大日本帝國召喚   作:もなもろ

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対馬行幸の様子を未来の視点から描きました。


東西新聞文化部編『奉迎記録 対馬市民の思ひ出』(東西新聞社、平成○○年)

東西新聞文化部編『奉迎記録 対馬市民の思ひ出』(東西新聞社、平成○○年)

 

 ― 山田一郎さん(当時、対馬市立仁田青年学校3年生)

 あれは、まだ青黌(※)2年生の秋でした。まだ異世界に転移する前の年、確か11月の始めでしたね。月曜朝の全体朝礼の校長先生からの訓話で、翌年度の陸軍特別大演習に対馬が内定し、天皇皇后両陛下が行幸啓されるということが知らされたのは。何年か前に、朝鮮通信使200周年記念とかいう対馬市の企画で皇太子同妃両殿下が御来島されたときの島の盛り上がりは、当時小学生だった私でも覚えています。今回は、それよりももっと盛り上がるんだろうなあと言う感想を覚えました。・・・

(もなもろ注:黌は「こう」と読み、学び舎、学校の意。一字で学校を指す。青年学校は、中等教育学校の中でも最もカリキュラムの程度が低いため、難しい言葉を使いたがる傾向にある。)

 

 ― 田中美香さん(当時、長崎県立対馬高等女学校5年生)

 ・・・対馬高女は対馬中央部の豊玉町地区にありますが、そちらでも行幸啓の話題で持ち切りでした。放課後の教室、学校前のカフェーや映山紅寮(※編集部注1)の談話室。天皇陛下の行幸は、私が生まれる前の先帝陛下の北部九州巡幸以来のことということでした。父がそのころの様子を語ってくれたことがあります。学校の近くにある商店街の人たちも商店街の組合長さんが音頭をとって、商店街全員で御来島当日は厳原に行くということで、準備に多忙を極めていた様子でした。私たち対女生(※編集部注2)もよく通った商店街のラーメン屋さんの店長が、「一張羅を仕立て屋に出し直さんとな」とぼやきながらも、いつもよりニコニコしていたのが印象的でした。・・・

(編集部注1:対馬高等女学校の学生寮。映山紅は「つつじ」と読む。対馬市が合併して誕生する前の豊玉町の町花「ゲンカイツツジ」から採ったとされている。なお、対馬高等女学校学則では、対馬高等女学校寄宿舎「映山紅(えいざんこう)」というのが学生寮の正式名称である。)

(編集部注2:対馬高等女学校生徒のこと。「ついじょ」と読む。)

 

 ― 岩崎義孝さん(当時、長崎県立対馬水産学校研究科2年生)

 対馬水産学校は、対馬北部にある上対馬町地区にありました。行幸先である市の中心部の厳原町地区から離れておりましたし、御来島の日から翌日にかけて行われる陸軍特別大演習は陸軍上見坂演習場は厳原町地区にありますでしょう。それに、私どもは学生でしたので学業中心の生活を送っておりましたので、なかなか浮ついた感情はなかなかだせませんでした。

 それでも、私どもの学校が行幸啓のお役に立つということがあっては奮起せざるを得ませんでした。対馬市役所の職員が水産学校にやってきて、学校長に説明したところによりますと、行幸啓当日と翌日の天皇陛下がお召になる御膳、そして行幸啓に供奉する官吏吏員や来賓に対する賜饌は対馬で獲れた農作物や魚介類を使用するということです。それで、島内各所から少しずつ献上を募っているということで、水産学校からもいくばくかの献上をお願いしたいということでした。水産学校が置かれている上対馬町地区比田勝の漁協や学校はもちろん市役所からの求めに応じました。私たち研究生も、水産学校の実習船に久しぶりに乗り組んで出漁したいと学校長に志願しました。まあ、水産学校生徒の実習の機会を奪うなということで、認められませんでしたがね。(笑ひ)

 

 ― 大垣冴子さん(当時、対馬市役所教育部文化財課社寺係)

 あれをもう一度と言われると、やはりしり込みしてしまいます。当時、私は市役所の教育部に勤めておりました。来るべき行幸啓の日の準備としては私は奉送迎部拝観係に配属されました。

 行幸啓当日、厳原港から上陸されました両陛下は対馬市役所へまず移られます。そして、市役所庁舎内で、島内の名産品の物産を親しく天覧後に庁舎内の一室でお着替えになられます。海軍の大元帥服から陸軍の大元帥服へ御召し物をお着替えになられた後に乗馬にて上見坂の演習場に御移動なされます。皇后陛下はこの後、対馬島内の病院や学校を巡幸され、親しくご見学あらせられます。

