大日本帝國召喚   作:もなもろ

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感想欄でご質問いただきました件です。またしても解説本形式です。
史実では、ピョートル2世に子供はいません。結婚式当日に亡くなったそうです。


後田正則『ポーランド分割』(巌浪書店、平成25年、巌浪新書356)

ロシア革命とヴォストークニィ=ロマノフ家

 欧州大戦中に勃発したロシア革命は、ロシア皇帝政府を打倒し、社会主義政権を打ち立てた。社会主義思想の自国への波及を恐れた日本国は、その拡大を抑止すべくシベリアへ軍を派遣した。シベリアには、東方大公と称されたロマノフ王朝の一族がいた。それが、現在のロシア皇帝一族である、ヴォストークニィ=ロマノフ家である。

 ヴォストークニィ=ロマノフ家の家祖は、第3代ロシア皇帝ピョートル2世と皇妃エカチェリーナ・アレクセーエヴナ・ドルゴルーコヴァの嫡子であるクライス・ペトローヴィチ・ヴォストークニィである。皇帝ピョートル2世は1730年に15歳の若さで崩御するが、崩御前に皇妃エカチェリーナとの間に子を儲けた。ピョートル2世の死後、エカチェリーナ自身も懐妊したとは知らず、最高枢密院内で実権を握っていたヴァシーリー・ルキーチ・ドルゴルーコフ公は外戚として、エカチェリーナを女帝に据えようと画策するも、ロシア貴族の多数はピョートル1世の異母兄イヴァン5世の四女アンナを女帝に据えるよう要求した。ヴァシーリーはこの権力闘争に敗れ、最高枢密院から追放された。

 この状況下でエカチェリーナの妊娠が発覚するが、ピョートル2世に子が存在するというのは危険な状況であった。アンナ女帝は最高枢密院を廃止して専制的な政治を開始しており、彼女の対抗馬ともなる先帝の遺児は、存在自体が危険と判断された。エカチェリーナは、ドルゴルーコフ家の一部を伴い、彼らと共にシベリアまで逃避した。シベリアで生誕したクライス・ペトローヴィチは、ヴォストークニィ(ロシア語で「東」)の姓を名乗り、サンクトペテルブルクへの興味を抱かずにシベリアの開発領主として過ごすこととなった。

 単なる遊行ということでサンクトペテルブルクを離れたエカチェリーナの一団が予定を過ぎても帰還しないこととその後のドルゴルーコフ家への捜査で、エカチェリーナが妊娠したことで危険を感じて逃避したことをサンクトペテルブルクの宮廷は確認した。しかし、アンナ女帝の専制政治への反感及び権力闘争を回避して東の果てへ逃げたことで彼女らが戻ってくることは無いと判断され、放置された。彼女らの扱いは「流刑」扱いとして処理された。

 1825年、時のヴォストークニィ家の家長であったアレクセイ・ルティチ・ヴォストークニィが、第11代ロシア皇帝ニコライ1世の戴冠式に招待された。ヴォストークニィ家については、第9代ロシア皇帝パーヴェル1世の時代に母帝エカチェリーナ2世によってシベリアに流刑となっていたアレクサンドル・ラジーシチェフを釈放した際に流刑扱いとなっていたかつての文書が発見され、家の存在が知られることになったが、シベリアの開発領主として代々務めていたことから中央への野心はないと判断され、放置されていた。パーヴェル1世は帝位継承法を成立させ、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・ヴォストークニィに対して、ロシア皇帝位の継承権を認めない代わりに、ヴォストークニィ=ロマノフを名乗ることを許され、東方大公に叙した。その後もヴォストークニィ=ロマノフ家はあくまで開発領主としての地位を守っていた。東方大公家がロシア皇帝位を脅かす存在ではないと認識したニコライ1世は、和解とシベリアの開発強化を意図して、アレクセイ大公を戴冠式に招待した。

