大日本帝國召喚   作:もなもろ

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久々に趣味に走りました。日本国召喚要素がありません。


三宅幸之『派閥の政治史』(石浪新書、平成2x年)より

三宅幸之『派閥の政治史』(石浪新書、平成2x年)より

 

 

立憲政友会

 初代総裁は、大日本帝国憲法の制定に尽力した伊藤博文。明治33(2560・1900)年9月の結党以来続く、大日本帝國における2番目に古い政党。

 初代伊藤博文伯爵を始めに、西園寺公望侯爵、原敬、高橋是清子爵、田中義一子爵、犬養毅、近衛文麿公爵、吉田茂男爵、緒方竹虎、池田勇人、佐藤榮作、田中角榮、三木武夫、大平正芳、鈴木善幸、竹下登、宮澤喜一、橋本龍太郎、加藤紘一、山上誠一の数々の内閣総理大臣を輩出した。

 

 

宏池会

 政友会の最大派閥。山上首相以下、官房長官、蔵相、内相の主要ポストは、この派閥で固めてある。

 池田勇人、大平正芳、鈴木善幸、宮澤喜一、加藤紘一といった首相を輩出した。

 池田勇人の病気退陣を受けて成立した佐藤政権下に於て、池田から後を託されて派閥を引き継いだ前尾繁三郎は、佐藤政権に協力する形で佐藤の後継を狙っていた。しかし、佐藤は民政党の岸信介の実弟であり、当時佐藤が取り組んでいた粛軍政策において、佐藤はたびたび、憲政擁護、立憲主義的価値観について言及していた。「佐藤の後は岸に取られる、岸派のプリンス(派閥の後を嗣ぐ者)は福田(赳夫)だ。福田も前尾も大蔵省出身だが、前尾は池田と同じ主税畑(大蔵省主税局)で、福田は主計(大蔵省主計局。予算作成部署であり、税を扱う部署よりも格上)で格が違う。佐藤はエリート志向が強い。選ぶのは福田だ。」というのが、前尾派内部でささやかれていた。佐藤が長期政権を築く裏で、前尾派内部のしこりは大きくなり、ついに派内からの造反が起き、前尾は大平に後を譲る形となった。

 ロッキード事件で痛手を受けた政友会であったが、田中角栄はそれでも権力維持に努めた。大福対決と呼ばれる第41回総選挙。財政の福田を自称する福田赳夫は当初の民政党有利の世論調査結果を信じ込み、選挙運動に力を入れなかった。福田派周囲、民政党幹部から選挙運動に身を入れるようにと忠告を受けても、国事優先との態度を変えなかった。次第に政友会有利に変化する数字に、福田も都市圏への遊説を始めたが、時すでに遅し。政友会は再び第一党に返り咲き、大平内閣が発足した。

 福田との政争に勝利した大平内閣は波乱が続いた。大平首相が政策課題として掲げたのが大型間接税の導入問題であった。国民の平均寿命が上昇していく中で、国家財政における福祉の費用も増大していく状況に対して打ち出された消費税構想。大型増税に懸念を示す政友会幹部の異論をあったが消費税導入問題は、世論に広まっていった。大平首相はテレビ会見、記者会見などを通したり、全国に遊説を行うなどして国民への説明を進めていった。当時衆議院議員を引退し、枢密顧問官となっていた岸信介は、「新たな税制の導入、それも国民生活に大きな影響を与える大型間接税の導入については、解散して、国民の信を問うべきではないか」という意見を示した(岸談話)。この談話に押されて、帝國議会は解散風が吹き、ついに大平首相は衆議院解散を断行した。

 選挙結果は、政友会は議席を減らしたが、議会第一党の地位を辛うじて維持した。憲政の常道に照らせば、退陣すべき事態であった。しかし、大平首相は政権に固執した。議席を減らしたとしても政友会が第一党である以上は、政友会が政権を担当する。総選挙が行われた直後に再度解散するわけにはいかない。召集された臨時議会の首班推薦者を決める衆議院本会議において、大平首相はそう言って、首班推薦者に立候補への意欲を示した。

 政友会と民政党は、吉田茂と鳩山一郎の政争の後、鳩山政権下で緒方竹虎が主導して覚書を交わした。憲政の常道に基づき首班推薦者を一本化するという内容である。圧倒的多数で議院の意思を示して、衆庶の望を示す。改正満洲帝國憲法で導入された、満洲国首相の任命規定である「國務総理大臣は衆庶の望を徴して皇帝之を親任す」の日本版ともいえる覚書は、吉田鳩山の政争で混乱した政界を正常化させ、政民両党の間に所属する党は違えども両党が日本を指導していくという意味での一体感を生じさせ、泥沼の政争を回避する目的があった。

