた。既存の修業だけでは飽き足らず、岐阜県立高山工芸学校へ聴講生として入学し、いくつかの単位を履修した。

 転機が訪れたのは、彼が21歳の時であった。煙草の不始末と思われる失火で工房が焼け、再建の為に準備していた資金を詐欺に遭い失った。失意の中で父は過労死した。家を継いだ彼に残されていたのは未だ焼け跡の残る土地のみであった。

 そこからの彼は何でもやった。家業の塗師としての仕事は、同業の職人の工房に雇ってもらって生計を立てながら、腕を磨いた。そして、木工細工の職人として、かつて高山工芸学校で聴講生として学んだことも生かしながら、作品を作り続けた。独学で磨かれた腕は、苦節40年を経て、ようやく岐阜県の指定無形文化財として登録されるに至った。

 60歳の還暦を迎えた年、先祖伝来の土地に再建した工房を息子に譲り、家族と従業員の生計維持を息子に任せた。あとは職人としての技を磨き続けるのみと彼は更なる挑戦を続けた。

 平成27年1月時空災害。変化はチャンスとばかりに、材木の質が良いといわれたフェン王国に渡った。父から受け継いだ飛騨春慶塗の技と自己の修練で磨いた木工細工の技術は、フェンの文化に一役を買ったと言えるだろう。フェン人の弟子も何人か受入れ、修業を開始していた。新天地での生活が順風に乗り出した。その矢先のことだった。

 平成27年8月30日、家屋の一角から出火した炎は、瞬く間に家屋を全焼させ、辺り一帯を火の海に包み込んだ。家屋が森の中にあったということも被害拡大につながった。フェン王国には我が国のような消防設備はない。すわ大火かと思われたその時、フェン王国に植民していたパーパルディア皇国の魔法使いの一団が魔法を使用した雨を降らせた。消火に成功した焼け跡地には、女性子供も含む12体の焼死体が見つかった。

 駐フェン日本公使館は火事の後遠藤氏と連絡が取れないこと、近隣の街での目撃情報もないことから、9月3日、正式に遠藤喜重郎氏及びその妻遠藤日奈子女史が死亡したと認定した。しかし、数あるご遺体の中から遠藤氏らの判別が不可能であると判断したフェン王国官憲は、駐フェン日本公使館に対して遺体の身元確認を依頼した。公使館は、直ちに本国に連絡をとり、外務省は内務省・文部省に対して協力依頼を発した。即ち内務省は近隣の長崎県警察本部に連絡を行い、検視・鑑識要員の派遣を依頼した。文部省は官立長崎大学医学部に対して必要により行政解剖を行うよう指示を行った。派遣された検視官は、現地は設備不十分にして、対応困難と判断し、ご遺体を日本へ運ぶように調整し、9月6日に12体の遺体を長崎大学医学部法医学教室に搬送した。同教室は、出身の岐阜県高山市内の医院や歯科医院などから診療情報や歯形の情報などを受領し、また家族からのDNA情報などを採取して、DNAを用いた鑑定を行っている。身元が判明次第、該当する遺体は長崎大学から岐阜県高山市に送られることとなっている。また、長崎大学はそれ例外の遺体の身元確認に協力することとし、フェン王国官憲から最近身元不明になった家族がいないか、そしてその家族のDNA情報を長崎大学に送付するよう頼んでいる。

 文部省は今回の訃報に際し、伊田信子文部大臣が記者会見に於て次のような談話を発している。

「非常に残念に感じている。故人の木工職人としての腕は一流の域に在るとは聞いていた。だが彼一代で築いたものであって、歴史的伝統的な文化としての側面が無かったがために、重要無形文化財としての登録が遅れてしまった。県のほうでは、無形文化財としての指定が行われておりましただけに忸怩たる思いです。今般、ご子息が技を受け継ぎ、父の技を継承し、更にその技法を高めるとの声が届いております。この事実を以て、遅ればせではありますが、二代にわたる「技」と観念し、文部省文化審議会へと諮問を行い、遠藤氏の技を「岐阜高山の木工細工」として重要無形文化財としての登録を行い、死亡日に遡って遠藤喜重郎氏を重要無形文化財保持者と認定したいと思います。また、帝國政府としても故人のこれまでの活動を顕彰し、追悼の情も込めまして、叙位叙勲褒章の授与を行いたいと考えております。」

