大日本帝国歴代内閣
―――――
11代 第二次伊藤博文内閣(2554(明治27・1894)年4月1日~2556(明治29・1896)年9月18日)
▽来歴・概要
元長州藩士。枢密院議長。男爵。日清戦争の功績により子爵へ陞爵。
第五議会はこれまでの与野党構造を一変させた。政府の与党として組織され、政府に協力する姿勢を見せていた国民協会が条約改正問題においては、積極的野党として政府反対の立場に立った。国民協会の議員は、江戸幕府が締結した安政条約によって居留地に押し込めていた外国人たちが内地に入ってくるということに対して忌避感を持っていた。そして、それは感情的な問題だけにとどまらない。改進党の議員の後援者のなかには、居留地に押し込めた方が外国人との貿易で主導権を握ることができるという思惑を持つものがいた。すなわち、内地への旅行すら制限させていたがために、外国人の商人は直接売り手と交渉することができず、仲買人を通すしかなかったために、貿易品の価格の高値が維持されたという見方である。
このような情勢下で、自由党はこれら硬六派の動きに加わらずに政府との提携を模索した。だが、野党としてこれまで活動をしてきた経緯からすり寄るような態度は有権者の離反を招くという観点から「和協の詔勅」によって示された行政整理に協力するという姿勢から政府に対して是々非々の立場を貫くという大方針が決定された。それと同時に自由党執行部は、条約改正問題が存在する以上は政府側は野党側に一層の譲歩を見せるしかないという見通しを立てており、自由党の掲げる「民力休養・政費節減」を達成していくチャンスであるともとらえていた。
第3回の衆議院総選挙において、国民協会は34議席減の35議席とその議席を大きく減らし、自由党は44議席増の120議席と勢力を大きく増やした。しかし、改進党も18議席増の60議席を獲得し、議会第二党の地位を維持した。「与党」勢力は後退したが、条約改正問題では自由党が政府を支持しているため、与党勢力は数を増やすという状態で第六議会は5月15日にスタートしたが、開会冒頭から硬六派が現行条約励行の上奏案を、自由党が行政整理と条約改正断行の上奏案をそれぞれが提出し、硬六派が自由党の案を、自由党が硬六派の案をそれぞれ攻撃し、衆議院の特別委員会は大荒れになった。
奇妙なことに、特別委員会において自由党の上奏案の修正提案が硬六派の修正提案と差し替えられ、硬六派の主張に沿った自由党の上奏案が委員会で可決。自由党の幹部にとっては寝耳に水の状態となり、伊藤首相の秘書官へ釈明の協議を行っているさなか、31日本会議へと上程され可決成立した。すぐさま自由党は上奏案そのものではなく、参内上奏日程の延期についての特別審議を議案として提出した。しかし、イギリスとの条約改正交渉が大詰めを迎えていた伊藤内閣はこの事態を重く受け止め、6月2日衆議院解散を断行した。
衆議院解散を政府の横暴と強く非難する声が貴族院でも上がり始めたが、9月1日の投票日までの3ヶ月余りの間に事態は大きく転換した。内地開放と領事裁判権の撤廃を織り込んだ、日英通商航海条約交渉は6月27日に合意に達し、7月16日に駐英日本公使青木周蔵と英外相キンバーリーによって調印された。条約改正に対して賛否が国内で吹き荒れる中、25日に朝鮮半島問題を巡って対清宣戦布告が行われ、日清戦争が勃発した。
日清開戦により、自由党も硬六派もこれまでの政府批判を含めた選挙戦を一斉に転換し、政府支持の演説に置き換えた。この結果、選挙の争点は曖昧なものとなり、選挙戦への政党支援組織の結束も弛んだことから無所属候補の大量当選に繋がった。
明治新国家始まって以来の対外戦争ということで挙国一致が叫ばれた。対立していた議会は言うに及ばず、政府と軍の協調、また国家と民間においても戦争に協力することが求められた。帝國憲法は天皇は大日本帝国の統治者であると同時に統治権の総攬者であるとする規定を置いている。すべての統治行為を天皇が掌握しつつ、自己の権限を分割して、分立させた諸機関に行使させるという体制がとられている。統治権を掌握はしても、専断するものではないとするのが帝國憲法の規定である。対外戦争と言う一大事業を前にして、これまで通りの権力分立の政治体制で難局を乗り切れるかと考えた伊藤内閣は、他の国家機関を巻き込んで、戦争遂行に必要な体制をつくることを提案した。それが、征夷大将軍職の復活である。
戦争遂行の期間限定で天皇の国家統治の大権を一部委任するという形で極力な権力者を作り上げた。首相は、天皇の統治権を輔弼・補佐するものであるというのが建前であり、あくまでも実行者は天皇である。これに対して、征夷大将軍は自己の権限として統治権を行使する。斯くして、28年ぶりに征夷大将軍職が復活し、貴族院議員公爵徳川慶喜に将軍宣下の勅使が下向した。慶喜は首相官邸に入り、形式として伊藤首相・大本営・帝國議会を旗下に置きながら、実質としては伊藤博文に全権を委任し、戦争遂行に邁進した。
日本陸軍は、8月から朝鮮半島の北上進撃を開始した。各地で清国陸軍を撃破しつつ9月中に朝鮮半島を制圧した。その後は鴨緑江を越え、翌明治28年3月上旬までに遼東半島をほぼ占領した。日本海軍は、前年9月の黄海の艦隊決戦に勝利して陸軍北上のための海上補給路を確保していた。11月に陸軍が遼東半島の旅順港を占領し、翌年2月には陸海共同で山東半島の威海衛を攻略して日本軍は黄海と渤海の制海権を掌握した。
直隷決戦の準備が進む中、清国の首都北京と天津一帯は丸裸同然となり、ここで清国側は戦意を失った。明治28年3月20日から日清両国の間で講和交渉が始まり、4月17日に講和が成立した。
日清講和条約の中で、日本は李氏朝鮮の独立を清国に認めさせた。また台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲させ、賠償金として2億両(2両=銀37g)が支払われた他、日本に対する最恵国待遇も承認させた。講和直後の23日に露仏独三国の外交要求が出された事で、日本は止む無く遼東半島を手放した。5月下旬に日本軍は領有権を得た台湾に上陸し、11月下旬までに全土の平定を終えた後に行政機構を敷いた。台湾の軍政が民政へと移行された明治29年4月1日に大本営が解散し、同時に德川慶喜、大政奉還を行った。戦争に勝利した日本はアジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、取り分けイギリスとの協調関係を築けるようになった。
日清戦争の勃発と陸海軍の勝利は伊藤内閣の政権運営に大きな安定を与えた。明治27年12月から翌年3月まで東京で開かれた第8議会においても明治28年度予算案と臨時軍事費の審議はスムーズに進んだ。しかし、三国干渉、続く10月8日の乙未事変と明治29年2月11日の露館播遷によってロマノフ朝ロシア帝国が朝鮮に進出していき、日本の朝鮮半島への影響力は低下していった。対外硬派を中心とする野党勢力にとってこの動きを止められない政府への不満は日に日に高まり、戦時中の政府と民党の協調関係は次第に崩れていった。
伊藤は腹心の陸奥外相と伊東巳代治内閣書記官長を通して自由党の提携に乗り出す。6月15日、対外硬勢力の政友有志会は軍備拡張・還遼問題・朝鮮問題を中心に据えて運動方針を策定したが、自由党はこれらの動きと一線を画することを宣言した。7月17日には政府の対外政策への支持を代議士会で表明し、11月22日には政府と自由党との間で提携宣言書が手交されるに至った。
自由党との連携によって、続く第9議会(同年12月28日開院、翌29年3月28日閉会)では政府の議会運営は自由党の協力を得て円滑に進み、陸海軍の更なる拡張や増税など大幅に拡充した予算案が少ない削減だけで済み通過、航海奨励法・造船奨励法・民法・日本勧業銀行法など重要な法案も次々と成立した。一方の対外硬派は団結をすすめ、明治29年3月1日、改進党を中心に進歩党(大隈重信党首、91議席)を結成した(国民協会は参加せず)。
4月14日には自由党の板垣総裁が内務大臣として入閣、星元議長が駐米大使となり、その他内務省ポストに自由党選出の代議士が就任するなど、自由党の与党化が進んだ。更なる政権の安定のため、伊藤は大隈党首の外相就任による進歩党の与党化も図ったが、これには板垣が反発したため実現しなかった。政府内部でも、伊藤の「政党内閣」化への動きを時期尚早と思う勢力が存在し、反発を強めていた。伊藤はこれ以上の政権維持は困難であるとみて8月31日に辞職の決意を固めた。元勲は後継首班の選定に動いた。
元勲の展望としては、対外硬派の鎮静を目的として、政権運営に参加させることで、日本の実情を感知させることに合った。彼らは、まだまだ日本の国力は列強に及ばないため、下手に列強を刺激するようなことは避けるべきと考えていた。既に自由党の政党人は、政府に参画して国力の実情について理解している。そこで次は進歩党の側を取り込むべきと考え、枢密院議長の大久保に後継首班の話が行った。大久保は、次期蔵相に据えて金本位制確立を主導させたいと考えている松方正義が財閥の三菱と近い関係にあり、三菱は進歩党に近い関係にあるので、私が首班に座ると政党の色が濃くなりすぎると辞退した。そこで、貴族院に基盤を持つ小栗に大命が降下した。9月18日に小栗が首相復帰、進歩党を与党に迎えて第3次小栗内閣が成立した。
▽在任中の主な出来事
・日英通商航海条約締結(領事裁判権撤廃、内地雑居)
・日清戦争
・日清講和条約(下関条約)
・三国干渉
・進歩党結成
・
▽内閣の出した主な法令
・学校令(師範学校令・小学校令・中学校令・帝国大学令)
・民法第一編第二編第三編(総則、物権、債権)
・
▽内閣の対応した帝國議会
第6回帝國議會・臨時会
日程
召集:2554(明治27・1894)年3月30日(官報公示31日)
集会:2554(明治27・1894)年5月12日
開会:2554(明治27・1894)年5月15日
解散:2554(明治27・1894)年6月 2日
会期:21日、実数19日
議院役員
2 蜂須賀茂韶(はちすか もちあき)
就任:2552(明治25・1892)年 6月14日
退任:
生年:2506(1846)年9月28日(弘化3年8月8日)、47歳
出生:
学歴:英オックスフォード大学卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)
前職:外務省御用掛、駐仏公使
特記:第14代徳島藩主。
第13代徳島藩主・蜂須賀斉裕の次男。斉裕は第11代将軍・徳川家斉の二十二男。
貴族院副議長
空席
衆議院議長
4 楠本正隆(くすもと まさたか)
就任:2554(明治27・1894)年 5月12日
退任:2554(明治27・1894)年 6月 2日(解散)
生年:2598(1838)年4月14日(天保9年3月20日)、55歳
出生:肥前国玖島城下岩船(長崎県大村市玖島)
学歴:
官職:衆議院議員(東京府第4区)
会派:立憲改進党
回数:3回(1期、2期補欠、3期)
前職:大村藩士/新潟県令、元老院議官、東京市会議長
特記:
衆議院副議長
5 片岡健吉(かたおか けんきち)
就任:2554(明治27・1894)年 5月12日
退任:2554(明治27・1894)年 6月 2日(解散)
生年:2504(1844)年2月14日(天保14年12月26日)、50歳
出生:土佐国高知城下中島町(高知県高知市)
学歴:
官職:衆議院議員(高知県第2区)
会派:自由党
回数:3回(1期、2期、3期)
前職:土佐藩士/高知県会議長
特記:
第4回衆議院議員総選挙
改選数:300
投票日:2554(明治27・1894)年9月1日
選挙制度:小選挙区制(一部2人区制)
実施地域:45府県(北海道、沖縄県、小笠原諸島を除く)
選挙権:
直接国税15円以上納税の満25歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
被選挙権:
直接国税15円以上納税の満30歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
宮内官、裁判官、会計検査官、収税官、警察官
管轄区内の府県郡官吏
各選挙区の市町村選挙管理担当吏員
神官、僧侶、教師
選挙結果:
自由党
前回選挙:120
選挙直前:119
獲得議席:107(△12)
立憲改進党
前回選挙:60
選挙直前:51
獲得議席:49(△2)
立憲革新党
前回選挙:新党
選挙直前:40
獲得議席:39(△1)
国民協会
前回選挙:35
選挙直前:26
獲得議席:32(+6)
立憲帝政党
前回選挙:17
選挙直前:14
獲得議席:13(△1)
中国進歩党
前回選挙:新党
選挙直前:
獲得議席: 4
無所属
前回選挙:26
選挙直前:50
獲得議席:55
第7回帝國議會・臨時会
日程
召集:2554(明治27・1894)年 9月22日(官報公示同日)
集会:2554(明治27・1894)年10月15日
開会:2554(明治27・1894)年10月18日
閉会:2554(明治27・1894)年10月22日
会期:5日
議院役員
2 蜂須賀茂韶(はちすか もちあき)
就任:2552(明治25・1892)年 6月14日
退任:
生年:2506(1846)年9月28日(弘化3年8月8日)、48歳
出生:
学歴:英オックスフォード大学卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)