 ヴォストークニィ=ロマノフ家は、シベリアで着実な開発を進めるとともに、徐々に軍事力も強化し始めた。1904年に起こった日露戦争においては、当主のアレクサンドル・ヴラジーミロヴィチ・ヴォストークニイ=ロマノフも従軍した。1905年1月25日に起こった黒溝台会戦においては、第二軍オスカル・グリッペンベルク大将の指揮下の部隊としてアレクサンドルは自家の騎兵部隊を率いて参戦し、その陣頭に立った。アレクサンドルはこの攻撃の最中の27日日本軍陣地への突貫攻撃中に戦死した。この英雄的行動に対しては、世間から称賛の声があがり、のちにヴォストークニイ=ロマノフ家が皇帝即位をするうえで大きな支持につながった。

 欧州大戦時のヴォストークニィ=ロマノフ家の家長はミハイル・アレクサンドロヴィチ・ヴォストークニィ=ロマノフという。彼は、自身が動けばトボリスクに幽閉されたニコライ2世一家が殺されてしまうかもしれないという危惧を抱いていた。これを解決したのが日本国である。

 日露戦争で後方攪乱の任務に従事していた明石元二郎陸軍中将は当時熊本第六師団長であった。明石中将は参謀本部の密命を受けて熊本に諜報部隊を設立していた。参謀本部の機密費と德川公爵家を始めとした武家華族が秘密裏に融通した金穀がその財源となり、非正規戦も行う諜報部隊が設立されていた。明石の薫陶を受けた諜報部隊は、1918年4月26日、トボリスクからエカチェリンブルクへと移送される途中で襲撃し、皇帝一家を奪還した。皇帝一家を確保したミハイルは、ロマノフ2世に復位を薦めた。しかし、ロマノフ2世は退位宣言をし、自分にはロシア皇帝として臣民を率いていく力はないとして、ミハイルの即位を薦めた。極東シベリアの地にもロシア革命の混乱は伝わっており、恐怖政治地味た状況が既に始まっていたので、ミハイルはこれを糺すことを目的としてロシア皇帝臨時政府軍を組織した。ここでも日本軍が友軍として参戦し、西へ進軍を開始した。

 

ポーランド=ロシア社会主義ソヴィエト共和国

 ロシア皇帝臨時政府軍と日本軍は共同して各所で赤軍と呼ばれる武装集団を打ち破っていったが、最終的に全面的に駆逐するまでには至らなかった。サンクトペテルブルク奪還を目標に掲げ、そこまでは破竹の勢いで彼らは進軍した。しかし、この内戦による混乱をいち早く解消することが新生ロシア皇帝の指示に繋がるということから、国家経営に注力する必要があった。革命初期は市民の支持を得ていたボリシェヴィキやソヴィエトであったが、徐々に内部闘争や反対派の弾圧などにより指示が薄れていった。彼らを取り込むことが重要であると認識していたロシア皇帝臨時政府軍は、このような後方慰撫の取り組みに注力する必要があったため進撃は徐々に停滞しだした。

 一方で戦線後退を続けるロシア=ソヴィエトは、ポーランド民族主義者と手を組んで、その抵抗を激しくしていった。ロシア皇帝軍はロシア=ソヴィエトに対して決定的な勝利を得ることができず、戦線は膠着していった。そして、ポーランド民族主義者と手を組んだロシア=ソヴィエトはと民族自決の宣言を行い、ポーランド地域の独立を宣言した。

 西進するロシア皇帝臨時政府軍を中央同盟国であるドイツとオーストリアにとっては、敵側の連合国に属するものと理解していた。落ち着いていたはずの東部戦線が騒がしくなってきたかと思えば、すぐそばに中立国家が誕生することになったため、ドイツ・オーストリアは当初困惑とともに東部戦線へ軍を送ることは無いと思っていた。しかし、ドイツは西プロイセンとポーゼンを、オーストリアはガリツィア地方を奪われたことで東部戦線の復活が想起されるようになった。独墺はロシア=ソヴィエトを敵視し、またロシア革命の現状からこれ以上のソヴィエトの勢力伸長を好まず、連合国との間に休戦交渉に入った。この結果生まれたのが、ポーランド=ロシア社会主義ソヴィエト共和国である。

