大日本帝国九州地方にある地方自治体長崎県。江戸時代には「出島」が置かれたことから海外との交易の玄関口として栄え、幕末には、函館、神奈川、兵庫、新潟と並んで開港場として指定された。明治以降においても、日本有数の貿易港として栄え、かの有名な三菱重工業長崎造船所が存在するなど造船業が主産業となっている。
九州地方における長崎県の地位は、人口最多で師団司令部を有する福岡市、師団司令部を有する北九州市、久留米市などを有する福岡県や勅令指定都市であり師団司令部を有する熊本市を有する熊本県、鹿児島県に次いで四番目の人口を有している。一見すると中規模の県ではあるが、長崎県は全国的にもまれな控訴審裁判所が設置されている県である。それが長崎控訴院である。かつて清国などに対して、領事裁判権を有していたころ、現地の領事が下した裁判の控訴審は、長崎控訴院において行われた。この名残で九州地方の控訴審裁判所は長崎県に本院が置かれているが、実際長崎控訴院が担任する地域は長崎県のみであり、福岡県、佐賀県、大分県、熊本県は福岡分院が、宮崎県、鹿児島県は宮崎分院が、沖縄県は那覇分院が控訴審を行っている。
その長崎県の五島列島の西に位置するフェン王国は、日本から一番近い外国ということで、国外旅行先として人気がある。なかでもフェン王国の西部に位置する都市ニシノミヤコは、風光明媚な景観を持つ海岸線を目当てに首都アマノキ以上の観光客が尋ねてきている。
7月末に満洲国南西部からフェン王国にかけて発生した大規模な通信障害は、8月頭に魔力嵐という災害によるものという可能性が発信された。大地の魔力が不安定になることで発生すると言われている魔力嵐、すなわち魔法に関わる現象が、電子機器類という科学に関わるものに干渉するのかという疑義は当然に生じた。とはいえ、満洲電信電話公社では、今の時点で議論の余地は認めるものの、ひとまずは、高出力の電波を発信する設備をフェン王国に置くことが必要であると結論付けた。高層の電波塔を作り、そこから出力の大きな電波を発することで、通信の安定を図ろうとしたのである。
だがこの動きはニシノミヤコ周辺で映画撮影を計画していた日本の映画製作会社東宝からの横槍で頓挫する。
満洲電電の動きを察知した東宝は、巨大な電波塔が映画撮影時にカメラに移りこむと、映画の雰囲気を損なうと判断し、満洲電電公社へ電波塔建設の中止又は延期の申し立てを行うにいたった。日本人観光客のみならず、日系満洲人もフェンには旅行しているものがいたことから、通信網の整備は重要な国家事業の一つであると考えた満洲電電側は日本電電公社と協議を行い、両公社主導での計画の続行を検討していた。しかし、東宝は奉天映画と制作委員会協定締結を進め、且政界にも顔が利く白沢勝英・汪清惇の両監督陣もこの動きに加わった。
官界においては、通信・通話を扱う官庁は、満洲国では国務院民政部が主管する。日本国においては逓信省がこれに該当するが、逓信省は「内務省の植民地」と言われるほど、内務省の影響の強い官庁である。一方の映画行政を扱う官庁は満洲国では国務院文教部、日本国では文部省である。両官庁の力関係では民政部・逓信省(内務省)に軍配が上がる。しかも、転移以来国家が注力している通信網の整備は国家事業でもある。フェンにおける通信網の整備は、粛々として進むはずであった。しかし、これに政界や芸術界が絡むとなると話はやや変わってくる。映画界の至宝として評され、数度の受勲歴・受賞歴のある白沢氏の声は政界において重きが置かれる。
日本の帝国議会における映画議員連盟に加入する衆議院議員が国会会期中に文部委員会においてこう話した。曰く、満洲の学会において発表された説はまだ仮説の段階であるという、ならば、もうちょっと詳しく調査した後ででもいいんじゃないかと。この動きに貴族院の華族議員の多くも同調した。華族議員、特に公侯爵の非互選議員は、文化振興に積極的である。白沢監督が言っているのなら、まあ様子を見ようじゃないかという意見が貴族院文教委員会での大勢を占め、内務省へ忖度を求めるようになった。負けじと満洲国帝國議会においても異世界転移後初の海外撮影。文化史的にも貴重な作品となることは間違いない。監督陣の意向を考慮に入れようではないかと言う声が大きくなっていった。
斯くして、電電公社側は、計画の見直しを求められるに至り、鉄製の高層で頑丈な造りのものではなく、フェン王国の現地の実情に沿った方の木造の電波塔が建設されるに至ったのである。
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ニシノミヤコの中心部から外れた地域の飲み屋兼宿屋に一人の客が訪れる。男がここに来るのは、また片手で数えるほどしかなかったが、行商が目的であるという。店の主人は、最近この近くの酒蔵で売り出された酒を男に提供した。
「ふう。ご主人、この酒だが、やはり高い値段で売れたぞ。」
