職場の業務環境が変わったので、どうも執筆への意欲がわいてきません。しばらくは停滞しそうです。
米拉戦争
米拉戦争(べいくせんそう)とは、平成15(2663・西暦2003)年3月20日からアメリカ合衆国によって、イラク軍縮問題での、イラクによる大量破壊兵器保持における軍縮義務違反を理由とする、『イラクの自由作戦』の名の下にバアス党政権下のイラクへ侵攻がなされたことで始まった軍事介入である。
正規軍同士の戦闘は1月ほどで終了し、同年5月にジョージ・W・ブッシュ米大統領により「大規模戦闘終結宣言」が出たが、イラク国内の治安悪化が問題となり、戦闘は続行した。平成22(2670・西暦2010)年8月31日にバラク・オバマ米大統領により改めて「戦闘終結宣言」と『イラクの自由作戦』の終了が宣言され、翌日から米軍撤退後のイラク単独での治安維持に向けた『新しい夜明け作戦』が始まった。
==前史==
平成2(2650・西暦1992)年の湾岸危機以降、米国と中東諸国は一時期友好な関係を構築しつつあった。米国は中東に米ドル決済に基づく通貨圏構想を志向し、産油国を自国の影響下に置こうと考えていたと言われる。湾岸危機において中東の混乱を米国の軍事力を以て終息させたジョージ・H・W・ブッシュ政権は、当初こそ国際連盟の枠組みから外れたスタンドプレーを非難されたこともあったが、イラク王国を恫喝で屈した後は、国際連盟理事会を通じた国際協調路線に復帰したことで、中東の混乱を治めたという点が国際社会で評価されていった。しかし、ブッシュ政権は対外政策こそポイントを稼いだが、国内政策では振るわず、米国経済は低迷していた。ブッシュは、時期大統領選挙に敗れ、代わって就任したビル・クリントンの手に依り、低金利によるドル借款を通じて中東諸国の関心と影響力行使を図った。20世紀中東の自由と繁栄プランと銘打ち、大規模な公共事業の資金と建築資材の提供を行い、中東国内のインフラ整備を米国企業の手で行うことで米国国内の不況対策を実施しようとした。しかし、このプランの実施に当たっては、米国的な価値観を前面に押し出して対応しようとしていた。女性の権利向上を名目に中東側の関係者に女性の職員を起用するよう促したり、ラマダン期間中に業務を停止することを禁じるなどの宗教的な配慮を行わないなど、米国的な自由民主主義的な価値観は、中東諸国のイスラム教を主体とする価値観とは相性が悪く、次第に中東諸国は米国から次第に距離を取りつつあった。
一方湾岸危機で、米国の恫喝に屈したイラク王国では、当時行政権を握っていたバアス党党首のサッダーム=フセイン政権は、王室にその敗北責任を押し付けた、これにより王室の権威が低下し、代わってバアス党党首のサッダーム=フセイン首相の権力が強まっていった。また、中東の諸国民の中には、米国式の価値観や行動に対する反感が強まっていき、ついには平成13(2661・西暦2001)年9月の同時多発テロが発生するに至った。
米国へのテロ行為そのものについては、国際連盟理事会はこれを強く非難する決議を採択した。米国の立場に同調する国際的な合意が結ばれつつあったが、テロの実行犯とつながりが噂されていたイラク王国に対する制裁には連盟理事会は慎重な態度を崩さなかった。この膠着状態にしびれを切らした米国の採った行動が平成15年3月の米拉戦争である。
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私の履歴書 大谷寛治 18回
駐米大使昇格と米国大統領との折衝
私は平成12年に米国公使から米国特命全権大使に昇格した。米国大使に就任するにあたっては、通常他地域(欧州以外)の特命全権大公使を経て就任する。この異例の就任には訳がある。それは、当時の米国の対中東政策に原因があった。米国の対中東政策は中東諸国に必ずしも受け入れられるような状況とはならず、米国と中東諸国との関係は米国が期待したような良好なものとはならなかった。
私は公使時代からホワイトハウスと折衝を行い、現地の実情に応じた対応を行うようにと忠告を繰り返してきた。しかし、ホワイトハウス側、ビル・クリントン―ウォーレン・クリストファーの大統領―国務長官コンビは、合衆国大統領が合衆国の理念を曲げるわけにはいかない、宗教と世俗は切り離されるべきという価値観こそ新世紀の中東にふさわしいと強気の姿勢を崩さなかった。平成9年に再任されたクリントン大統領は、マデレーン・オルブライト女史を国務長官に宛てた。アメリカ合衆国史上初めての女性の国務長官だ。彼女は更に強硬な姿勢となった。中東に人権意識をスローガンに掲げて、先任の国務長官よりも更に精力的に対中東交渉を行っていた。
