大日本帝國天皇及び皇族一覧
天皇
明仁(あきひと、2593(昭和8、1933)年12月23日 ― )
第125代大日本帝國天皇、第3代満洲帝國皇帝(在位:昭和64(昭徳23)年1月7日 ― )。大日本帝國大元帥陸海軍大将、満洲帝國大元帥陸海軍上将。
年譜
昭和8年12月23日(0歳)
誕生。
昭和15年4月(6歳)
学習院初等科入学、大勲位菊花大綬章叙勲。
昭和18年12月23日(満10歳)
立太子宣下。
昭和19年12月23日(満11歳)
陸海軍少尉任官、近衛歩兵第一聯隊附及び第一艦隊附。
昭和21年3月4月(12歳)
学習院初等科卒業、同中等科入学。
昭和24年4月29日(15歳)
宮中賢所にて立太子礼。
昭和26年3月4月(17歳)
学習院中等科卒業、同高等科入学。
同年12月23日(満18歳)
成年式。
昭和28年3月30から同年10月12日(19歳)
外遊。欧州12カ国及びアメリカ合衆国、英王冠領カナダを歴訪。
同年6月2日
エリザベス2世英国女王の戴冠式へ父・昭和天皇の名代として各国王族らと共に参列。
昭和30年8月19日(21歳)
避暑で訪れていた長野県北佐久郡軽井沢町でのテニストーナメントで日清製粉社長(当時)正田英三郎の長女、正田美智子と出会う。テニスを通して交際を深めた。
昭和34年1月14日(25歳)
納采の儀。
同年4月10日
皇太子明仁親王と近衛美智子の結婚の儀。
昭和35年2月23日(26歳)
第一子、第一皇子、浩宮徳仁親王(ひろのみや なるひと)が誕生。
昭和40年11月30日(31歳)
第二子、第二皇子、礼宮文仁親王(あやのみや ふみひと)が誕生。
昭和42年10月18日(33歳)
満洲帝國康徳帝崩御し、父昭和天皇が同君連合として即位。明仁親王は満洲帝國皇太子たる身位も取得。
昭和44年4月18日(35歳)
第三子、第一皇女、紀宮清子内親王(のりのみや さやこ)が誕生。
昭和46年7月30日(37歳)
第四子、第三皇子、綱宮篤仁親王(つなのみや あつひと)が誕生。
昭和64年1月7日(55歳)
父・昭和天皇の崩御を受け、直ちに第125代大日本帝國天皇・第3代満洲帝國皇帝に践祚。
平成2年11月10日(56歳)
文武百官、地方官、外国皇族王族並びに大統領などを招いての即位の大礼が京都御所において行われた。
(内廷皇族)
皇后
美智子(みちこ、2594(昭和9、1934)年10月20日 ― )
第125代大日本帝國天皇・第三代満洲帝國皇帝の皇后(在位:昭和64年1月7日 ― )。旧氏名は正田美智子から德川美智子を経て近衛美智子。
日清製粉グループ会長の正田英三郎の長女として昭和9年10月20日、東京府東京市本郷区(現・東京都文京区東部)の東京帝国大学医学部附属病院で誕生。昭和16年4月、雙葉小学校に入学。昭和22年、雙葉小学校を卒業し、聖心女子学院高等女学校に入学。昭和27年、聖心女子学院高等女学校を卒業して、同学院外事専門学校に進学。フランス語学を専攻し、19世紀の児童文学を研究した。
昭和30年、外事専門学校を卒業した後は、父が社長を務める日清製粉に入社。フランス領インドシナに対する小麦粉輸出の際のフランス語通訳として働いてもらうつもりだった。昭和10年代半ばから始まった帝大学生の就職運動は、次第に女性の社会進出への途を開く機会拡大の機運も高めだした。
祖父正田貞一郎は、一代で自身の会社日清製粉を大手に押し上げ、新興財閥であった根津財閥の地盤を強固なものとした。その功績が認められ、昭和21年には76歳と高齢ながら貴族院勅選議員に任じられ、7年間を務めた(勅選議員は終身とされているが、新陳代謝を促すために伯子爵議員や多額納税者議員と同様に7年で辞職することが慣例となっていた)。
