大日本帝國召喚   作:もなもろ

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記念すべき200回目の投稿は、日本国内の設定です。華族がいるなら士族もいる。その動向についてご紹介します。


「今どき士族の生活様式」『東西グラフ・平成27年9月号』

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 士族。

 この言葉は日常生活上ではほぼ死語となっているだろう。華族と言う身分階級が現に存在しており、帝國議会貴族院には、華族議員―公侯爵は自動的に国会議員となる―が存在している今日の日本であるが、士族と言う族称は今なお存在している。事実、戸籍には、華族又は士族の族籍を登記する欄(平民の場合は空白)が残っているのだ。

 士族と言うのは、旧幕時代に武士階級などであった者であって、華族とされなかった者に対して与えられた族称である。明治維新後、新政府は諸事神武創業の精神に立ち返るという王政復古クーデター派の主張を逆手にとり、様々な諸政策を遂行していった。その一つにこれまでの身分制度の廃止があり、旧幕時代に発行されていた寺請証文や宗門人別改帳とは別に、公的な国民登録制度として戸籍制度を復活させた。この戸籍制度は、数度の改正を経て、大正3年制定の戸籍法を以てその様式が完成し、現在に至っている。

 

 士族が我が国に今どれくらいの人口がいるのか。その数ははっきりとは分かっていない。

 国においては、大正一桁辺りの時期から官報上で華族士族平民の族籍別の記載を取りやめた事例が数多くある。一例として、官報には帝國大学を始めとした官立学校の入学者卒業者の氏名が掲載されているが、この氏名掲載に際して族籍を記載することを止めたのが、大正時代だ。官立学校が設立され始めた当初は士族の子弟が入学者卒業者数の中で高い割合を占めていたが、明治の後期には初等中等高等の教育機関の整備が進んだために多くの平民が帝大を始めとする官立学校に多く入学するようになった。明治20年代には50%以上が士族出身であった官立学校入学者も、30年代になると50%を切り、40年代に入り大正年間になると30%前後で推移するようになった。

 官立学校の入学者などを族籍別に分けて統計を取ることに対して特に意味を見出せなくなった。それだけ教育制度が整ったからというのが官報で記載を取りやめた理由であろう。それでも卒業証書などには族籍氏名が記載されたり、栄典欄では残っていたりとある種のステータスシンボルとして一応の価値は残っているというのが実情である。

 民間に於ては、未だに族籍が記載されているものと既になくなったものとがある。族籍が記載されているものが、いわゆる『紳士録』である。そこには、○○県士族や○○府子爵、○○道平民などの記載が残る。華族や士族の存在が今もステータスシンボルとして残る例である。

 逆に族籍の記載が無くなったものがある。就職の際に用いられる履歴書から族籍欄が消えたのは、昭和20年代のころだ。明治新政府が戸籍の制度を整備していたころ、族籍欄に華士族以外の平民を区別しなかったことで、一部の反対運動が起こった。いわゆる被差別部落民と呼ばれている階層についてその記載しないことについての反対運動も起こったほどだ。明治新政府は、身分証明としては寺請証文などの民間書類の使用を妨げること無しとの方針を示したため、民間の商家奉公などでは、戸籍記載事項以外の、その者や家族の職業や旧幕時代の身分などが記載された人別書が数多く使用された。

 昭和10年代半ば、履歴書に族籍の欄があることが今なお残る不当な差別につながっているとして、帝大の学生を中心とした履歴書族籍欄の撤廃運動が起こった。「維新創業未だ道半ばなり」で始まる運動文書は、「五箇条の御誓文」の「上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ」、「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ」、「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」を引用し、履歴書族籍欄や企業による身分事項照会行為は、旧幕時代の陋習たる身分制度を残置させ、上下の人間の心を分断し、それにより優秀な学生が世に出でるのを阻害し、彼らの人生から希望を奪うものであると説き、これにより皇国の発展を著しく阻害するものであると糾弾した。帝大の中でも比較的民間企業に就職することが多い理系や文系経済学部の学生を中心に始まった運動は、官庁勤務を希望する法学部の学生も運動に参加し、更には民間企業に就職するのを中心とした私学学生にも広がり、一大学生運動となっていった。運動文書は、「五箇条の御誓文」は「帝國の『マグナ・カルタ』也」と説き、不文の帝國憲法を構成するものであり、斯様な状況を放置する帝國政府を不作為の帝國憲法違反として、枢密院・裁判所に対して憲法訴訟の訴願を行うべく全国より署名を開始すると記したことから、学生の政治運動を規制した治安警察法違反に問うべきか否か国会・政府・警察でも意見が分かれ、国内世論も割れた。その後の運動の結果として、民間企業は族籍欄を排除した履歴書を使用するに至った。