平成12年、米国の中東政策が行き詰まりを迎え、中東諸国との関係が冷え切っていた。本国は次の米大統領が共和党候補であるジョージ・W・ブッシュ候補となると予想した。そして、長年クリントン大統領に諫言し続けてきた私に次の大統領に対して中東政策の改善を更に強く進言させるために特命全権大使へと昇格させた。
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私の履歴書 大谷寛治 19回
異例の人事に驚いて
平成16年ようやく後任の大使が決まり、帰国することができた。外務省では、七強(英仏伊露独墺米)の大使に就任した者は上りとされる。それ以上のポストがないからだ。故に退官となる。退官した者は、貴族院の勅撰議員に選ばれたり、枢密顧問官となる。但し、これも4,5年と言ったところだ。貴族院勅撰議員や枢密顧問官は終身ではあるが、組織としての新陳代謝を図る目的で、だいたい4,5年程度で辞表を出す慣例となっている。そういうわけで米国大使の後任の職は貴族院勅撰議員か宮中顧問官が指定席となっている。
けれども私の職は違った。なんと軍令部顧問というポストが用意されていた。海軍は今後米国との関係強化を目的としていて、対米折衝を私に頼みたいということであった。とはいえ予算措置も必要ということなので時機が来るまでは、軍令部第三部で米国の公開情報を精査する業務の統括を行ってほしいということであった。そうして、奇妙な仕事が始まったわけだが、1年たっても2年たっても予算措置は下りなかった。
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私の履歴書 大谷寛治 20回
晴天の霹靂・外務審議官へ
平成27年時空災害を私は東京の自宅で迎えた。床に着いていた私は、日付をまたぐちょうどその時、昼かと見まがうばかりの外の明るさに驚いた。まどろんでいた妻も目が覚めたようで、慌ててテレビの電源を入れた。・・・軍令部第三部長から自宅の固定電話に連絡が入り、至急の登庁が指示された。文官の身分ではあるが軍令部顧問という肩書である。軍令部は文官の私にも副官が1名つけてくれていた。副官が迎えに来てくれ、彼の運転する車で霞が関の軍令部へ登庁した。世界各国の大公使館附武官と連絡が取れないことを第三部長から聞き、柳沢軍令部総長(当時)からは外務省との間に入ってほしいと言われた。・・・
3月の終わりのことだった。古巣である外務省は私に外務省に戻ってくるように連絡を入れてきた。それはまさに突然の話であった。米国大使を経験した私だ。もはや省内に私が週寸するポストはない。どういうことかと言うと、この世界の大国であるムー国の大使に私を推薦したいということであった。大国には公使ではなく大使を出すという方針は元の世界と変わらないらしい。外務審議官と言うポストは大使のつくポストとしては軽い上に、定員外のポストであるため、大使経験者の後任ポストとしてはふさわしくなかったが、私の後任の大使は貴族院議員を務めた後、民間の商社の顧問として再就職をしている。既に民間人となった者を大使にあてるよりも、良いのではないかということであった。・・・・
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私の履歴書 大谷寛治 22回
ムー国を訪問
1月ちょっとの航海を経てムー国へとやってきた。残念ながら、ムー国の中でも随一の規模を誇るマイカル港の港湾機能では、我が国の艦隊を停泊させることは難しいということであった。巡洋艦を先頭に小型の艦艇のみが港湾埠頭に接岸することができるということであったので、マイカル港の12海里沖で、私たち日満使節団は両海軍の艦艇に分乗した。マイカル港ではムー国外務大臣が出迎えてくれた。
ムー国の文明レベルは昭和中期あたりの我が国に似ているだろうか。幼少期にみたことがあるような品が所々に存在した。私が危惧したのは、この国の文化文明度で我が国民の公民権が守られるのかということだ。本国では、この世界の大国とは呼ばれているが立憲政治が正しく行われているのかどうかは分からない。自由権を基礎とする臣民公権が政府によって確立されたものでなければ、ムー国内への内地雑居は認められないう方針であった。・・・