実業家として成功を収めてきた、祖父の薦めもあり、父英三郎は、女性の社会進出の宣伝の一環として、娘を入社させたが、当初は数年で結婚させるつもりだった。
同年8月、正田家が避暑で訪れていた軽井沢でテニストーナメントが開かれた。このトーナメントに参加したことが後の皇太子妃選定において、当の皇太子が希望を述べるに至った。香淳皇后をはじめとして女性皇族の多くは、皇太子妃は皇族や五摂家から選ばれるべきで、平民から皇太子妃を迎えるなどもってのほかと宮中では反対の声が多かった。生物学にも造詣の深い昭和天皇は、皇室に新しい血を入れることが重要であると考え、皇太子の希望を入れることにした。
宮中の反対の声が大きいことに懸念を抱いた昭和天皇は、元老近衛文麿公爵を召して、善後策を協議。前貴族院長徳川慶久(公爵の爵位を子に譲り隠居)もこれに加わり、人柄を確認した後に徳川公爵家と近衛公爵家から正田家へ使者が出された。武家華族筆頭の徳川公爵家の養女となった後に、五摂家筆頭近衛公爵家の養女となって、皇太子妃になる計画が伝えられた。正田家側は恐懼して拝辞の申し出をしたが、皇太子本人より是非にと言う希望もあり承諾した。
皇太子妃・皇后教育、宮中祭祀に関する教育は近衛家において行われた。德川慶光公爵を養父として正田家から正田美智子を養子縁組をしたこと、その後近衛文麿公爵を養父として德川公爵家から德川美智子を養子縁組したことは官報にて公告された。この事実が記すところは明らかであったが、記事は自粛された。将来の国母たるに不安なしとの近衛公爵の上奏の後昭和天皇は婚約内定の勅許を降した。昭和33年12月23日、婚約内定の御沙汰書が近衛家に下り、記事が報道された。同日勲一等宝冠章を受章。
昭和34年4月10日、皇太子明仁親王(当時)と成婚(24歳)、皇太子妃冊立。
昭和64年1月7日、昭和天皇の崩御を受け、大日本帝國皇后・満洲帝國皇后に即位した(55歳)。
皇太子
徳仁親王(なるひと、2620(昭和35、1960)年2月23日 ― )
今上天皇第一子、第一皇子。皇太子。御称号は浩宮(ひろのみや)。
年譜
昭和35年2月23日(0歳)
誕生。
昭和41年4月(6歳)
学習院初等科入学。
昭和47年3月4月(12歳)
学習院初等科卒業、同中等科入学。
昭和50年2月23月(満15歳)
大勲位菊花大綬章叙勲。
昭和52年3月4月(17歳)
学習院中等科卒業、同高等科入学。
昭和53年2月23月(満18歳)
陸軍少尉任官。
昭和55年2月23日(満20歳)
成年式。
昭和55年3月4月(20歳)
学習院高等科卒業。大学科に籍を置く傍ら東京帝大の文学部の聴講生となる。
昭和58年から昭和60年
英国オックスフォード大学留学。
昭和64年1月7日(28歳)
昭和天皇の崩御を受け、第125代大日本帝國天皇・第3代満洲帝國皇帝が践祚。
平成3年2月23日(満31歳)
宮中賢所にて立太子礼。同日、「壺切御剣」を父帝から親授。陸海軍中佐任官。
平成5年1月19日(32歳)
婚姻相手に溝口伯爵養女・溝口(小和田)雅子(当時:外務省北米局北米二課職員)を内定。
同年4月10日
納采の儀。
同年6月9日
結婚の儀。
平成6年7月28日(34歳)
第一子、第一皇子啓宮頼仁親王(ひらのみや よりひと)が誕生。
平成10年11月8日(38歳)
第二子、第二皇子暁宮滋仁親王(さとのみや ますひと)が誕生。
平成13年12月1日(41歳)
第三子、第一皇女、敬宮愛子内親王(としのみや あいこ)が誕生。
皇太子妃
雅子(まさこ、2623(昭和38、1963)年12月9日 ― )
勲一等宝冠章。伯爵・溝口直隆養女。
皇太子徳仁親王第一皇子