 天皇陛下は、市役所を後にする際に、島内にある神社の中でも対馬国一宮であります海神神社、元寇で戦死した将士の霊を祀るなど対馬の国事殉難者を主祭神とする小茂田浜神社などに玉串奉奠の使者を御差遣なされます。私共拝観係は、この神社との間に当日の流れを事前に打ち合わせを行い、そして皇后陛下がお巡りになる病院や学校との間に当日の順路やご説明の段取りなどを事前に打ち合わせを行います。その準備の期間と言うものは大変忙しゅうございました。

 分けても、私ども対馬市役所の職員には当時有位者が助役の方と市議会の副議長くらいしかいらっしゃらなかったのが困りました。どちらも当日は陛下の供奉として側近の事を奉ることになっておりましたので、御使者に立てる方がいらっしゃらなかったのです。手すきの部長を御使者にと思いましたが、神社側は名誉ある行幸啓の御代拝の使者に無位の者を寄こすことは何事かとカンカンでございました。戸籍係の者が、何名か定年退職した元教師の方で正八位の方が島内にいらっしゃるということを突きとめまして、私どもが伺ったのですが畏れ多いと尻込みする方が多くて説得に難渋しました。

 ようやく、市役所の期限付きのアルバイトとして雇用を受諾してもらいましたが、まあ大変でございました。行幸啓の地に選ばれたのは誠に名誉のこととは存じますが、もう一度と言われますとなかなかどうしてというところが正直なお話でございましたが、無事に終わってみるとああ、やはり来ていただいてよかったと深く感じ入りました。

 

 ― 上野康子さん(予備陸軍少佐上野孝弘夫人)

 夫が予備役の陸軍軍人ですので、数年に一度、演習の際に召集されて軍務に就くことがありました。普段はといいますと、交通会社に勤務してバスの運転手をしたり、演習場の清掃活動を行ったり、陸軍の砲台跡施設の案内係などをおこなっております。予備役とはいえ軍人でございますので、陸軍の衛戍地に近いところに家を構えております。この度の演習は大演習ということで、夫にも召集令状が参りました。箪笥の奥にしまい込んでおりました、陸軍の正装と軍装を引っ張り出しまして、呼集に応じました。今回の演習では、対馬衛戍に任務を負っております、対馬警備隊にも動員下令が為されるということでしたので、留守部隊が設置されたとのことで、夫は留守対馬警備隊の補充歩兵第二中隊長に補せられたとのことでございました。

 夫の部隊は、天皇皇后両陛下の到着時に厳原港から対馬市役所に向かう車列の警備にあたりました。通常の演習では軍装を着服しますが今回は、警護とはいえ、儀仗的な役目柄ということもあり、正装で任務に就くということでございました。演習での軍装の姿は私も度々拝見しておりました。ですが、正装の姿と言うのは私も見たことはありませんでしたので、行啓校の当日、私も御順路の脇に立つ夫の姿を一目見ようと向かいました。日の丸の小旗がひらめく中に夫はおりました。周囲を警戒しており、彼も私の姿を認め、一瞬微笑みましたが直ぐに引き締まった顔となりました。車列が通り過ぎて少し経つと夫は中隊集合の号令をかけて、部隊を集めました。そして、夫を先頭にして市役所の方面へ行進していきました。

 あの大演習以後、対馬島内で大きな演習は開かれておらず、夫にも召集令状は来ておりません。あと数年で夫は後備役に編入されます。後備役に編入されると、召集の機会もほぼなくなるのだそうです。それでも、軍装は持っておく必要があるのだとか。退役前の最後に袖を通すのは、正装だとのことです。退役前に叙勲の機会があるとのことで、そのときに時に着るそうです。退役前の最後の年の演習では、特別に召集されて、臨時に部隊長となるのだそうです。夫はその時を楽しみにしております。できたら、その年はこのときのような栄誉あるお役目だと嬉しいと言ってはおりますが、なかなかそれは難しいでしょうね。

 

 ― 吉田文隆さん(農業経営者)

 私の出身は福岡県の飯塚市でございます。農家の三男で家は継げず、かといって頭もよくはなかったので上級学校へも行けずでした。幸いにも身体だけは頑丈でした。青年学校では排球部に所属しておりました。全国中等学校体育大会では全国出場して活躍することもできましたが、あのころはまだバレーボールのプロリーグがなかったので、卒業後は実家で農業の手伝いをしつつ、母校の排球部監督をしつつ、青年学校の体育教員免許検定でも受けようかと思っていたころでした。