 共和国は、欧州大戦前のロシア、ドイツ、オーストリアの各国にまたがる領域の主権の樹立を宣言していた。先述の通り、ドイツ国におけるプロイセン王国西プロイセン州とポーゼン州の大半を、オーストリアにおけるガリツィア・ロドメイア王国の大半を実行支配下に置き、ロシアにおけるポーランド立憲王国にあたる部分を最終的な領土とした。

 

欧州諸国のポーランドへの対応

 欧州各国(特に欧州列強)は全て君主制国家であり、ロシア革命の惨状を理解していたため、欧州各国はともにポーランド=ロシア社会主義ソヴィエト共和国を危険視し、共和国の存在を認めることはなかった。しかし、中欧に生まれた緩衝地帯の存在はイギリス、フランスにとっても、ドイツの目を東に向けることができると考え、自身への安全保障の観点から、三国による軍事力行使による「解放」には反対した。

 現実問題として存在し続けているポーランドをどうすべきか。発足したばかりの国際連盟において理事会は協議に協議を重ねた。ロシア帝国初代国際連盟大使のチモフェイ・ミローノヴィチ・ソルヤノフは、ソヴィエト掃討には国際社会の一致した協力を願いたいとして、国際連盟憲章に規定されている経済的社会的封鎖に関する既定をポーランド地域に適用するよう議案を提出した。当初ソルヤノフ大使率いるロシア外交団は、ポーランド地域の解放のためには、軍事力の行使も必要であるとみて、国際連盟理事会決議に基づく軍事行動承認決議を引き出そうとしていた。しかし、ロシアと同盟関係(露仏同盟)にあったフランスは、ドイツ国民の目がこの「失地」に向いている以上、対フランスへの報復戦を決意することはないだろうという視点から、ロシアに対してポーランド解放を軍事力を以て行うことに対しては賛成しなかった。イギリスもイタリアも同様に考えていた。日本は当初、皇帝の領土を僣窃した集団に対しては断固たる処置を行わなければ、彼らだけではなく彼らに類する反政府活動家が増長する虞が大であるとしてロシア案を支持していたが、他のヨーロッパ諸国、なかでもイギリスが乗り気でなかったことから彼らとの関係上、経済封鎖措置にとどめ、国交なども樹立させるべきではないとすれば十分に意図は達成できると譲歩した。

 こうして国際連盟理事会は、イギリス、フランス、イタリア、日本、ロシアの五大国の一致を以て、1921年4月に理事会決議第29号を採択した。決議は、ドイツ・オーストリア・ロシアによる「ポーランド地域」への経済的封鎖措置が今後も継続されることを認識し、この措置は国際連盟憲章に違反しないことを確認する趣旨であるとともに、国際連盟加盟国に対して、「ポーランド地域」に対する経済封鎖措置に協力する義務を課した。国際社会に対して、ポーランド地域への経済封鎖の継続を承認させたことに成功したロシアは、「反逆集団僣窃地域に対する布告」を公布し、いわゆるポーランド地域から逃れてきた住民に対して、手厚い保護を行う一方で、ロシア国民へポーランド地域に入境することを禁止した。このような措置は、オーストリアでも、ドイツでも同様にとられた。

 大国の中で国際連盟に不参加であったアメリカは決議を尊重するという声明を発したが、同時に欧州に生まれた共和制国家を歓迎し、秘密裏に共和国を支援していた。アメリカは、「ポーランド地域」を国としては承認しなかったが、ソヴィエト政府に対して「人道交流」ということで度々接触した。このような中でアメリカ企業による武器密輸が発覚した。オーシプ・トロフィーモヴィチ・ホロシロフ駐米ロシア大使(当時)は、アメリカ政府に対して理事会決議の誠実な尊重と国内企業に対する厳重な監視体制の構築を要請した。アメリカ政府は可能な限り努力するとの約束を行ったものの、欧州大戦において急激に膨れ上がった軍需関連企業がその売れ残りを処分することを強制的にやめさせるわけにはいかなかった。アメリカ企業による武器密輸は西太平洋戦争が始まるまで行われ、戦争終結後にアメリカ軍需関連企業が多数倒産又は模を縮小するまで続いた。