頼仁親王(よりひと、2654(平成6、1994)年7月28日 ― )
御称号は啓宮(ひらのみや)。大勲位菊花大綬章。陸軍中尉。
皇太子徳仁親王第二皇子
滋仁親王(ますひと、2658(平成10、1998)年11月8日 ― )
御称号は暁宮(さとのみや)。大勲位菊花大綬章。
皇太子徳仁親王第一皇女
愛子内親王(あいこ、2661(平成13、2001)年12月1日 ― )
御称号は敬宮(としのみや)。
今上天皇支系
秋篠宮家
秋篠宮家(あきしののみやけ)は、今上天皇の第二男子である文仁親王の創設した宮家である。
文仁親王(ふみひと、2625(昭和40、1965)年11月30日 ― )
今上天皇第二子、第二皇子。御称号は礼宮(あやのみや)。
大勲位菊花大綬章。
海軍中佐。
学習院初等科、中等科、高等科を経て、英国オックスフォード大学留学。
親王妃は、川嶋子爵家次女紀子。平成元年、結婚内定の勅許。翌2年6月29日、結婚の儀。
皇子女は一男三女。
文仁親王妃
紀子(きこ、2626(昭和41、1966)年9月11日 ― )
勲一等宝冠章。旧名は川嶋紀子。
文仁親王第一子第一女子
眞子内親王(まこ、2651(平成3、1991)年10月23日 ― )
勲一等宝冠章。
文仁親王第二子第二女子
佳子内親王(かこ、2654(平成6、1994)年12月29日 ― )
勲一等宝冠章。
文仁親王第三子第三女子
沙子内親王(さこ、2658(平成10、1998)年9月27日 ― )
勲一等宝冠章。
文仁親王第四子第一男子
悠仁親王(ひさひと、2668(平成18、2006)年9月6日 ― )
閑院宮家
閑院宮家(かんいんのみやけ)は、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家。閑院宮の宮号は平安時代の清和天皇の皇子である貞元親王が閑院を号したことに由来するといわれているが、明確ではない。2代直仁親王の王子祐宮が後桃園天皇の崩御に伴い践祚しているために現在の天皇家は閑院宮系である。第7代春仁王が、昭和58年6月18日に薨去(85歳)し、春仁王妃直子が平成3年6月17日に薨去すると絶家となる。
春仁王には子がなく、昭和後期には絶家が避けられない状況にあった。しかし、四親王家の名跡を失うことを惜しむ声があり、昭和天皇は今上天皇第三皇子である篤仁親王が宮家を創設するにあたっては、閑院の名を以て宮家を立てるようにとの遺命を発した。平成3年6月に直子妃が薨去すると正式に父天皇から閑院の宮号を与えられた。直子妃の薨後一周年祭を以て同宮が絶家すると、その祭祀、および邸宅などの財産は正式に篤仁親王に引き継がれた。篤仁親王は正式には初代閑院宮家当主であるが、第八代の当主とも扱われる。
篤仁親王(あつひと、2631(昭和46、1971)年7月30日 ― )
今上天皇第四子、第三皇子。御称号は綱宮(つなのみや)。
大勲位菊花大綬章。
海軍中佐。軍令部勤務。
学習院初等科、中等科を経て、海軍兵学校入校。
親王妃は、紀伊德川侯爵家当主頼韶の嫡男頼憲の長女芳子。平成3年6月、結婚内定の勅許。翌3年11月15日、結婚の儀。
皇子女は一男三女。
篤仁親王妃
芳子(よしこ、2631(昭和47、1972)年11月30日 ― )
勲一等宝冠章。旧名德川芳子(紀伊德川公爵家)。
篤仁親王第一子第一女子
香子内親王(きょうこ、2653(平成5、1993)年6月25日 ― )
勲一等宝冠章。
篤仁親王第二子第一男子
敏仁内親王(としひと、2657(平成9、1997)年4月14日 ― )
大勲位菊花大綬章。
篤仁親王第三子第二女子
美津子内親王(みつこ、2660(平成12、2000)年6月2日 ― )
勲一等宝冠章。
篤仁親王第四子第二男子