 

 

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特集 各界に聞く、人間遠藤喜重郎とは

 

聞き手:『週刊帝都』記者、玉田晴夫(以下、玉)

話し手:書家、陶芸家、美食家、海原雄山氏(以下、海)

 

玉:本日は、インタビューに応じていただきまして、ありがとうございます。

海:いやなに、遠藤氏のことを話せといわれてはな、断るわけにもいくまいて。

玉:早速ですが、海原先生と遠藤氏とは、どういった経緯でお知り合いになったのでしょうか。

海:うむ。あれは確か、15年ほど前にもなろうか。名古屋で行われた私の個展を見に来られたという遠藤氏から、私の作品からインスピレーションを受けて、新たな作品を作ったから見に来てほしいとの書簡を頂いてな。この海原雄山に身に来いと言うのだ、それなりの作品だろうと思ってな、岐阜市で行われた彼の個展に出かけたのだ。

玉:なるほど。その際に、海原先生と遠藤氏は会われたということで?

海:左様。お互いに芸術に生きる者同士だ。なかなか私も感じ入ったというところだ。まあ、当時はまだ無名だった遠藤氏がこの海原雄山を呼んだのだ。小気味よい男というのが最初の感想だったな。

玉:遠藤氏にとっては、この個展以降人口に膾炙されていったかと思います。ということは、海原先生は遠藤氏の導き手であった、ある意味子弟という関係であったということでしょうか。

海:いや、何分私の領域と遠藤氏の領域は違っていたからな。師弟関係という表現ではないな。美を以て人間の心を震わせる、芸術家としての同士であったというべきであろう。

玉:なるほど。それで、その後お二人は?

海:うむ。互いに個展を開いた時には招待状を出していたな。彼も世に認められるようになってからはちょくちょく東京にも来ていた。まあ一年に1,2回の会合と言ったところだろうな。

玉:遠藤氏が東京に来られていたころは、やはり海原先生のお宅にも?

海:うむ。星ヶ丘茶寮にも来ていたな。強くもないのによく酒をのんでおったわ。

玉:ははは。遠藤氏にそのような一面があったのですね。

海:そうだな。飲みながら互いの作品、芸術論を話していた。そうしていたと思ったら、いつの間にか眠りこけておる。そういうことがよく起こっておったわ。酒癖も・・・まあこの話題はよしとするか。

玉:おやおや。遠藤氏にはいろいろな一面があったのですね。

海:まあ、そのあたりはあまり聞いてくれるな。

 

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平成27文部第131號

平成27年9月7日

 

宮内大臣殿

宮内省宗秩寮総裁殿

 

文部大臣 伊田信子

 

物故者叙位に関する件

 

下記の者、別紙功績調書の如く、位階令(大正15年勅令第325號)第二條第一號に定める「表彰スヘキ効績アル者」と認めらるる為、叙位に付宜しくお取り計らい願いたい。

 

 

氏   名 遠藤 喜重郎(えんどう きじゅうろう)

生年 月日 昭和22年10月2日

本   籍 岐阜県高山市○○

現 住 所 フェン王国アントーク県バンドゥ村

 

家督相続人 遠藤 善太郎

関   係 被相続人の長男

現 住 所 岐阜県高山市○○

 

以上

 

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平成27文部第132號

平成27年9月7日

 

内閣総理大臣殿

賞勲局総裁殿

 

文部大臣 伊田信子

 

物故者叙勲及び褒章の授与に関する件

 

下記の者、別紙功績調書の如く、明治8年太政官布告第54號(勲章制定ノ件)第三條第一項に定める「公共ニ対シ積年ノ功労アル者」と認めらるる為、又褒章条例(明治14年太政官布告第63號)に定める「芸術上ノ創作ニ関シ事績著明ナル者」と認めらるる為、叙位及び褒章の授与に付宜しくお取り計らい願いたい。

 

 

氏   名 遠藤 喜重郎(えんどう きじゅうろう)

生年 月日 昭和22年10月2日

本   籍 岐阜県高山市○○

現 住 所 フェン王国アントーク県バンドゥ村

 

家督相続人 遠藤 善太郎

関   係 被相続人の長男

現 住 所 岐阜県高山市○○

 

以上

 

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