 二十歳になり、徴兵検査を受けて、甲種合格となりまして、久留米の歩兵第四十八聯隊に入営しました。入営して半年間は基礎訓練などで忙しかったものですが、それを過ぎるとまあ楽なものでした。入営して1年たつと、二等兵から一等兵へと昇進します。そうなると多少なりとも自由にできるようになりまして、兵舎の裏を使ってちょっとした畑をこさえるようにしました。ある連隊の幹部は、名誉ある帝国陸軍兵士が兵舎でイモ栽培などとということでお冠だったそうですが、当時、聯隊長だった山鹿大佐殿(最終階級は陸軍中将、教育総監部砲兵監。)が、まあいいんじゃないか、秋になれば軍旗祭で焼きイモでも振る舞えば市民には面白いんじゃないかっていうことでなんとか認めてもらえました。

 そんなときでした。当時はまだ衆議院議員でいらした麻生太郎閣下が視察にみえられたのです。「なんだいこりゃ。へえ、イモ植えてるのかい。面白い兵舎ダナァ。」、「何。お前さん、飯塚の出身だって。俺んトコの身内じゃないか。」、「何、実家の手伝いダァ?そりゃ、面白くないだろう。山鹿さん、現役終えたらこの坊主俺にくれよ。何、上等兵推薦だぁ?ケチケチすんねえ。俺んとこの子なんだから俺が面倒みるのが筋ってモンだろうよ。」。

 あれよあれよという間に話がまとまり、2年の現役兵役が終わって予備役入りした時には、麻生高等農林学校の予科乙種に放り込まれました。予科乙種は、自分のように青年学校卒や中学校卒なんかの歳のある人間が農業について学びなおすとこでした。そこで3年程度農業について系統的に学んだのですが、就学の終わりの頃に麻生閣下がやってきて、私にシイタケを見せてきたんです。「対馬で椎茸栽培をやれ。そこでならお前さんも一家を構えられる。陸軍の演習場内なら安くで土地を借りられるんで、そこで農家をやれ。」。

 麻生閣下はいろいろと話をつけてくれており、対馬警備隊が保有する演習地の一角を格安で貸してくれることなりました。演習中弾が飛んでこないように配慮はするが、絶対ではないので、演習中は出入り禁止、農作物に被害が出たときは補償する、予備役後備役の兵役義務は対馬警備隊への召集で可能、などと言ったかたちでいくつかの条件はありましたが、演習場内にいわば管理人的な立場で安く土地を貸し出してもらい、そこに家も構えました。演習中は危険だということで妻や子供は家を追い出されるのですが、その程度の制約で土地の相場よりも安い固定資産税の支払で済んでおります。この辺も麻生閣下が話をつけてくれていたおかげです。

 麻生閣下には毎年の収穫の一部を御礼として送っておりますが、毎年大層ご達筆な礼状が届きます。これは我が家の家宝として大事にしまっております。ある年なんかは、たまには東京見物なんてどうだと東京行きの飛行機の切符を妻と子供の分も含めて頂戴したことがございます。その時は、閣下は帝国宰相になっておいででして、総理官邸に妻と子どもを連れて、お邪魔するというたいそう栄誉なお申し出を頂戴しました。せがれが、閣下の膝の上に乗せていただいて、「せがれも小学校入学か。おめえも立派になりやがって。」と顔を崩しておられたのを今でも思い出します。

 そして、この度の対馬行啓校でございます。内大臣となられた麻生閣下からお電話を頂戴しまして、御上におめえの椎茸を献上しろと、こう仰せでした。私はなんと答えていいか、畏れ多いこととしどろもどろにお答えしておりますと、閣下が、あのべらんめえ口調でつべこべ言わずやれとまあ大層な一喝でした。まあそれからは大変でしたよ。私は礼服らしい礼服なんぞ持っておりませんでしたから、厳原の個人紳士服店をご紹介いただきまして、一張羅を仕立ててもらいました。するとですよ、テーラーの方から内大臣府から費用については伺っておりますということで手回しのいいことだと驚いたものです。

 対馬市役所庁舎で天皇皇后両陛下が対馬の物産を親しく御高覧あらせられたときのことです。椎茸の献上品の説明に私が駆り出されました。ひどく緊張していると麻生閣下が「しっかりしろい」と背中をひっぱたくのです。それで、私も何とか気を取りなおしてご説明を成し遂げることができました。終わった後、太郎閣下は私を肘で小突いてやればできるじゃねえかと大層ご満悦でした。

 あれ以来、私の農場には全国から天皇陛下献上の椎茸ということで注文が相次ぎました。今では、演習場地以外にも椎茸農場を持つことができ、小作人も抱えております。農場法人化の目途もたちそうで、麻生商業学校の通信教育課程で経理の仕事も学んでおります。

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