 上記のような歴史の経過の結果として、士族がどの程度の数いるのかを正確に知ることは難しくなっている。だが、士族は華族と同様に明治維新によって作られた身分であるが、華族のように新たに増えるということは無い。廃絶家で減ることはあっても、御家再興で増えることがあっても、その当初の数よりも増えることは無いため、その総戸数は明治9年の時点での40万8861戸が総数と言えよう。これに、各戸主とその配偶者及びその子2人、あるいは前戸主夫妻などが加わると仮定し、一戸あたりの平均人数を6人とすれば約245万人となる。最後に士族人口が統計算出された大正7年の帝國人口統計によれば、士族人口は229万人とされているからおおよその値としてはそう間違っているとは言えないだろう。

 

 士族は、元々の武士階級が中心となっている。徳川幕府でいえば旗本御家人、各藩なら藩士と呼ばれていた武士だ。「鬼平犯科帳」で有名な長谷川平蔵や「忠臣蔵」で有名な大石内蔵助が該当する。彼らは明治維新後ももともと知識階級であったために政府に文武官として出仕したり地方の役所に勤めた者も多い。ただし、政府の求める人材は西洋式の富国強兵政策を実行に移すだけの頭脳を持った者であったので、どうしても基準に合致しない者が出てきた。そこで政府が実行に移したのが地方帰農策であった。政府の求める頭脳を持たずとも文字の読み書きはできる為、役所への届出等を代筆したり提出したりする現代でいうところの「行政書士」としての役割が、これまでの村役人である庄屋名主と並んで与えられた。また政府の方針を農民・民衆に説明する広報としての役割、これまでの寺子屋に代わっての教育機関の成り手としての役割も期待された。その他にも、未だ警察制度が不十分であった時代には、巡邏としての村内の見廻りも兼ねるようになった。そうして農民・民衆から相談を受けるようになり、何でも屋的な役割を行い続けたところ、時期が降ると地方の名士の一人として、庄屋名主の豪農層とともに町村会議員としての地位を得たり、帝國議会の代議士となった例もある。

 しかし、このような政策は奏功した例は少なく、これまでの庄屋名主の役割も重複することからこれまでの既得権益を侵害されたと感じる豪農層も数多くいた。結局のところ士族の多くが選んだ道が地方の土地を買い取り、従来そこで生活していた小作人を雇って地主として生活することであった。だが、多くの武士は先立つものを持っていなかった。そこで、封建諸侯が元来支配していたとされていた土地を帰農する武士に対して払下げという形で売却した。この売却に際しては分割支払いを認め、且通常の土地取引よりも有利な価格で売却するという形をとったため、多くの武士が帰農に賛同した。

 この結果として、旧大名華族には土地取引による収入が確保でき、その資本を基にした金融機関の設立が行われるとともに、大名華族と士族との間に一定の関係を維持することに繋がり、後年の大名華族による会社設立に繋がるのであった。

 

 現在、大名華族が保有している資産には二種類がある。一つは、其の家に代々伝わる土地建物美術品や登録国債・記名有価証券などを中心とした世襲財産である。この世襲財産については華族は自由に処分することができないだけでなく、建築物や美術品の中には国宝や重要文化財に指定されているものも数多くあり、その保護が華族には求められている。世襲財産制度は、当初は華族としての体面を維持するための特権たる側面が大きいものであったが、近年では華族という高貴な身分に所属する者が持つノブレス・オブリージュとしての側面が強調されている。

