外務省欧州局は、その名が示す通り、日本国が地球に存在したころの欧州が担当地域となっている。小説世界の欧州は、現実世界と違って、帝室王室が数多く存在している。
グレートブリテン及アイルランド連合王国、南アイルランドが独立していない世界線のイギリスは、かつての大英帝国の威儀をある程度維持したまま、現在を迎える。
フランス王国、ナポレオン三世の第二帝政は現実世界と同様に普仏戦争で倒れるものの、ナポレオン三世の内政外交の手腕は史実よりも成功しており、帝政復古派の勢いは史実とは比べ物にならないほどの勢いがあった。とはいえ、共和制派の存在もあり、国内の方針はなかなか決まらなかった。ここに第三の選択肢としてのブルボン王朝が復活したが、当然の話として、立憲君主制となり、現在を迎える。
ドイツ国、欧州大戦(第一次大戦)が勃発し、フランスをあと一歩のとこまで追い詰めるも継戦能力がとうとう限界となり、連合国と講和。パリ講和会議では史実のような莫大な賠償金を課されることはなかった。一時は青色吐息の状況であったが、英日対米の西太平洋戦争の仲介を務めたことから国際社会での存在感を見せ始め、現在に至る。
オーストリア=ハンガリー帝国、史実では、ウィルソンの民族自決論の標的となるが、この世界線のアメリカは無視されたため、旧来通りの統治を継続し、ハンガリー以外の民族にも配慮した連邦国家として、現在に至る。
ロシア帝国、史実では赤く染まってしまうが、ロマノフ王朝が土壇場で生き残り、白軍を組織。他国からの援助もあり、赤軍を西に追い詰めて、何とか存続する。
イタリア王国、特に崩壊する理由もなく現在に至る。
かような国々を応接する関係上、そして、この世界では外交官が貴族である場合が多く、いわゆる「青い血」外交が欧州外交の主流となっていた。このため、外務省欧州局には他局とは異なり、貴賓室が設けられており、貴族の社交場としての役割も果たしていた。
貴族ではない外交官、外務省一等書記官朝田泰司は、前任の退官を受けて、英国課長の職に在った。この部屋には、駐日イギリス大使を勤める第12代ハーティントン侯爵ジョージ・ガーティンもまたいた。
「朝田君。今少し頭を下げるのだ。」
ガーティン大使は、朝田の所作を確認して、修正点を述べる。朝田は、言われたとおりに、所作を正す。
「うむ、合格だ。あとは、この所作を繰り返し、頭と体に覚えさせるのだ。貴族の所作とは一朝一夕で身につくものではない。篠原君。君も朝田君に同行すると聞く。ビデオを見て稽古は怠らぬようにな。」
「侯爵。お忙しいところ、何度もご教授いただきまして、誠にありがとうございます。」
「なに、かまわんよ。どうせ、大使館業務など今はあってなきがごとしだ。」
英国大使館だけではなく、どこの国も特命全権大使の業務は今や存在していない。大使館職員は、自国民の保護に躍起になって対応しているが、大使が直接動くことではない。
「ここらで、少し休憩としよう。」
英国人は紅茶を好む。だが、紅茶も今や品薄状態となっている。外務省は外交活動の名目で優先的に入手しているがいつまでも続くものではない。ただ、今だけは、紅茶の味を楽しむ。
「在日英国人の混乱もようやく収まってきた。永住資格を持つ、わが国民がだいぶ手を貸してくれたし、日英議員連盟の議員もだいぶ口をきいてくれた。日本外務省には、いろいろと便宜を図ってもらって感謝の念に堪えない。」
「いえ、私どもは何も。いろいろと手が届かないことも多く申し訳なく思っております。」
「いやいやそんなことはない。」
ガーティン大使は、かぶりを振って、紅茶を口に運ぶ。
「正直言って、今も夢を見ているかのような錯覚に陥っている。愛すべきロンドンの時計塔をもう見ることがかなわぬのかと思うと暗澹たる気持ちになる。夢なら早く覚めてくれとも・・・」
「だが、そうも言ってもいられない。わが国民の新たな生活の支援もようやく軌道に乗ったばかりだ。現実に目を向けなくてはならない。」
話を受けて、朝田も応える。