前職:外務省御用掛、駐仏公使
特記:第14代徳島藩主。
第13代徳島藩主・蜂須賀斉裕の次男。斉裕は第11代将軍・徳川家斉の二十二男。
4 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2554(明治27・1894)年10月6日
退任:
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、27歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。
侯爵
衆議院議長
5 楠本正隆(くすもと まさたか)
就任:2554(明治27・1894)年10月15日
退任:
生年:2598(1838)年4月14日(天保9年3月20日)、56歳
出生:肥前国玖島城下岩船(長崎県大村市玖島)
学歴:
官職:衆議院議員(東京府第4区)
会派:立憲改進党
回数:4回(1期、2期補欠、3期、4期)
前職:大村藩士/新潟県令、元老院議官、東京市会議長
特記:
衆議院副議長
6 島田三郎(しまだ さぶろう)
就任:2554(明治27・1894)年10月15日
退任:
生年:2504(1852)年12月17日(嘉永5年11月7日)、41歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:昌平黌、ブラウン塾、沼津兵学校、大学南校、大蔵省附属英学校
官職:衆議院議員(神奈川県第1区)
会派:立憲改進党
回数:4回(1期、2期、3期、4期)
前職:幕臣/元老院書記官、文部省書記官、横浜毎日新聞社長、神奈川県会議長
特記:
第8回帝國議會・通常会
日程
召集:2554(明治27・1894)年11月11日(官報公示同日)
集会:2554(明治27・1894)年12月22日
開会:2554(明治27・1894)年12月24日
閉会:2555(明治28・1895)年 3月23日
会期:90日
議院役員
2 蜂須賀茂韶(はちすか もちあき)
就任:2552(明治25・1892)年 6月14日
退任:
生年:2506(1846)年9月28日(弘化3年8月8日)、48歳
出生:
学歴:英オックスフォード大学卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)
前職:外務省御用掛、駐仏公使
特記:第14代徳島藩主。
第13代徳島藩主・蜂須賀斉裕の次男。斉裕は第11代将軍・徳川家斉の二十二男。
4 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2554(明治27・1894)年10月6日
退任:
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、27歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。
侯爵
衆議院議長
5 楠本正隆(くすもと まさたか)
就任:2554(明治27・1894)年10月15日
退任:
生年:2598(1838)年4月14日(天保9年3月20日)、56歳
出生:肥前国玖島城下岩船(長崎県大村市玖島)
学歴:
官職:衆議院議員(東京府第4区)
会派:立憲改進党
回数:4回(1期、2期補欠、3期、4期)
前職:大村藩士/新潟県令、元老院議官、東京市会議長
特記:
衆議院副議長
6 島田三郎(しまだ さぶろう)
就任:2554(明治27・1894)年10月15日
退任:
生年:2504(1852)年12月17日(嘉永5年11月7日)、41歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:昌平黌、ブラウン塾、沼津兵学校、大学南校、大蔵省附属英学校
官職:衆議院議員(神奈川県第1区)
会派:立憲改進党
回数:4回(1期、2期、3期、4期)
前職:幕臣/元老院書記官、文部省書記官、横浜毎日新聞社長、神奈川県会議長
特記:
第9回帝國議會・通常会
日程
召集:2555(明治28・1895)年11月14日(官報公示15日)
集会:2555(明治28・1895)年12月25日
開会:2555(明治28・1895)年12月28日
停会:2556(明治29・1896)年 2月15日自
2556(明治29・1896)年 2月24日至(10日間)
閉会:2556(明治29・1896)年 3月28日
会期:90日、延長2日
議院役員
2 蜂須賀茂韶(はちすか もちあき)
就任:2552(明治25・1892)年 6月14日
退任:2556(明治29・1896)年10月 3日
生年:2506(1846)年9月28日(弘化3年8月8日)、47歳
出生:
学歴:英オックスフォード大学卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)
前職:外務省御用掛、駐仏公使
特記:第14代徳島藩主。
第13代徳島藩主・蜂須賀斉裕の次男。斉裕は第11代将軍・徳川家斉の二十二男。
4 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2554(明治27・1894)年10月6日
退任:
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、28歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。
侯爵
衆議院議長
5 楠本正隆(くすもと まさたか)
就任:2554(明治27・1894)年10月15日
退任:
生年:2598(1838)年4月14日(天保9年3月20日)、57歳
出生:肥前国玖島城下岩船(長崎県大村市玖島)
学歴:
官職:衆議院議員(東京府第4区)
会派:立憲改進党
回数:4回(1期、2期補欠、3期、4期)
前職:大村藩士/新潟県令、元老院議官、東京市会議長
特記:
衆議院副議長
6 島田三郎(しまだ さぶろう)
就任:2554(明治27・1894)年10月15日
退任:
生年:2504(1852)年12月17日(嘉永5年11月7日)、43歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:昌平黌、ブラウン塾、沼津兵学校、大学南校、大蔵省附属英学校
官職:衆議院議員(神奈川県第1区)
会派:立憲改進党
回数:4回(1期、2期、3期、4期)
前職:幕臣/元老院書記官、文部省書記官、横浜毎日新聞社長、神奈川県会議長
特記:
▽内閣閣僚
内閣総理大臣
11 伊藤博文(いとう ひろぶみ)
就任:2554(明治27・1894)年4月 1日
退任:2556(明治29・1896)年9月18日(内閣総辞職)
生年:2401(1841)年10月16日(天保12年9月2日)、52歳
出生:周防国熊毛郡束荷村(山口県光市束荷)
学歴:松下村塾
官職:貴族院議員(勅選)
前職:長州藩士/幕府内務局出仕、内務奉行並、工務奉行、
農商務大臣、枢密院議長、
内閣総理大臣(8)、枢密院議長
特記:実父は農民。
帝國憲法制定の功により男爵。
日清戦争の功により子爵陞爵。
外務大臣
11 陸奥宗光(むつ むねみつ)
就任:2554(明治27・1894)年4月 1日(留任)
退任:2556(明治29・1896)年5月30日(病気療養のため辞職)
生年:2504(1844)年8月20日(天保15年7月7日)、51歳
出生:紀伊国和歌山(和歌山県和歌山市吹上三丁目)
学歴:神戸海軍操練所
官職:
前職:紀州藩士/太政官大蔵省出仕、外務局出仕、
駐米公使、
農商務大臣、衆議院議員(1期)、枢密顧問官
特記:条約改正の功により男爵叙爵。
日清戦争の功により子爵陞爵。
12 西園寺公望(さいおんじ きんもち)
就任:2556(明治29・1896)年5月30日(前任辞任)
退任:2556(明治29・1896)年9月18日(内閣総辞職)
生年:2509(1849)年12月7日(嘉永2年10月23日)、42歳
出生:山城国京都(京都府京都市)
学歴:ソルボンヌ大学卒業
官職:貴族院議員・勅選議員(侯爵・無所属)
前職:東洋自由新聞社長/
駐墺公使、駐独公使、兼駐白公使/
賞勲局総裁、法典調査会副総裁(総裁は伊藤博文)
特記:文部大臣兼任
内務大臣
12 井上馨(いのうえ かおる)
就任:2554(明治27・1894)年 4月 1日(転官)
退任:2554(明治27・1894)年10月15日(特命全権公使就任)
生年:2496(1836)年1月16日(天保6年11月28日)、58歳
出生:周防国吉敷郡湯田村(山口市湯田温泉二丁目)
学歴:長州藩校明倫館
官職:
前職:長州藩士/太政官大蔵省出仕、幕府大蔵局出向、内務局、内務奉行並、工務奉行、外務奉行、外務次官、農商務大臣
特記:
13 芳川顕正(よしかわ あきまさ)
就任:2554(明治27・1894)年10月15日(再入閣)
退任:2556(明治29・1896)年 4月14日(自由党との提携の為ポスト譲渡)
生年:2502(1842)年1月21日(天保12年12月10日)、52歳
出生:阿波国麻植郡山川町(徳島県吉野川市)
学歴:
官職:
前職:徳島藩士/江戸幕府大蔵局出仕、内務局転任、内務次官、内務大臣
特記:
14 板垣退助(いたがき たいすけ)
就任:2556(明治29・1896)年 4月14日(初入閣)
退任:2556(明治29・1896)年 9月18日(内閣総辞職)
生年:2497(1837)年5月20日(天保8年4月16日)、58歳
出生:土佐国土佐郡高知城下中島町(高知県高知市本町)
学歴:
官職:
前職:土佐藩士/自由党総理
特記:
大蔵大臣
9 渡邊國武(わたなべ くにたけ)
就任:2554(明治27・1894)年4月 1日(留任)
退任:2555(明治28・1895)年8月24日(明治29年度予算案の取扱いを巡り閣内混乱の引責)
生年:2506(1846)年3月29日(弘化3年3月3日)、48歳
出生:信濃国諏訪郡東堀村(長野県岡谷市)
学歴:諏訪高島藩校長善館
官職:
前職:諏訪高島藩士/江戸幕府大蔵局出仕、高知県令、大蔵省調査局長、主計局長、大蔵次官
特記:
10 松方正義(まつかた まさよし)
就任:2555(明治28・1895)年8月24日(再入閣)
退任:2556(明治29・1896)年4月 1日(自由党との提携問題を受けて辞職)
生年:2495(1835)年3月23日(天保6年2月25日)、60歳
出生:薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目)
学歴:藩校造士館
官職:
前職:薩摩藩士/太政官民部省出仕、幕府大蔵局出向、大蔵奉行、大蔵次官、大蔵大臣(3、5)、枢密顧問官
特記:男爵
11 日下部太郎(くさかべ たろう)
就任:2556(明治29・1896)年 4月 1日(再入閣)
退任:2556(明治29・1896)年 9月18日(内閣総辞職)
生年:2505(1845)年7月10日(弘化2年6月6日)、44歳
出生:越前国福井城下江戸町(福井市宝永四丁目)
学歴:米ラトガース大学科学校
官職:
前職:福井藩士/江戸幕府大蔵局出仕、主計部長、大蔵次官
特記:再入閣
陸軍大臣
6 大山巌(おおやま いわお)
就任:2554(明治27・1894)年 4月 1日(留任)
退任:2554(明治27・1894)年 9月25日(第二軍司令官任官)
生年:2502(1842)年11月12日(天保13年10月10日)、51歳
出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市)
学歴:幕臣・江川英龍門下生
官職:陸軍中将
前職:薩摩藩士/スイス・ジュネーブ留学、陸軍次官
特記:男爵
日清戦争の功により子爵陞爵
7 大築尚志(おおつき たかゆき)
就任:2554(明治27・1894)年 9月25日(前任転任)
退任:2556(明治29・1896)年 9月18日(内閣総辞職)
生年:2495(1835)年12月24日(天保6年11月5日)、58歳
出生:下総国印旛郡佐倉(千葉県佐倉市)
学歴:佐倉藩藩校、成徳書院
官職:陸軍中将
前職:佐倉藩士→幕臣/幕府陸軍歩兵差図役、沼津兵学校頭取、陸軍省砲兵局長、砲兵会議議長、監軍部砲兵監、
特記:男爵
日清戦争の功により子爵陞爵
海軍大臣
7 西郷従道(さいごう じゅうどう/つぐみち)
就任:2554(明治27・1894)年4月 1日(留任)
退任:2556(明治29・1896)年9月18日(内閣総辞職)
生年:2503(1843)年6月1日(天保14年5月4日)、50歳
出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市加治屋町)
学歴:
官職:海軍中将→海軍大将
前職:薩摩藩士/江戸幕府陸軍局出仕、歩兵奉行、開拓使転出、内務省工部大学校校長、陸軍参謀本部高級部員、陸軍参謀次長、陸軍次官
特記:男爵
留任
日清戦争の功により子爵陞爵
国民協会会頭
司法大臣
7 井上毅(いのうえ こわし)
就任:2554(明治27・1894)年4月 1日(留任)
退任:2554(明治27・1894)年8月29日(病気療養のため依願免官)
生年:2504(1844)年2月6日(天保14年12月18日)、50歳