 

小康状態の継続

 経済封鎖が行われたポーランド地域では、ロシア=ソヴィエトを中核とする共産党政権が実権を握っていた。世界各国から共産主義者が入境し、その活動を支えていた。もともとロシア=ソヴィエトはロシアとの間の交戦によって敗れたロシアの民族が多く、いずれはロシア本土を奪回することを目標にしていた。一方、人口の多数を占めるポーランド人は、ロシア本土奪還を望んではおらず、このまま独立状態が継続することを望んでいた。国際社会に復帰した、ドイツ・オーストリアも国内の経済の立て直しを第一とするとともに、連盟理事会決議を尊重し、国際連盟理事会の常任理事国となった後は、自己拘束を受けるようになった。

 ポーランド地域の独立状態は長期間継続することとなる。国際連盟を中心とする国際政治の枠組みからの逸脱を諒としないドイツ・オーストリアに次いで、ロシアの姿勢がそれを後押しした。ニコライ2世の後を継いだ第14代ロシア皇帝ミハイルは、ポーランド地域境界付近に大規模な軍を駐屯させるなど強硬姿勢を崩さなかった。

 ミハイルの嫡子である第15代皇帝ルカの治世はロシア立憲主義・民本主義思想の萌芽の時代と言われている。このことは外交政策にも色濃く出ており、ポーランド地域境界からの軍の撤兵やポーランド=ロシアが「反逆集団僣窃地域に対する布告」で定めた暫定ラインを越境しない限り、ロシア軍が「ポーランド解放」へと向かうことはないと匂わせる発言など、「雪解け」と表現されるポーランド融和政策を展開した。ルカ皇帝は、1945年に、「ポーランド解放へは徹頭徹尾粘り強い交渉によって解決する」とスイス・ジュネーブの国連総会で

演説し、後年ノーベル平和賞を受賞した。

 

大ポーランド主義と小ポーランド主義

 こういったポーランド政策の変化と状況の長期化は、ロシア=ソヴィエト共産党政府の緊張感の弛緩を生み、ロシア=ソヴィエト側がロシア本土を奪還するという考えを減退させていった。ポーランド=ロシア社会主義ソヴィエト共和国の国是はロシア本土奪還にあった。ロシア=ソヴィエト共産党はこれを第一の目標に掲げ、ポーランドの独立をその手段として利用するためにポーランド民族主義者と手を組んでいたに過ぎなかった。ロシア=ソヴィエト共産党は、協力してロシア皇帝軍を払いのけなければポーランド独立は潰えるぞと民族主義者に脅しをかけることでポーランド民族主義者を従えてきたが、独立状況の長期化は、ロシア=ソヴィエト共産党の党員の内部に、ロシア側の融和政策に乗っかりポーランドにおける現在の地位を守ることに固執し始める者を生んだ。ポーランド民族主義者の指導者層は便宜的に共産党の党員となっていたが、反党行為があったということで党から除名されたり、処罰されたりする者が出始めた。このような共産党の行動は、これまで抑圧されてきたポーランド民族主義者の反感を徐々に増やしていった。

 ロシア以外の利害関係国でもあるドイツ、オーストリアは、欧州大戦においてどちらかと言えば「戦勝国」側という枠組みにいるロシアと違い、形の上では引き分けではあったものの、息切れして休戦講和を申し出た「敗戦国」側という側面があったために、ポーランド地域に対してはミハイル皇帝政府のような強い姿勢で臨むことはできなかった。しかし、ドイツ・オーストリアは、失地を正式に割譲や領有権を放棄したわけではなく、ポーランド=ロシアが存在している限りは、占領地域はいまだ自国の領域として、統治権が不当に侵害されているだけであるという認識を持つことが許されていた。故に、ポーランドへの入境は頑として認めず、ドイツ・オーストリア・ロシアの三国は協調して、ポーランド封鎖を継続していった。

