大日本帝國召喚   作:もなもろ

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文字数が結構いきましたので、投稿です。設定集的なものとして、今後も書いていきます。


大日本帝国歴代内閣(前史・初代から8代まで:第一議會)

大日本帝国歴代内閣

◎内閣制度前史

 江戸幕府の三大改革とは、享保の改革、天明の改革、天保の改革を言い、幕末の三大改革とは、安政の改革、文久の改革、慶応の改革を言うが、その最後にあたる「慶応の改革」において、内閣制度の前身が誕生した。江戸幕府の機構は、老中4、5人が月番で政務に当たる体制となっていた。勝手掛老中という財政問題を専管する老中もいたが、それ以外の老中には専管はなかった。慶喜は陸軍総裁、海軍総裁に老中を充てるとともに、会計総裁、国内事務総裁、外国事務総裁の職を新設しこれにも老中を充てて、老中の月番制度を廃止した。この際に無任所の板倉勝静を老中首座に任じ、老中中の首席の地位を与えた。これが我が国の内閣制度の前身となった。

 大政奉還と慶喜の将軍職辞任という変化があったものの、朝廷よりこれまで通り国内の政治に従事するようにと言う勅許を得、慶喜による新たな国家統治の構想は進んでいった。鳥羽伏見の乱の後、朝廷は慶喜に対する大政再委任の動きを見せる。しかし、従来の幕府政治が限界にきていると判断した慶喜は新たな国家体制の構築を進めることとした。慶喜は元々勤王の精神に篤い水戸徳川家出身でもあることから、朝廷を尊崇する感情が他の大名よりも強かったことから、公武合体論による朝廷と幕府の融合による新制度の創設を意図した動きを見せた。それは、慶喜が自身の新たな権力の源泉として太政大臣望んだことからもうかがえる。

 太政大臣として、太政官を統制下に置くことで朝廷と幕府とで分離していた国家統治組織を再統合する意図があった。但し、太政大臣として職務を遂行するとしても、太政官に職務を遂行させるわけにはいかない。太政官には日本全国を統治能力はないからである。それゆえに、慶喜は太政大臣として、公武の頂点に立つ一方で、前征夷大将軍(さきのせいいたいしょうぐん)として、幕府機構を全国統治の基盤として利用した。

 慶喜は、凡そ10年をめどとして、国家統治の新体制に移行する準備を為すように旧幕機構に指示した。慶喜の側近であった西周や津田真道などは、欧州に渡って政治制度の調査を行う者や日本全国の藩政府の役人から地方制度の状況を観察し、郡県制の公布に向けた取り組みを進めた。

 江戸幕府の諸機構は、建前としては江戸徳川家・徳川宗家の家政機関である。講学上、江戸幕府が全国を統治する機関として扱われることがあるが、封建制度の建前においては一家の私的機関である。これがために、いわゆる外様大名やその藩士が老中、若年寄や奉行などに選任される例はなかった。慶喜は、薩摩藩の小松帯刀や西郷隆盛、大久保利通といった人物と面識があり、有能な人物を国家運営に参画させることが、西洋列強職に伍していくために必要であると考えていた。このような考えから、慶喜は幕府機構の近代化への脱皮を図るために版籍奉還と御親兵設置を断行した。

 版籍奉還は、全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革をいうが、これにより旧来の封建体制下における主従関係にあった藩主と藩士の関係が再定義される形となった。これまでの封建領主とその家臣がそれぞれ先祖代々受け継いできた主従の関係性は公的には否定されることは無かったものの、朝廷が藩士を召し出すに際しては、領主の許可を得ることなく、朝廷が独自に行うことになったという点でそれまでの主従の関係性に変化が生じることとなった。

 この際に、旧幕機構に存在した総裁職を頂点とする組織である陸軍局、海軍局、会計局、国内事務局、外国事務局の組織改編が行われた。陸軍局、海軍局はそのままで、会計局は名称が変更され大蔵局に、国内事務局は内務局に、外国事務局は外務局に変更され、新たに司法局と文部局、宮内局が新設された。朝廷の2官8省は従前の通り存置されるものとして、大蔵卿や民部大輔といった従来の官名は残されたが、国家統治の実権が8省へ移ったわけではない。朝廷が召し出した藩士たちは朝廷の8省にそれぞれ所属するが、実際の勤務地は東京となった。即ち、兵部省に出仕した者は陸軍局か海軍局へ、民部省、大蔵省へ出仕した者は大蔵局へ、治部省は外務局へ、刑部省は司法省へ、式部省は文部局へと言った具合であった。内務局は8省に相当する機関が無かったため、中務省や各省出仕者の中からは選別されて配属されることとなった。出仕者本人へは朝廷への出仕ということで、これまで仕えていた封建領主のさらに上位者に仕えるという態であるため、旧主である封建領主の名誉感情を満たしつつも、当時の慣習では、旧幕府の統治機構は依然として徳川家の家政機関であるという見方がなされていたため、陪臣が徳川宗家に出仕するというような奇妙な状況が併存していた。

 この奇妙な関係は、慶喜の構想の通り10年程度存続したが、それまでの間に慶喜は朝廷工作を行い、律令制度上の官制を名実ともに公武で合体させるように動いていった。律令制度の官制には官位相当制が用いられており、官職に据えるには必要な位階が与えられていなければならない。省の長官である卿の位階は正四位上下に当たり、旧幕時代には大藩の大名当主にしか叙されていなかった位である。慶喜としても世の大勢を占める名誉感情は無視できなかったため、卿や次官である大輔の地位が空白となるように動いていった。即ち、律令制度の省のそもそもの権能が旧幕機構である局へと移行するために、有名無実となった律令制の省そのものを改定して再構築するため、旧来の組織のトップを不在にして自然消滅を図ろうとしたのである。

 その中で一つの事件が起こる。朝廷工作の甲斐もあってか、明治6年には大蔵卿と大蔵大輔の席が空白となり朝廷は後継を定めなかった。そこで、慶喜は、大蔵権大輔に当時の大蔵総裁であった大久保忠寛が任じられるように朝廷工作を行った。権官は、定員外の役職であり、正規の官が空白であるときに任じられることは無い。さらに、幕府旗本、それも大身の家であれば、従五位の位には叙されることもあるが、大輔の地位は正五位が相当であるため、旧幕時代の身分制度では就任は不可能であった。

 それでも慶喜は、省の長官ではなく次官、それも権官であることを理由として押し切った。ただし、長官である卿も次官である大輔も空職であるため、大久保忠寛は事実上朝廷の一省の責任者たる地位となった。この経緯を巡っては、朝廷内・旧幕府内でも動揺が起こり、慶喜の動きを急進的とみるか、漸進的とみるかでの立場の違いから野に下った者もいた(明治六年の政変)。

 慶喜は明治8年ごろから次第に政治の中心となる立場を退き、その頃から、政府の運営を総裁首座の者に任せるようになっていった。発足時には老中(譜代大名が就任)が就任していた各総裁職にも、慶喜の将軍職辞任後には老中格や若年寄が就任するようになり、大久保忠寛を始めとした旗本出身者も就任する例が増えていった。明治7年には、内務総裁の下の次官にあたる内務奉行には、薩摩藩出身の小松清廉が任じられるなど多彩な人材登用も進んでいた。

 親王が任官されていた中務卿や式部卿には、「称号」のとしての名乗りを許す勅許が出されたこともあり、慶喜は、律令制度の創設以来続いていた朝廷の在り方を根本から改めはしなかったが、「太政官」の解体に向けて統治機構の改造を行った。

 明治10年、内閣制度が発足した。内閣総理大臣と各国務大臣により構成される内閣が、これまでの総裁首座と各総裁により構成されていた総裁会議に代わって設けられることとなった。これまで太政大臣として公武の頂点に立っていた慶喜は、太政大臣の職が無くなるのを期として、新たに新設された元老院の議長職に移った。元老院は、法令案の制定に際して、内閣から諮問を受けて、意見の述べる機関であり、現在の帝國議会のように立法権を協賛する機関とまではいかなかったが、慶喜が議長職である以上は、現実的には内閣側が元老院の意見を無視することはできなかった。

 明治10年から帝國議会開設までの期間を通して、法律の制定機関たる立法機関と法律の執行機関たる行政機関の分化が進むようになり、今日の帝國憲政の基礎が出来上がっていくこととなった。

 

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歴代内閣

初代 板倉勝静内閣 (2537(明治10・1877)年11月10日~2539(明治12・1879)年6月23日)

▽来歴・概要

 元備中松山藩第七代藩主。内閣制度創設により旧幕府機構の老中首座の地位にあった板倉勝静が、初代内閣総理大臣となった。在職日数、591日。

 板倉政権にとって重要な課題は、新発足した内閣制度を順調に運営していくことであった。このため板倉政権下では大きな政治的な動きはなかったと言われがちではあるが、いくつかの重要な法令が成立している。

 「学制」はそのうちでの最も重要な法である。当時の政府は全て旧武士階級から構成されており、高級官僚も同じ状況であった。欧州流の国民国家構想を推進していくためには、国民の教化は重要な事項であり、そのためには全国で均一化した教育体系の整備は焦眉の課題であった。板倉政権下で文部大臣の職に在った佐久間象山は全国に存在した「寺子屋」を利用して、全国民に一定の「読み書き計算」を習得させるカリキュラムを定めた。6歳~8歳程度から入学させ、一定の学術技能を習得させる。現在のような学齢を基にした一斉入学一斉進級の制度を取らず、就学を終えるまでに必要とする知識のゴールのみを定めたことは、地域差を考慮したものであった。就学を終えるまでは、早い者で2年程度、遅い者で5年程度を予定していた。

 画一的な教育システムを導入し、国民皆兵に耐えうる年齢的にも均一な兵卒養成にも転用可能な教育システムを期待した陸軍次官大村益次郎との間に、国民教育論の議論が交わされたが、佐久間は時期尚早として退けた。ただし、大村が企図したシステムは漸進的に導入され、学制は年を経るごとに改正され、郷土史や国史、地学、博物といった学問分野が追加され、体操や唱歌といった兵隊教育に転用可能な強化も随時導入されていった。全国統一的な小学校システムが導入されるのは明治19年の「小学校令」からであり、それまでは、地域の状況に応じて教科も就学日数もバラバラであった。

 地方三新法の公布もこの内閣において行われた。明治4年の各藩藩知事の東京集住と藩知事代理の派遣に始まる一連の改革(廃藩置県)において地方政治の基礎的な部分が固まったと見た政府は明治11年7月、地方三新法(府県会規則・郡区町村編制法・地方税規則)を公布した。府県会規則においては、地方に議会を設置することが法的に認められた。議会そのものはこれまでも地方長官の裁量で設置されていたが、これを公的に認めたという点では画期的であった。郡区町村編制法は、これまでの地方制度を整理し、府県の下に郡を置き、その更に区町村という3つの行政区画を設置することを規定した法である。都市部を区とし、それ以外は旧来の慣習に従って町村の名の自治体を設置した。地方税規則は、地方税の統一的な規則を定めた法令である。

 板倉勝静は、近代的な内閣制度の初めての運用者であったが、彼の背後には徳川慶喜の存在もあり、閣議で論争があったときなどは、慶喜が調停に回るなどして大過なく政権を運営した。明治12年6月、板倉は年齢を理由に職を辞した。

▽在任中の主な出来事

・紀尾井坂の変(大久保利通暗殺未遂)

・参謀本部独立

・琉球処分

▽内閣の出した主な法令

・教育令(第一次)

・徴兵規則

・海外旅券規則

・地方三新法(府県会規則・郡区町村編制法・地方税規則)

▽内閣の対応した帝國議会

・帝國議会設置前

▽内閣閣僚

内閣総理大臣

1 板倉勝静(いたくら かつきよ)

 生年:2483(1823)年2月14日(文政6年1月4日)、54歳

 出生:陸奥国白河郡白河小峰城内(福島県白河市)