 臨時議会に於て政民各党の総裁が数十年ぶりに首班指名候補に名乗りでた。第一回の選挙では過半数を制するものが居らず、決選投票により再度大平が首班推薦を受け、大平内閣がスタートした。政民両党とも最後まで候補者一本化に尽力したため、臨時議会の開会が遅れ、首班推薦の決議も遅れた子の騒動を「四十日抗争」と呼ぶ。

 第二次大平内閣の滑り出しは、好調とはいかず、民政党との間にしこりを残しただけではなく、政友会の党内に於ても反大平の声はくすぶり続けた。そのくすぶりが爆発したのが翌年の通常国会会期末の大平内閣不信任決議から衆議院解散に至る、世に言う「ハプニング解散」である。

 

七日会

 政友会の2番手派閥。

 田中角栄、竹下登、橋本龍太郎といった首相を輩出した。佐藤栄作の後を受けて成立した田中内閣は列島半島改造論(※拙作内における「日本列島」とは、樺太・千島から台湾まで連なる島嶼となり、これに朝鮮「半島」を含めることで日本全土を意味する「列島半島」という造語が存在する。)を掲げ、北は樺太から南は九州、朝鮮、台湾までを含めた大開発を推し進めた。田中内閣が手掛けたのが、一県一医大構想と一県一連隊構想。前者は高等教育の拡充と医大を各地に設置することで国民の健康増進を果たすことを目的とし、後者は佐藤軍縮で引き締めた陸軍との緊張緩和を目的としたものであった。

 田中角栄の政治手腕は功罪相半ばするとよく言われるが、日本経済の更なる躍進と言う点では彼の功績は確かな功があった。あらゆるところから 政治資金を調達した田中だが、総理在任中に行った、中島飛行機(現富士重工)とアメリカ・ロッキード社との航空機共同開発を巡る斡旋利得収賄疑惑は田中内閣を総辞職に追い込んだ。

 憲政の常道に基づき、福田赳夫に内閣組閣の大命が降下するが、福田は「今我々民政党が内閣を率いると、田中氏の刑事捜査に介入したとも言われかねない。政友会の不祥事は政友会によって掃除されるべきである」として大命を拝辞した。代わって組閣したのが、当時、政友会の3番手派閥を率いていた三木武夫であった。

 田中逮捕後も田中角栄は影響力を行使し続けた。田中角栄が雇った弁護団は徹底した一審を覆し、控訴審で証拠不十分による無罪に導いた。無罪判決を受けた田中は、公然と政治活動を再開した。そのころ政府の首班を担っていたのは、宏池会の鈴木善幸であった。田中は、盟友であった大平正芳が為しきれなかった大仕事、消費税導入を目指して政治活動を行った。消費税導入には党内からも反発が強かった。田中は、自身の最後の大仕事であり、これを期に派閥の後を竹下登に譲ると派閥の幹部を前にして宣言した。選挙中に死去し、大平首相の弔い合戦と化した衆議院総選挙。この大平の遺産を少なくとも守りたいと考えていた鈴木首相は、自分の内閣では、消費税導入は実施しないと党の総務会で発言した。これにより、田中軍団は鈴木首相に詰め寄り、鈴木首相はこれに抗しきれなかった。世に言う「鈴木降ろし」である。鈴木首相は次期首相を決める内大臣主催の会議で田中を推薦した。田中も消費税導入に己の政治生命を懸けると発言し、会議は田中の再登板への理解を示し、大命は田中角栄に降下した。

 そして、田中は消費税導入に荒れる国会を乗り切り、消費税法案の成立を見届けた後、衆議院を解散した。竹下登への禅譲を示すため、自身は時期衆議院選挙には出馬せず、貴族院の勅撰議員に指名された。後日、消費税解散と呼ばれたこの選挙で政友会は敗北を喫し、中曾根民政党内閣が成立する。

 

周山会

 政友会の3番手派閥。

 佐藤栄作の設立した派閥。佐藤栄作は、憲政の常道という建前の下、次の総理を民政党から出すことを意識していた。民政党を率いていた佐藤の兄岸信介総裁もまた自身の後継として福田赳夫を意識しており、佐藤、岸、福田という官界出身者による政権移譲の構想が意識されていた。これに抗したのが、佐藤派の中で力を蓄えていた田中角栄であり、田中角栄は佐藤派から分派し、七日会田中派を結成。周山会佐藤派は少数派閥へと転落する。佐藤栄作の後を受けて周山会会長を引き継いだのが、佐藤栄作の下で内閣書記官長、政友会幹事長を務めた佐藤派の大番頭保利茂であった。保利は、佐藤と田中が決裂した後も両者の仲裁に尽力し、後年佐藤と田中は和解する。派閥としては、細々と続いている。現在の領袖は保利茂の長男保利耕輔であるが、高齢の為次の総選挙には出馬しない意思を固めている。