出生:肥後国熊本城下坪井町(熊本県熊本市中央区坪井)
学歴:必由堂、熊本藩校時習館、横浜仏語伝習所
官職:枢密院書記官兼任
前職:熊本藩士/太政官大蔵省出仕、幕府司法局出向、内閣書記官、制度取調局
特記:帝國憲法制定の功により男爵叙爵
臨 榎本武揚(えのもと たけあき)
就任:2554(明治27・1894)年8月29日(臨時兼任)
退任:2554(明治27・1894)年9月15日(免兼)
生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、57歳
出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)
学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了
官職:海軍大将
前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、農商務大臣
特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男
男爵
8 丹羽賢(にわ まさる)
就任:2554(明治27・1894)年9月15日(新任)
退任:2556(明治29・1896)年9月18日(内閣総辞職)
生年:2506(1846)年6月26日(弘化3年閏5月3日)、48歳
出生:尾張国名古屋(愛知県名古屋市)
学歴:昌平黌
官職:勅任判事
前職:司法局出仕、民事部長、内閣書記官長(8)
特記:
文部大臣
7 川路太郎(かわじ たろう)
就任:2554(明治27・1894)年 4月 1日(留任)
退任:2554(明治27・1894)年12月 1日(枢密顧問官任命)
生年:2505(1845)年1月28日(弘化元年12月21日)、47歳
出生:武蔵国江戸番町冬青木坂上(東京都)
学歴:蕃書調所、昌平黌、横浜仏語伝習所、英国留学
官職:文部省高等教育局長兼参事官
前職:幕府大蔵局、文部省初等教育局長。文部大臣(5)。
特記:男爵。川路聖謨の孫。
退任日に枢密顧問官に就任。
8 西園寺公望(さいおんじ きんもち)
就任:2554(明治27・1894)年12月 1日(前任辞任)
退任:2556(明治29・1896)年 9月18日(内閣総辞職)
生年:2509(1849)年12月7日(嘉永2年10月23日)、42歳
出生:山城国京都(京都府京都市)
学歴:ソルボンヌ大学卒業
官職:貴族院議員・勅選議員(侯爵・無所属)
前職:東洋自由新聞社長/
駐墺公使、駐独公使、兼駐白公使/
賞勲局総裁、法典調査会副総裁(総裁は伊藤博文)
特記:外務大臣兼任(2556(明治29・1896)年5月30日)
農商務大臣
10 河野敏鎌(こうの とがま)
就任:2554(明治27・1894)年4月 1日(新任)
退任:2556(明治29・1896)年9月18日(内閣総辞職)
(2552(明治25・1892)年3月11日任~ )
生年:2504(1844)年11月29日(天保15年10月20日)、48歳
出生:土佐国高知城下(高知県高知市)
学歴:
官職:
前職:土佐藩士/太政官刑部省出仕、幕府司法局出向、元老院議官、退官、立憲改進党副総理、枢密顧問官
特記:初入閣。立憲改進党系。
逓信大臣
5 榎本武揚(えのもと たけあき)
就任:2554(明治27・1894)年4月 1日(留任)
退任:2556(明治29・1896)年9月18日(内閣総辞職)
生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、57歳
出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)
学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了
官職:海軍大将
前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、農商務大臣
特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男
男爵
司法大臣臨時代理
内閣書記官長
11 伊東巳代治(いとう みよじ)
就任:2554(明治27・1894)年4月 1日(新任)
退任:2556(明治29・1896)年9月18日(内閣総辞職)
生年:2517(1857)年5月29日(安政4年5月7日)、36歳
出生:肥前国長崎(長崎県長崎市)
学歴:長崎英語伝習所
官職:
前職:内務局出仕、元老院書記官、制度取調局御用掛、枢密院書記官、首相秘書官(伊藤博文)、枢密院書記官長
特記:男爵綬爵(2555(明治28・1895)年)
法制局長官
7 末松謙澄(すえまつ けんちょう)
就任:2554(明治27・1894)年4月 1日(新任)
退任:
生年:2515(1855)年9月30日(安政2年8月20日))、38歳
出生:豊前国前田村(福岡県行橋市前田)
学歴:東京師範学校中退、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン、ケンブリッジ大学卒業
官職:前衆議院議員
貴族院議員・華族議員(男爵・1期補欠・無所属)
前職:東京日日新聞記者、英国留学、文部省参事官、内務省参事官、内務省県治局長
衆議院議員(当選回数3回、1期~3期、福岡県第8区)
特記:大庄屋役末松房澄の4男
伊藤博文女婿
男爵綬爵(2555(明治28・1895)年10月31日)
貴族院議員(2556(明治29・1896)年6月25日)
―――――
12代 第三次小栗忠順内閣(2556(明治29・1896)年9月18日~2557(明治30・1897)年12月20日)
▽来歴・概要
元幕臣、貴族院伯爵議員、貴族院院内会派研究会常務委員。
69歳という当時としても高齢で内閣を率い、顕職としてはこの内閣が最後となった。
前政権末期に伊東巳代治内閣書記官長を通じてガス抜き目的に進歩党を与党扱いするという話を聞かされていた自由党幹部は、元勲集団からの「決して粗略には扱わない」という言葉を受け容れて、しばらくの間は「おとなしく」推移を見守ることを約束していた。
新内閣は、外務大臣に大隈重信伯爵を迎えることで進歩党との提携関係を明らかにしたほか、内閣書記官長には進歩党入りしていた奥平昌邁(おくだいら まさゆき)伯爵を迎えた。奥平家は德川家康の長女亀姫が嫁いだ奥平信昌を祖に持つ御家門の家柄であり、江戸時代末期には豊前中津10万石の大名家であった。奥平は幕末期の最後の藩主であり、家長の地位にありながら明治維新後に米国留学を行っている。帰国後は、東京府芝区長に就任するなどの行政家としての一定の業績を持っていた。また、大隈重信と懇意にしている慶應義塾の福澤諭吉とも親しい間柄であり(福沢は豊前中津藩出身)、その縁が彼を登用する背景にあった。大隈と奥平以外の政党員からの国務大臣起用はなかったものの当時勅任官であった各省参事官(現在の政務次官や参与官に相当)の半数を政党員から起用することとなった。
この内閣において取り組まれた仕事が金本位制確立を目指した貨幣法の制定であった。日清戦争により獲得した賠償金を元手として松方蔵相の手により作成された貨幣法案は第10議会に於て成立した。「純金ノ量目二分(0.2匁=750瓱(ミリグラム))ヲ以テ價格ノ單位ト爲シ之ヲ圓ト稱ス」ることが定められ、日本は金本位制を採用することとなった。この功績により松方は財政家としての地位を確立するに至った。
卓越した財政家が政治家として有能であるか否かということは必ずしも等しくない。松方は財政難解決及び経済成長により国民の所得が向上していることを背景に地租増徴の方針を打ち出した。小栗以下の閣内有力者層は、松方の増税の方針に大体の賛意を示していたが、これには提携連立関係を結んでいた進歩党が反発した。政権と進歩党の間で折衝が行われたが、進歩党は2557(明治30・1897)年10月31日、党内会議にて提携断絶を決議した。大隈党首はこれを受けて11月6日に外相を辞任して、他の進歩党員ともども閣外に去った。
帝國議會に基盤を持たなくなった小栗は、自由党に接近し、基盤を確保しようとした。党内非主流派の松田正久を窓口に交渉を行い、松田は大臣2枠、知事5枠、自党政見採用を条件に話をまとめるに至る。しかし、小栗の誤算は、自由党の窓口が伊藤であったということをはき違えたということだった。小栗自身、自由党幹部と伊藤が長年の交際を経て信義を交わしてきたことを知っていたため、そこに割って入るという形ではなく、非主流派の松田を窓口として交渉した。だが、これが自由党の主流派には分派を誘うような行動ととらえられてしまった。この結果、林有造ら主流派との間で路線対立となり、12月15日の党大会において、自由党は松田の提案した政権入りを否決する。
自由党の政権入りの拒否には、地租増徴の方針を明確に撤回しなかったこともまた大きい。地租増徴の方針を降ろさない松方蔵相と再度の調整という名目で一時棚上げを主張する閣外の伊藤との間の板挟みの形となった小栗は過労で倒れる。70歳を超えていた小栗にこれ以上の政権運営を期待するのは難しく、小栗は退陣を決意する。元老は、後継首班に貴族院院内会派研究会常務委員であり、国民協会幹事を兼任していた榎本武揚伯爵を推薦した。松方や伊藤の再登板という話もあったが、両者ともに争う中では片一方に大命降下するというのも難しく、また国民協会の会頭であった西郷従道も松方と同じく薩摩出身ということで難しいとされた。
▽在任中の主な出来事
・金本位制確立
・
▽内閣の出した主な法令
・貨幣法制定
・
▽内閣の対応した帝國議会
・第10回帝國議會・通常会
日程
召集:2556(明治29・1896)年11月 6日(官報公示7日)
集会:2556(明治29・1896)年12月22日
開会:2556(明治29・1896)年12月25日
閉会:2557(明治30・1897)年 3月24日
議院役員
3 近衛篤麿(このえ あつまろ)
就任:2556(明治29・1896)年10月 3日
退任:
生年:2523(1863)年8月10日(文久3年6月26日)、33歳
出生:山城国京都(京都府京都市)
学歴:独ボン大学、ライプツィヒ大学
官職:貴族院議員・華族議員(公爵・無所属)、学習院院長
前職:
特記:近衛家第29代当主。
4 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2554(明治27・1894)年10月6日
退任:
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、28歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。
侯爵
衆議院議長
6 鳩山 和夫(はとやま かずお)
就任:2556(明治29・1896)年12月22日
退任:
生年:2516(1856)年5月6日(安政3年4月3日)、40歳
出生:武蔵国江戸虎門(東京都港区虎ノ門)
学歴:開成学校卒業。米コロンビア大学卒業。米イェール大学大学院卒業。
官職:衆議院議員(東京府第9区)
会派:進歩党
回数:2回(3期、4期)
前職:東京代言人組合会長。外務省書記官、取締局長。東京帝国大学教授。東京専門学校校長。
特記:美作勝山藩士・鳩山十右衛門博房の四男
衆議院副議長
6 島田三郎(しまだ さぶろう)
就任:2554(明治27・1894)年10月15日
退任:
生年:2504(1852)年12月17日(嘉永5年11月7日)、43歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:昌平黌、ブラウン塾、沼津兵学校、大学南校、大蔵省附属英学校
官職:衆議院議員(神奈川県第1区)
会派:立憲改進党
回数:4回(1期、2期、3期、4期)
前職:幕臣/元老院書記官、文部省書記官、横浜毎日新聞社長、神奈川県会議長
▽内閣閣僚
内閣総理大臣
12 小栗忠順(おぐり ただまさ)
就任:2556(明治29・1896)年 9月18日(就任)
退任:2557(明治30・1897)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2487(1827)年7月16日(文政10年6月23日)、69歳
出生:武蔵国江戸駿河台(東京都)
学歴:
官職:貴族院議員・華族議員(伯爵・1期・無所属)
前職:江戸幕府外国奉行、勘定奉行、歩兵奉行、軍艦奉行、若年寄
法制局長官(1)、内閣書記官長(2)、内務大臣(3)、内閣総理大臣(4、7)
貴族院議長(1)
特記:旗本小栗忠高の子。三河小栗氏第12代当主。
永年の功績、帝國議会開設の功により伯爵陞爵
外務大臣
12 西園寺公望(さいおんじ きんもち)
就任:2556(明治29・1896)年 9月18日(留任)
退任:2556(明治29・1896)年 9月22日(免兼)
生年:2509(1849)年12月7日(嘉永2年10月23日)、46歳
出生:山城国京都(京都府京都市)
学歴:ソルボンヌ大学卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)
前職:東洋自由新聞社長/
駐墺公使、駐独公使、兼駐白公使/
賞勲局総裁、法典調査会副総裁(総裁は伊藤博文)
特記:文部大臣兼任