 学歴:

 官職:元老院議官/従五位下左近将監、周防守、従四位下侍従、阿波守、伊賀守

 前職:江戸幕府奏者番兼寺社奉行、老中、老中首座

 特記:陸奥白河藩主、松平定永八男。備中松山藩主、板倉勝職婿養子。

    備中松山藩第7代藩主。板倉宗家第13代当主。

    初入閣

外務大臣

1 阿部正外(あべ まさとう)

 生年:2488(1828)年2月15日(文政11年1月1日)、49歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:元老院議官/従四位下、越前守、豊後守、侍従

 前職:江戸幕府神奈川奉行、外国奉行、北町奉行、寺社奉行兼奏者番、老中

 特記:旗本・阿部正蔵次男。陸奥白河藩主、阿部正耆養子。

    陸奥白河藩第7代藩主。忠秋系阿部家(豊後守家)第15代当主。

    初入閣

内務大臣

1 水野忠徳(みずの ただのり)

 生年:2470(1815)年5月18日(文化12年4月9日)、62歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:元老院議官/筑後守・下総守

 前職:江戸幕府使番・御先手組火付盗賊改方加役、浦賀奉行、長崎奉行、勘定奉行兼勝手掛、外国奉行

 特記:諏訪庄右衛門頼篤の子。旗本水野忠長養嗣子。

    初入閣

大蔵大臣

1 大久保忠寛(おおくぼ ただひろ)

 生年:2478(1818)年1月5日(文化14年11月29日)、59歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:元老院議官/従五位下・志摩守、右近衛将監、伊勢守、越中守

 前職:江戸幕府:海防掛、軍制改正用掛、蕃所調所頭取、外国貿易取調掛

駿河町奉行、京都町奉行、外国奉行、大目付、御側御用取次、会計総裁、若年寄

 特記:旗本大久保忠尚の子。

    初入閣

陸軍大臣

1 松平乗謨(まつだいら のりかた)

 生年:2499(1839)年12月18日(天保10年11月13日)、37歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:陸軍大将/従五位下・兵部少輔、縫殿頭、正四位下

 前職:江戸幕府若年寄、老中、陸軍奉行、陸軍総裁

 特記:三河国奥殿藩8代藩主、信濃国田野口藩(竜岡藩)主。真次流大給松平家11代当主。

    初入閣

海軍大臣

1 勝義邦(かつ よしくに)

 生年:2483(1823)年3月12日(文政6年1月30日)、54歳

 出生:武蔵国江戸本所亀沢町(東京都)

 学歴:

 官職:海軍大将/従五位下・安房守

 前職:江戸幕府軍艦奉行、海軍奉行、海軍総裁

 特記:旗本勝小吉の子。

    初入閣

司法大臣

1 津田真道(つだ まみち)

 生年:2489(1829)年6月25日(文政12年7月25日)、48歳

 出生:美作国津山藩上之町(岡山県津山市)

 学歴:オランダ・ライデン大学

 官職:元老院議官

 前職:江戸幕府蕃書調所、騎兵差図役頭取、目付、司法奉行

 特記:幕臣、初入閣

文部大臣

1 佐久間象山(さくま しょうざん)

 生年:2471(1811)年3月22日(文化8年2月28日)、66歳)

 出生:信濃国埴科郡松代字浦町(長野県長野市松代町)

 学歴:

 官職:元老院議官

 前職:信濃国松代藩士、文部総裁

 特記:初入閣

内閣書記官長

1 岩瀬忠震(いわせ ただなり)

 生年:2478(1818)年12月18日(文政元年11月21日)、58歳

 出生:武蔵国江戸芝愛宕下西久保(東京都)

 学歴:昌平坂学問所大試乙科に

 官職:元老院議官

 前職:目付、外国奉行、作事奉行、国内事務総裁

 特記:旗本・設楽貞丈の三男。岩瀬忠正の婿養子。

法制局長官

1 小栗忠順(おぐり ただまさ)

 生年:2487(1827)年7月16日(文政10年6月23日)、50歳

 出生:武蔵国江戸駿河台(東京都)

 学歴:

 官職:元老院議官

 前職:江戸幕府外国奉行、勘定奉行、歩兵奉行、軍艦奉行、若年寄

 特記:旗本小栗忠高の子。

 

各省次官(このころの次官は高級官僚の職ではなく自由任用制であった。)

外務次官 井上馨(元長州藩士)

内務次官 小松清廉(元薩摩藩士・在任中に死去) / 大久保利通(元薩摩藩士)

大蔵次官 松方正義(元薩摩藩士)

陸軍次官 大村益次郎(元長州藩士)

海軍次官 西郷従道(元薩摩藩士)

司法次官 江藤新平(元佐賀藩士)

文部次官 渋沢栄一(元幕臣)

 

 

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2代 勝義邦内閣 (2539(明治12・1879)年6月23日~2540(明治13・1880年8月19日)

▽来歴・概要

 元幕臣。勝海舟の名で有名。

 板倉勝静が老齢を理由に退陣した後に組閣。在職日数、424日。

 勝内閣の初仕事は、前アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・グラントの迎接であった。板倉は老齢を理由に退陣したが、一説には、英語が話せる勝に首相職を譲り、直接会見を行ってもらう意図があったと言われている。グラント元大統領は明治天皇に謁見したあとに勝首相とも会見を行った。

 勝内閣の急所となったのが、明治13年3月の国会期成同盟に対する対応である。勝としては、府県会規則が公布されていたことから、議会政治に関する関心の高まりは、歓迎すべき事案と考えていた。しかし、全国から議員を集めて議会を設置するというのは時期尚早と考えていた。議会に対する完全形で立法権を担わせるつもりはなく、民情の把握には府県知事を招集する地方官会議で充分であり、問題については放置することを意識していた。

 一方、地方官会議の元締めである大久保内務大臣から国会の開設は時期尚早であり、世論を煽るような形の国会期成同盟は好ましからざる存在である。今政府が最も重視せねばならぬところは富国強兵・殖産興業であり、上からの改革である。このような運動は、政府のコントロールに置くべきであると主張した。

 国会期成同盟による国会開設の請願に対しては勝内閣は受理せずとの方針が決まったが、大久保内相を中心とする自由民権運動に対する規制については内閣は割れた。徳川慶喜による調整も入ったが、最終的には閣内不一致と言う形になった。後継首班の推薦に際して、勝首相は明治天皇及び徳川慶喜に対して「(閣内不一致は大久保が我を通したからであり、)大久保にこの難局を仕切らすべきである。」と奏上した。

▽在任中の主な出来事

・グラント前米大統領来日

・横浜正金銀行の創業

・国会期成同盟の設立

▽内閣の出した主な法令

・外務省官制改正(公使は親任官)

・刑法、治罪法制定

▽内閣の対応した帝國議会

・帝國議会設置前

▽内閣閣僚

内閣総理大臣

2 勝義邦(かつ よしくに)

 生年:2483(1823)年3月12日(文政6年1月30日)、56歳

 出生:武蔵国江戸本所亀沢町(東京都)

 学歴:

 官職:海軍大将/安房守

 前職:江戸幕府軍艦奉行、海軍奉行、海軍総裁、海軍大臣

 特記:旗本勝小吉の子。

    海軍大臣兼任

外務大臣

2 柴田剛中(しばた たけなか)

 生年:2483(1823)年2月27日(文政6年1月17日)、56歳

 出生:武蔵国江戸小石川(東京都)

 学歴:昌平黌

 官職:元老院議官/従四位下、日向守

 前職:江戸幕府神奈川奉行、外国奉行、慶応元年遣欧使節正使

 特記:旗本徒目付・柴田良通長男。

    初入閣

内務大臣

2 大久保利通(おおくぼ としみち)

 生年:2490(1830)年9月26日(文政13年8月10日)、48歳

 出生:薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)

 学歴:藩校造士館

 官職:元老院議官

 前職:薩摩藩士/太政官中務省出仕、幕府内務局出向、内務奉行、内務次官

 特記:初入閣

大蔵大臣

1 大久保忠寛(おおくぼ ただひろ)

 生年:2478(1818)年1月5日(文化14年11月29日)、59歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:元老院議官/従五位下・志摩守、右近衛将監、伊勢守、越中守

 前職:江戸幕府:海防掛、軍制改正用掛、蕃所調所頭取、外国貿易取調掛

駿河町奉行、京都町奉行、外国奉行、大目付、御側御用取次、会計総裁、若年寄

 特記:旗本大久保忠尚の子。

陸軍大臣

1 松平乗謨(まつだいら のりかた)

 生年:2499(1839)年12月18日(天保10年11月13日)、39歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:陸軍大将/従五位下・兵部少輔、縫殿頭、正四位下

 前職:江戸幕府若年寄、老中、陸軍奉行、陸軍総裁

 特記:三河国奥殿藩8代藩主、信濃国田野口藩(竜岡藩)主。真次流大給松平家11代当主。

    留任

海軍大臣

1 勝義邦(かつ よしくに)

 ( ~2539(明治12・1879)年8月1日免)

 生年:2483(1823)年3月12日(文政6年1月30日)、56歳

 出生:武蔵国江戸本所亀沢町(東京都)

 学歴:

 官職:海軍大将/従五位下・安房守

 前職:江戸幕府軍艦奉行、海軍奉行、海軍総裁

 特記:旗本勝小吉の子。

    内閣総理大臣兼任

2 木村喜毅(きむら よしたけ)

 (2539(明治12・1879)年8月1日任~ )

 生年:2490(1830)年2月27日(文政13年2月5日)、49歳

 出生:武蔵国江戸浜御殿役宅(東京都)

 学歴:

 官職:海軍大将/従五位下・安房守

 前職:江戸幕府浜御殿添奉行、目付、長崎海軍伝習所取締、軍艦奉行、開成所頭取、海軍所頭取、勘定奉行勝手掛、海軍奉行

 特記:旗本木村喜彦(よしひさ)の子。

    初入閣

司法大臣

2 江藤新平(えとう しんぺい)

 生年:2494(1834)年3月18日(天保5年2月9日)、45歳

 出生:肥前国佐賀郡八戸村(佐賀県佐賀市八戸)

 学歴:佐賀藩校・弘道館

 官職:

 前職:佐賀藩士/太政官式部省出仕、幕府司法局出向、司法奉行

 特記:初入閣

文部大臣

1 佐久間象山(さくま しょうざん)

 ( ~2540(明治13・1880)年1月10日免)

 生年:2471(1811)年3月22日(文化8年2月28日)、68歳

 出生:信濃国埴科郡松代字浦町(長野県長野市松代町)

 学歴:

 官職:元老院議官

 前職:信濃国松代藩士、文部総裁

 特記:

2 池田長発(いけだ ながおき)

 (2540(明治13・1880)年1月10日任~ )

 生年:2497(1837)年8月23日(天保8年7月23日)、42歳

 出生:武蔵国江戸浜御殿役宅(東京都)

 学歴:昌平黌

 官職:元老院議官/従五位下、筑後守

 前職:江戸幕府目付、火付盗賊改、京都町奉行、外国奉行、軍艦奉行並、文部奉行

 特記:旗本池田長休の四男。備中国井原領主(1200石)旗本池田長溥養嗣子。

    初入閣

内閣書記官長

2 小栗忠順(おぐり ただまさ)

 生年:2487(1827)年7月16日(文政10年6月23日)、51歳

 出生:武蔵国江戸駿河台(東京都)

 学歴:

 官職:元老院議官

 前職:江戸幕府外国奉行、勘定奉行、歩兵奉行、軍艦奉行、若年寄

 特記:旗本小栗忠高の子。

法制局長官

1 小栗忠順(おぐり ただまさ)

( ~2539(明治12・1879)年8月1日免兼)

 生年:2487(1827)年7月16日(文政10年6月23日)、51歳

 出生:武蔵国江戸駿河台(東京都)