 保利耕輔が、憲法増補問題に造詣が深かったことから、この派閥には、憲法増補問題に明るい議員が所属しているのが特徴である。総裁を目指すための同志が結集したというよりも、憲法問題についての研究会的な側面が強く、他派に所属しつつ、この派閥にも参加しているという議員もいる。

 

 

立憲民政党

 源流は、旧幕臣系の大成会や大隈重信の設立した立憲改進党。結党は、昭和2(2587・1927)年。改進党の後継政党である憲政会と政友会から分派した政友本党が母体となる。

 改進党・大成会時代から含めれば、大久保忠寛子爵、小栗忠順伯爵、大隈重信侯爵、桂太郎伯爵、加藤高明の、民政党結党後からは濱口雄幸、若槻禮次郎、町田忠治、鳩山一郎、岸信介、福田赳夫、中曾根康弘、安倍晋太郎、海部俊樹、森喜朗、小泉純一郎、福田康夫、麻生太郎、安倍晋三の内閣総理大臣を輩出した。

 

清和会

 立憲民政党の最大派閥。

 この派閥の初代会長は福田赳夫である。岸信介が自身の後継者として遇し、佐藤政権下では、福田を大蔵委員長や予算委員長、政務調査会長や幹事長といった枢要ポストに歴任させた。又、この時期の岸の提言で、イギリスの政党政治における「影の内閣」の構成員を政務調査会の各部会長に担わせることとしたため、政務調査会の各部会長が国務大臣級のポストと看做されるようになり、福田は大蔵部会長や通商産業部会長も歴任した。

 しかし、岸の福田重用は、他の岸派の面々からの反発を買い、岸派は、岸の直系と福田の同志、そして川島正次郎や椎名悦三郎といった各派に分裂した。福田は同志たちを束ねて、紀尾井会を結成した。当の福田自身は、派閥解消論者であり、派閥の運営には積極的ではなかった。福田が政権を担った後、党の近代化を掲げて、福田は紀尾井会を解散し、党内各派もそれに倣う形で派閥は解消されたが、政策グループと名を変えて、実態は存続した。

 「福田派」の再結成は福田退陣後であった。旧福田派の幹部に押される形で、福田は政策集団「清和会」を結成する。捲土重来を望む福田は、大平内閣の消費税構想に反対論を掲げる。徹底的な財政緊縮と福祉の抑制により、まずは財政収支のバランスをとる。経済成長により、パイが増えれば、国民を潤う。安易な増税は国民の経済活動を委縮させるという論陣であった。増税と財政支出の増大によって景気を刺激しようとする大平の政策と真っ向から対峙した福田であったが、増税はともかく財政支出の抑制は、経済界からの反発を受け、両者共倒れの形となる。

 福田の首相感は、政党の総裁、総理大臣とは皆に推されてなるべき者という価値観であり、多数派工作の類を嫌っていた。政権に執着する姿勢を見せない福田は、それでも自分の現在の地位の後釜を誰かに据えておくことは必要と判断し、福田派の後継を自身の師匠である岸信介の女婿安倍晋太郎に焦点を当てた。とはいえ、派閥的な雰囲気を嫌う福田は自分の居場所は自分で作れと言わんばかりに、清和会の事務総長に安倍を推しただけで福田派長老への口利きなどはしなかった。

 福田派の次世代への継承が始まり、動きが取れなくなってきたところに、大平の死を受けて、一念発起した田中角栄による消費税国会が始まる。新型増税への反発を乗り切り、貴族院での消費税法案の通過を確認した田中は、内閣総辞職を決断した。跡を受けたのは、民政党の政策科学研究所の中曾根康弘だった。

 

志帥会

 中曾根内閣の支持母体であった政策科学研究所の後継争いは、政権中期から始まっていた。派閥の会長たる中曾根自身は、総理大臣と言う重職にある為、派閥内部の調整は派閥内の実力者に任せていた。渡辺美智雄と藤波孝生の2人は中曾根の後継を争い、熾烈な多数派工作を続けていた。このままでは中曾根派自体の分裂にも繋がりかねないと危惧した中曾根は、退陣後もオーナーに座り続けたが、リクルートコスモス社の未公開株取引に絡む疑獄事件が勃発し、両者の派閥の後継者争いは共倒れとなる。中曾根はオーナーとしての名前は残すが、すっくり派閥の運営からは手を引き、長老議員による集団指導体制を構築していた。

 代わって中堅・若手の派内議員から山崎拓を後継に推す声が上がっていたが、派閥の長老議員からの反応が芳しくなく、山崎は同志を引き連れて、派閥を脱会独立した(近未来政治研究会)。派閥員が半減し、長老議員が多く、政界を引退する者もいる中で、中曾根派は清和会から分離した亀井静香の同志と対等合併することとなり、志帥会が誕生した。

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