勲仁親王(たけひと、2664(平成16、2004)年月6日 ― )
昭和天皇支系
常陸宮家
常陸宮家(ひたちのみやけ)は、昭和天皇の第二皇子正仁親王が昭和34年9月30日、津軽華子と結婚して創設した宮家。宮号の由来は、常陸国(現在の茨城県)が、太古から江戸時代末期まで親王が国司となる親王任国であったことから、選ばれた。
正仁親王(まさひと、2595(昭和10、1935)年11月28日 ― )
昭和天皇第六子、第二皇子。御称号は義宮(よしのみや)。
大勲位菊花大綬章。
学習院初等科、中等科、高等科を経て、東京帝國大学理学部を卒業し、理学士の称号を取得。
親王妃は、伯爵・津軽義孝の第4女子の華子。
正仁親王妃
華子(はなこ、2600(昭和15、1940)年7月19日 ― )
勲一等宝冠章。旧名津軽華子。
大正天皇支系
三笠宮家
三笠宮家(みかさのみやけ)は、大正天皇の第四皇子三笠宮崇仁親王により創設された宮家。三笠宮の宮号は、昭和10年12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、阿倍仲麻呂の和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」に出てくる奈良の三笠山にちなんで命名された。同時に大勲位に叙せられている。
崇仁親王(たかひと、2575(大正4、1915)12月2日 ― )
元帥陸軍大将。大勲位菊花大綬章。皇族中の最高齢。陸軍の長老。平成27年、百寿を迎える。
崇仁親王妃
百合子(ゆりこ、2583(大正12、1923)年6月4日 ― )
勲一等宝冠章。子爵・高木正得第2女子。
崇仁親王第一子第一女子
甯子内親王(やすこ、2604(昭和19、1944)年4月26日 ― )
細川護煇子爵夫人。
崇仁親王第二子第一男子
寬仁親王(ともひと、2606(昭和21、1946)年1月5日 ― 2672(平成24、2012)年6月6日)
大勲位菊花大綬章。崇仁親王後嗣であったが薨去。
寬仁親王妃
信子(のぶこ、2615(昭和30、1955年4月9日 ― )
麻生太賀吉子爵三女。
寬仁親王第一子第一女子
彬子内親王(あきこ、2641(昭和56、1981)年12月20日 ― )
鈴木伯爵嫡男夫人。
寬仁親王第二子第二女子
瑶子内親王(ようこ、2643(昭和58、1983)年12月25日 ― )
小笠原子爵嫡男夫人。
寬仁親王第三子第一男子
照仁親王(てるひと、2646(昭和61、1986)年4月8日 ― )
三笠若宮。
崇仁親王第四子第二女子
容子内親王(まさこ、2611(昭和26、1951)年10月23日 ― )
茶道裏千家第16代家元・千宗室夫人。
高円宮家
高円宮家(たかまどのみやけ)とは、大正天皇の第四皇子三笠宮崇仁親王の第5子第3男子憲仁親王が創設した宮家である。高円宮の宮号は昭和天皇から賜ったもので、父宮の宮号の由来となった奈良市東部の三笠山の近くにある高円山から採られた。
初代憲仁親王(のりひと)は、2614(昭和29・1954)年12月29日に誕生。2644(昭和59、1984)年12月6日に高円宮の宮号を賜った。2662(平成14、2002)年11月21日に47歳で薨去。2代盛仁親王は、2652(平成4・1992)年8月7日に誕生。父宮薨去によって、平成14年、10歳で宮家を承継した。
盛仁親王(もりひと、2652(平成4・1992)年8月7日 ― )
憲仁親王第四子第一男子。大勲位菊花大綬章。
高松宮以来の未成年宮家継承者。
憲仁親王妃
久子(ひさこ、2613(昭和28・1953)年7月10日 ― )
男爵・鳥取滋治郎第一女子。
憲仁親王第一子第一女子