 学歴:

 官職:元老院議官

 前職:江戸幕府外国奉行、勘定奉行、歩兵奉行、軍艦奉行、若年寄

 特記:旗本小栗忠高の子。

2 西周(にし あまね)

(2539(明治12・1879)年8月1日任~ )

 生年:2489(1829)年3月7日(文政12年2月3日)、50歳

 出生:石見国津和野藩(島根県津和野町)

 学歴:津和野藩校・養老館/オランダ・ライデン大学

 官職:元老院議官

 前職:江戸幕府目付、司法局

 特記:

 

 

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3代 第一次大久保利通内閣 (2540(明治13・1880年8月19日~2541(明治14・1881年12月3日)

▽来歴・概要

 元薩摩藩士。在職日数、472日。

 大久保利通内閣の一丁目一番地に掲げた政策は、自由民権運動への対抗であるとともに、富国強兵政策である。

 まず、自由民権運動を規制するための「集会条例」の制定が俎上に上った。慶喜を議長とする元老院はこの法令に対して、運動の抑圧はかえって先鋭化を招くのではとの懸念から慎重な審議を重ねていた。しかし、明治13年11月に第2回国会期成同盟大会が東京で挙行されたことから、法案は成立を迎える。同盟大会は、国会開設の請願だけではなく、憲法制定についても言及しており、このような姿勢が、保守的な慶喜から見たら、時期尚早であり、先鋭化しつつあるとみなされたのである。

 次いで、大久保は警視庁の再設置を行った。明治7年に設置された東京警視庁は、一度内務省の一部局として縮小されたが、大久保による東京の警備強化を目的に再設置されるに至ったのである。同時に各府県に対しても府県警察部の増員を指示し、取締りの強化に乗り出した。

 大久保が本来意図したのは、富国強兵・殖産興業の途である。早急な近代化には、統制され、無駄の無い計画の遂行が必要と考えていたためであり、自由民権運動関係者による国会開設の動きは、国内の貧弱な資源を浪費するものとしか考えていなかった。

 ただ、欧州諸国の政治状況も熟知していた彼は、欧州の政治動向・憲法法律の動きについても調査研究の必要を感じていた。これに答えたのが、外交官として世界に散っていた公武の華族である。徳川慶喜による貴族の今後の活躍先として見出されたのが外交官としての活躍である。国内で下層階級の抜擢をなすためにも国内に彼らの席を設けることが難しかったためでもあった。大久保は、諸外国に駐在する公使を制度研究調査官の任を与えることで、彼らに日本国内にも取り入れることができるような政治制度の下地を調査させた。

 大久保の本音とは異なり、自由民権運動は激化していった。そのような中で、開拓使官有物払下事件が明るみになり、明治十四年の政変が起こると、大久保内閣に対する攻撃が激しくなっていった。この間に徳川慶喜や元首相などが大久保と会談を重ね、ついに大久保内閣は10月、「国会開設の勅諭」を発布するに至った。勅諭の発布により激化していた自由民権運動は抑えられるに至り、大久保は退陣した。

▽在任中の主な出来事

・ハワイ国王来日

・警視庁再設置

・憲兵設置

・開拓使官有物払下事件

・明治十四年の政変

・国会開設の勅諭

・自由党結党

▽内閣の出した主な法令

・集会条例制定

・内務省官制改正(警視庁の再独立)

・警視庁官制制定

・海外制度調査官官制制定

・農商務省官制制定

▽内閣の対応した帝國議会

・帝國議会設置前

▽内閣閣僚

内閣総理大臣

3 大久保利通(おおくぼ としみち)

 生年:2490(1830)年9月26日(文政13年8月10日)、49歳

 出生:薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)

 学歴:藩校造士館

 官職:元老院議官

 前職:薩摩藩士/太政官中務省出仕、幕府内務局出向、内務奉行、内務次官、内務大臣

 特記:内務大臣兼任

外務大臣

2 柴田剛中(しばた たけなか)

 生年:2483(1823)年2月27日(文政6年1月17日)、57歳

 出生:武蔵国江戸小石川(東京都)

 学歴:昌平黌

 官職:元老院議官/従四位下、日向守

 前職:江戸幕府神奈川奉行、外国奉行、慶応元年遣欧使節正使

 特記:旗本徒目付・柴田良通長男。

内務大臣

2 大久保利通(おおくぼ としみち)

( ~2540(明治13・1880年10月15日免兼)

 生年:2490(1830)年9月26日(文政13年8月10日)、49歳

 出生:薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)

 学歴:藩校造士館

 官職:元老院議官

 前職:薩摩藩士/太政官中務省出仕、幕府内務局出向、内務奉行、内務次官

 特記:内閣総理大臣兼任

3 小栗忠順(おぐり ただまさ)

(2540(明治13・1880年10月15日任~ )

 生年:2487(1827)年7月16日(文政10年6月23日)、53歳

 出生:武蔵国江戸駿河台(東京都)

 学歴:

 官職:元老院議官

 前職:江戸幕府外国奉行、勘定奉行、歩兵奉行、軍艦奉行、若年寄

 特記:旗本小栗忠高の子。

大蔵大臣

1 大久保忠寛(おおくぼ ただひろ)

( ~2540(明治13・1880年9月1日免)

 生年:2478(1818)年1月5日(文化14年11月29日)、62歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:元老院議官/従五位下・志摩守、右近衛将監、伊勢守、越中守

 前職:江戸幕府:海防掛、軍制改正用掛、蕃所調所頭取、外国貿易取調掛

駿河町奉行、京都町奉行、外国奉行、大目付、御側御用取次、会計総裁、若年寄

 特記:旗本大久保忠尚の子。

    事務引継ぎ

    年齢を理由にした辞任

2 大隈重信(おおくま しげのぶ)

(2540(明治13・1880年9月1日任~2541(明治14・1881年11月11日免)

 生年:2498(1838)年3月11日(天保9年2月16日)、42歳

 出生:肥前国佐賀郡佐賀城下会所小路(佐賀県佐賀市水ヶ江町)

 学歴:佐賀藩校弘道館

 官職:

 前職:佐賀藩士/太政官治部省出仕、幕府外務局出向、大蔵局転任、大蔵奉行、大蔵次官

 特記:初入閣。明治十四年の政変で失脚。

3 松方正義(まつかた まさよし)

(2541(明治14・1881年11月11日任~ )

 生年:2495(1835)年3月23日(天保6年2月25日)、46歳

 出生:薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目)

 学歴:藩校造士館

 官職:

 前職:薩摩藩士/太政官民部省出仕、幕府大蔵局出向、大蔵奉行、大蔵次官

 特記:初入閣。

陸軍大臣

1 松平乗謨(まつだいら のりかた)

( ~2540(明治13・1880年11月1日免)

 生年:2499(1839)年12月18日(天保10年11月13日)、40歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:陸軍大将/従五位下・兵部少輔、縫殿頭、正四位下

 前職:江戸幕府若年寄、老中、陸軍奉行、陸軍総裁

 特記:三河国奥殿藩8代藩主、信濃国田野口藩(竜岡藩)主。真次流大給松平家11代当主。

    留任

    外国軍制取調の為渡欧による辞任

2 松平正親(まつだいら まさちか)

(2540(明治13・1880年11月1日任~ )

 生年:2499(1839)年7月4日(天保10年「5月24日」)、41歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:陸軍中将

 前職:江戸幕府外国奉行支配組頭、陸軍奉行、陸軍参謀次長

 特記:初入閣

幕臣・松平九郎左衛門(150俵)の子。

海軍大臣

2 木村喜毅(きむら よしたけ)

 生年:2490(1830)年2月27日(文政13年2月5日)、50歳

 出生:武蔵国江戸浜御殿役宅(東京都)

 学歴:

 官職:海軍大将/従五位下・摂津守

 前職:江戸幕府浜御殿添奉行、目付、長崎海軍伝習所取締、軍艦奉行、開成所頭取、海軍所頭取、勘定奉行勝手掛、海軍奉行

 特記:旗本木村喜彦(よしひさ)の子。

司法大臣

3 山田顕義(やまだ あきよし)

 生年:2504(1844)年11月18日(天保15年10月9日)、35歳

 出生:長門国阿武郡椿郷東分(山口県萩市)

 学歴:長州藩校明倫館、松下村塾

 官職:陸軍大佐

 前職:長州藩士/太政官兵部省出仕、幕府陸軍局出向、司法局転任

 特記:初入閣

文部大臣

2 池田長発(いけだ ながおき)

 生年:2497(1837)年8月23日(天保8年7月23日)、42歳

 出生:武蔵国江戸浜御殿役宅(東京都)

 学歴:昌平黌

 官職:元老院議官/従五位下、筑後守

 前職:江戸幕府目付、火付盗賊改、京都町奉行、外国奉行、軍艦奉行並、文部奉行

 特記:旗本池田長休の四男。備中国井原領主(1200石)旗本池田長溥養嗣子。

農商務省設置(2540(明治13・1880年10月1日)

農商務大臣

1 横井時存(よこい ときひろ)

(2540(明治13・1880年10月1日任~2541(明治14・1881)年2月11日免)

 生年:2469(1809)年9月22日(文化6年8月13日)、71歳

 出生:肥後国熊本城下内坪井町(熊本県熊本市)

 学歴:

 官職:

 前職:元熊本藩士/幕府内務局出仕、内務奉行

 特記:横井小楠(よこいしょうなん)の名で有名。

    初入閣

    年齢を理由に辞任

2 伊藤博文(いとう ひろぶみ)

(2541(明治14・1881)年2月11日任~ )

 生年:2401(1841)年10月16日(天保12年9月2日)、39歳

 出生:周防国熊毛郡束荷村(山口県光市束荷)

 学歴:松下村塾

 官職:

 前職:長州藩士/幕府内務局出仕、内務奉行並、工務奉行

 特記:実父は農民。

    初入閣

内閣書記官長

3 大木喬任(おおき たかとう)

 生年:2492(1832)年4月23日(天保3年3月23日)、48歳

 出生:肥前国赤松町(佐賀県佐賀市水ヶ江三丁目)

 学歴:佐賀藩校・弘道館

 官職:

 前職:佐賀藩士/太政官民部省出仕、幕府内務局出向、内務奉行

 特記:

法制局長官

2 西周(にし あまね)

 生年:2489(1829)年3月7日(文政12年2月3日)、50歳

 出生:石見国津和野藩(島根県津和野町)

 学歴:津和野藩校・養老館/オランダ・ライデン大学

 官職:元老院議官

 前職:江戸幕府目付、司法局

 特記:

 

 ―――――

 

4代 第一次小栗忠順内閣 (2541(明治14・1881)年12月3日~2544(明治17・1884)年11月17日)

▽来歴・概要

 元幕臣。華族令制定により子爵。在職日数、1081日。

 自由民権運動の激化とともに退陣した大久保の後を受けて、組閣した小栗政権は、国会開設のための準備調査の必要性を強く認識した。小栗は、明治15年3月に元長州藩出身の伊藤博文に対して、欧州列強諸国の憲法制度の調査研究と、欧州遊学後に憲法草案の起草を行うように指示した。伊藤は、西欧諸国を歴訪し、ロシア、ドイツ、オーストリア、フランス、イタリア、イギリスの各国を渡り歩き、其々の政治制度をつぶさに知らべあげた。これが、伊藤が帰国後に枢密院議長・首相として権力の座に長く座ることになることに繋がる。伊藤は、2年後の15年3月に帰朝した。

 幕末幕臣の三英傑とも言われている小栗は、帝国海軍横須賀鎮守府の設立の父としての顔も持つ。横須賀鎮守府の核であるドック設備が彼の建言で設立されたことに由来する。すなわち、幕末期に殖産興業の重要性を認識していた人物である。