「ほう、そうか。最近じゃいろんなとこから買いに来る人間が増えたからな。うちで扱う量を確保するのも難しくなってきたが、そうか、やはり高い評価を受けたのだな。」
酒屋の主人は感慨深いと言ったような顔を浮かべて、酒樽から酒を酌み、自分も飲み干した。
「シオスの貿易商仲間の間では、噂になっている。どこの銘柄なのかってな。この酒を卸した私は当然質問攻めにあった。もちろん、買い付け先はしゃべっちゃないけどな。たんまり儲けた軍資金を持ってもう一度買い付けに来たのだがな~。目当ての酒は日本人がたくさん買い占めたっていうじゃないか。何か別の商売を見つけなきゃいかんな。」
「とは言ってもなあ、このナーダ村の特産品なんて、あの酒くらいしかないぞ。しかもだ、これまでは、酒樽の造りも粗雑なものだったから、遠方への運送なんてできなかった。この周辺でしか飲めなかったんだ。今年になって、しっかりとした造りの酒樽ができたことで、お前さんのような行商人が買うことができるようになった。うん、やっぱり、この村の売り物なんてあの酒くらいしかないぞ。」
「ふー・・。そうなのか・・・。参ったな。軍資金は充分に持ってきたんだがな。」
行商人を名乗る男は、テーブルにおいたフェンの金貨の詰まった袋を指でつつきながら、溜息を吐く。気の毒そうに思った飲み屋の主人は、ニシノミヤコの方に行けば何か別の売り出し物が見つかるかもしれんと助言をした。だが、行商人の男は首を振る。
「ニシノミヤコでは、旅行に来ている日本人が多くてな、あいつらは金持ちばかりだ。めぼしいものはとっくに買われちまっている。」
「・・・。皮肉なもんだな、お前さんがこないだ稼げたのは、その日本人のおかげだっていうのにな。」
「全くだ・・・。時に、御主人。あの丘の上の櫓は一体何だい。えらい背の高い建物だが。」
行商人の男は、窓の外に目を向けて、指差しながら問い掛けた。指の先には、高さ25メートルくらいの木造の塔が建っていた。
「ああ、あれは、今お前さんが話していた日本人や満洲人が建てたものでな、なんでも電波塔というそうだ。」
「電波塔・・・。それって、魔信のための建物ってことか?」
男の質問に、主人はカラカラと笑いながら答えた。
「俺らフェン人には電波っていうのも魔信っていうの両方よくわからんが、なんでも遠くの人間と、それもアマノキにいる人間なんかと会話することができるようにするための建物らしいな。」
「ふむ・・・。」
男は思案した。今の飲み屋の主人との会話で、あの建物が自分たちでいうところの魔信の送受信設備であるということを理解した男は、自分の中の常識では、あの塔には点検整備のための人間が駐在しているであろうということを推測した。そして、それを尋ねたところ、その推測は確かにあたっていた。
「ああ、昼夜交代で番人がいるらしいな。夜になれば、非番の者は村に降りてきて、うちに一杯やりに来たり食事をしに来る人もいるぞ。」
「飯を食いに村まで戻って来るのか。だが、夜の商売なんてこの村じゃあんまり。」
「ああ、だが、日本人や満洲人は金払いが良いからな。わざわざ自分たちで飯を作るよりも、此処まで食べに来る方がいいとのことだ。それに彼らは自動車を持っているからな。簡単にここまで移動してこれるんだとさ。」
「日本人の妻は夫の飯を準備しないのか?」
「ん?ああ、いや彼らは妻子を連れて、ここにきてはいないんだ。なんでも単身赴任だといっていたな。」
「なるほど。それじゃ、朝と昼はどうしているんだ?」
「それがな、なんでも、保存食があってそれを食べているらしい。仕事中は、あの塔のある所から離れられんらしいのだ。」
男は再び思案した。そして、電波塔に自然に近づくことができる方法を思いついた。
「なあ、御主人。ちょっとした金儲けになるかもしれん。一枚かまないか?」
「ほう、なんだい。」
「丘の上の連中の為に、弁当や酒を売るってのはどうだ?あの連中は普段は丘の上に住んでいるんだろ。なら、そこまで弁当や酒、あるいはその他必要なものを仕入れて売りにいけば、結構な稼ぎになるとは思わないか。売るのは俺がやるから、御主人は弁当を作る手伝いをしてもらえばいい。原価を除いた売り上げは折半しよう。」
「ほう。」
店の主人は目を細めた。
「どのみち、酒が手に入らない状況じゃ商売あがったりだ。だが、その酒は増産が掛かったというじゃないか。なら、この先仕入れるチャンスはある。そこでだ、俺はその時に仕入れる量を少しでも増やしておきたい。そのためには、丘の上の日本人や満洲人を相手に商売をして、元手を増やそうと思う。ご主人の競合にならんように、俺の商売は朝と昼だ。夜はこれまで通り、彼らが降りてくるのを待てばいいだろう。」
「だが、半分も儲けをもらっていいのかね?」
「何、弁当作りとなれば、御主人の奥さんにも手を貸してもらう必要があるだろう。半分のもうけを俺は1人でとる。ご主人は細君と2人で稼ぐことになる。実質的には御主人の取り分は4分の1だ。」
「なるほどな。」
「で、どうだ?」
「うむ。乗った。」
男はほくそ笑んだ。日本人と満洲人の魔信設備を確認する機会ができたと考えたのだ。