13 大隈重信(おおくま しげのぶ)
就任:2556(明治29・1896)年 9月22日(新任)
退任:2557(明治30・1897)年11月 6日(進歩党の政権離脱により辞任)
生年:2498(1838)年3月11日(天保9年2月16日)、58歳
出生:肥前国佐賀郡佐賀城下会所小路(佐賀県佐賀市水ヶ江町)
学歴:佐賀藩校弘道館
官職:
前職:佐賀藩士/太政官治部省出仕、幕府外務局出向、大蔵局転任、大蔵奉行、大蔵次官、大蔵大臣、外務大臣
特記:
14 西徳二郎(にし とくじろう)
就任:2557(明治30・1897)年11月 6日(新任)
退任:2557(明治30・1897)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2498(1847)年9月4日(弘化4年7月25日)、40歳
出生:薩摩国鹿児島城下樋之口町(鹿児島県鹿児島市)
学歴:薩摩藩校造士館、昌平黌、露サンクトペテルブルク大学法政科卒業
官職:特命全権公使
前職:薩摩藩士/サンクトペテルブルク大学留学、卒後同大学東洋学部講師、フランス公使館書記官、駐露公使、枢密顧問官
特記:
内務大臣
14 板垣退助(いたがき たいすけ)
就任:2556(明治29・1896)年 9月18日(留任)
退任:2556(明治29・1896)年 9月20日(依願免本官)
生年:2497(1837)年5月20日(天保8年4月16日)、59歳
出生:土佐国土佐郡高知城下中島町(高知県高知市本町)
学歴:
官職:
前職:土佐藩士/自由党総理
特記:
15 榎本武揚(えのもと たけあき)
就任:2556(明治29・1896)年 9月20日(留任)
退任:2557(明治30・1897)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、59歳
出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)
学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了
官職:海軍大将
前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、農商務大臣
特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男
男爵
司法大臣臨時代理
大蔵大臣
12 松方正義(まつかた まさよし)
就任:2556(明治29・1896)年 9月18日(留任)
退任:2557(明治30・1897)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2495(1835)年3月23日(天保6年2月25日)、61歳
出生:薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目)
学歴:藩校造士館
官職:
前職:薩摩藩士/太政官民部省出仕、幕府大蔵局出向、大蔵奉行、大蔵次官、大蔵大臣(3、5)、枢密顧問官
特記:男爵。金本位制確立の功で子爵陞爵。
再入閣。
陸軍大臣
7 大築尚志(おおつき たかゆき)
就任:2556(明治29・1896)年 9月18日(留任)
退任:2557(明治30・1897)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2495(1835)年12月24日(天保6年11月5日)、60歳
出生:下総国印旛郡佐倉(千葉県佐倉市)
学歴:佐倉藩藩校、成徳書院
官職:陸軍中将
前職:佐倉藩士→幕臣/幕府陸軍歩兵差図役、沼津兵学校頭取、陸軍省砲兵局長、砲兵会議議長、監軍部砲兵監、
特記:男爵
日清戦争の功により子爵陞爵
海軍大臣
7 西郷従道(さいごう じゅうどう/つぐみち)
就任:2556(明治29・1896)年 9月18日(留任)
退任:2557(明治30・1897)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2503(1843)年6月1日(天保14年5月4日)、53歳
出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市加治屋町)
学歴:
官職:海軍大将
前職:薩摩藩士/江戸幕府陸軍局出仕、歩兵奉行、開拓使転出、内務省工部大学校校長、陸軍参謀本部高級部員、陸軍参謀次長、陸軍次官
特記:男爵
留任
日清戦争の功により子爵陞爵
国民協会会頭
司法大臣
8 丹羽賢(にわ まさる)
就任:2556(明治29・1896)年 9月18日(留任)
退任:2557(明治30・1897)年 2月18日(依願免本官)
生年:2506(1846)年6月26日(弘化3年閏5月3日)、48歳
出生:尾張国名古屋(愛知県名古屋市)
学歴:昌平黌
官職:勅任判事
前職:司法局出仕、民事部長、内閣書記官長(8)
特記:
8 清浦奎吾(きようら けいご)
就任:2557(明治30・1897)年9月15日(新任)
退任:2557(明治30・1897)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2510(1850)年3月27日(嘉永3年2月14日)、44歳
出生:肥後国山鹿郡上御宇田村(熊本県山鹿市鹿本町来民)
学歴:咸宜園
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選・研究会)
前職:司法官僚、内務省警保局長、司法次官
特記:
文部大臣
8 西園寺公望(さいおんじ きんもち)
就任:2556(明治29・1896)年 9月18日(留任)
退任:2556(明治29・1896)年 9月26日(依願免本官)
生年:2509(1849)年12月7日(嘉永2年10月23日)、46歳
出生:山城国京都(京都府京都市)
学歴:ソルボンヌ大学卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)
前職:東洋自由新聞社長/
駐墺公使、駐独公使、兼駐白公使/
賞勲局総裁、法典調査会副総裁(総裁は伊藤博文)
特記:外務大臣兼任(2556(明治29・1896)年5月30日)
9 蜂須賀茂韶(はちすか もちあき)
就任:2556(明治29・1896)年 9月26日(新任)
退任:2557(明治30・1897)年11月 6日(依願免本官)
生年:2506(1846)年9月28日(弘化3年8月8日)、40歳
出生:
学歴:英オックスフォード大学卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)
前職:外務省御用掛、駐仏公使、貴族院議長
特記:第14代徳島藩主。
第13代徳島藩主・蜂須賀斉裕の次男。斉裕は第11代将軍・徳川家斉の二十二男。
10 濱尾新(はまお あらた)
就任:2557(明治30・1897)年11月 6日(新任)
退任:2557(明治30・1897)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2509(1849)年5月12日(嘉永2年4月20日)、48歳
出生:但馬国城崎郡豊岡(兵庫県豊岡市)
学歴:慶應義塾、米オークランド兵学校
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選・無所属)
前職:外務省御用掛、文部省専門学務局長、(東京)帝国大学第3代総長
特記:ケンブリッジ大学名誉法学博士
農商務大臣
10 河野敏鎌(こうの とがま)
就任:2556(明治29・1896)年 9月18日(留任)
退任:2556(明治29・1896)年 9月25日(依願免本官)
生年:2504(1844)年11月29日(天保15年10月20日)、51歳
出生:土佐国高知城下(高知県高知市)
学歴:
官職:
前職:土佐藩士/太政官刑部省出仕、幕府司法局出向、元老院議官、退官、立憲改進党副総理、枢密顧問官
特記:進歩党系。
11 甲賀秀虎(こうが ひでとら)
就任:2556(明治29・1896)年 9月25日(新任)
退任:2557(明治30・1897)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2499(1839)年2月16日(天保10年1月3日)、57歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:長崎海軍伝習所
官職:予備役海軍少将、貴族院議員・勅任議員(勅選・研究会)
前職:掛川藩士→幕臣/幕府軍艦頭、海軍省水路局長、内務省御用掛、農商務省参事官、同次官
特記:遠江国掛川藩家臣、甲賀孫太夫秀孝の第4子。
逓信大臣
5 榎本武揚(えのもと たけあき)
就任:2556(明治29・1896)年 9月18日(留任)
退任:2556(明治29・1896)年 9月22日(内務大臣へ転官)
生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、57歳
出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)
学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了
官職:海軍大将
前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、農商務大臣
特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男
男爵
6 白根専一(しらね せんいち)
就任:2556(明治29・1896)年 9月22日(新任)
退任:2557(明治30・1897)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2510(1850)年2月3日(嘉永2年12月22日)、54歳
出生:長門国萩(山口県萩市)
学歴:長州藩校明倫館、慶應義塾
官職:貴族院議員・華族議員(男爵・1期補欠・研究会)
前職:司法省、内務省、大蔵省勤務、愛媛県知事、愛知県知事、内務次官、宮内省御用掛、同内蔵頭
特記:男爵
内閣書記官長
12 奥平昌邁(おくだいら まさゆき)
就任:2556(明治29・1896)年 9月18日(就任)
退任:2557(明治30・1897)年11月 6日(進歩党の政権離脱により辞任)
生年:2517(1855)年5月16日(安政2年4月1日)、41歳
出生:
学歴:慶應義塾、米国留学
官職:従五位下・美作守
前職:東京府会議員、東京府芝区長
特記:伊予国宇和島藩第8代藩主・伊達宗城の四男。 豊前国中津藩第8代藩主奥平昌服の養子。
伯爵。
13 細谷安太郎(ほそや やすたろう)
就任:2557(明治30・1897)年11月 6日(新任)
退任:2557(明治30・1897)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2511(1851)年4月27日(嘉永4年3月26日)、46歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:横浜仏語伝習所
官職:予備役陸軍砲兵大佐・貴族院議員・華族議員(男爵・1期・研究会)
前職:江戸幕府陸軍砲兵差図役(砲兵中尉)、陸軍局教育部砲兵課長、内務局転任、工務局長
特記:
法制局長官
7 末松謙澄(すえまつ けんちょう)
就任:2554(明治27・1894)年 4月 1日(留任)
退任:2557(明治30・1897)年 4月 1日(依願免本官)
生年:2515(1855)年9月30日(安政2年8月20日)、38歳
出生:豊前国前田村(福岡県行橋市前田)
学歴:東京師範学校中退、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン、ケンブリッジ大学卒業
官職:前衆議院議員
貴族院議員・華族議員(男爵・1期補欠・無所属)
前職:東京日日新聞記者、英国留学、文部省参事官、内務省参事官、内務省県治局長
衆議院議員(当選回数3回、1期~3期、福岡県第8区)
特記:大庄屋役末松房澄の4男
伊藤博文女婿
男爵綬爵(2555(明治28・1895)年10月31日)
貴族院議員(2556(明治29・1896)年6月25日)
8 梅謙次郎(うめ けんじろう)
就任:2554(明治27・1894)年 4月 1日(新任)
退任:
生年:2520(1860)年7月24日(万延元年6月7日)、33歳
出生:出雲国意宇郡松江灘町(現・島根県松江市)
学歴:東京外国語学校仏語科首席卒業、司法省法学校首席卒業、仏リヨン大学法学博士課程首席卒業
官職:
前職:帝国大学法科大学教授、民法商法施行取調委員、法典調査会民法起草委員、東京帝国大学法科大学長
特記:
―――――
13代 榎本武揚内閣(2557(明治30・1897)年12月20日~2558(明治31・1898)年8月17日)
▽来歴・概要
元幕臣、予備役海軍大将、貴族院勅選議員、貴族院院内会派研究会常務委員、国民協会幹事。海軍出身者で初の首相。
組閣直後に第11議会が開会したが、榎本は機先を制して衆議院解散を断行した。開院式直後という冒頭解散に自由党・進歩党共に反発した。