 小栗は、全国の流通網の整備を政策課題として掲げていた。江戸幕府は、寛政期の松平定信による旧里帰農令や天保期の人返し令など時折江戸から地方への人口流出を意図する法令を発していた。江戸への流入者が農村の人口を減少させ、農村の疲弊を回復する木艇があるとともに、人口が増え続ける江戸の治安悪化を食い止める役割もあった。地方では生活が苦しく、出稼ぎのような形で江戸へたどり着いたとしても彼らが食べられるようになるとは限らない。このような人口流入が起こっており、江戸は飽和状態になっていたからである。そのため、職にあぶれた者が江戸には多数おり、彼らが治安悪化を招いているという指摘がなされていた。

 このため、小栗もまた幕吏として、また上野国に所領を持つ旗本として、地方人口の減少に歯止めをかける必要性を強く意識していた。そこで、小栗が政策課題として意識したのが流通網の整備である。都市から地方へ、そして地方から都市へ物を届ける環境を整備することで地方の生活環境を改善することで、地方から江戸への人口流入を食い止めようと考えていた。

 現在も続く華族制度を制定したのもこの内閣である。

 公爵には、公家から近衛、一條、九條、鷹司、二條の五摂家が、武家からは徳川宗家が綬爵した。この他、旧琉球王国の尚家が綬爵した。

 侯爵には、公家からは清華家が選ばれた。華族令制定当初は、三絛家、西園寺家、大炊御門家、花山院家、菊亭家、久我家、醍醐家、広幡家8家が該当した。武家からは、御三家と江戸城登城時の伺候席が大廊下席及び大広間席の家で国主・国持大名の家格を有する家が該当とされ、華族令制定時には以下の30家が綬爵した。

徳川家(尾張名古屋62万石、尾張中納言、大廊下)、

徳川家(紀伊和歌山55万石、紀伊中納言、大廊下)、

徳川家(常陸水戸35万石、水戸宰相、大廊下)、

前田家(加賀金沢102万石、松平加賀宰相、本国持、大廊下)、

松平家(越前福井32万石、松平越前守、大身国持、大廊下)、

松平家(美作津山10万石、松平越後守、大身国持、大廊下)、

島津家(薩摩鹿児島72万石、松平修理大夫・松平薩摩守、本国持、大広間)、

伊達家(陸奥仙台62万石、松平陸奥守、大身国持、大広間)、

細川家(肥後熊本54万石、細川越中守、大身国持、大広間)、

黒田家(筑前福岡47万石、松平筑前守、本国持、大広間)、

浅野家(安芸広島42万石、松平安芸守、本国持、大広間)、

鍋島家(肥前佐賀35万石、松平肥前守、大身国持、大広間)

毛利家(長門萩36万石、松平長門守、本国持、大広間)、

池田家(因幡鳥取32万石、松平因幡守、本国持、大広間)

藤堂家(伊勢安濃津32万石、藤堂和泉守、本国持、大広間)、

池田家(備前岡山31万石、松平備前守、本国持、大広間)、

蜂須賀家(阿波徳島25万石、松平阿波守、本国持、大広間)、

山内家(土佐高知24万石、松平土佐守、本国持、大広間)、

松平家(出雲松江18万石、松平出羽守、本国持、大広間)、

上杉家(出羽米沢30万石、上杉弾正大弼、大身国持、大広間)、

宗家(対馬府中10万石格、宗対馬守、本国持、大広間)、

有馬家(筑後久留米21万石、有馬中務大輔、大身国持、大広間)、

佐竹家(出羽久保田20万石、佐竹右京大夫、大身国持、大広間)、

南部家(陸奥盛岡20万石、南部大膳大夫、大身国持、大広間)。

 伯爵には、公家からは、「大納言迄宣任の例多き旧堂上」とされ、大臣家3家(中院、嵯峨、三條西家)と羽林家・名家の中から飛鳥井家、勧修寺家など30家が綬爵された。武家からは御三卿(田安、一橋、清水家)と江戸城登城時の伺候席が大広間席の家で准国主・城主の家格を持つ3家(伊予宇和島10万石伊達遠江守、筑後柳川11万石立花左近将監、陸奥二本松10万石丹羽左京大夫)、溜詰・帝鑑間席の城主の家格を持つ家(近江彦根35万石井伊掃部頭、陸奥若松28万石松平肥後守など)59家、大広間席で四品以上の家格を持つ家(御三家連枝伊予西条12万石松平左京大夫など)4家が綬爵された。

 子爵には公家からは、「一新前家を起したる旧堂上」とされ、伯爵以上の基準に当てはまらない家が綬爵した。又、維新後に分家が許された場合で主に公侯爵の分家は子爵となった。武家の場合も同様で維新前に諸侯とされた者は全て対象とされた。

 男爵には国家に勲功ある者が新たに取り立てられた。

 民権運動の余波がくすぶり続ける中で起こった壬午事変は、国内で不平を持つ者の目を海外に向けることに成功した。小栗は地方官として地方の改良に積極的に取り組んでいた山形県令三島通庸に栃木及び福島の県令を兼任させ、県を跨る施策を断行させた。三島は、山形県令時代に、道路・橋梁整備、公共施設の建築、米沢製糸場の設立、サクランボ栽培の導入、那須野ヶ原開拓といった数々の施策を実現させてきた。小栗に乞われて入閣した大久保利通内相の腹心と言った部下でもあり、手腕は確かだった。道路整備事業費案が自由党が多数を握る福島県会の反対で否決されたことを契機として起こった福島事件が勃発したが、小栗も大久保も三島の後押しをした。前年度2.5倍の地方増税と道路整備の公共事業案を福島県会が否決したが、大久保内相は前年度2.3倍の地方増税と不足分の政府支出及び道路整備事業の原案執行を福島県に対して指示した。三島は反対勢力を弾圧して、道路整備事業を強行した。

 その後も自由党勢力との抗争は続いていたが、加波山事件、群馬事件と武装闘争路線に固執する地方急進派と言論による政権獲得を目指す党中央執行部の溝は深まり、ついには、自由党党首の板垣が自由党の解党を決定した。長年にわたる自由党との争いに終止符を打ったと感じた小栗は、もう少し自由な立場から国政の在り方を考えたいと退陣の意思を閣内に表明した。地方急進派を除いても自由党中央執行部の政策は急進的であったと考えられていた。また、大隈重信率いる立憲改進党は、自由党よりも穏健な路線であったが、明治14年の政変での確執があったために、現政府との間に協力関係はなかった。一度立場を退いて、自由党や改進党との関係を再構築できるかどうかの可能性を探る必要があったと言われている。

 後継の首班は、大久保利通の再登板が早期に決定され、引継ぎの作業に移っていたが、そのさなかに秩父事件が勃発する。事件の終息を迎えた11月17日に小栗は大久保に政権を移譲した。

▽在任中の主な出来事

・岐阜事件(板垣退助自由党党首遭難)

・伊藤博文渡欧

・立憲改進党結党

・立憲帝政党結党

・日本銀行創業

・壬午事変

・自由民権運動:福島事件、加波山事件、群馬事件、秩父事件

・自由党解散

▽内閣の出した主な法令

・軍人勅諭発布

・集会条例改正

・日本銀行条例制定

・徴兵令改正

・華族令制定

▽内閣の対応した帝國議会

・帝國議会設置前

▽内閣閣僚

内閣総理大臣

4 小栗忠順(おぐり ただまさ)

 生年:2487(1827)年7月16日(文政10年6月23日)、54歳

 出生:武蔵国江戸駿河台(東京都)

 学歴:

 官職:元老院議官/従五位下・豊後守、上野介

 前職:江戸幕府外国奉行、勘定奉行、歩兵奉行、軍艦奉行、若年寄

 特記:旗本小栗忠高の子。三河小栗氏第12代当主。

    華族令により男爵

外務大臣

2 柴田剛中(しばた たけなか)

( ~2543(明治16・1883年3月1日免)

 生年:2483(1823)年2月27日(文政6年1月17日)、58歳

 出生:武蔵国江戸小石川(東京都)

 学歴:昌平黌

 官職:元老院議官/従四位下、日向守

 前職:江戸幕府神奈川奉行、外国奉行、慶応元年遣欧使節正使

 特記:旗本徒目付・柴田良通長男。

    留任

    年齢を理由に辞任。

3 田辺太一(たなべ たいち(やすかず))

(2543(明治16・1883年3月1日任~ )

 生年:2491(1831)年10月21日(天保2年9月16日)、52歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所

 官職:特命全権公使

 前職:江戸幕府甲府徽典館教授、外国方書物方出役、外国奉行支配組頭、駐仏公使館書記官、駐仏公使

 特記:幕臣田辺誨輔(石庵)の次男

    初入閣

    華族令により男爵

内務大臣

4 大久保利通(おおくぼ としみち)

 生年:2490(1830)年9月26日(文政13年8月10日)、51歳

 出生:薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)

 学歴:藩校造士館

 官職:元老院議官

 前職:薩摩藩士/太政官中務省出仕、幕府内務局出向、内務奉行、内務次官

 特記:華族令により男爵

大蔵大臣

4 岩瀬忠震(いわせ ただなり)

( ~2542(明治15・1882年8月4日免)

 生年:2478(1818)年12月18日(文政元年11月21日)、62歳

 出生:武蔵国江戸芝愛宕下西久保(東京都)

 学歴:昌平坂学問所大試乙科

 官職:元老院議官

 前職:目付、外国奉行、作事奉行、国内事務総裁、内閣書記官長

 特記:旗本・設楽貞丈の三男。岩瀬忠正の婿養子。

    初入閣

    病気療養の為辞任

5 松方正義(まつかた まさよし)

(2542(明治15・1882年8月4日任~ )

 生年:2495(1835)年3月23日(天保6年2月25日)、46歳

 出生:薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目)

 学歴:藩校造士館

 官職:元老院議官

 前職:薩摩藩士/太政官民部省出仕、幕府大蔵局出向、大蔵奉行、大蔵次官、大蔵大臣

 特記:華族令により男爵

陸軍大臣

2 松平正親(まつだいら まさちか)

( ~2542(明治15・1882年6月30日免)

 生年:2499(1839)年7月4日(天保10年「5月24日」)、42歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:陸軍中将、退任時陸軍大将任官

 前職:江戸幕府外国奉行支配組頭、陸軍奉行、陸軍参謀次長

 特記:松平太郎。初入閣

    幕臣・松平九郎左衛門(150俵)の子。

3 松平乗謨(まつだいら のりかた)

(2542(明治15・1882年6月30日任~ )

 生年:2499(1839)年12月18日(天保10年11月13日)、42歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:陸軍大将/従五位下・兵部少輔、縫殿頭、正四位下

 前職:江戸幕府若年寄、老中、陸軍奉行、陸軍総裁

 特記:三河国奥殿藩8代藩主、信濃国田野口藩(竜岡藩)主。真次流大給松平家11代当主。

    再任

    華族令により子爵

海軍大臣

2 木村喜毅(きむら よしたけ)

 生年:2490(1830)年2月27日(文政13年2月5日)、50歳

 出生:武蔵国江戸浜御殿役宅(東京都)

 学歴:

 官職:海軍大将/従五位下・摂津守

 前職:江戸幕府浜御殿添奉行、目付、長崎海軍伝習所取締、軍艦奉行、開成所頭取、海軍所頭取、勘定奉行勝手掛、海軍奉行

 特記:旗本木村喜彦(よしひさ)の子。

    華族令により男爵

司法大臣

3 山田顕義(やまだ あきよし)

 生年:2504(1844)年11月18日(天保15年10月9日)、35歳

 出生:長門国阿武郡椿郷東分(山口県萩市)

 学歴:長州藩校明倫館、松下村塾

 官職:陸軍大佐

 前職:長州藩士/太政官兵部省出仕、幕府陸軍局出向、司法局転任

 特記:

文部大臣

2 池田長発(いけだ ながおき)

 生年:2497(1837)年8月23日(天保8年7月23日)、42歳

 出生:武蔵国江戸浜御殿役宅(東京都)

