大日本帝國東京都首相官邸
― 内閣書記官長 荒池正十郎
「総理、ヴァルヌスからの調査報告が届きました。」
「・・・どれ。」
先ほどバイク便で封緘書類が届いた。一見すれば、ただの業務書類だ。配送に来たのも一般企業の従業員だ。届いたUSBメモリーは、特定のパソコンでしか中のファイルを開くことができないようになっている上に、そのパソコンはインターネットに接続できない仕様になっている。この書類の差出人は、ヴァルヌス。我が国の重要な民間人である彼は、凄腕のハッカーとして知られている。
「いくつかの監視カメラの解析画像だな。軍令部第一部長の汪女史、三菱重工業の坂崎専務と、民政党の山井政調会長。時間はずらしているようだが、銀座のクラブに入っていく様子が映し出されているか。ふむ、白木屋百貨店の紙袋を坂崎専務は持っているが、帰りは山井政調会長が持っているか・・・。」
「その紙袋、気になりますね。」
「その通りだ。だが、報告によれば、坂崎専務は総務系の渉外担当の取締役だ。営業担当の取締役ではないとある。三菱重工の総務部が管理しているとなれば、帳簿外のモノだな。」
紙袋の中身が何か。言わずとも知れている。しかし、慎重にならなければならない。
「総理。ご承知とは存じますが、今一度ご留意願いたいと思います。」
私がそう話しかけると、総理は右手を挙げて私を制した。
「荒池君、勿論分かっている。三菱だろうと、三井だろうと、住友だろうとだ。こういう政財界の裏工作は行われているんだ。三菱をつつけば、それは三井にも住友にも飛び火する。それは、我々の望むところではない。政民両党による二大政党制がこの国に根付いて以来、民政党も含めた我々がこの国のかじ取りを担ってきたのだ。あくまでも、政民両党の政争はコントロールされたものでなくてはならない。」
本年の実際の予算の変動は極めて大きかった。本年度の当初予算は昨年末の政府原案の通りに帝國議会で可決されたが、異世界転移、そしてロデニウスにおける戦争の為の追加予算は我が国憲政史上の初めてと言っていいほどの巨額なものとなった。
1月半ばの異世界転移は政官界を混乱の渦に落とし込んだ。昨年秋の臨時議会において可決された補正予算で計上されていた各種の予備費は2月半ばには食い尽くすことが1月末の時点で予期された。帝國議会に於て来年度本予算の審議の裏で動く傍ら、政府、大蔵官僚による追加予備費の調達は辛酸を極めた。秋の臨時議会で決定されていた各種公共事業を凍結したり、全国各地で予定されていた行事を中止したりして、その費用を追加予算に組み換えた。大塩大蔵次官が汪宮内省内蔵頭を訪問し、皇室財産の一部を政府に下賜するようにとの勅許を得て、3月末までの予算を確保した。
この裏には民政党側の配慮があったことは我々の記憶に新しいところである。通常ならば、議会側から求められれば、答弁のために閣僚や省庁幹部は帝國議会へ出席しなければならない。先の国会前半では、野党側、特に民政党からの議会への答弁出席要求が著しく少なかった。相当な配慮があったことは想像に難くない。
総理の言うところの、政友会民政党間の超えてはならない一線と言うのは確かに双方が守るべき一線だ。それをこちらから崩すことは得策ではない。
「しかし、ではヴァルヌスは、いったいどういう目的でこの画像を送ってきたのでしょうか。」
ヴァルヌスは民政党のスキャンダルを我々に流してきた。これは、このスキャンダルを使って、臨時議会開会要求を突き上げてくる民政党を黙らせればよいのではという意味ではないのだろうか。
「私がヴァルヌスに依頼したのは、海軍の軍拡派を叩くための情報収集だ。海軍の拡大派が、三菱、そして民政党、なかでも最大派閥たる清和会ともつるんでいることを、当然ヴァルヌスも熟知している。そしてだ、これは重要なことだが、ヴァルヌスに依頼をしているのは、我々政友会側だけではない。民政党もまたヴァルヌスに接触しているのだ。」
「なんですと!」
「そうか。このことは書記官長の君も知らなかったか。だが、君も知るべき地位にいるのだ。知っておくべきことは知らなくてはならない。」
ヴァルヌスの源流は御庭番であった。徳川幕府の中期より政権中枢に近い位置にあり、身分は低いものの御目見えが許される立場。情報収集や諜報活動を担っていたと国史の授業で習った気がする。