榎本の勝算は、自身の実業家としての顔にあった。幕府海軍時代から北方防衛の必要性について言及していた榎本は、蝦夷地の殖民についての建白書を提出するとともに、蝦夷地の開発を主張していた。榎本は、北海道の開拓を担う開拓使長官に任命され、石狩山地にて空知炭田を発見した。この炭田の開発が縁となり、三井三菱住友といった財閥とも縁を持ち、実業家としての顔も持ち合わせていた。また、幕臣としての顔も持つことから全国の士族層から好意的な印象もあったこともまた彼に有利に働いた。
年が明けて明治31年3月15日の第5回選挙において、国民協会は前回議席50増の76議席を獲得して、躍進した。しかし、それでも、第三党の位置であり、開戦前からわずかに議席を減らしたとはいえ、自由党92議席、進歩党86議席には及ばない勢力であった。
榎本は、衆議院解散後に自由党の板垣、進歩党の大隈と会談を行った。榎本は天保7(2496・1836)年生まれ、板垣は天保8(2497・1837)年、大隈は天保9年(2498・1838)年と歳も近く、少なくとも彼らよりも年若くして顕職に就いた伊藤(天保12年生まれ)に対してよりは榎本に対する板垣と大隈の印象は悪くはなかった。しかも、自分たちに及ばずとは言い、国民協会の党勢を回復させた手腕は議会政治家としては一目を置かざるを得なかった。
更に同年3月27日に露清条約が締結され、ロシア帝国が関東州(旅順・大連)を清国から租借した。また、ロシアが進出した遼東半島の対岸の山東半島でも威海衛や膠州湾をイギリスやドイツが進出してきており、日本周辺の情勢が怪しくなってきていた。このような経緯で、軍拡を含めた早期の予算成立が望まれる状況に合った。帝國憲法はその71條で、予算が成立していない場合は政府は前年度の予算を執行すべきことを定めており、国家運営には支障はなかったが、対ロシアを睨んだ軍備増強などの政策を実現していくためには、新たな予算を成立させることが重要であった。この点において、板垣と大隈は同意しており、少なくとも明治31年度予算の成立までは政争を起こさないことで合意した。
明治31年度予算を審議する第12議会は、明治31年4月1日に召集の詔書が渙発され、5月19日に開院式を迎えた。軍拡を含めた予算案は審議開始からわずか10日というスピードで衆議院を通過し、貴族院の審議に移った。予算通過後の衆議院では榎本首相が主導する衆議院議員選挙法改正案の審議が本格化した。改正法案は、新たに北海道に選挙区を設置することを予定しており、榎本の地盤とも言うべき北海道を起点とした国民協会の政局を拡大させようという意図が含まれていた。衆議院では野党がこれを廃案に追い込み、これを不服とした榎本は衆議院の解散を決断した。貴族院で年度予算案が成立したあとの6月11日衆議院の解散詔書が渙発された。
短期間での再度の解散という強硬的な政権運営に対して元老集団は思うところがあったものの、衆議院解散に関する輔弼の責任を負うのは内閣総理大臣であったことから、元老集団は静観した。しかし、解散直後の6月23日、自由党(板垣退助総理)と進歩党(大隈重信党首)が合同して、憲政党を結党した。172議席を有する巨大政党の誕生に対して、元老集団は榎本を非難した。特に、自由党主流派との間にパイプを持っていた伊藤博文は、今後そのパイプが使えなくなることを主張し、大隈たちを追い込んだ榎本を論難した。
8月10日に行われた第6回選挙において、国民協会は改選時5議席増の84議席を獲得した。しかし、憲政党は改選時10議席増の182議席を獲得して絶対的な多数を確保した。帝國議會始まって以来の過半数を占める政党の誕生となり、元老集団は危機感を抱いた。榎本首相は衆議院選挙での敗北を認めて退陣を決意した。
榎本は元老に対して後継首班を憲政党から出すことを主張した。これには大久保や小栗、松方山縣といった多数が難色を示したが、伊藤が賛成した。伊藤は憲政党は結党直後の状況であり、内部内部がいまだ強固ではなく、早々に分裂すると指摘し、また自身も離反工作を進めることを主張した。こうして、大隈と板垣両名に対して大命降下が行われ、大隈首相と板垣内相による隈板内閣が誕生した。
▽在任中の主な出来事
・欧米列強諸国による清国分割
・衆議院議員選挙法案(北海道選挙区設置)
・西・ローゼン協定
・憲政党結成(自由党と進歩党との合同)
・
▽内閣の出した主な法令
・衆議院議員選挙法案
・
▽内閣の対応した帝國議会
第11回帝國議會・通常会
日程
召集:2557(明治30・1897)年11月 9日(官報公示10日)
集会:2557(明治30・1897)年12月21日
開会:2557(明治30・1897)年12月24日
解散:2557(明治30・1897)年12月25日
会期:90日、2日
議院役員
3 近衛篤麿(このえ あつまろ)
就任:2556(明治29・1896)年10月 3日
退任:
生年:2523(1863)年8月10日(文久3年6月26日)、34歳
出生:山城国京都(京都府京都市)
学歴:独ボン大学、ライプツィヒ大学
官職:貴族院議員・華族議員(公爵・無所属)、学習院院長
前職:
特記:近衛家第29代当主。
4 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2554(明治27・1894)年10月6日
退任:
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、30歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。
侯爵
衆議院議長
6 鳩山 和夫(はとやま かずお)
就任:2556(明治29・1896)年12月22日
退任:2557(明治30・1897)年12月25日(解散)
生年:2516(1856)年5月6日(安政3年4月3日)、41歳
出生:武蔵国江戸虎門(東京都港区虎ノ門)
学歴:開成学校卒業。米コロンビア大学卒業。米イェール大学大学院卒業。
官職:衆議院議員(東京府第9区)
会派:進歩党
回数:2回(3期、4期)
前職:東京代言人組合会長。外務省書記官、取締局長。東京帝国大学教授。東京専門学校校長。
特記:美作勝山藩士・鳩山十右衛門博房の四男
衆議院副議長
6 島田三郎(しまだ さぶろう)
就任:2554(明治27・1894)年10月15日
退任:2557(明治30・1897)年12月25日(解散)
生年:2504(1852)年12月17日(嘉永5年11月7日)、45歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:昌平黌、ブラウン塾、沼津兵学校、大学南校、大蔵省附属英学校
官職:衆議院議員(神奈川県第1区)
会派:立憲改進党
回数:4回(1期、2期、3期、4期)
前職:幕臣/元老院書記官、文部省書記官、横浜毎日新聞社長、神奈川県会議長
第5回衆議院議員総選挙
改選数:300
投票日:2558(明治31・1898)年3月15日
選挙制度:小選挙区制(一部2人区制)
実施地域:45府県(北海道、沖縄県、小笠原諸島を除く)
選挙権:
直接国税15円以上納税の満25歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
被選挙権:
直接国税15円以上納税の満30歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
宮内官、裁判官、会計検査官、収税官、警察官
管轄区内の府県郡官吏
各選挙区の市町村選挙管理担当吏員
神官、僧侶、教師
選挙結果:
自由党
前回選挙:107
選挙直前:98
獲得議席:92(△6)
進歩党
前回選挙:新党
選挙直前:91
獲得議席:86(△5)
国民協会
前回選挙:32
選挙直前:26
獲得議席:76(+50)
立憲帝政党
前回選挙:13
選挙直前:14
獲得議席:13(△1)
同志倶楽部
前回選挙:新党
選挙直前:
獲得議席: 9
山下倶楽部
前回選挙:新党
選挙直前:
獲得議席: 8
無所属
前回選挙:
選挙直前:
獲得議席:17
第12回帝國議會・臨時会(特別会)
日程
召集:2558(明治31・1898)年 4月 1日(官報公示2日)
集会:2558(明治31・1898)年 5月14日
開会:2558(明治31・1898)年 5月19日
停会:2558(明治31・1898)年 6月 7日自
2558(明治31・1898)年 6月 9日至(3日間)
解散:2558(明治31・1898)年 6月10日
会期:21日、延長7日、実数23日
議院役員
3 近衛篤麿(このえ あつまろ)
就任:2556(明治29・1896)年10月 3日
退任:
生年:2523(1863)年8月10日(文久3年6月26日)、34歳
出生:山城国京都(京都府京都市)
学歴:独ボン大学、ライプツィヒ大学
官職:貴族院議員・華族議員(公爵・無所属)、学習院院長
前職:
特記:近衛家第29代当主。
4 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2554(明治27・1894)年10月6日
退任:
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、30歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。
侯爵
衆議院議長
7 片岡健吉(かたおか けんきち)
就任:2558(明治31・1898)年 5月15日
退任:2558(明治31・1898)年 6月10日(解散)
生年:2504(1844)年2月14日(天保14年12月26日)、54歳
出生:土佐国高知城下中島町(高知県高知市)
学歴:
官職:衆議院議員(高知県第2区)
会派:自由党
回数:5回(1期~5期)
前職:土佐藩士/高知県会議長
特記:
衆議院副議長
6 元田肇(もとだ はじめ)
就任:2558(明治31・1898)年 5月15日
退任:2558(明治31・1898)年 6月10日(解散)
生年:2518(1858)年2月28日(安政5年1月15日)、40歳
出生:豊後国国東郡来浦村(大分県国東市国東町来浦)
学歴:東京大学法科卒業
官職:衆議院議員(大分県第5区)
会派:国民協会
回数:5回(1期~5期)
前職:衆議院副議長
特記:
第6回衆議院議員総選挙
改選数:300
投票日:2558(明治31・1898)年8月10日
選挙制度:小選挙区制(一部2人区制)
実施地域:45府県(北海道、沖縄県、小笠原諸島を除く)
選挙権:
直接国税15円以上納税の満25歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
被選挙権:
直接国税15円以上納税の満30歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
宮内官、裁判官、会計検査官、収税官、警察官
管轄区内の府県郡官吏
各選挙区の市町村選挙管理担当吏員
神官、僧侶、教師
選挙結果:
憲政党
前回選挙:新党
選挙直前:172
獲得議席:182(+10)
国民協会
前回選挙:76
選挙直前:79
獲得議席:84(+5)
立憲帝政党
前回選挙:13
選挙直前:13
獲得議席:11(△2)
日吉倶楽部
前回選挙:新党
選挙直前:
獲得議席: 6
無所属
前回選挙:
選挙直前:
獲得議席:17
▽内閣閣僚
内閣総理大臣
13 榎本武揚(えのもと たけあき)
就任:2557(明治30・1897)年12月20日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年 8月17日(内閣総辞職)
生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、61歳
出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)
学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了
官職:予備役海軍大将、貴族院議員・勅任議員(勅選・研究会)
前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、逓信大臣、農商務大臣、内務大臣
特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男
男爵
内閣総理大臣任命と同時に予備役編入願
内閣総理大臣任命と同時に貴族院勅選議員任命
内務大臣兼任
外務大臣
14 西徳二郎(にし とくじろう)
就任:2557(明治30・1897)年12月20日(留任)
退任:2558(明治31・1898)年 8月17日(内閣総辞職)
生年:2498(1847)年9月4日(弘化4年7月25日)、40歳
出生:薩摩国鹿児島城下樋之口町(鹿児島県鹿児島市)
学歴:薩摩藩校造士館、昌平黌、露サンクトペテルブルク大学法政科卒業
官職:特命全権公使
前職:薩摩藩士/サンクトペテルブルク大学留学、卒後同大学東洋学部講師/
フランス公使館書記官、駐露公使/
枢密顧問官
特記:
内務大臣
16 白根専一(しらね せんいち)
就任:2557(明治30・1897)年12月20日(留任)