 学歴:昌平黌

 官職:元老院議官/従五位下、筑後守

 前職:江戸幕府目付、火付盗賊改、京都町奉行、外国奉行、軍艦奉行並、文部奉行

 特記:旗本池田長休の四男。備中国井原領主(1200石)旗本池田長溥養嗣子。

    華族令により男爵

農商務大臣

2 伊藤博文(いとう ひろぶみ)

( ~2542(明治15・1882)年3月1日免)

 生年:2401(1841)年10月16日(天保12年9月2日)、40歳

 出生:周防国熊毛郡束荷村(山口県光市束荷)

 学歴:松下村塾

 官職:元老院議官

 前職:長州藩士/幕府内務局出仕、内務奉行並、工務奉行鯤

 特記:実父は農民。

    憲法調査のための渡欧のため辞任

3 榎本武揚(えのもと たけあき)

(2542(明治15・1882)年3月1日任~ )

 生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、46歳

 出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了

 官職:海軍少将

 前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使

 特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男

    華族令により男爵

内閣書記官長

4 栗本鯤(くりもと こん)

 生年:2482(1822)年5月1日(文政5年3月10日)、48歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:昌平黌

 官職:従五位下・安芸守

 前職:江戸幕府奥医師、箱館奉行所組頭、目付、製鉄所御用掛、外国奉行、勘定奉行、箱館奉行、パリ万国博覧会派遣使節団長補佐、駐仏公使、郵便報知新聞主筆

 特記:郵便報知新聞時代の部下には原敬や犬養毅がいる。

法制局長官

3 吉田賢輔(よしだ けんすけ)

 生年:2498(1838)年1月12日(天保9年「10月19日」)、43歳

 出生:武蔵国江戸下谷向原柳御徒町(東京都)

 学歴:

 官職:

 前職:江戸幕府蕃書調所筆記方出仕兼取締、外国奉行支配書記、同支配調役並、儒者勤方、慶應義塾塾長兼教授

 特記:幕府徒士・吉田定八郎の子。

 

 

 ―――――

5代 第二次大久保利通内閣 (2544(明治17・1884)年11月17日~2546(明治19・1886)年11月25日)

▽来歴・概要

 首相就任時男爵。その後子爵に陞爵。在職日数、739日。第一次、第二次通算1211日。

 終息したかに思われた自由民権運動の激化事件は、その後も散発的に発生した。未遂には終わったが、自由党員による名古屋鎮台襲撃計画が発覚した飯田事件や政府転覆計画が発覚した名古屋事件がそれである。これらの動きに対応するために、政府は火薬取締規則、爆発物取締罰則を制定し、過激な運動の取締りを強化した。

 対外政策では、朝鮮半島にて発生した開化派によるクーデタである甲申政変の対応が第二次大久保内閣の重要事項となった。親日派によるクーデタが一度は成功したかに見えたが、クーデタ勢力は数日にして瓦解した。事件処理に尽力したのが、外務次官の井上馨と閣外で憲法制定の研究作業に尽力していた伊藤博文である。対朝鮮との交渉を井上が、対清国との交渉を伊藤が担当した。

 内政においては、教育令の改定が重要事項としてあげられる。初代板倉内閣以来改定に改定を重ねた初等教育拡充の試みは、全国均一の小学校制度を産み出した。尋常科4年、高等科2年。尋常科4年修了程度を義務教育期間と定め、俗にいう「読み書き算盤」を修めさせるとともに「国民教育」を図るために修身の科目を設けた。

 財政問題がこの内閣の急所となった。初代板倉内閣から2代勝内閣までにおいて大蔵大臣を務めた大久保忠寛の後を継いだのは、大隈重信である。その彼が明治十四年の政変で失脚した後を継いだのが松方正義である。松方財政の登場である。明治維新以来急成長を続けていた日本経済であるが、同時にインフレの弊害も目立ってきた。松方は、大久保・大隈と続いてきた積極・拡大財政から消極・緊縮財政に政府の財政を転換させた。小栗内閣、当初の蔵相は元幕臣の岩瀬忠震が就任していた。小栗は大久保から松方の緊縮財政の考え方を聞いており、一定の正しさを認めていた。この旨を小栗は岩瀬にも通知していたが、岩瀬は産業振興の観点から緊縮財政は必ずしも正しからずという観点から政府財政の緊縮化には一定の歯止めがかかっていた。岩瀬は在任中に病没したが、後継に松方を推薦しており、松方財政は再び進展することとなった。産業振興を掲げる大久保内閣では、商工大臣に横井小楠が起用され、松方財政とは相容れぬ部分も多く調整は難航したが、小栗が政権を担っていた明治16年度政府予算から徐々にデフレ誘導が始まり、大久保内閣期の明治18年度予算において一定の完成を見た。

 デフレ誘導による農作物の価格下落は、地方農村において勢力を誇っていた自由民権運動を支えた地方の地主階級に打撃を与えたという点で、松方財政には、想定外の評価が与えられたが、当時の世評では、不況への誘導としかとらえられなかった。勿論、政府内部及び政府に近い層からは、維新以来の急激な開発のために不換紙幣を乱発してきたことの反省とその整理による財政の健全化と言う松方財政を評価していた。とはいえ、これが政争となった。明治19年度予算案作成においてもデフレ傾向は維持されたが、地方の窮状に対して、大蔵官僚の中にも大蔵省は松方財政を指示する者とそれ以外に分かれた。明治20年度予算案作成においては、インフレ誘導を図ろうとする大蔵官僚(旧大隈派を中心とし、幕臣も多く所属した。)と松方財政を指示する官僚との間の争いで、大蔵省は機能不全に陥った。

 松方財政を評価する大久保に松方を切ることはできず、ここに大久保は病気を理由に総辞職の途を選ぶ。大蔵省の混乱を治められるのは、大蔵省の長老のみとの決意により、当時元老院議員となっていた大久保忠寛に後事を託すこととした。来年度予算の決定と執行の確認までという条件で、ワンポイントリリーフとしての大久保忠寛政権は生まれたのである。

▽在任中の主な出来事

・自由民権運動:飯田事件、名古屋事件

・甲申政変

・松方財政

・北海道庁設置

・鎮台制から師団制へ

・(陸海軍統合)参謀本部設置

▽内閣の出した主な法令

・火薬取締規則、爆発物取締罰則両制定

・教育令改正

・帝國大学令、小学校令、中学校令、師範学校令制定

・参謀本部条例改正

▽内閣の対応した帝國議会

・帝國議会設置前

▽内閣閣僚

内閣総理大臣

5 大久保利通(おおくぼ としみち)

 生年:2490(1830)年9月26日(文政13年8月10日)、54歳

 出生:薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)

 学歴:藩校造士館

 官職:元老院議官

 前職:薩摩藩士/太政官中務省出仕、幕府内務局出向、内務奉行、内務次官、内務大臣

 特記:男爵

    文部大臣臨時兼任

外務大臣

3 田辺太一(たなべ たいち(やすかず))

( ~2545(明治18・1885)年12月1日免)

 生年:2491(1831)年10月21日(天保2年9月16日)、53歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所

 官職:特命全権公使

 前職:江戸幕府甲府徽典館教授、外国方書物方出役、外国奉行支配組頭、駐仏公使館書記官、駐仏公使

 特記:幕臣田辺誨輔(石庵)の次男

    男爵

4 杉浦譲(すぎうら ゆずる)

(2545(明治18・1885)年12月1日任~ )

 生年:2490(1835)年11月15日(天保6年9月25日)、50歳

 出生:甲斐国山梨郡府中(山梨県甲府市)

 学歴:徽典館

 官職:特命全権公使、元老院議官

 前職:江戸幕府甲府徽典館助教授、外国奉行支配書物出役、同調役、外国奉行支配組頭、駐仏公使館書記官、駐蘭公使、外務次官

 特記:初入閣

    男爵

内務大臣

5 河井秋義(かわい あきよし)

 生年:2487(1827)年1月27日(文政10年1月1日)、57歳

 出生:越後国長岡城下長町(新潟県長岡市長町)

 学歴:長岡藩校崇徳館

 官職:

 前職:越後長岡藩士/幕府内務局出仕、内務奉行

 特記:河井継之助の名で有名

    初入閣

大蔵大臣

5 松方正義(まつかた まさよし)

 生年:2495(1835)年3月23日(天保6年2月25日)、49歳

 出生:薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目)

 学歴:藩校造士館

 官職:元老院議官

 前職:薩摩藩士/太政官民部省出仕、幕府大蔵局出向、大蔵奉行、大蔵次官、大蔵大臣

 特記:

陸軍大臣

3 松平乗謨(まつだいら のりかた)

 生年:2499(1839)年12月18日(天保10年11月13日)、44歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:陸軍大将/従五位下・兵部少輔、縫殿頭、正四位下

 前職:江戸幕府若年寄、老中、陸軍奉行、陸軍総裁

 特記:三河国奥殿藩8代藩主、信濃国田野口藩(竜岡藩)主。真次流大給松平家11代当主。

    留任

    子爵

海軍大臣

2 木村喜毅(きむら よしたけ)

( ~2545(明治18・1885年5月24日免)

 生年:2490(1830)年2月27日(文政13年2月5日)、54歳

 出生:武蔵国江戸浜御殿役宅(東京都)

 学歴:

 官職:海軍大将/従五位下・摂津守

 前職:江戸幕府浜御殿添奉行、目付、長崎海軍伝習所取締、軍艦奉行、開成所頭取、海軍所頭取、勘定奉行勝手掛、海軍奉行

 特記:旗本木村喜彦(よしひさ)の子。

    留任

    男爵

    病気療養の為辞任

3 矢田堀鴻(やたぼり こう)

(2545(明治18・1885年5月24日任~ )

 生年:2490(1830)年1月12日(文政12年「12月18日」)、54歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所

 官職:海軍大将/讃岐守

 前職:江戸幕府軍艦奉行並、海軍総裁、沼津兵学校校長、海軍兵学校校長、海軍教育部長、海軍省教育本部長

 特記:幕府小普請方、荒井精兵衛の三男。小普請方、矢田堀又蔵の養子。

    男爵

司法大臣

3 山田顕義(やまだ あきよし)

( ~2545(明治18・1885)年4月1日免)

 生年:2504(1844)年11月18日(天保15年10月9日)、40歳

 出生:長門国阿武郡椿郷東分(山口県萩市)

 学歴:長州藩校明倫館、松下村塾

 官職:陸軍大佐

 前職:長州藩士/太政官兵部省出仕、幕府陸軍局出向、司法局転任

 特記:留任

   外国司法制度取調の為渡欧による辞任

4 大木喬任(おおき たかとう)

(2545(明治18・1885)年4月1日任~ )

 生年:2492(1832)年4月23日(天保3年3月23日)、53歳

 出生:肥前国赤松町(佐賀県佐賀市水ヶ江三丁目)

 学歴:佐賀藩校・弘道館

 官職:

 前職:佐賀藩士/太政官民部省出仕、幕府内務局出向、内務奉行、内閣書記官長

 特記:

文部大臣

2 池田長発(いけだ ながおき)

( ~2545(明治18・1885)年7月1日免)

 生年:2497(1837)年8月23日(天保8年7月23日)、47歳

 出生:武蔵国江戸浜御殿役宅(東京都)

 学歴:昌平黌

 官職:元老院議官/従五位下、筑後守

 前職:江戸幕府目付、火付盗賊改、京都町奉行、外国奉行、軍艦奉行並、文部奉行

 特記:旗本池田長休の四男。備中国井原領主(1200石)旗本池田長溥養嗣子。

    男爵

    外国教育制度取調の為渡欧による辞任

3 森有礼(もり ありのり)

(2545(明治18・1885)年7月1日任~2545(明治18・1885)年11月6日免)