 ポーランド地域は国際社会から国として存在することを許されず、当然ながら、国際連盟への加盟も認められてはいなかった。これらの国際社会からの抑圧は不当であり、ポーランドを国として認めるべきであるとポーランド民族主義者たちは主張した。この主張には二つの流れが生まれた。

 一つが、多民族が多数存在しているリトアニア、ベラルーシ(ロシア帝国へ返還するか独立させるかはまた別の話)、ガリツィア地方(オーストリア=ハンガリー帝国に返還するか、ウクライナとして独立させるかはまた別の話)をそれぞれ返還したうえで、純粋なポーランド人によるポーランド共和国の建国へと向い、国際連盟への加盟を果たそうと考えているのが小ポーランド主義である。もう一つが、これに対して現状の実効支配している領土すべてがポーランドであり、このままポーランド共和国を建国し国際連盟への加盟を果たそうとしているのが、大ポーランド主義であった。

 オーストリア=ハンガリー帝国にとって、小ポーランド主義は悪い話ではなかった。自国領土であるガリツィアがまるまる戻ってくる可能性があるため、オーストリア=ハンガリー帝国は欧州大戦前の旧領を奪還することができる。オーストリアは、しばしば小ポーランド主義者に対する肩入れを行っていた。一方で、小ポーランド主義を認めてしまえば、被占領地域の半分を失うロシアと被占領地域をそのまますべて失うドイツはこの傾向が主流となるのを恐れた。そうといっても、大ポーランド主義を認めることもできず、ポーランド国内のドイツ系住民とロシア系住民への肩入れを行うにとどまっていた。

 

大ポーランド主義の台頭とニクソン・ショック

 1967年に、ルカ皇帝の後を継いだ第16代皇帝クリメントは、これまでの立憲主義的民本主義的政治から反動的な専制主義的政治を開始した。ルカ皇帝の信任厚く、数々の民本主義的政策を実施してきたトロフィム・ヨシフォヴィチ・スダレンコフ大臣会議議長は失脚し、暗殺された。スダレンコフは、民本主義的な政治姿勢の裏で軍に対しても十分な予算を確保するなど配慮を欠かさなかったため、クリメントの治世はわずか2年で終了する。ロシア陸軍中央管区総司令官ニキータ・ヴラジスラーヴォヴィチ・ゴロヴァチェフ陸軍中将によるクーデタが勃発し、クリメントは皇后アウグステの母国であるオーストリアへ亡命した。

 大ポーランド主義者の中には、ロシアとの暫定ラインを越境し、領土拡大を主張する一団がいた。拡大派と呼ばれる彼らはポーランドが領土を拡大すれば、欧州列強も我々を無視し続けることはできないと考え、ロシア帝国に対して、拡大時に占領した領土を返還する代わりにポーランドの国家承認を行い、国際連盟加盟に賛成させるという構想を持っていた。彼らは、ゴロヴァチェフとのクーデタによるロシア国内の政情不安を利用して、領土拡大を主張したが、この頃にはロシア=ソヴィエト共産党政権はロシア本土奪還の野望を失っており、動くことは無かった。拡大派は、ワルシャワの対応に不満の声をあげた。

 拡大派だけではなく、ポーランド民族主義者の側からもロシア国内の政情不安を利用して何らかの交渉を行わなかったことに不満の声が挙がり始めた頃、ロシア=ソヴィエト共産党政権にも焦りが生じ始めた。党中央には、今更ロシア本土奪還を唱えるロシア人はいなかった。しかし、ロシア本土奪還の「看板」を降ろすという党の基本方針の改定の声を挙げるのも反党的な行為として動くことをためらう空気があった。ポーランド民族主義者の中には共産主義の「看板」自体にも不信の声が挙がり始め、これまでの長期に及ぶ孤立から社会主義の旗印を下ろそうという動きとそれを強いられることを許さない共産党中央との間に確執も生まれだしていた。