 そして、もう一つが一般的な財産である。先に見た士族の地方の土地所有に関連して、旧主の恩を忘れないようにと、地方に転居した武士達は、交代で華族令によって東京への集住を命じられた旧主の屋敷を警護する任務を自然と負うようになった。これが、現在士族の多くが職業にしている警備会社への設立に繋がっている。

 

 士族の多くは、男子女子ともに警察官や軍人を志望する者が多いという帝国データバンクによる市場調査結果がある。これは、帝国データバンクが昭和40年代から財閥企業などを中心にした新入社員の出身母体調査によると、新入社員に士族出身者が割合上きわめて少ないという事実を基にしている。軍や警察では身元調査を行っておらず、帝国データバンクからの問い合わせにも、斯くの如き調査は行わずと回答していることから、実態は推測となるが、事実として人数が少ないという調査がある。

 軍や警察に奉職した者の内で早い者は30台はじめで退官する。軍なら尉官の内に、警察なら巡査部長か警部補といった歳で退官する。その者達の再就職先が華族大名が設立した警備会社である。

 明治期の士族授産の延長線上にあるこの会社は、当初は華族大名の邸宅の警備をほぼ無償で行っていたものが次第に組織化され、大名家の菩提寺や大名家の庇護下にあった寺社などの警備も行い始め、警備による収入というものを得るように至った。今では金融機関を始めとした企業警備や民間護衛、神社仏閣の縁日の的屋の元締め、ビルメンテナンスといった各種の業務を行うまでになった。地方では非公式ではあるが巡査の業務補助までも行っている。

 この企業の始めは当然に大名家当主が代表取締役に就任していたが、現在では取締役の一人もしくは代表権のない会長職などに大名家当主は就いており、そこから役員報酬を受け取っている。それ以外の取締役は、特に華士族に限定はしていないが、この会社の士族従業員率は桁外れに高い。その数、実に5割を超え、7割にまで上る会社もあるぐらいだ。

 

 このような警備関連企業は、全国各地に存在している。たとえば、東北地方には以下のように各県に本社を持つ企業が存在する。

青森 津軽ビルメンテナンス

秋田 秋田警備

岩手 南部ビルディング

山形 綜合警備会社羽州、酒井ビル警備、謙信要人警護など

宮城 青葉綜合警備保障

福島 会津民間警備、板倉ビル整備、丹羽ビルメンテナンスなど

 いずれも旧大名華族を会長職や取締役の一人に任じており、基本的に非上場企業となっている。多くは、その土地その土地に本社といくつかの出張所を置く形の中小企業として経営されているが、宮城県の伊達侯爵家当主が会長を務める青葉綜合警備保障は、北海道や朝鮮にも支社を置く比較的大きな企業として存在している。

 なかでもやはり別格は、東京に本社を置く、大江戸総合警備保障であろう。徳川公爵を代表取締役会長として経営に参画させ、東京、京都、大阪、京城の四府を抑える大企業であり、ビルメンテナンスによる収入は極めて大きい。企業警備だけではなく、民間護衛については警視庁警備部とも連携をしていると言われているほどである。軍人上がりの特殊部隊を擁しているとも言われている。旧将軍家と言う地位から各地の警備会社への人材派遣、人材連携も主導しており、日本国の綜合警備の総元締めと言えよう。

 

 このような警備会社への就職が士族の生計を維持しているといえる。警備員であるため体力勝負なところがあり、比較的定年は早いのだが、短時間雇用制度を活用して、午前のみ、午後のみといったような勤務形態を利用して、従業員の収入の確保を行っているようだ。

 士族を名乗るためには、士族の当主か当主の長男である必要がある。未婚であれば、士族の籍のままでいることもできるが、婚姻となれば分家をする必要が出てくる。分家の場合は平民籍となる。これら警備保障会社へ就職している士族以外の従業員はこういうルートで入社していると考えられており、潜在的な士族就業員率はもう少し上だろう。

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