 生年:2507(1847)年8月23日(弘化4年7月13日)、38歳

 出生:薩摩国鹿児島城下春日小路町(鹿児島県鹿児島市春日町)

 学歴:藩校造士館・薩摩藩開成所

 官職:

 前職:薩摩藩士/太政官治部省出仕、幕府外務局出向、駐英公使、文部局転任、文部省参事官

 特記:初入閣。国語英語化論を巡り辞任。

4 大久保利通(おおくぼ としみち)

(2545(明治18・1885)年11月6日任~2545(明治18・1885)年11月30日免兼)

 生年:2490(1830)年9月26日(文政13年8月10日)、54歳

 出生:薩摩国鹿児島城下高麗町(鹿児島県鹿児島市高麗町)

 学歴:藩校造士館

 官職:元老院議官

 前職:薩摩藩士/太政官中務省出仕、幕府内務局出向、内務奉行、内務次官、内務大臣

 特記:男爵。内閣総理大臣臨時兼任

5 川路太郎(かわじ たろう)

(2545(明治18・1885)年11月30日任~ )

 生年:2505(1845)年1月28日(弘化元年12月21日)、40歳

 出生:武蔵国江戸番町冬青木坂上(東京都)

 学歴:蕃書調所、昌平黌、横浜仏語伝習所、英国留学

 官職:文部省参事官

 前職:幕府大蔵局、文部省初等教育局長。

 特記:男爵。川路聖謨の孫。

農商務大臣

3 榎本武揚(えのもと たけあき)

( ~2545(明治18・1885)年12月1日免)

 生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、48歳

 出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了

 官職:海軍少将

 前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使

 特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男

    男爵

4 田辺太一(たなべ たいち(やすかず))

(2545(明治18・1885)年12月1日任~ )

 生年:2491(1831)年10月21日(天保2年9月16日)、54歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所

 官職:特命全権公使

 前職:江戸幕府甲府徽典館教授、外国方書物方出役、外国奉行支配組頭、駐仏公使館書記官、駐仏公使、外務大臣

 特記:幕臣田辺誨輔(石庵)の次男

    男爵

逓信省設置(2545(明治18・1885)年12月1日)

逓信大臣

1 榎本武揚(えのもと たけあき)

(2545(明治18・1885)年12月1日任~ )

 生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、49歳

 出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了

 官職:海軍少将

 前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、農商務大臣

 特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男

    男爵

内閣書記官長

5 千坂高雅(ちさか たかまさ)

 生年:2501(1841)年3月11日(天保12年閏1月19日)、43歳

 出生:出羽国置賜郡米沢城下桂町(山形県米沢市松が岬三丁目)

 学歴:米沢藩校興譲館

 官職:

 前職:米沢藩士/幕府内務局出仕、内務奉行、内務大臣秘書官

 特記:

法制局長官

4 福岡孝弟(ふくおか たかちか)

 生年:2495(1835)年3月3日(天保6年2月5日)、39歳

 出生:土佐国高知城下弘小路(高知県高知市)

 学歴:吉田東洋門下生

 官職:

 前職:土佐藩士/太政官刑部省出仕、幕府司法局出向、内閣法制局第一部長

 特記:

 

 

 ―――――

6代 大久保忠寛内閣 (2546(明治19・1886)年11月25日~2547(明治20・1887)年8月27日)

▽来歴・概要

 元幕臣。子爵。在職日数、276日。

 前述の通り、ワンポイントリリーフとして発足した大久保内閣は、大蔵省の混乱を治めるとの名分の元、内閣総理大臣が大蔵大臣を兼任するという異例のスタートとなった。但し、首相の職は激務であり、また重職であるため、兼任と言う形では政務が滞る事になりかねない。大久保忠寛を補佐するため、小栗が無任所の班列大臣として入閣した(本官は元老院議員)。小栗の再登板とならなかったのは、退陣する大久保利通の薩摩藩出身者に配慮してのことである。大蔵省内における対立は、大久保・松方を頂点とする薩摩藩出身者と大隈重信を背景に持つ肥前藩出身者との対立である。

 閣僚のほとんどを大久保利通内閣期から留任させてスタートした大久保忠寛内閣の最重要課題は大蔵省の健全化と来年度予算の策定である。首相官邸ではなく蔵相官邸を居にした忠寛は、大蔵省の健全化に向けて積極的に取り組んだ。大蔵次官に佐野常民を据えたことで大隈派に配慮しつつ、インフレ対策のため次官級の職(財務官)を新たに作り、これを大久保利通・松方の腹心たる渡辺国武に任せた。年を開けた2月の末ごろに明治20年度予算案が仕上がった。デフレ抑制は薄れたものとなったが、4年間かけた、政商への官営模範工場の払い下げ、煙草税や酒造税などの増徴による歳入増加策、政府予算の縮小等といった松方財政の結果、本位貨幣の準備高は4割に達成しており、国内の景気浮揚策への転換が行われることとなった。

 忠寛は、予算の執行状況を確認し、来年度予算の大枠が定まったことを受けて、大蔵省の健全化が一定の成果をみたと解し、首相職と蔵相職を辞任した。

△在任中の主な出来事

△内閣の出した主な法令

▽内閣の対応した帝國議会

・帝國議会設置前

▽内閣閣僚

内閣総理大臣

6 大久保忠寛(おおくぼ ただひろ)

 生年:2478(1818)年1月5日(文化14年11月29日)、68歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:元老院議官/従五位下・志摩守、右近衛将監、伊勢守、越中守

 前職:江戸幕府:海防掛、軍制改正用掛、蕃所調所頭取、外国貿易取調掛

駿河町奉行、京都町奉行、外国奉行、大目付、御側御用取次、会計総裁、若年寄、大蔵大臣

 特記:旗本大久保忠尚の子。

    男爵

    大蔵大臣兼任

外務大臣

4 杉浦譲(すぎうら ゆずる)

 生年:2490(1835)年11月15日(天保6年9月25日)、51歳

 出生:甲斐国山梨郡府中(山梨県甲府市)

 学歴:徽典館

 官職:特命全権公使、元老院議官

 前職:江戸幕府甲府徽典館助教授、外国奉行支配書物出役、同調役、外国奉行支配組頭、駐仏公使館書記官、駐蘭公使、外務次官

 特記:男爵

    留任

内務大臣

5 河井秋義(かわい あきよし)

( ~2547(明治20・1887年6月22日免)

 生年:2487(1827)年1月27日(文政10年1月1日)、59歳

 出生:越後国長岡城下長町(新潟県長岡市長町)

 学歴:長岡藩校崇徳館

 官職:

 前職:越後長岡藩士/幕府内務局出仕、内務奉行

 特記:河井継之助の名で有名

    留任

    病気療養の為辞任

6 山縣有朋(やまがた ありとも)

(2547(明治20・1887年6月22日任~ )

 生年:2498(1838)年6月14日(天保9年閏4月22日)、49歳

 出生:長門国阿武郡川島村(山口県萩市川島)

 学歴:松下村塾

 官職:陸軍少将

 前職:長州藩士/太政官兵部省出仕、幕府陸軍局出向

 特記:初入閣

大蔵大臣

6 大久保忠寛(おおくぼ ただひろ)

 生年:2478(1818)年1月5日(文化14年11月29日)、68歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:元老院議官/従五位下・志摩守、右近衛将監、伊勢守、越中守

 前職:江戸幕府:海防掛、軍制改正用掛、蕃所調所頭取、外国貿易取調掛

駿河町奉行、京都町奉行、外国奉行、大目付、御側御用取次、会計総裁、若年寄、大蔵大臣

 特記:旗本大久保忠尚の子。

    男爵

    内閣総理大臣兼任

陸軍大臣

3 松平乗謨(まつだいら のりかた)

 生年:2499(1839)年12月18日(天保10年11月13日)、44歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:陸軍大将/従五位下・兵部少輔、縫殿頭、正四位下

 前職:江戸幕府若年寄、老中、陸軍奉行、陸軍総裁

 特記:三河国奥殿藩8代藩主、信濃国田野口藩(竜岡藩)主。真次流大給松平家11代当主。

    子爵

    留任

海軍大臣

3 矢田堀鴻(やたぼり こう)

 生年:2490(1830)年1月12日(文政12年「12月18日」)、54歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所

 官職:海軍大将/讃岐守

 前職:江戸幕府軍艦奉行並、海軍総裁、沼津兵学校校長、海軍兵学校校長、海軍教育部長、海軍省教育本部長

 特記:幕府小普請方、荒井精兵衛の三男。小普請方、矢田堀又蔵の養子。

    男爵

    留任

司法大臣

4 大木喬任(おおき たかとう)

 生年:2492(1832)年4月23日(天保3年3月23日)、53歳

 出生:肥前国赤松町(佐賀県佐賀市水ヶ江三丁目)

 学歴:佐賀藩校・弘道館

 官職:

 前職:佐賀藩士/太政官民部省出仕、幕府内務局出向、内務奉行、内閣書記官長

 特記:留任

    男爵

文部大臣

5 川路太郎(かわじ たろう)

 生年:2505(1845)年1月28日(弘化元年12月21日)、40歳

 出生:武蔵国江戸番町冬青木坂上(東京都)

 学歴:蕃書調所、昌平黌、横浜仏語伝習所、英国留学

 官職:文部省参事官

 前職:幕府大蔵局、文部省初等教育局長。

 特記:男爵。川路聖謨の孫。

    留任

農商務大臣

4 田辺太一(たなべ たいち(やすかず))

 生年:2491(1831)年10月21日(天保2年9月16日)、54歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所

 官職:特命全権公使

 前職:江戸幕府甲府徽典館教授、外国方書物方出役、外国奉行支配組頭、駐仏公使館書記官、駐仏公使、外務大臣

 特記:幕臣田辺誨輔(石庵)の次男

    男爵

    留任

逓信大臣

1 榎本武揚(えのもと たけあき)

 生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、49歳

 出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了

 官職:海軍少将

 前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、農商務大臣

 特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男

    男爵

    留任

内閣書記官長

6 川勝広道(かわかつ ひろみち)

 生年:2470(1830)年7月18日(天保元年「5月28日」)、56歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:

 官職:陸軍少将

 前職:江戸幕府書院番兼講武所砲術教授方出役、歩兵頭並、外国奉行、外務副総裁、開成所総奉行

 特記:

法制局長官

4 福岡孝弟(ふくおか たかちか)

( ~2546(明治19・1886)年12月18日免)

 生年:2495(1835)年3月3日(天保6年2月5日)、39歳

 出生:土佐国高知城下弘小路(高知県高知市)

 学歴:吉田東洋門下生

 官職:

 前職:土佐藩士/太政官刑部省出仕、幕府司法局出向、内閣法制局第一部長

 特記:男爵

5 吉田賢輔(よしだ けんすけ)

(2546(明治19・1886)年12月18日任~ )

 生年:2498(1838)年1月12日(天保9年「10月19日」)、48歳

 出生:武蔵国江戸下谷向原柳御徒町(東京都)

 学歴:

 官職:

 前職:江戸幕府蕃書調所筆記方出仕兼取締、外国奉行支配書記、同支配調役並、儒者勤方、慶應義塾塾長兼教授

 特記:幕府徒士・吉田定八郎の子。

 

 

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7代 第二次小栗忠順内閣 (2547(明治20・1887)年8月27日~2549(明治22・1889)年11月25日)

▽来歴・概要

 在職日数、822日。第一次、第二次通算、1903日。

 第二次小栗内閣の重要課題は憲法制定である。明治21年4月、枢密院が設置され、憲法審議が始まった。枢密院議長には憲法草案の作成に尽力した伊藤博文が就任し、議事をリードした。首相に小栗、内大臣に大久保利通の体制で憲法審議が行われた。”詳細は「帝國憲法制定審議経過」を参照”