退任:2558(明治31・1898)年 3月21日(病気療養の為辞職)
生年:2510(1850)年2月3日(嘉永2年12月22日)、57歳
出生:長門国萩(山口県萩市)
学歴:長州藩校明倫館、慶應義塾
官職:貴族院議員・華族議員(男爵・1期補欠・研究会)
前職:司法省、内務省、大蔵省勤務、愛媛県知事、愛知県知事、内務次官、宮内省御用掛、同内蔵頭、逓信大臣(6)
特記:男爵
17 榎本武揚(えのもと たけあき)
就任:2558(明治31・1898)年 3月21日(兼任)
退任:2558(明治31・1898)年 4月 3日(免兼)
生年:2496(1836)年10月5日(天保7年8月25日)、61歳
出生:武蔵国江戸下谷御徒町(東京都台東区浅草橋)
学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了
官職:海軍大将
前職:江戸幕府軍艦頭、海軍副総裁、開拓使長官、駐露公使、農商務大臣
特記:西丸御徒目付・榎本武規の次男
男爵
内閣総理大臣兼任
18 細谷安太郎(ほそや やすたろう)
就任:2558(明治31・1898)年 4月 3日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年 8月17日(内閣総辞職)
生年:2511(1851)年4月27日(嘉永4年3月26日)、46歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:横浜仏語伝習所
官職:予備役陸軍砲兵大佐・貴族院議員・華族議員(男爵・1期・研究会)
前職:江戸幕府陸軍砲兵差図役(砲兵中尉)、陸軍局教育部砲兵課長、内務局転任、工務局長、内閣書記官長
特記:初入閣
大蔵大臣
12 井上馨(いのうえ かおる)
就任:2557(明治30・1897)年12月20日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年 8月17日(内閣総辞職)
生年:2496(1836)年1月16日(天保6年11月28日)、61歳
出生:周防国吉敷郡湯田村(山口市湯田温泉二丁目)
学歴:長州藩校明倫館
官職:
前職:長州藩士/太政官大蔵省出仕、幕府大蔵局出向、内務局、内務奉行並、工務奉行、外務奉行、外務次官、農商務大臣
特記:
陸軍大臣
7 大築尚志(おおつき たかゆき)
就任:2557(明治30・1897)年12月20日(留任)
退任:2558(明治31・1898)年 4月 1日(依願免本官)
生年:2495(1835)年12月24日(天保6年11月5日)、60歳
出生:下総国印旛郡佐倉(千葉県佐倉市)
学歴:佐倉藩藩校、成徳書院
官職:陸軍中将→陸軍大将
前職:佐倉藩士→幕臣/幕府陸軍歩兵差図役、沼津兵学校頭取、陸軍省砲兵局長、砲兵会議議長、監軍部砲兵監
特記:子爵
8 桂太郎(かつら たろう)
就任:2558(明治31・1898)年 4月 1日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年 8月17日(内閣総辞職)
生年:2508(1848)年1月4日(弘化4年11月28日)、50歳
出生:長門国阿武郡萩町(山口県萩市)
学歴:ドイツ留学
官職:陸軍中将
前職:長州藩士/陸軍次官、第三師団長、台湾総督
特記:
海軍大臣
7 西郷従道(さいごう じゅうどう/つぐみち)
就任:2557(明治30・1897)年12月20日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年 8月17日(内閣総辞職)
生年:2503(1843)年6月1日(天保14年5月4日)、53歳
出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市加治屋町)
学歴:
官職:海軍大将→元帥海軍大将
前職:薩摩藩士/江戸幕府陸軍局出仕、歩兵奉行、開拓使転出、内務省工部大学校校長、陸軍参謀本部高級部員、陸軍参謀次長、陸軍次官
特記:男爵
留任
日清戦争の功により子爵陞爵
国民協会会頭
司法大臣
10 伊東巳代治(いとう みよじ)
就任:2557(明治30・1897)年12月20日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年 4月26日(自由党との連立交渉失敗の為)
生年:2517(1857)年5月29日(安政4年5月7日)、40歳
出生:肥前国長崎(長崎県長崎市)
学歴:長崎英語伝習所
官職:
前職:内務局出仕、元老院書記官、制度取調局御用掛、枢密院書記官、伊藤博文首相秘書官
特記:男爵
初入閣
11 金子 堅太郎(かねこ けんたろう)
就任:2558(明治31・1898)年 4月26日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年 8月17日(内閣総辞職)
生年:2513(1853)年3月13日(嘉永6年2月4日)、44歳
出生:筑前国早良郡鳥飼村(福岡県福岡市中央区鳥飼)
学歴:福岡藩校・修猷館、米ハーバード大学卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選・研究会)
前職:元老院書記官、制度取調局御用掛、枢密院書記官、伊藤博文首相秘書官
特記:初入閣
文部大臣
11 西園寺公望(さいおんじ きんもち)
就任:2557(明治30・1897)年12月20日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年 4月30日(依願免本官)
生年:2509(1849)年12月7日(嘉永2年10月23日)、48歳
出生:山城国京都(京都府京都市)
学歴:ソルボンヌ大学卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵・無所属)
前職:東洋自由新聞社長/
駐墺公使、駐独公使、兼駐白公使/
賞勲局総裁、法典調査会副総裁(総裁は伊藤博文)
特記:
12 外山正一(とやま まさかず)
就任:2558(明治31・1898)年 4月30日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年 8月17日(内閣総辞職)
生年:2508(1848)年10月23(嘉永元年9月27日)、49歳
出生:武蔵国江戸小石川柳町(東京都文京区)
学歴:蕃書調所、英国留学、米ミシガン大学文理学部卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選・無所属)
前職:東京開成学校教授、東京大学教授
特記:旗本、幕府講武所歩兵指南役の外山忠兵衛正義の子。
農商務大臣
11 甲賀秀虎(こうが ひでとら)
就任:2557(明治30・1897)年12月20日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年 8月17日(内閣総辞職)
生年:2499(1839)年2月16日(天保10年1月3日)、57歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:長崎海軍伝習所
官職:予備役海軍少将、貴族院議員・勅任議員(勅選・研究会)
前職:掛川藩士→幕臣/幕府軍艦頭、海軍省水路局長、内務省御用掛、農商務省参事官、同次官
特記:遠江国掛川藩家臣、甲賀孫太夫秀孝の第4子。
逓信大臣
7 千坂高雅(ちさか たかまさ)
就任:2557(明治30・1897)年12月20日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年 8月17日(内閣総辞職)
生年:2501(1841)年3月11日(天保12年閏1月19日)、56歳
出生:出羽国置賜郡米沢城下桂町(山形県米沢市松が岬三丁目)
学歴:米沢藩校興譲館
官職:
前職:米沢藩士/幕府内務局出仕、内務奉行、内務大臣秘書官、内閣書記官長
特記:男爵
初入閣
内閣書記官長
14 安藤太郎(あんどう たろう)
就任:2557(明治30・1897)年11月 6日(新任)
退任:2557(明治30・1897)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2506(1846)年5月3日(弘化3年4月8日)、51歳
出生:武蔵国江戸四谷(東京都)
学歴:横浜英学所、海軍操練所、陸軍伝習所
官職:
前職:江戸幕府外務局翻訳官、香港領事、ハワイ総領事、外務省通商局長、農商務省商工局長
特記:鳥羽藩医・安藤文沢の子
法制局長官
8 梅謙次郎(うめ けんじろう)
就任:2554(明治27・1894)年 4月 1日(新任)
退任:
生年:2520(1860)年7月24日(万延元年6月7日)、33歳
出生:出雲国意宇郡松江灘町(現・島根県松江市)
学歴:東京外国語学校仏語科首席卒業、司法省法学校首席卒業、仏リヨン大学法学博士課程首席卒業
官職:
前職:帝国大学法科大学教授、民法商法施行取調委員、法典調査会民法起草委員、東京帝国大学法科大学長
特記:
―――――
14代 第一次大隈重信内閣(2558(明治31・1898)年8月17日~2558(明治31・1898)年11月8日)
▽来歴・概要
元佐賀藩士。参議大蔵卿、子爵。憲政党員。
陸海軍大臣以外を憲政党員から採用するという史上初めての政党内閣となった大隈内閣であったが、初手から躓いた。当時は、各省の次官・局長といった行政府の高官を試験任用者からの昇格によって任命する「キャリア官僚」制度が制定されておらず、自由に任用されるものとされていた。これにより憲政党員が各省の次官・局長に就任したが、行政実務の経験のない管理職が生まれたことで行政機能が麻痺した。中央行政だけではなく、地方行政においても府県知事に地方の有力者であった憲政党員が就任するなどしたため、行政実務に混乱をもたらした結果となった。
大隈内閣退陣の原因となったのは共和演説事件である。文部大臣に就任した尾崎行雄が9月5日、帝国教育会にて行った演説が問題となった。演説の原稿は存在しておらず、速記録や各新聞報道でも微妙に差異があるため正確な内容は不明であるが、尾崎は、日本社会の拝金主義的な風潮を批判し、「日本が共和制となった場合には三井、三菱が大統領の候補者となる」という趣旨の発言を行ったとされる。
仮定であったとしても、日本が共和制になると仮定したことが問題発言であるされ、元老集団や国民協会に近い新聞社が一斉に尾崎批判を行った。また、憲政党内でも旧自由党系の議員からも尾崎は批判された。憲政党は、榎本による衆議院解散に対抗して合同したに過ぎず、結党当初から党内対立が存在していた。そのため、選挙後には対立が徐々に表面化していたが、この尾崎演説を巡る対応が党内抗争の引き金を引いたのである。旧進歩党系であった尾崎を擁護する大隈首相と尾崎を非難して辞職に追い込もうとする旧自由党系の対立は徐々に激しさを増していった。
それでも辞任しない尾崎とそれを擁護する大隈首相をはじめとする旧進歩党系に対して、旧自由党系は10月半ばには彼らと断絶することを決定した。10月21日、板垣内務大臣は単独で参内し、尾崎を弾劾上奏を行った。板垣の弾劾に対して、大隈は始めは撤回を求めていたが、自由党系の勢いに抗しきれず、尾崎への辞職の説得に舵を切った、26日、尾崎は辞職したが、その後継に対して、大隈は閣議に諮ることなく単独で後任の文部大臣に進歩党系の犬養毅を推薦する上奏を行った。国務大臣の推薦は首相が行うものではあるが、そのプロセスは政治情勢により変化する。大隈が独断で後任の上奏を行ったことに対して、板垣は参内し、犬養への文部大臣就任反対の意見を上奏した。
10月29日、旧自由党系は憲政党の一方的解党を宣言し、再度旧自由党系のみで「憲政党」の再結党を宣言した。同日、板垣をはじめとした旧自由党系閣僚は一斉に辞職した。これにより、国民協会と憲政党を足した数が過半数を超え、少数与党となった大隈内閣は辞意を固めた。
▽在任中の主な出来事
・共和演説事件
・
▽内閣の出した主な法令
・
・
▽内閣の対応した帝國議会
なし
▽内閣閣僚
内閣総理大臣
14 大隈重信(おおくま しげのぶ)
就任:2558(明治31・1898)年 8月17日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年11月 8日(内閣総辞職)
生年:2498(1838)年3月11日(天保9年2月16日)、60歳
出生:肥前国佐賀郡佐賀城下会所小路(佐賀県佐賀市水ヶ江町)
学歴:佐賀藩校弘道館
官職:
会派:憲政党(旧進歩党系)
回数:
前職:佐賀藩士/太政官治部省出仕、幕府外務局出向、大蔵局転任、大蔵奉行、大蔵次官
大蔵大臣、外務大臣
特記:子爵
外務大臣兼任
外務大臣
15 大隈重信(おおくま しげのぶ)
就任:2558(明治31・1898)年 8月17日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年11月 8日(内閣総辞職)
生年:2498(1838)年3月11日(天保9年2月16日)、60歳
出生:肥前国佐賀郡佐賀城下会所小路(佐賀県佐賀市水ヶ江町)
学歴:佐賀藩校弘道館
官職:
会派:憲政党(旧進歩党系)
回数:
