クイラ王国アル=スラーン=クイラ家家宰の手記
著者:スハイル・ターミル・アル=バタクジー
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中央歴1639年11月19日(水)
この日の殿下の日程は、午前中に東京の兜町にある東京証券取引所を視察し、午後からは三菱財閥の岩崎子爵たちとの会合となっていた。午後からの会合は、翌20日から、三菱財閥傘下の小岩井農場・小岩井牧場を視察する予定となっていたため、その打ち合わせということであった。小岩井農場は、日本の競馬界の基礎をつくった小岩井牧場を持ち、かつては中央競馬にも競走馬を出走させていたが、今は軍馬の生産を主として行っているという。そういうわけで、競馬界に顔が利く有馬伯爵や相馬子爵に殿下番記者と呼ばれている新聞記者たち、要するにいつもの面子に加えて、三菱財閥のオーナーである岩崎子爵とで打ち合わせと言う名の会合を行っていたわけである。
我が国は、殿下が日本に滞在する際の常宿である帝国ホテルの一室を殿下の応接室として年間を通して借りているが、この部屋を衝立で2分割して分け、奥側を殿下が応接するスペース、通路側を私や来客の秘書の待合スペースとして使っている。有馬伯爵や相馬子爵などと殿下はよく会合を持たれる。そのため、彼らの秘書とも顔見知りになった。殿下は伯爵や子爵は別として平民の新聞記者などとも直接会話を行われるが、私は未だ彼らとのやり取りに慣れないでいた。
午餐も終わり、岩崎子爵から日本国の近代競馬の歴史を紐解きながら、小岩井農場についての事前レクチャーを受けんとしたときであった。ホテルの電話が鳴った。電話に出てみれば、フロントからの連絡だった。はて、なんであろうかと思っていると、駐日クイラ公使館から公使館職員が来ており、殿下に御目通りを願いたいとのことであった。殿下にその旨を伝えると、途端に不機嫌な顔をされたが、已むを得まい。有馬伯爵たちには少し部屋の外に出てもらい、ラウンジで休憩してもらうこととなった。
公使館職員たちはすぐに部屋に入ってきた。何があったと私が問うと、本国から殿下に対して帰国命令が出たという。更に重ねて詳しく話せというと、ロウリア王国摂政殿下が日本を訪問するという。その接待役として、殿下が選ばれたとのことだった。帰路のため日本政府が特別機を用立ててくれるというので、至急準備をとのことだった。日本政府がクイラ行きの飛行機を手配してくれるということは、これは本国クイラからだけの要請ではない。日本政府の要請も含まれていると解釈せざるを得ない。私がそういうと殿下もやむを得ないと口にした。
有馬伯爵たちには至急の帰国命令が出たことを伝え、岩崎子爵には突然の予定のキャンセルを丁重に詫びておいた。帝国ホテルの玄関には、日本の外務省から秀島中東アフリカ局長が迎えに来ていた。秀島局長は、警視庁のパトカーを先導車として緊急走行にて厚木基地まで殿下一行を先導してくれるという。外務省のリムジンに殿下と私そして秀島局長と勧修寺外務書記官が乗り込み、殿下の付き人が後方の車両に乗り込んだ。そして、我々の前後をパトカーが挟んで、厚木基地まで走行していった。
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中央歴1639年11月20日(木)
クイラのバルラートからロウリアのカルーネスまで飛行機で飛んだ。我がクイラも日満両国の航空会社からの現物出資を受けた国営の航空会社を持っているが、ロウリア行きの定期便は運航していない。更に、今回は日本政府からの要請も絡んでいるため、日本軍の軍用機での移動となった。
現地には午後に到着し、我々は進駐軍司令部が入っている旧ロウリア海軍本部で休息することとした。司令部には既に日満両国からも応接役が来ていた。日本からは、皇従甥(天皇の従弟(いとこ)の子)高円宮盛仁親王殿下が、満洲からは、参議のバインオール・スミヤバザル氏が来られていた。高円宮盛仁親王殿下は御年23歳の若い皇族である。父を10歳と言う若さで亡くしてから未成年宮家当主となった経緯を持つ。日本皇室の中でもなかなか他に類を見ない経歴を持つお方だ。バインオール・スミヤバザル参議は、満洲国の民族中でも主要民族の一つであるモンゴル族の出身で、駐日大使、駐英大使、国際連盟の駐在大使を務めた有能な元外交官と聞いている。
ロウリア王国摂政のダールドルフ大公が乗る車列がやってきた。ロウリア王国ではダ―ルドルフ大公の摂政就任から国王即位と言う流れが出来つつあるが、現国王の息子である王太子廃嫡に納得していない者もいると聞く。万が一を防ぐということだろう。道中を日本軍の憲兵隊が警備のため随行してきていた。