 地方制度の整備という観点からは、この内閣で一定の完成を見た。それが、「市制町村制(明治21年4月25日法律第1号)」である。基礎自治体としての「市町村」制度が確立し、都市の市と地方の町村で、自治体組織に差異が設けられた。市には市参事会と言う市会よりも小規模な副議決機関が存在し、その構成員は市役所の職員が多数を握っていた。また、町村会においては、町村長が町村議会の議長を兼任する事例も多く存在した。このように地方自治という点では不十分な面もあったが、地方自治の萌芽は着実に根を張っていった。

 対外政策では、領事裁判権を規定せず、関税自主権を定めた初の非アジア国との平等条約である日墨修好通商条約の締結が顕著な功績として挙げられる。駐米公使の陸奥宗光が締結した。

 メキシコ以外の国々とも条約改正の交渉を続けていた。この陣頭指揮に当たっていたのが、子爵大隈重信外務大臣である。明治十六年の政変によって下野した大隈は、その後立憲改進党の設立や東京専門学校の創設などの活躍で一定の存在感を見せ続け、経済界や教育界に顔が聞き、海外でも知られた顔となっていた。小栗は、大隈を説得し、大久保利通との間にも和解をさせた上で彼を外務大臣に就任させた。条約改正問題にあたった大隈が、條約改正の草案として提出したのが、外国人司法官の任用である。日本国籍を取得した外国人を判事に採用することを条件にして、領事裁判権の撤廃に動こうとしたが、これに対する抵抗が激しく、ついには大隈に対する爆弾テロが発生するに至った。現役閣僚に対するテロ事件に対する責任を取って小栗は退陣した。

▽在任中の主な出来事

・日本標準時の制定

・枢密院設置

・海軍兵学校が江田島へ移転

・宮城宮殿落成

・日墨修好通商条約締結(明治21年11月30日)

・大日本帝國憲法、皇室典範、衆議院議員選挙法

・子爵大隈重信外相遭難事件(明治22年10月18日)

▽内閣の出した主な法令

・市制町村制制定

・枢密院官制及枢密院事務規程制定

・徴兵令改正

・大日本帝國憲法公布

・皇室典範制定

・衆議院議員選挙法制定

▽内閣の対応した帝國議会

・帝國議会設置前

▽内閣閣僚

内閣総理大臣

7 小栗忠順(おぐり ただまさ)

 生年:2487(1827)年7月16日(文政10年6月23日)、60歳

 出生:武蔵国江戸駿河台(東京都)

 学歴:

 官職:元老院議官/従五位下・豊後守、上野介

 前職:江戸幕府外国奉行、勘定奉行、歩兵奉行、軍艦奉行、若年寄

 特記:旗本小栗忠高の子。三河小栗氏第12代当主。

    男爵→子爵(帝國憲法制定の功)

    外務大臣臨時兼任

外務大臣

5 井上馨(いのうえ かおる)

( ~2548(明治21・1888年7月4日免)

 生年:2496(1836)年1月16日(天保6年11月28日)、51歳

 出生:周防国吉敷郡湯田村(山口市湯田温泉二丁目)

 学歴:長州藩校明倫館

 官職:

 前職:長州藩士/太政官大蔵省出仕、幕府大蔵局出向、内務局、内務奉行並、工務奉行、外務奉行、外務次官

 特記:初入閣

    外国人司法官任用問題で辞職

6 大隈重信(おおくま しげのぶ)

(2548(明治21・1888年7月4日任~ )

 生年:2498(1838)年3月11日(天保9年2月16日)、50歳

 出生:肥前国佐賀郡佐賀城下会所小路(佐賀県佐賀市水ヶ江町)

 学歴:佐賀藩校弘道館

 官職:

 前職:佐賀藩士/太政官治部省出仕、幕府外務局出向、大蔵局転任、大蔵奉行、大蔵次官、大蔵大臣

 特記:

臨  小栗忠順(おぐり ただまさ)

(2549(明治22・1889)年10月18日兼~ )

 生年:2487(1827)年7月16日(文政10年6月23日)、60歳

 出生:武蔵国江戸駿河台(東京都)

 学歴:

 官職:元老院議官/従五位下・豊後守、上野介

 前職:江戸幕府外国奉行、勘定奉行、歩兵奉行、軍艦奉行、若年寄

 特記:旗本小栗忠高の子。三河小栗氏第12代当主。

    男爵→子爵(帝國憲法制定の功)

    内閣総理大臣臨時兼任

内務大臣

6 山縣有朋(やまがた ありとも)

 生年:2498(1838)年6月14日(天保9年閏4月22日)、49歳

 出生:長門国阿武郡川島村(山口県萩市川島)

 学歴:松下村塾

 官職:陸軍少将

 前職:長州藩士/太政官兵部省出仕、幕府陸軍局出向

 特記:留任

大蔵大臣

7 芳川顕正(よしかわ あきまさ)

 生年:2502(1842)年1月21日(天保12年12月10日)、45歳

 出生:阿波国麻植郡山川町(徳島県吉野川市)

 学歴:

 官職:

 前職:徳島藩士/江戸幕府大蔵局出仕、内務局転任、内務次官

 特記:初入閣

陸軍大臣

4 大村益次郎(おおむら ますじろう)

( ~2549(明治22・1889)年3月1日免)

 生年:2485(1825)年6月18日(文政8年5月3日)、62歳

 出生:周防国吉敷郡鋳銭司村字大村(山口県山口市鋳銭司)

 学歴:適塾

 官職:陸軍大将

 前職:長州藩士/太政官兵部省出仕、幕府陸軍局出向、陸軍奉行、陸軍参謀本部長

 特記:初入閣、男爵

5 大鳥圭介(おおとり けいすけ)

(2549(明治22・1889)年3月1日任~ )

 生年:2493(1833)年4月14日(天保4年2月25日)、54歳

 出生:播磨国細念村小字石戸(兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙字石戸)

 学歴:閑谷学校、適塾、江川塾、ジョン万次郎門下生

 官職:陸軍中将

 前職:長州藩士/江戸幕府陸軍局出仕、歩兵奉行、開拓使転出、内務省工部大学校校長、陸軍参謀本部高級部員、陸軍参謀次長、陸軍次官

 特記:初入閣、男爵

海軍大臣

3 矢田堀鴻(やたぼり こう)

( ~2548(明治21・1888)年5月23日免)

 生年:2490(1830)年1月12日(文政12年「12月18日」)、57歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所

 官職:海軍大将/讃岐守

 前職:江戸幕府軍艦奉行並、海軍総裁、沼津兵学校校長、海軍兵学校校長、海軍教育部長、海軍省教育本部長

 特記:幕府小普請方、荒井精兵衛の三男。小普請方、矢田堀又蔵の養子。

    男爵

    留任

    病気療養の為辞任

4 榎本武揚(えのもと たけあき)

(2548(明治21・1888)年5月23日任~ )

 生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、51歳

 出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了

 官職:海軍少将

 前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、農商務大臣

 特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男

    男爵

司法大臣

5 山田顕義(やまだ あきよし)

 生年:2504(1844)年11月18日(天保15年10月9日)、43歳

 出生:長門国阿武郡椿郷東分(山口県萩市)

 学歴:長州藩校明倫館、松下村塾

 官職:陸軍大佐

 前職:長州藩士/太政官兵部省出仕、幕府陸軍局出向、司法局転任、司法大臣

 特記:

文部大臣

6 池田長発(いけだ ながおき)

 生年:2497(1837)年8月23日(天保8年7月23日)、50歳

 出生:武蔵国江戸浜御殿役宅(東京都)

 学歴:昌平黌

 官職:元老院議官/従五位下、筑後守

 前職:江戸幕府目付、火付盗賊改、京都町奉行、外国奉行、軍艦奉行並、文部奉行

 特記:旗本池田長休の四男。備中国井原領主(1200石)旗本池田長溥養嗣子。

    男爵

農商務大臣

4 田辺太一(たなべ たいち(やすかず))

 生年:2491(1831)年10月21日(天保2年9月16日)、55歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所

 官職:特命全権公使

 前職:江戸幕府甲府徽典館教授、外国方書物方出役、外国奉行支配組頭、駐仏公使館書記官、駐仏公使、外務大臣

 特記:幕臣田辺誨輔(石庵)の次男

    男爵

    留任

逓信大臣

1 榎本武揚(えのもと たけあき)

( ~2548(明治21・1888)年5月23日免)

 生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、49歳

 出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了

 官職:海軍少将

 前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、農商務大臣

 特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男

    男爵

    留任

2 井上馨(いのうえ かおる)

( ~2548(明治21・1888)年5月23日免)

 生年:2496(1836)年1月16日(天保6年11月28日)、51歳

 出生:周防国吉敷郡湯田村(山口市湯田温泉二丁目)

 学歴:長州藩校明倫館

 官職:

 前職:長州藩士/太政官大蔵省出仕、幕府大蔵局出向、内務局、内務奉行並、工務奉行、外務奉行、外務次官

 特記:

内閣書記官長

6 細谷安太郎(ほそや やすたろう)

 生年:2511(1851)年4月27日(嘉永4年3月26日)、36歳

 出生:武蔵国江戸(東京都)

 学歴:横浜仏語伝習所

 官職:予備役陸軍砲兵大佐

 前職:江戸幕府陸軍砲兵差図役(砲兵中尉)、陸軍局教育部砲兵課長、内務局転任、工務局長

 特記:

法制局長官

5 吉田賢輔(よしだ けんすけ)

( ~2548(明治21・1888)年4月20日免)

 生年:2498(1838)年1月12日(天保9年「10月19日」)、49歳

 出生:武蔵国江戸下谷向原柳御徒町(東京都)

 学歴:

 官職:

 前職:江戸幕府蕃書調所筆記方出仕兼取締、外国奉行支配書記、同支配調役並、儒者勤方、慶應義塾塾長兼教授

 特記:幕府徒士・吉田定八郎の子。

6 井上毅(いのうえ こわし)

(2548(明治21・1888)年4月20日任~ )

 生年:2504(1844)年2月6日(天保14年12月18日)、40歳

 出生:肥後国熊本城下坪井町(熊本県熊本市中央区坪井)

 学歴:必由堂、熊本藩校時習館、横浜仏語伝習所

 官職:枢密院書記官兼任

 前職:熊本藩士/太政官大蔵省出仕、幕府司法局出向、内閣書記官、制度取調局

 特記:

 

 

 ―――――

8代 第一次伊藤博文内閣 (2549(明治22・1889)年11月25日~2551(明治24・1891)年5月6日)

▽来歴・概要

 元長州藩士。枢密院議長。男爵。後日、帝國憲法制定の功により子爵に陞爵。

 憲法についての第一人者を自認していた伊藤博文は、憲法発布後精力的に議会対策に動いていた。首相就任後もその動きは変わらず、大隈率いる立憲改進党の幹部との間には閣外協力協定を結ぶことに成功した。徳川慶喜からの内命を受けた小栗は、元老院議員、次いで貴族院の勅撰議員という身軽な立場から関東地方において演説に行脚した。

 2550(明治23・1890)年7月1日、十分な根回しの下第1回衆議院議員総選挙が施行された。議会第一党となったのは、旧自由党系の大同倶楽部であり、全300議席中54議席を得た。第二党は大隈率いる立憲改進党で43議席であった。自由党土佐派と言われた板垣退助の直系は、愛国公党を結成し、第三党の36議席を得た。どの政党も過半数を得ることは無かったが、旧自由党系は最終的に合同して立憲自由党を結党し、130議席の大所帯となり、議会第一党となった。一方で政府側は、表向きは超然主義的な思想の潮流からは決別できず、公然と議会内の多数派工作を行うことができなかった。伊藤と大隈の合意により立憲改進党はが完全な野党勢力とはならず、小栗による政府支持の議員による院内会派の創設(大成会)によって、政府の方針に少なくとも大枠では反対しないという議員が少なくとも120名程度は確保でき、無所属議員の動向次第で拮抗する政治状況を作り出すことができた。