「はい。この世界に於て我々もいろいろと動き出さなくてはなりません。そのための、この貴族の所作の講義と稽古。こちらの世界でも役立てなくてはなりません。」
「うむ。話は、前任の酒井伯爵から聞いている。なんでも、パーパルディア皇国という国を担当するそうではないか。」
「はい、この世界における列強という立ち位置にある国とか。現在国交樹立交渉を進めております、クワ・トイネ公国の人々からの話では、相当に気位が高く、取り扱いが難しいとか。」
ガーティン大使は、呆れた顔をして、話を続ける。
「ふん。如何に国力があるといっても、この世界を基準としたところで、大したものではあるまい。朝田君、ここまで相手に合わせる必要はあるのかね。君が今稽古しておるような儀礼は我が国でもそう扱うものではない極めてフォーマルなものであり、高貴な者に対応するようなものだ。しかも、古風な礼式だ。君がそこまでへりくだった態度を見せていては、日本国を軽く見られ、それは天皇陛下の権威を低下させることにつながる。あまりよくはないことだと思うがね。」
大使の発言は、一国を代表する者としての当然の見解であり。朝田もその意義は認めていた。しかし、問題がこじれたときにどうなるのか。武力紛争となると我が軍の備蓄も視野に入れるとあまり正しい方向性ではない。
「大使の言もごもっともなことでございます。ですが、現状ではなるべく、平和裏に交渉を進めるようにと本省では決しておりまして、それに沿う形で話を進めていけたらと思いまして。」
「ふむ、クワ・トイネ公国内でのパーパルディア皇国との接触はどうなのだね。」
大使は、椅子から身を乗りだして、問いかける。朝田は顔を曇らせて答えた。
「よくはありません。クワ・トイネ公国にはパーパルディア皇国の大使館もあるようですので、伺ってみたのですが、大使は常駐していないのだとか。パーパルディア皇国の大使館の職員曰くですが、パーパルディア皇国の外交官にとってクワ・トイネ公国の任地は左遷地のようでして、あまり優秀でない人が来るのだとか。赴任しても、大使館に勤務することなく、大使公邸にて遊び惚けておるらしく、取次を依頼しても、大使が来た時に話しますとのこと。いつ来るのかを聞いてみても、当分は来ないだろうとのことだったそうです。」
「なめられておるということだな。」
「はい、そう考えるべきかと。」
室内に静寂が訪れる。
「やはり、直接交渉しかあるまい。軍艦で乗り付けて、ある程度の力を示すより他にあるまい。資材備蓄の件は承知している。だが、安全を買うのだと思えば、安上がりではないのか。」
「そういう声もあるにはあるのですが、やはり平和裏に接触すべきとの声が大勢ですね。」
「国柄というやつだな。貴国の天皇陛下のお人柄は私もよく存じている。私の言う手段を好まぬということもな。しかし、非常時には非常の手段を以てすべきとも思う。英国大使からの忠言と聞いておいてもらいたい。」
「ご教授感謝します。大使の忠言は上に伝えます。」
「うむ。しかし、その貴国にしてはよく断ったと思っている。」
朝田は首をかしげて先を促す。
「と、言いますと。」
「ほれ、あの植民地人じゃなかった、アメリカ人の申し分よ。日本国の国土の一部を譲渡もしくは自治区として設定してほしいというあれよ。転移で住むべき国が無くなったからと言って、新たな土地を求める気持ちは私も分かるがな。」
朝田は苦笑して答える。
「それは、無理からぬことです。我が国は君主国であり、国土は君主のものという観念があります。切り売りできるものではありません。」
「うむ、わしが同じ立場であってもそう思う。」
互いに苦笑する。紅茶のカップはもう空になっていった。
「では、続きといこう。次は退室の作法だ。まず、私がお手本を見せるので、よく見ておくように。」
「はい、宜しくお願いします。」
貴族ではない外交官、外務省一等書記官朝田泰司は、貴族の住む国、パーパルディア皇国に出張するための準備を続けている。