前職:佐賀藩士/太政官治部省出仕、幕府外務局出向、大蔵局転任、大蔵奉行、大蔵次官
大蔵大臣、外務大臣
特記:子爵
内閣総理大臣兼任
内務大臣
19 板垣退助(いたがき たいすけ)
就任:2558(明治31・1898)年 8月17日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年11月 8日(内閣総辞職)
生年:2497(1837)年5月20日(天保8年4月16日)、61歳
出生:土佐国土佐郡高知城下中島町(高知県高知市本町)
学歴:
官職:
会派:憲政党(旧自由党系)
回数:
前職:土佐藩士/自由党総理
特記:子爵
大蔵大臣
14 松田正久(まつだ まさひさ)
就任:2558(明治31・1898)年 8月17日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年11月 8日(内閣総辞職)
生年:2505(1845)年5月17日(弘化2年4月12日)、58歳
出生:肥前国小城郡牛津(佐賀県小城市)
学歴:昌平坂学問所
官職:衆議院議員(佐賀県第2区)
会派:憲政党(旧自由党系)
回数:3回(1期、6期、7期)
前職:小城藩士/幕府陸軍局
長崎県会議員、同会議長、司法省出仕
特記:小城藩士横尾只七の次男
陸軍大臣
8 桂太郎(かつら たろう)
就任:2558(明治31・1898)年 8月17日(留任)
退任:2558(明治31・1898)年11月 8日(内閣総辞職)
生年:2508(1848)年1月4日(弘化4年11月28日)、50歳
出生:長門国阿武郡萩町(山口県萩市)
学歴:ドイツ留学
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:長州藩士/陸軍次官、第三師団長、台湾総督
特記:
海軍大臣
7 西郷従道(さいごう じゅうどう/つぐみち)
就任:2558(明治31・1898)年 8月17日(留任)
退任:2558(明治31・1898)年11月 8日(内閣総辞職)
生年:2503(1843)年6月1日(天保14年5月4日)、53歳
出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市加治屋町)
学歴:
官職:海軍大将→元帥海軍大将
会派:
回数:
前職:薩摩藩士/江戸幕府陸軍局出仕、歩兵奉行、開拓使転出、内務省工部大学校校長、陸軍参謀本部高級部員、陸軍参謀次長、陸軍次官
特記:男爵
留任
日清戦争の功により子爵陞爵
国民協会会頭
司法大臣
12 大東義徹(おおひがし ぎてつ/よしあきら/よしてつ)
就任:2558(明治31・1898)年 8月17日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年11月 8日(内閣総辞職)
生年:2502(1842)年8月20日(天保13年7月15日)、55歳
出生:近江国彦根(滋賀県彦根市)
学歴:
官職:衆議院議員(滋賀県第3区)
会派:憲政党(旧進歩党系)
回数:7回(1期~7期)
前職:彦根藩士/司法局出仕、司法省判事
特記:初入閣
文部大臣
13 尾崎行雄(おざき ゆきお)
就任:2558(明治31・1898)年 8月17日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年10月27日(共和演説事件の引責辞任)
生年:2518(1858)年12月24日(安政5年11月20日)、39歳
出生:相模国津久井県又野村(神奈川県相模原市緑区又野)
学歴:慶應義塾(現・慶應義塾大学)中退、工学寮(現・東京帝國大学)中退
官職:衆議院議員(三重県第5区)
会派:憲政党(旧進歩党系)
回数:7回(1期~7期)
前職:東京府会議員
特記:初入閣
14 犬養毅(いぬかい つよし)
就任:2558(明治31・1898)年10月27日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年11月 8日(内閣総辞職)
生年:2515(1855)年6月20日(安政2年4月20日)、43歳
出生:備中国賀陽郡川入村(岡山県岡山市北区)
学歴:慶應義塾(現・慶應義塾大学)中退
官職:衆議院議員(岡山県第3区)
会派:憲政党(旧進歩党系)
回数:7回(1期~7期)
前職:郵便報知新聞社記者
特記:初入閣
農商務大臣
13 奥平昌邁(おくだいら まさゆき)
就任:2558(明治31・1898)年 8月17日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年11月 8日(内閣総辞職)
生年:2517(1855)年5月16日(安政2年4月1日)、43歳
出生:
学歴:慶應義塾、米国留学
官職:従五位下・美作守
貴族院議員・華族議員(伯爵)
会派:憲政党(旧進歩党系)
回数:1回(2期)
前職:東京府会議員、東京府芝区長、内閣書記官長
特記:伊予国宇和島藩第8代藩主・伊達宗城の四男。 豊前国中津藩第8代藩主奥平昌服の養子。
伯爵。
初入閣
逓信大臣
8 林有造(はやし ゆうぞう)
就任:2558(明治31・1898)年 8月17日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年11月 8日(内閣総辞職)
生年:2502(1842)年9月21日(天保13年8月17日)、55歳
出生:土佐国宿毛(高知県宿毛市)
学歴:
官職:
会派:憲政党(旧自由党系)
回数:衆議院議員6回当選(1期~6期)
前職:高知県令
特記:初入閣
内閣書記官長
15 武富時敏(たけとみ ときとし)
就任:2558(明治31・1898)年 8月17日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年11月 8日(内閣総辞職)
生年:2516(1856)年1月16日(安政2年12月9日)、32歳
出生:肥前国佐賀(佐賀県)
学歴:大学南校
官職:衆議院議員(佐賀県第1区)
会派:憲政党(旧進歩党系)
回数:6回(1期、3期~7期)
前職:「肥前日報」社長/佐賀県会議員、同副議長、同議長
農商務省商工局長、同省商務局長、大蔵省勅任参事官
特記:
法制局長官
8 梅謙次郎(うめ けんじろう)
就任:2554(明治27・1894)年 4月 1日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年 8月81日(依願免本官)
生年:2520(1860)年7月24日(万延元年6月7日)、33歳
出生:出雲国意宇郡松江灘町(現・島根県松江市)
学歴:東京外国語学校仏語科首席卒業、司法省法学校首席卒業、仏リヨン大学法学博士課程首席卒業
官職:
前職:帝国大学法科大学教授、民法商法施行取調委員、法典調査会民法起草委員、東京帝国大学法科大学長
特記:
9 神鞭知常(こうむち ともつね)
就任:2558(明治31・1898)年 8月81日(新任)
退任:2558(明治31・1898)年11月 8日(依願免本官)
生年:2508(1848)年9月1日(嘉永元年8月4日)、50歳
出生:丹後国与謝野郡石川村(京都府与謝野町石川)
学歴:
官職:衆議院議員(京都府第6区)
会派:憲政党(旧進歩党系)
回数:7回(1期~7期)
前職:幕府大蔵局出仕、内務局、内務省、農商務省勤務、大蔵省主税局次長
特記:宮津藩出身
―――――
15代 第二次山縣有朋内閣(2558(明治31・1898)年11月8日~2560(明治33・1900)年12月20日)
▽来歴・概要
元長州藩士。元帥陸軍大将。子爵。内務大臣、内閣総理大臣、枢密院議長。
第13代総理の榎本は予備役海軍大将であったが、山縣は現役の陸軍大将である。大隈内閣の混乱を受けた次期首班には伊藤博文が有力であったが、伊藤は憲政党との提携関係の再構築と政党内閣に対する見方が否定的なもの状況を立て直すため、将来的な新党設立準備を図るために辞退した。代わりに首班指名に意欲を見せたのが山縣である。
第一次内閣の後の山縣は、日清戦争時に第一軍司令官を命ぜられたように軍人としてのキャリアを進めていたが、明治29年にはニコライ2世の戴冠式出席のためにロシアに渡り、朝鮮問題について山縣・ロバノフ協定を締結するなど外交活動も行っていた。このロシア訪問に際して山縣は欧米諸国も歴訪し、軍事に関する視察だけではなく、一般政治に対する視察も行った。特に山縣は第二次小栗内閣で内務大臣を務めた際に地方制度に関する法令の制定を担当したことから地方自治に関しては一定の見識を持っていた。そして、内務大臣であった経験から内務省にも一定の影響力を持ち、山縣閥ともいうべき派閥を持っており、主体的に政治を進める力も持っていた。
新党設立を模索する伊藤との関係から山縣は憲政党との提携を掲げており、憲政党との間で山懸内閣が、超然主義の不採用を宣言すること、憲政党の政策綱領を採用すること、憲政党へ利害関係において配慮することの3条件を容認することで、憲政党との提携で議会に臨む方針となった。その一報で、憲政党が求めた入閣は断り、閣外協力の方針を維持した。
その一方で山縣は、憲政本党党員で衆議院議員の小栗貞夫を大蔵大臣に入閣させた。小栗は過去3度総理を務めた小栗忠順の女婿であった。
小栗家の家督は忠順の従妹の婿小栗忠道が継ぐことになっていた。安政7年(1860年)、忠順が遣米使節目付(監察)として渡米する際に、従妹の鉞子(よきこ、父・忠高の義弟日下数馬の娘)を養女にし、その許婚として駒井朝温の次男の忠道を養子に迎えていた。当時の渡航は命懸けであり、当主忠順災難時に備えたものであったが、忠順は帰国した。その後に妻との間に女子国子が生まれたものの、男子には恵まれなかった。
実子に婿を取り家督相続させるべきとの周囲の声もあったが、一度養子に取った以上は、犬猫ではあるまいしということで、養子関係を解消しなかった。これがため、小栗伯爵家の家督は忠道が継承することとなっていた。
実子国子の婿は豊後佐伯藩士だった矢野龍渓の弟貞雄であった。矢野龍渓は、元大蔵官僚で大隈の部下であった。第一次小栗内閣で内閣書記官長を務めた栗本鯤が一時社長を務めた郵便報知新聞にも入社しており、人的つながりがあった。そして忠順自身も大隈重信の妻大隈綾子が、従姉妹であった縁からも貞雄を小栗別家として婿養子に取ることとした。
貞夫には商才があり、特許を取得して商品化することにより莫大な財産を築きあげた。兄矢野龍渓や養父忠順の政治資金は貞夫が用立てたことが知られている。こういった縁で、今でいうところの民間登用、実業界出身大臣の嚆矢として小栗の入閣が行われたのであって、憲政本党との提携ではないということが山縣首相の説明であった。
山縣内閣は地租増徴について憲政党に理解を求めた。松方内閣以来、地租増徴問題で野党との間で大きな対立があったが、伊藤新党の構想を聞いていた憲政党幹部は時限立法と言う形でこれに同意した。明治31年12月に始まった第13議会において地租増徴法案は5年の時限立法と言う妥協の下に成立した。
現在も続く省庁高級官僚(幹部クラス)の試験任用が始まったのは山縣内閣が制定した文官任用令によるものである。省庁に新たに登用される奏任文官は試験任用が始まっていたが、勅任文官級の幹部職員は自由任用で行われていた。もちろん、勅任文官は行政実務を担う者であるため基本的に実務者が任用されていたが、大隈内閣においてはこれが法定されていなかったため、政党の猟官運動の標的となった。山縣内閣においては之を改め明治32年文官任用令が全部改正され、次官・局長級の勅任官は自由任用の対象から外れた。
また、文官任用例と同様の趣旨で、陸海軍大臣は現役の武官とする陸海軍省官制の改正が行われた(いわゆる軍部大臣現役武官制)。
元老集団の中では政党に対する否定的な姿勢を有した山縣ではあるが、憲政擁護という観点からは違った姿勢を見せた。山縣は、欧米歴訪時の知見から国民の政治参加の拡大は立憲国家として重要なものと考え、衆議院議員選挙法の改正に動いた。憲政党や貴族院との協議の果てに、第14議会において選挙権の条件を直接国税15円から10円に引き下げ、被選挙権の納税資格を撤廃した衆議院議員選挙法の改正法を通した(この選挙法改正により秘密投票制が導入され、文字を書くことができない者に対する代理投票制度が廃止された。)。地方制度の改良に対しても山縣は動く。広域自治体について定めた府県制を改正した。従来、府県会議員の選挙は市会・郡会議員の選挙によって行われる間接選挙だったが、直接国税3円以上の有権者による直接選挙に改めた。
対外政策では北清事変への対応が挙げられる。明治33年6月、清国内で「扶清滅洋」を叫ぶ宗教的秘密結社義和団による排外主義運動は、北京において駐清ドイツ公使の殺害と言う深刻な事態にまで至った。北京の各国公使館への武力攻撃を受けて、6月15日、山縣内閣は、陸軍派兵を閣議決定した。帝国陸軍は、広島第五師団2万人を出兵させ、北京派兵連合軍の中軸を占め、8月14日、北京を平定した。
第二次山縣内閣の政権運営はこれまでの各内閣と比べても平穏であった。大隈内閣の政権運営の拙さがその原因である。政党の猟官運動は政治を混乱させ、官吏たちにとっては政党に対する警戒感を高めた。憲政党関係者も憲政本党のそれも実際に政権を運営していくということに関して不慣れであり、現場を混乱させたということを自省し、おとなしくしていたためである。地方の有権者の中には有力者を府県に送り込んだことができたことで政党への支持を強める効果をもたらしたが、実際の地方行政において府県の機関に就任することで有力者が望んでいた利権はそれほど大した効果は望めなかった。府県行政における許認可等の権限の中には内務省中央の指導も強かったことから利権に食い込んだとは言えなかったためである。