 2550(明治23・1890)年11月29日に開院式を迎えた第1回帝国議会は、今日においては、欧米諸国に対して、アジアの国が議会政治を行えるということを見せつけるための儀式的な部分があったと伝えられるが、その内実は多分な緊張を含んでいた。自由党側は「政費節減、民力休養」を掲げ、政府側の提出した予算案に対して、その1割を削減すべきと主張した。

 多数派工作を進展させる民党に対して政府側は、自由党の領袖たる板垣退助とその直系に対して妥協を求めた。自由民権運動を経て、過激な行動によって反政府運動をしていた者と同じ政党に属していたが、板垣は元々明治六年政変が勃発するまで政府に出仕していた。欧米諸国からの視線を彼もまた感じており、アジア諸国の中で強国となるためには、政府の主張する海軍力の拡充の必要性も認めていた。ここに、「土佐派の裏切り」と後年呼ばれる政府と民党の妥協が図られることとなった。

 伊藤博文は第一議会を大きな混乱なく終わらたが、政府内部において、議会勢力との協調の必要性を強く認識した。この認識は後年の立憲政友会の結党の動きに繋がっていく。しかしながら、政府内部には、政党に対する忌避感が強かった。政党政治は、代議士が一部の支持者の言いなりになって動き、帝国全体の統治のためには欠陥が多いと考える者が多かった。この政府内部での路線の対立と議会対策の疲れから伊藤は辞意を固め、明治24年5月6日山縣有朋内閣が成立した。

▽在任中の主な出来事

・嘉仁親王立太子礼

・第1回衆議院議員総選挙

・元老院廃止

・第1回帝国議会(通常会)

▽内閣の出した主な法令

・民事訴訟法・商法・刑事訴訟法制定

・『教育ニ関スル勅語』(教育勅語)発布

・度量衡法制定

▽内閣の対応した帝國議会

第1回衆議院議員総選挙

 改選数:300

 投票日:2550(明治23・1890)年7月1日

 選挙制度:小選挙区制(一部2人区制)

 実施地域:45府県(北海道、沖縄県、小笠原諸島を除く)

 選挙権:

  直接国税15円以上納税の満25歳以上の日本国民男性

下記の者は権利の適用除外

   華族の当主、現役軍人

   禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人

 被選挙権:

  直接国税15円以上納税の満30歳以上の日本国民男性

下記の者は権利の適用除外

   華族の当主、現役軍人

   禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人

   宮内官、裁判官、会計検査官、収税官、警察官

   管轄区内の府県郡官吏

   各選挙区の市町村選挙管理担当吏員

   神官、僧侶、教師

 選挙結果:

  立憲自由党

   前回選挙:

   選挙直前:

   獲得議席:130

  大成会

   前回選挙:

   選挙直前:

   獲得議席:79

  立憲改進党

   前回選挙:

   選挙直前:

   獲得議席:41

  国民自由党

   前回選挙:

   選挙直前:

   獲得議席:5

  無所属

   前回選挙:

   選挙直前:

   獲得議席:45

第1回帝國議會・通常会

日程

 召集:2550(明治23・1890)年10月 9日(官報公示10日)

 集会:2550(明治23・1890)年11月25日

 開会:2550(明治23・1890)年11月29日

 閉会:2551(明治24・1891)年 3月 7日

 会期:90日、延長9日、計99日

議院役員

貴族院議長

1 小栗忠順(おぐり ただまさ)

 就任:2550(明治23・1890)年10月24日

 退任:

 生年:2487(1827)年7月16日(文政10年6月23日)、63歳

 出生:武蔵国江戸駿河台(東京都)

 学歴:

 官職:貴族院議員・華族議員(伯爵・1期・無所属)

 前職:

  江戸幕府外国奉行、勘定奉行、歩兵奉行、軍艦奉行、若年寄

  法制局長官(1)、内閣書記官長(2)、内務大臣(3)、内閣総理大臣(4、7)

 特記:旗本小栗忠高の子。三河小栗氏第12代当主。

    永年の功績、帝國議会開設の功により伯爵陞爵

貴族院副議長

1 東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)

 就任:2550(明治23・1890)年10月24日

 退任:2551(明治24・1891)年8月1日(議員辞職)

 生年:2494(1834)年1月1日(天保4年11月22日)、56歳

 出生:山城国京都(京都府京都市)

 学歴:

 官職:貴族院議員・華族議員(子爵・1期・無所属)

 前職:開拓長官、侍従長、元老院議官、枢密顧問官

 特記:子爵・羽林家

衆議院議長

1 中島信行(なかじま のぶゆき)

 就任:2550(明治23・1890)年11月26日

 退任:

 生年:2506(1846)年10月5日(弘化3年8月15日)、44歳

 出生:土佐国高岡郡塚地村(高知県土佐市塚地)

 学歴:

 官職:衆議院議員(神奈川県第5区)

 会派:立憲自由党

 回数:1回(1期)

 前職:元土佐藩士/幕府通商司出仕、神奈川県令、元老院議官

 特記:

衆議院副議長

1 津田真道(つだ まみち)

 就任:2550(明治23・1890)年11月26日

 退任:

 生年:2489(1829)年6月25日(文政12年7月25日)、61歳

 出生:美作国津山藩上之町(岡山県津山市)

 学歴:オランダ・ライデン大学

 官職:衆議院議員(東京府第8区)

 会派;大成会

 回数:1回(1期)

 前職:江戸幕府蕃書調所、騎兵差図役頭取、目付、司法奉行、司法大臣(1)、元老院議官

 特記:

▽内閣閣僚

内閣総理大臣

8 伊藤博文(いとう ひろぶみ)

 生年:2401(1841)年10月16日(天保12年9月2日)、48歳

 出生:周防国熊毛郡束荷村(山口県光市束荷)

 学歴:松下村塾

 官職:貴族院議員(勅選)

 前職:長州藩士/幕府内務局出仕、内務奉行並、工務奉行、農商務大臣、枢密院議長

 特記:実父は農民。

    帝國憲法制定の功により男爵

外務大臣

7 杉浦譲(すぎうら ゆずる)

( ~2550(明治25・1891年2月6日免)

 生年:2490(1835)年11月15日(天保6年9月25日)、54歳

 出生:甲斐国山梨郡府中(山梨県甲府市)

 学歴:徽典館

 官職:特命全権公使、元老院議官

 前職:江戸幕府甲府徽典館助教授、外国奉行支配書物出役、同調役、外国奉行支配組頭、駐仏公使館書記官、駐蘭公使、外務次官、外務大臣

 特記:男爵、再入閣、病気療養の為辞任

8 榎本武揚(えのもと たけあき)

(2550(明治25・1891年2月6日任~ )

 生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、54歳

 出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了

 官職:海軍中将→海軍大将

 前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、農商務大臣

 特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男

    男爵

    留任

内務大臣

6 山縣有朋(やまがた ありとも)

 生年:2498(1838)年6月14日(天保9年閏4月22日)、51歳

 出生:長門国阿武郡川島村(山口県萩市川島)

 学歴:松下村塾

 官職:陸軍少将

 前職:長州藩士/太政官兵部省出仕、幕府陸軍局出向

 特記:留任

大蔵大臣

7 日下部太郎(くさかべ たろう)

 生年:2505(1845)年7月10日(弘化2年6月6日)、44歳

 出生:越前国福井城下江戸町(福井市宝永四丁目)

 学歴:米ラトガース大学科学校

 官職:

 前職:福井藩士/江戸幕府大蔵局出仕、主計部長、大蔵次官

 特記:初入閣

陸軍大臣

5 大鳥圭介(おおとり けいすけ)

 生年:2493(1833)年4月14日(天保4年2月25日)、56歳

 出生:播磨国細念村小字石戸(兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙字石戸)

 学歴:閑谷学校、適塾、江川塾、ジョン万次郎門下生

 官職:陸軍中将→陸軍大将

 前職:長州藩士/江戸幕府陸軍局出仕、歩兵奉行、開拓使転出、内務省工部大学校校長、陸軍参謀本部高級部員、陸軍参謀次長、陸軍次官

 特記:男爵

    留任

海軍大臣

4 榎本武揚(えのもと たけあき)

( ~2550(明治25・1891年2月6日免)

 生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、53歳

 出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)

 学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了

 官職:海軍中将→海軍大将

 前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、農商務大臣

 特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男

    男爵

    留任

5 西郷従道(さいごう じゅうどう/つぐみち)

(2550(明治25・1891)年2月6日任~ )

 生年:2503(1843)年6月1日(天保14年5月4日)、46歳

 出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市加治屋町)

 学歴:

 官職:海軍中将

 前職:薩摩藩士/江戸幕府陸軍局出仕、歩兵奉行、開拓使転出、内務省工部大学校校長、陸軍参謀本部高級部員、陸軍参謀次長、陸軍次官

 特記:男爵

    初入閣

司法大臣

5 山田顕義(やまだ あきよし)

 生年:2504(1844)年11月18日(天保15年10月9日)、43歳

 出生:長門国阿武郡椿郷東分(山口県萩市)

 学歴:長州藩校明倫館、松下村塾

 官職:陸軍大佐

 前職:長州藩士/太政官兵部省出仕、幕府陸軍局出向、司法局転任、司法大臣

 特記:

文部大臣

7 川路太郎(かわじ たろう)

 生年:2505(1845)年1月28日(弘化元年12月21日)、44歳

 出生:武蔵国江戸番町冬青木坂上(東京都)

 学歴:蕃書調所、昌平黌、横浜仏語伝習所、英国留学

 官職:文部省高等教育局長兼参事官

 前職:幕府大蔵局、文部省初等教育局長。第5代文部大臣。

 特記:男爵。川路聖謨の孫。

    再入閣

農商務大臣

5 井上馨(いのうえ かおる)

( ~2550(明治23・1890)年5月17日免)

 生年:2496(1836)年1月16日(天保6年11月28日)、51歳

 出生:周防国吉敷郡湯田村(山口市湯田温泉二丁目)

 学歴:長州藩校明倫館

 官職:

 前職:長州藩士/太政官大蔵省出仕、幕府大蔵局出向、内務局、内務奉行並、工務奉行、外務奉行、外務次官

 特記:議会対策の為自由党の陸奥宗光に入閣要請の為

6 陸奥宗光(むつ むねみつ)

(2550(明治23・1890)年5月17日任~ )

 生年:2504(1844)年8月20日(天保15年7月7日)、51歳

 出生:紀伊国和歌山(和歌山県和歌山市吹上三丁目)

 学歴:神戸海軍操練所

 官職:衆議院議員(和歌山県第1区)

 前職:紀州藩士/太政官大蔵省出仕、外務局出仕、駐米公使

 特記:初入閣

逓信大臣

3 後藤象二郎(ごとう しょうじろう)

 生年:2498(1838)年4月13日(天保9年3月19日)、51歳

 出生:土佐国高知城下片町(高知県高知市)

 学歴:吉田東洋門下生、開成所

 官職:民間

 前職:土佐藩士/太政官大蔵省出仕、幕府内務局出向後退官。自由党幹部。

 特記:男爵。初入閣。大同団結運動の指導者。

内閣書記官長

8 丹羽賢(にわ まさる)

 生年:2506(1846)年6月26日(弘化3年閏5月3日)、41歳

 出生:尾張国名古屋(愛知県名古屋市)

 学歴:昌平黌

 官職:勅任判事

 前職:司法局出仕、民事部長

 特記:

法制局長官

6 井上毅(いのうえ こわし)

 生年:2504(1844)年2月6日(天保14年12月18日)、40歳

 出生:肥後国熊本城下坪井町(熊本県熊本市中央区坪井)

 学歴:必由堂、熊本藩校時習館、横浜仏語伝習所

 官職:枢密院書記官兼任

 前職:熊本藩士/太政官大蔵省出仕、幕府司法局出向、内閣書記官、制度取調局

 特記:

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