承子内親王(つぐこ、2666(昭和61、1986)年3月8日 ― )
勲一等宝冠章。
憲仁親王第二子第二女子
典子内親王(のりこ、2668(昭和63、1988)年7月22日― )
男爵・千家尊祐嫡男千家国麿夫人。
憲仁親王第三子第三女子
絢子内親王(あやこ、2670(平成2・1990)年9月15日 ― )
守屋男爵嫡男夫人。
明治天皇支系
葛城宮家
葛城宮家(かつらぎのみやけ)は、明治天皇の第五皇子満宮輝仁親王(みつのみや てるひと)が創設した宮家である。葛城は、奈良盆地の南西部、金剛山地の東麓を指す地域名。大和と河内を隔てる金剛・葛城の連山は古代から神々が鎮座する場所として崇められてきた。元の名は高尾張と言ったが、神武天皇が、葛で編んだ網で土蜘蛛を捕らえたために改めたと伝えられる。
初代輝仁親王は、2553(明治26・1893)年11月30日に誕生。大正2年に葛城宮の宮号を賜った。昭和44年に76歳で薨去。2代仲仁親王(なかひとしんのう)は、2579(大正8・1919)年9月12日に誕生。父宮薨去によって、昭和44年に宮家を承継した。
仲仁親王(なかひと、2579(大正8・1919)年9月12日 ― )
元帥陸軍大将。大勲位菊花大綬章。皇族の中では、三笠宮に次ぐ年長者で長老として扱われている。
仲仁親王妃
有紀子(ゆきこ、2581(大正10・1921)年8月19日 ― 2662(平成14・2002)年7月1日)
仲仁親王第一子第一男子
秀仁親王(ひでひと、2603(昭和18、1943)年6月20日 ― )
葛城若宮。元帥陸軍大将。大勲位菊花大綬章。
秀仁親王妃
順子(じゅんこ、2606(昭和21、1946)年11月9日 ― )
松平伯爵第二女子。
秀仁親王第二子第一男子
為仁親王(ためひと、2633(昭和48、1973)年2月5日 ― )
海軍少将。
為仁親王妃
裕美(ゆみ、2636(昭和51、1976)年8月6日 ― )
栗田伯爵第三女子。
為仁親王第一子第一女子
友美女王(ともみ、2653(平成15、2003)年2月5日 ― )
為仁親王第二子第二女子
友恵女王(ともえ、2656(平成18、2006)年5月4日 ― )
為仁親王第三子第一男子
満仁王(みつひと、2660(平成22、2010)年8月17日 ― )
勲一等旭日大樹章
生駒宮家
生駒宮家(いこまのみや)は葛城若宮秀仁親王の第二男子誠仁親王が創設した宮家である。生駒は、奈良盆地の南西部、金剛連峰の山名から。平成17年6月5日、結婚に際して宮号を賜る。
秀仁親王第四子第二男子
誠仁親王(さねひと、2638(昭和53、1978)年9月9日 ― )
陸軍中佐。
誠仁親王妃
佳乃(よしの、2643(昭和58、1983)年9月9日 ― )
李芳輝侯爵次女。陸軍少佐。
誠仁親王第一子第一男子
誠忠親王(さねただ、2656(平成18、2006)年5月4日 ― )
誠仁親王第二子第一女子
芳美内親王(よしみ、2657(平成19、2007)年7月31日 ― )
誠仁親王第三子第二女子
芳香内親王(よしか、2659(平成21、2009)年11月3日 ― )
誠仁親王第四子第二男子
誠芳親王(さねよし、2661(平成23、2011)年8月27日 ― )
誠仁親王第五子第三女子
芳穂内親王(かほ、2663(平成25、2013)年1月23日 ― )
朝倉宮家
朝倉宮家(あさくらのみやけ)は、明治天皇の第五皇子輝仁親王の第一男子仲仁親王の第二男子房仁親王(ふさひと)が創設した宮家である。朝倉は、飛鳥時代に百済救援のため、斉明天皇が都を遷した場所とされており、宮号はその故事に倣う。