「德川慶喜による大政奉還後、彼らは新政府の役人として雇用された。慶喜の権力体制は一時期は薩長倒幕勢力とも拮抗したが、最終的には当初の慶喜の構想に沿った形で権力を温存することができた。明治新政府において慶喜は太政大臣として自らの権力を行使する一方で、敵対勢力であった薩長勢力の赦免と新政府への合流に奔走した。海外の列強と渡り合っていくためには国内で争っているわけにはいかない。旧幕府勢力も、その慶喜の構想には従わざるを得なかった。だが、御庭番出身の者達は薩長勢力を警戒していたということだろうね。慶喜が内閣制度を発足させ、自身の後継として板倉勝静が就任したとき、慶喜は政府の顕官から退いた。その時に情報部門の御庭番出身者のいくらかの者達が政府を下野している。新聞社や探偵社を設立するほか、人力車の車夫の元締めになるなどして、其々が手に職を持ち、情報を以て慶喜を守ろうとした。報知新聞はその中の一つだ。」
「となりますと、ヴァルヌスは、実質的には徳川大公の私兵ということになりませぬか。」
政治的な権力は持っていないとされている徳川氏だ。代々徳川公爵が就任している貴族院長というポストは、儀礼的なものにすぎない。帝國議会開院式での勅語に奉答する役割を持つ者にすぎない。明治初期の帝國議会最初期、貴族院議長と衆議院議長とどちらが開院式で天皇の勅語に奉答する役を担うのかで揉めた時に、各院議長よりも上の立場を持つ者ということで貴族院長というポストが作られた。議長のように議場に議長席があるという訳ではない。
戦時における征夷大将軍職も、政軍関係の調整に大いに威力を発揮するとは言われているが、実際には軍事参議院という席で平時から政軍関係は調整が行われている。
このような存在は前近代的ではないか。私はそう思ったのだが、総理は違うようだ。
「明治初期から続いている。それこそが歴史だよ、荒池君。そして、德川家は今の今まで得た情報を使って国政を壟断しなかった。その信頼があってこそ、ヴァルヌスはこうして存在しているのだ。我々にとって、ヴァルヌスと言う存在は劇薬だ。政友会にとって民政党は、そして民政党にとって政友会はお互いにライバルだが、殲滅して倒そうという敵ではない。もし、我々がそのような動きをすれば、民政党も報復とばかりに行動に出てこよう。そうなれば、国政に大きな混乱が起きる。だからこそ、ヴァルヌスは政友会にも民政党にもどちらにも情報を流すのだ。お互いに動けない状態にすることで、相手を封じるのだ。」
「では、この情報も使えないということではありませんか。」
「そうではない。民政党の二番手派閥、志帥会に向けて接触ができる。」
なるほど。そういうことか。
「つまり、二階先生に接触して、清和会による国交召集要求を封じるということですね。」
「そうだ。平沼先生は大公家とも縁戚関係にある。既に来年度までの補正予算は、先の通常国会会期中に決定した。おまけに予備費も平年よりも潤沢に確保してある。国会召集に費やされる費用のことを鑑みれば、徳川大公とて無理は言うまい。大公は自己の企業の経営陣にも名を連ねているのだ。形式的な会議など何になる。議会では今も閉会中審議は行われているのだ。マスコミに向けた絵が取れないだけ。そこを押すのだ。」
「わかりました。・・・ところで、総理。ヴァルヌスと言う名前なのですが、これは一体どういう意味なのでしょうか。」
一瞬総理がきょとんとしたような顔になったが、すぐに苦笑した。
「あー。なんでもだ。今メインで情報取り扱いをしている者がな。自身のハッカーとしての能力を例えたものらしい。特にネットからのシステムへの侵入防御能力に自負があるらしいのだが、自分のプログラムしたシステムはクルミのように硬い殻をもっているということを示しているらしい。クルミはドイツ語でヴァルヌスというらしい。」
「な、なるほど・・・」
「ちなみに、本人は、英語読みにしたかったらしいぞ。彼の周囲がドイツ語の方がかっこいいからとドイツ語読みのハンドルネールにされたらしい。」
「は、はあ・・・」
はて、英語でクルミは何と言ったかな・・・。
日本国内では臨時国会は開かれない方針となっております。潤沢な予備費を設けた補正予算が成立しているからですが、先に見た海軍軍拡の動きを封じる意図があります。
そして、ヴァルヌスがどんな人なのか。わかる人にはわかる形となっております。