 これまで「人道的交流」と称して、ポーランド=ロシア社会主義ソヴィエト共和国とわずかな付き合いのあったアメリカ合衆国は、ポーランド国内の政治情勢を分析し、1970年初頭頃からロシア=ソヴィエト共産党政権と密かに接触した。1972年2月21日、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが、ポーランド=ロシア社会主義ソヴィエト共和国を電撃訪問した。世にいう、ニクソン・ショックである。

 ニクソン大統領とレオニード・イリイチ・ブレジネフ共産党中央委員会書記長は、2月28日共同宣言を行い、ブレジネフ書記長は、ポーランド=ロシア社会主義ソヴィエト共和国は3月1日からポーランド共和国として再出発すること、共産党の一党独裁体制を放棄すること、アメリカ資本の進出を歓迎し資本主義体制を導入することを宣言し、ニクソン大統領はブレジネフ宣言を歓迎するというメッセージを発した。ニクソンの帰国後、アメリカはポーランド共和国を国家承認するかと言う記者からの問いに関しては、ニクソンは返答を濁した。

 ブレジネフ宣言では、ロシア本土奪還の放棄については言及されていないが、ロシア=ソヴィエト共産党を改組して再出発したポーランド共産党の綱領には、ロシア本土奪還については抹消されていた。

 

国際連盟理事会決議第641号

 アメリカの後ろ盾を得たと認識したポーランド政府であったが、ロシア、ドイツ、オーストリアの三国は、国際連盟理事会の緊急招集を要請した。1972年3月21日に招集された国際連盟理事会では、ロシア、ドイツ、オーストリアの常任理事国三国からアメリカ合衆国政府に対して、国際連盟理事会決議第29号の遵守を要求する決議案が提出された。すなわち、新たに発足したポーランド中央政府を認めるべきではないとする意見の再確認である。

 日本は、三国の提案を支持した。皇帝の領土を僣窃しているという状況は日本の従来の姿勢からみても支持することはできなかったからである。イギリス、フランスは、理事会決議29号の頃とは違って長期の実効支配の継続という観点からポーランドの立場には理解を示したが、アメリカのスタンドプレーへの反感から反対の態度を示さなかった。隣国であるオーストリアのこれ以上の力の増大を望まぬイタリアは、当初態度を決めかねていたが、最終的には投票を棄権することで、拒否権発動を行うことはなかった。

 アメリカ合衆国は、現時点でポーランドが各国から正式に国家承認を受ける可能性は低いと考えていた。長期の実効支配が継続しているという状況、イギリス・フランスから見れば、中央ヨーロッパに緩衝地帯として存続している現状は不都合ではないという考えから現状の継続が図れればそれでよく、ちょうど1931年の満洲事変時の満洲国のように徐々に国際社会に浸透すればよいと考えていた。そのためには、ポーランドに社会主義の看板を下ろさせる必要があり、かつその国に対して影響力を行使できるようにいち早く動いたという考えがあったに過ぎなかった。こうして、ロシア、ドイツ、オーストリア、日本、イギリス、フランスの賛成、イタリア・アメリカの棄権という常任理事国の拒否権が行使されない状況で、國際連盟理事会決議第29号が現在もなお効力を有することを再確認した国際連盟理事会決議第641号が採択された。

 ポーランドでは、ロシア、ドイツ、オーストリアに対する憤怒の感情が高まった。アメリカも裏切ったと看做され、アメリカの見込みとは異なり、アメリカ資本の進出は進まなかった。しかし、ポーランド首脳部はこのまま時間の経過がたてばたつほどポーランドにとって有利なものとなることは明らかであり、我々の独立は時間が解決すると認識していた。そして、現実にも大きな事件が起きることはなく時間は経過していった。

 

国際テロリズムの活動の勃発

 ガリツィア地方における反オーストリア武装勢力が、暫定ラインを越えてオーストリア国民を襲撃するようになったのは、1980年台に入ってからである。1980年7月17日にコシツェでおきた雑貨商襲撃事件においては、ハンガリー王国警察は当初まったくと言ってよいほど、犯人の足取りをつかめなかった。同じく1981年11月14日にバンスカー・ビストリツァにて発生した森林火災事件においても、ハンガリー警察は、オーストリア警察からの増援を要請して、のべ2万人の態勢で捜査を行ったが、手掛かりがつかめなかった。ハンガリー警察は、1982年3月オーストリア警察との間に本件を中央捜査院による調査案件とすることを決め、この件はオーストリア=ハンガリー帝国直属の中央捜査院捜査案件として捜査が始まった。