このような政界の小康状態は、一年程度続いた。憲政党を母体にした伊藤新党の構想が噂になりはじめると、憲政本党や国民協会の周辺からは不満の声が挙がりはじめた。北清事変の勃発により、この動きは一時収まった。山縣をはじめとした政府首脳は事件処理に傾注するとして、他の政界で工作を重ねていた伊藤もこれに倣い、新党設立に向けた工作を一時中止し、外国公使と意見交換を重ねるなど事変終結に向けた地ならしに協力した。明治33年8月の北京占領後には伊藤も政界工作を再開し、明治33年9月15日、憲政党を中心として立憲政友会が発足した。
山縣は、政党が結成され、その当主(ママ)に伊藤が座った以上次期国会は伊藤内閣の主導でやるべきであると主張し、第15議会開会直前には伊藤に総理に就任するよう要請した。伊藤はこれを承け、山縣内閣は12月20日総辞職した。
▽在任中の主な出来事
・地租増徴
・文官任用令改正(キャリア官僚システムの開始)
・北清事変
・
▽内閣の出した主な法令
・地租条例改正法律
・文官任用令
・衆議院議員選挙法改正法律
▽内閣の対応した帝國議会
第13回帝國議會・通常会(特別会)
召集:2558(明治31・1898)年 9月27日(官報公示28日)
集会:2558(明治31・1898)年11月 7日
開会:2558(明治31・1898)年12月 3日
閉会:2559(明治32・1899)年 3月 9日
会期:90日、会期延長7日、実数97日
議院役員
3 近衛篤麿(このえ あつまろ)
就任:2556(明治29・1896)年10月 3日
退任:
生年:2523(1863)年8月10日(文久3年6月26日)、35歳
出生:山城国京都(京都府京都市)
学歴:独ボン大学、ライプツィヒ大学
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)、学習院院長
会派:無所属
回数:終身
前職:
特記:近衛家第29代当主。
4 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2554(明治27・1894)年10月6日
退任:
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、31歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。
侯爵
衆議院議長
8 片岡健吉(かたおか けんきち)
就任:2558(明治31・1898)年11月 9日
退任:
生年:2504(1844)年2月14日(天保14年12月26日)、54歳
出生:土佐国高知城下中島町(高知県高知市)
学歴:
官職:衆議院議員(高知県第3区)
会派:憲政党
回数:6回(1期~6期)
前職:土佐藩士/高知県会議長
特記:
衆議院副議長
8 元田肇(もとだ はじめ)
就任:2558(明治31・1898)年11月 9日
退任:
生年:2518(1858)年2月28日(安政5年1月15日)、40歳
出生:豊後国国東郡来浦村(大分県国東市国東町来浦)
学歴:東京大学法科卒業
官職:衆議院議員(大分県第5区)
会派:国民協会
回数:6回(1期~6期)
前職:衆議院副議長
特記:
第14回帝國議會・通常会
日程
召集:2559(明治32・1899)年10月 3日(官報公示4日)
集会:2559(明治32・1899)年11月20日
開会:2559(明治32・1899)年11月22日
閉会:2560(明治33・1900)年 2月28日
会期:90日、会期延長4日、実数94日
議院役員
3 近衛篤麿(このえ あつまろ)
就任:2556(明治29・1896)年10月 3日
退任:
生年:2523(1863)年8月10日(文久3年6月26日)、36歳
出生:山城国京都(京都府京都市)
学歴:独ボン大学、ライプツィヒ大学
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)、学習院院長
会派:無所属
回数:終身
前職:
特記:近衛家第29代当主。
4 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2554(明治27・1894)年10月6日
退任:
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、32歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。
侯爵
衆議院議長
7 片岡健吉(かたおか けんきち)
就任:2558(明治31・1898)年11月 9日
退任:
生年:2504(1844)年2月14日(天保14年12月26日)、55歳
出生:土佐国高知城下中島町(高知県高知市)
学歴:
官職:衆議院議員(高知県第3区)
会派:憲政党
回数:6回(1期~6期)
前職:土佐藩士/高知県会議長
特記:
衆議院副議長
6 元田肇(もとだ はじめ)
就任:2558(明治31・1898)年11月 9日
退任:
生年:2518(1858)年2月28日(安政5年1月15日)、41歳
出生:豊後国国東郡来浦村(大分県国東市国東町来浦)
学歴:東京大学法科卒業
官職:衆議院議員(大分県第5区)
会派:国民協会
回数:6回(1期~6期)
前職:衆議院副議長
特記:
▽内閣閣僚
内閣総理大臣
15 山縣有朋(やまがた ありとも)
就任:2558(明治31・1898)年11月 8日(新任)
退任:2560(明治33・1900)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2498(1838)年6月14日(天保9年閏4月22日)、60歳
出生:長門国阿武郡川島村(山口県萩市川島)
学歴:松下村塾
官職:元帥陸軍大将
会派:
回数:
前職:長州藩士/太政官兵部省出仕、幕府陸軍局出向
内務大臣、内閣総理大臣(9)/
第一軍司令官
特記:男爵
日清戦争の功により子爵陞爵
外務大臣
16 青木周蔵(あおき しゅうぞう)
就任:2558(明治31・1898)年11月 8日(新任)
退任:2560(明治33・1900)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2504(1844)年3月3日(天保15年1月15日)、54歳
出生:長門国厚狭郡生田村(山口県山陽小野田市)
学歴:長州藩校明倫館
官職:特命全権公使、外務次官
会派:
回数:
前職:長州藩士/駐独公使、兼駐墺公使、外務省参事官、外務次官
特記:男爵
内務大臣
18 細谷安太郎(ほそや やすたろう)
就任:2558(明治31・1898)年11月 8日(新任)
退任:2560(明治33・1900)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2511(1851)年4月27日(嘉永4年3月26日)、47歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:横浜仏語伝習所
官職:予備役陸軍砲兵大佐/貴族院議員・華族議員(男爵)
会派:研究会
回数:2回(1期、2期)
前職:江戸幕府陸軍砲兵差図役(砲兵中尉)、陸軍局教育部砲兵課長、内務局転任、工務局長/
内閣書記官長、内務大臣(18)
特記:
大蔵大臣
15 小栗貞雄(おぐり さだお)小栗忠順(おぐり ただまさ)
就任:2558(明治31・1898)年11月 8日(新任)
退任:2560(明治33・1900)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2521(1861)年12月29日(文久元年11月28日)、36歳
出生:豊後国海部郡佐伯村(大分県佐伯市)
学歴:慶應義塾、大学予備門退
官職:衆議院議員(大分県第2区)
会派:憲政本党
回数:1回(6期)
前職:報知新聞社記者、東京石油株式会社取締役、扇橋製薬株式会社社長
特記:第4、第7、第12代内閣総理大臣小栗忠順伯爵の女婿。
憲政本党の所属ではあるが、小栗元総理との関係で入閣。
天津滞在中に北清事変に遭遇し籠城を余儀なくされるが籠城期間中に功績があり、後日男爵叙爵。
陸軍大臣
8 桂太郎(かつら たろう)
就任:2558(明治31・1898)年 8月17日(留任)
退任:2558(明治31・1898)年11月 8日(内閣総辞職)
生年:2508(1848)年1月4日(弘化4年11月28日)、50歳
出生:長門国阿武郡萩町(山口県萩市)
学歴:ドイツ留学
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:長州藩士/陸軍次官、第三師団長、台湾総督
特記:
海軍大臣
8 山本権兵衛(やまもと ごんべえ/ごんのひょうえ)
就任:2558(明治31・1898)年11月 8日(新任)
退任:2560(明治33・1900)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2512(1852)年11月26日(嘉永5年10月15日)、45歳
出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市加治屋町)
学歴:開成所、海軍操練所、海軍兵学寮(2期)卒業
官職:海軍中将
会派:
回数:
前職:海軍大臣官房主事、海軍大臣副官、海軍省軍務局長
特記:初入閣
司法大臣
13 清浦奎吾(きようら けいご)
就任:2558(明治31・1898)年11月 8日(新任)
退任:2560(明治33・1900)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2510(1850)年3月27日(嘉永3年2月14日)、44歳
出生:肥後国山鹿郡上御宇田村(熊本県山鹿市鹿本町来民)
学歴:咸宜園
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:研究会
回数:
前職:司法官僚、内務省警保局長、司法次官
特記:
文部大臣
15 樺山資紀(かばやま すけのり)
就任:2558(明治31・1898)年11月 8日(新任)
退任:2560(明治33・1900)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2497(1837)年12月9日(天保8年11月12日)、53歳
出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市)
学歴:昌平黌、長崎海軍伝習所修了
官職:海軍大将
会派:
回数:
前職:江戸幕府陸軍局出仕、警視総監兼陸軍少将、海軍参事官、海軍次官
特記:
農商務大臣
13 曾禰荒助(そね あらすけ)
就任:2558(明治31・1898)年11月 8日(新任)
退任:2560(明治33・1900)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2509(1849)年2月20日(嘉永2年1月28日)、48歳
出生:長門国(山口県)
学歴:
官職:
会派:
回数:
前職:長州藩士/内閣記録局長、衆議院書記官長、元衆議院議員(1期)、駐仏公使
特記:初入閣
逓信大臣
9 芳川顕正(よしかわ あきまさ)
就任:2558(明治31・1898)年11月 8日(新任)
退任:2560(明治33・1900)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2502(1842)年1月21日(天保12年12月10日)、56歳
出生:阿波国麻植郡山川町(徳島県吉野川市)
学歴:
官職:
前職:徳島藩士/江戸幕府大蔵局出仕、内務局転任、内務次官、内務大臣
特記:
内閣書記官長
15 安広伴一郎(やすひろ ばんいちろう)
就任:2558(明治31・1898)年11月 8日(新任)
退任:2560(明治33・1900)年12月20日(内閣総辞職)
生年:2519(1859)年11月7日(安政6年10月13日)、39歳
出生:豊前国仲津郡(福岡県行橋市)
学歴:慶應義塾、英香港中央書院、英ケンブリッジ大学卒業
官職:
会派:
回数:
前職:内閣書記官、法制局・内務省各参事、司法・内務各大臣秘書官、内務省社事局長
特記:
法制局長官
10 平田東助(ひらた とうすけ)
就任:2558(明治31・1898)年11月 8日(新任)
退任:2560(明治33・1900)年12月20日(依願免本官)
生年:2509(1849)年3月26日(嘉永2年3月3日)、49歳
出生:出羽国置賜郡米沢城下信夫町(山形県米沢市)
学歴:米沢藩校興譲館、慶應義塾、大学南校、ハイデルベルク大学
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:茶話会
回数:
前職:内務省御用掛、大蔵省翻訳課長、法制局
特記:
―――――