クイラ王弟殿下御来日 歓迎行事続々と施行
大魔導師閣下。初の来日、長大からの依頼目的か
昨11日夕方、成田空港にクイラ王室の特別機が到着した。訪日されたのは、クイラ国王の弟君であらせられるマルワーン・ナースィル・アル=スラーン=クイラ殿下と同妃殿下。対ロウリア戦勝の感謝の意を表すために来日し、昨日の内に参内して天皇皇后両陛下に御挨拶を為された。今後は、皇太子同妃殿下を始めとした皇族方や主要な華族の方々ともとも会見を行う予定となっている。
元来外国王族の来日に際しては、一月以上前から外務省より日程についての告示が行われ、警視庁・各道府県警による身辺警護など入念な調整が図られるのが常例である。今回このような急遽訪問の形になったのには、我が国の側に不手際があった。
フェン王国にて発見された遠藤喜重郎氏とみられているご遺体の検分に際して、長崎大学医学部法医学教室は、本件遺体が魔法による浸蝕を受けていることから魔法の人体への効果を判定するために、クイラ王国に対して魔法使いの派遣を依頼した。クイラ本国において派遣者の選定を行っていたところ、一部の市民団体から長大法医学教室の記者会見は、仮にも人間国宝の授与が規定視されている方に対する人体実験のようなものをすることになるのではないか、死者に対する冒涜ではないかという意見が挙がった。
長崎大学は学長と医学部長とが同席した記者会見で、法医学教室の記者会見において一部誤解を招く表現があったことを認めて謝罪し、あくまでも正確な検視のために行うものであって、けっして興味本位のものではないということを述べ、理解を求めた。対応に苦慮していた長大に対して救いの手を差し伸べたのがクイラ宮廷であった。
クイラ宮廷は、急遽王弟殿下の日本訪問を外務省に連絡して、その日のうちに訪日が決定し、クイラ王室の特別機が日本に向けて出発することが決まった。ニュースの報道価値としては、王族の来日のほうが高く、国内の報道もそちらにシフトしたため、長大は派遣取りやめに至る迄もなく、受け入れ準備を進めることができた。
現に、今回の王弟同妃殿下御来日に際しては、クイラ王国にて最高峰の技能を持つ大魔導師サーリム・ハルビー閣下も来日している。氏は、日本到着後速やかに長崎大村空港に向けて飛び立っていったことが知られているため、この王弟殿下訪日が隠れ蓑となったという意見は否定できない。
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山上内閣支持率2ポイント低下
東西新聞は毎月7日から9日までの3日間、電話による世論調査を行っているが、11日に行われた調査の結果、前回から比べて2%支持率が低下した。一方で、不支持率も同様に2ポイント低下し、これにより、支持43パーセント、不支持39パーセント、よくわからない・無回答が18パーセントとなっている。
支持する理由としては、「他の内閣よりよさそうだから」が34パーセント、「支持する政党の内閣だから」が25パーセント、「戦争に勝利したから」が、13パーセント、「人柄が信頼できるから」が10パーセントなどという形になった。
支持しない理由では、「政策に期待が持てないから」が43パーセント、「政治指導に不満があるから」が31パーセント、「人柄が信頼できないから」が11パーセントなどという形になった。
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将軍職辞任の勅許降る
武家伝送、千駄ヶ谷の徳川公爵邸へ下向
去る9月2日、対朗講和条約の発効を見届けた征夷大将軍徳川公爵は中院通高侍従を通して征夷大将軍職の辞任を奏請した。宮中は、先例に則り辞職届を留め置き、昨11日、中院侍従を武家伝送として、千駄ヶ谷の徳川公爵邸へ下向させた。徳川公爵家の家令の井伊直基伯爵が玄関前で勅使を出迎え、公爵邸広間に案内の後、上座に座った中院侍従が徳川公爵に対して将軍職辞職の勅許が降った旨を宣じた。
徳川公爵は昨日夕方霞会館において、将軍職辞任の挨拶を行い、戦争遂行に際しての国民の協力に対する謝意を述べた。
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満洲映画協会、李香蘭記念特別賞の創設を発表
映画女優、歌手、テレビ司会者など歴任し、満洲国元老院議員、元老院副議長を務め、昨年9月7日、満洲国新京特別市の自宅で亡くなった李香蘭女史の業績をたたえる為、故人の一周忌に合わせた形で、満洲映画協会は、李香蘭特別賞の創設を発表した。
従来満映が主宰する奉天国際映画祭は、満洲国の国花である蘭と高粱をイメージした蘭花賞と高粱賞とが存在した。蘭花賞が作品に対する賞であり、高粱賞が監督賞、男優賞、女優賞、脚本賞、審査員賞などに分かれていた。この賞に李香蘭記念特別賞が加わることになった。李香蘭記念特別賞は、主演俳優賞という位置づけで、従来の男優賞、女優賞も存続する。男性女性を問わず映画の主演を務めた俳優を選考対象とし、満映側は選考の幅に潤いを持たせる意味合いがあると説明している。
奉天国際映画祭は毎年3月に満洲国奉天市において挙行される映画祭で東洋では、東京、奉天、上海と東洋三大映画祭の位置づけであった。