 事態が動いたのが、1983年6月のトレンチーンで発生したエアステ銀行トレンチーン支店襲撃事件であった。深夜であったことが幸いして、人的被害は少なかったものの、支店の金庫から多額のクローネ紙幣が強奪されていた。犯人の一味が北の方角に向かっていたとの報告により、中央捜査院は徹底した聞き込みを開始し、犯人の足取りがポーランド方面に向かっていたことを確認した。ライヒアルト・ヴィリ・ローレンツ・ホラント中央捜査院総裁は、本件を国際テロ事件として認識し、ローデリヒ・ノルベルト・ゴルトベルガー閣僚評議会議長に報告した。ゴルトベルガー閣僚評議会議長は、中央捜査院に過去犯人検挙に至らなかった事件の再捜査を命じた。この捜査報告により、ポーランド民族主義者によるテロ事件としての枠組みが姿を現すようになった。

 1984年2月15日、オーストリア=ハンガリー政府は犯人の捜査と逮捕後の引き渡しをポーランド政府に要求。引き渡しが行われるまでは、ガリツィア地方の保証占領も視野に入れると通告した。ハンガリー王国軍の3個師団が、暫定ライン方面に移動し、暫定ラインを挟んで、ハンガリー王国軍・ポーランド共和国軍両軍がにらみ合う構造が生まれた。ポーランド側は自国の主権をもとにして、犯罪人引き渡し協定の締結を要求した。その結果として、犯人が見つかれば、引き渡しに応じる旨を通告し、保証占領は拒否した。1984年5月5日、オーストリア=ハンガリー外務省は、ポーランドを主権国家として認めることはできず、条約の締結には応じられないと全世界に向けて発表した。また2月以降暫定ライン付近で散発的に行われている、ポーランド側からの挑発的行為を直ちにやめるように通告した。

 

戦争準備

 1984年5月18日、第17代ロシア皇帝アレクサンドル4世は、皇太子クライスを伴い、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンへ行幸した。オーストリアに亡命していた父クリメント先帝とアウグステ皇太后(アウグステ皇太后はオーストリア=ハンガリー前皇帝カール1世第9子であり、すなわち当時のオーストリア=ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ2世の妹にあたる。)に対するご機嫌伺いであった。しかし、実際的には、緊迫するポーランド情勢に対して、オーストリア=ハンガリー帝国は、ロシア帝国との間に共同戦線を張ることを目的として、ロシア及びオーストリア=ハンガリー両国との間で会合を行う為であった。

 オーストリア=ハンガリー帝国統一閣僚評議会議長(首相)ローデリヒ・ノルベルト・ゴルトベルガーとロシア帝国天領総監兼大臣会議議長(首相)スチェパーン・ローベルトヴィチ・ロトレフは、5月20日、21日、24日から27日、30日と頻繁に電話会談を設けていた。

 アメリカ、イギリス、フランスが音頭を取り、国際連盟理事会が招集されたが、オーストリアとロシアは国際テロリズムに対する懲罰であって、理事会決議第29号・第641号に基いて、ポーランドは国ではないため、国際紛争を解決する戦争には当たらないと主張した。国際テロの被害に遭っていないドイツはこの問題に対して深入りできずにいたが、イギリス・フランスへの配慮から軍事力の行使には慎重になるべきとの言説を行っていた。オーストリアの勢力拡大を望まないイタリアはこの問題に深入りしようとしたが、反論の決め手に欠けていたため、有効な主張ができなかった。欧州大戦以来協約を結んでいた日本は、イギリスとも同盟関係にあったため理事会の会議室では表向きは動かなかったが、イギリス政府との間に交換駐留していた在英日本陸軍部隊を必要時にポーランド方面へ向かわせることを了承させていた。このような状況で結論はなかなか出ず、理事会は休会と再開を繰り返し、明らかに時間稼ぎの様相を呈していた。