盛仁殿下が大公殿下を出迎えるというので、我々も進駐軍司令部玄関前で待つこととしたが、道中の警護は厚かったようだ。先導のバイク2台が2列続き、続けてセダン車が4台続けて走ってきた。後方をバイク2台が2列続き、セダン車の左右に6台ずつのバイクが並んでいる。車列が日満両国の応接役の前を通り、おそらく大公が乗っている車が彼らの前に停まった。
大公殿下の前と後ろの車からおそらく大公の護衛が降りてきて、周囲を警戒する。だが、ここは、日満両国軍が警備する司令部庁舎だ。警戒しなくてもよいとは言わぬが、襲撃の可能性は低い。大公の乗る車のドアが開かれた。大公は、新たにデザインされたのであろうか、ロウリアの民族衣装ではなく、日満両国の軍服風の衣装を着ていた。車から出る前に正面を確認すると、日満両国、そして我が国の殿下が出迎えいたことに目を見張っていた。車内で聞いていたのであろうが、それでも敗戦国の王族を出迎えるということに驚きは隠せないでいたであろう。
大公が社外に出た。彼らに何と声を掛ければよいか、車内でも戸惑っていただろうが、大公が姿勢を正すと、盛仁殿下とバインオール参議が片膝を着き、頭を垂れて、右手を胸をあてた上位者に対する貴族の礼を取った。マルワーン殿下も慌てて、片膝を着いて礼をした。
そうだ。確かに、君主とその継承者に対しては、たとえ他国の臣であっても上位者に対する礼をするのが、国際慣例とされている。メッサル外相から聞いた所によれば、ミリシアルの駐アルタラス大使も赴任して初めてのアルタラス国王への謁見の際には、同じ礼を取ると聞いたことがある(もっとも、パーパルディアの大使は文明圏外のどの国に行ってもそんなことをしたことはないらしいが)。この時に皇帝や国王と言った君主は、「卿は他国君主の臣下であるが、他国君主の代理人である。以後は無用に為されよ。」などと声をかける。駐在大使はこれ以後は、君主の前で臣下の礼はとらない。同列の国家間では、大使以外は臣下の礼で謁見を受けるが、上位列強に対しては、臣下の礼を取らないでよい対象範囲が拡大される。
とはいえ、これは対応な国家間でのやり取りだ。敗戦国の王族は戦勝国の王族やその臣下にすら臣下の礼を取らざるを得ないことだってあるのだ。ロウリアがそうだ。城下の盟を誓わせたわけではないが、実質的には敗戦国だったはずだ。だから、マルワーン殿下も礼が一拍遅れた形となった。確かに、マルワーン殿下は王位継承者ではない。あくまで王弟殿下だ。アンクワール陛下は既に王太子殿下を儲けられておられる。従って、他国の君主に臣下の礼を取るべきではあるのだが。出迎える際の行動について、日満側と打ち合わせをすべきだったか。
ダールドルフ大公は、臣下の礼を見た途端に硬直した。しかし、そのあとすぐに慌てて、殿下たちに対して、「無用、無用。私に対して、臣下の礼は無用に御座います。以後は御無用にお願いいたします。」と声をかけた。これもまた正しい。上位列強の皇族王族と下位文明圏国家や文明圏外国家の王族が直接に交流することは少ないが、戴冠式などに名代して参列することがある。この際に、顔を合わせることがある。そういうときに下位の国の王族は、上位の皇族王族に対しては礼を尽くす必要がある。だが、下位の側もまた王族である。王族であればこそ敬意を払うのは、上位下位に関係はないとされている。そのようなときに上位者は、以後は臣下の礼は無用と声をかけることで、下位の王族を尊重する姿勢を見せるのだ。
それにしても、心臓に悪いことだ。ロウリアとの関係は、本来ならば通常のものではない。盛仁殿下は、お歴々の中で一番年若く、年長者には礼を尽くすようにと陛下より言われていますと臣下の礼を取ったまま挨拶し、バインオール参議は、満洲国は君主国ではありますが、国制上ほぼ平民の国の為、平民が殿下のお相手することにご不快でしょうが、お許しくださいと同じく挨拶した。このままでは、マルワーン殿下もこれに続かねばならぬかと思ったが、ダールドルフ大公は、バインオール参議の挨拶のあとで、「皆様方の真心は充分に受け取りましたので、どうぞ御立ち下さい」と懇願したことで、盛仁殿下たちが立ち上がったので、臣下の礼を取ったままで挨拶をせずに済んだ。
だが驚いたのが、マルワーン殿下は、立礼して挨拶したあとで大公に握手を求めた。こちらの世界に握手の習慣はない。利き腕を他人に握らせることになり、不用心であるからだ。当然、大公も殿下が何をしようとしているのか良くわからなかった。盛仁殿下が、握手と言う親愛の挨拶表現について説明すると、大公も殿下の手を握り返した。日満両国の新聞記者連中のカメラのフラッシュがうっとうしかった。これにも私は未だ慣れないでいる。
臣下の礼についてはよく覚えておいてください。