 

ポーランド懲罰作戦発動

 6月5日、オーストリア=ハンガリー統合参謀本部は、ポーランド懲罰作戦の開始を宣言した。ガリツィア地方からオーストリア=ハンガリー統合軍が6万の部隊で北上をはじめたるや散発的に戦闘が始まった。6月7日、キエフに司令部を置くロシア西部方面軍はハンガリー王国軍の援護に回ることを宣言した。

 ポーランド軍はガリツィア地方クラフクにおいて、ハンガリー軍を迎え撃った。ポーランド軍3万に対して、ハンガリー王国軍4万とオーストリア=ハンガリー帝国統合軍2万の総数6万がにらみ合い、数回の散発的な戦闘が起こる。戦線は一時膠着状態となったが、統合軍の部隊が迂回戦術を使用し、包囲戦を試みたところポーランド軍は撤退をし始めた。追撃戦を行おうと深入りしたハンガリー王国軍は反撃を受けたため、統合軍と合流を行い、これ以後随所で膠着とと撤退が繰り返されるようになった。

 一方、ロシア帝国は、ハンガリー軍の援護に回る部隊とともに、サンクトペテルブルク方面から特別列車を仕立てて急行してきた大部隊が徐々に戦線に加わり、ワルシャワに迫っていた。8月27日、オーストリア=ハンガリー軍が北上を果たし、ワルシャワ近郊に迫った。

 8月29日、ロシア軍とオーストリア=ハンガリー統合軍及びハンガリー王国軍はワルシャワを包囲した。連合軍は、ポーランド中央政府に対して降伏条件として次の要求を行った。オーストリア=ハンガリー帝国へガリツィア地方を無条件で返還すること、残余の地方をロシア帝国へ併合すること、但し、ポーランドの統治者としてポーランド王国を置き、国王はロシア皇帝が兼ねるが、ロシア帝国内でも高度の自治を保証し、ポーランド議会とポーランド摂政府の設置を約束し、ポーランド摂政府への現暫定政権からの移行も認めた。

 ポーランド側からの返答を待っているさなかの9月1日、ドイツ軍が暫定ラインを越えて進軍を開始した。ドイツ陸軍は大部隊による電撃戦をしかけ、9月7日、ポーゼンとダンツィヒを陥落させた。国際連盟理事会でのドイツ大使の発言から、ドイツは表向き分割に加わらないと判断し、ロシアとオーストリアは、ポーランド割譲後に西プロイセン州とポーゼン州に相当する地域を分割しようと考え、ドイツ外務省にも根回しをしていた。

 ポーゼンとダンツィヒを攻略した総数7万のドイツ軍は、ドイツの誇る機甲師団を先頭にワルシャワ近郊に14日頃に到着した。全軍合わせて20万近い軍勢がひしめき合う中、9月18日ポーランド中央政府は降伏した。ロシア、オーストリア=ハンガリー、ドイツの三国は、その代表をワルシャワに派遣し会談を行うことを決定した。これにより、ポーランドが分割され、欧州大戦前の国境線に復帰することが決定された。

 

ワルシャワ協定の締結

 オーストリア=ハンガリー帝国統一閣僚評議会議長ローデリヒ・ノルベルト・ゴルトベルガー、ロシア帝国天領総監兼大臣会議議長スチェパーン・ローベルトヴィチ・ロトレフ、ドイツ国帝国宰相ローベルト・マクシミリアン・バウムガルテンの三名が、10月1日、ワルシャワのヴィラヌフ宮殿に集まり、ポーランドの分割についての確認事項を話し合った。

 この結果として、欧州大戦前の国境線に復帰することが確認された他、ポーランド暫定政府の要人には何らの処罰を課さないこと、ロシア領のポーランド王国の高度な自治、ロシア領、ドイツ領、オーストリア領のポーランド人には無条件でのそれぞれの国籍を付与することなどが確認された。

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