初代房仁親王は、2583(大正12・1923)年7月16日に誕生。2609年(昭和24、1949)年11月10日に結婚に際して朝倉宮の宮号を賜った。2656(平成8、1996)年)11月21日に73歳で薨去。2代豊仁親王(とよひと)は、2612(昭和27、1952)年3月18日に誕生。平成8年、父宮の薨去により、宮号を継承。平成24年、89歳で薨去。3代豊憲親王(とよのり)は、2638(昭和53、1978)年8月24日に誕生。平成24年、父宮の薨去により、宮号を継承。
豊憲王(とよのり、2638(昭和53、1978)年8月24日 ― )
豊仁親王妃
英子(ひでこ、2618(昭和33、1958)年1月9日 ― )
小松彰久侯爵四女。
豊憲王妃
久子(ひさこ、2664(昭和59、1984)年10月9日 ― )
西郷従節伯爵三女。
豊憲親王第一子第一女子
照子女王(てるこ、2665(昭和60、1985)年11月27日 ― )
伊藤侯爵嫡子夫人。
豊憲親王第二子第二女子
亜美女王(あみ、2667(昭和62、1987)年6月19日 ― )
九鬼子爵嫡子夫人。
豊憲親王第三子第一男子
友憲王(とものり、2670(平成2、1990)年5月23日 ― )
甘木宮家
甘木宮家(あまぎのみや)は房仁親王(ふさひと)第二男子常仁親王が創設した宮家である。祖父仲仁親王の宮号朝倉宮に倣い、斉明天皇ゆかりの甘木の宮号を賜った。
常仁親王(つねひと、2618(昭和33、1958)年9月2日 ― )
海軍中将。
常仁親王妃
貴美子(きみこ、2620(昭和35、1960)年11月7日 ― )
蜂須賀侯爵三女。
常仁親王第一子第一女子
伴子女王(ともこ、2642(昭和57、1982)年11月7日 ― 2670(平成2、1990)年12月4日)
早世。
常仁親王第二子第二女子
雪子女王(ゆきこ、2645(昭和60、1985)年7月30日 ― )
藤田伯爵嫡子夫人。
常仁親王第三子第一男子
信常王(のぶつね、2648(昭和63、1988)年3月21日 ― )
海軍大尉。
上総宮家
上総宮家(かずさのみやけ)は、明治天皇の第五皇子輝仁親王の第三男子捷仁親王(かつひと)が創設した宮家である。宮号の由来は、上総国(現在の千葉県)が、太古から江戸時代末期まで親王が国司となる親王任国であったことから選ばれた。
初代捷仁親王は、2586(大正15・1926)年5月9日に誕生。2610年(昭和25、1950)年11月10日に結婚に際して上総宮の宮号を賜った。2653(平成5、1993)年)1月18日に67歳で薨去。2代高仁親王(たかひと)は、2611(昭和26、1951)年7月2日に誕生。平成5年、父宮の薨去により、宮号を継承。
高仁親王(たかひと、2611(昭和26、1951)年7月2日 ― )
捷仁親王第一男子。退役陸軍中尉。東京帝國大学経済学部教授。経済学博士。
学習院初等科、中等科を経て第一高等学校文科へ進学。皇族では初の一高進学者となる。
東京帝國大学経済学部へ進学。東大経済学部長の井上幸庵研究室入り。
捷仁親王妃
珠子(たまこ、2588(昭和3・1928)年11月2日 ― )
南部侯爵三女。
高仁親王妃
豊子(とよこ、2611(昭和26、1951)年11月4日 ― )
上杉侯爵養女。旧姓田中。東京大学在学中の同級生。経済学修士。
高仁親王第一子第一男子
高治親王(たかはる、2641(昭和56、1981)年4月7日 ― )
上総若宮。海軍中佐。
高治親王妃
梢(こずえ、2643(昭和58、1983)年6月13日 ― )
岩崎子爵嫡男次女。
高治親王第一子第一女子
真希女王(まき、2668(平成20、2008)年1月20日 ― )
双子、真依の姉。
高治親王第二子第二女子
真依女王(まい、2668(平成20、2008)年1月20日 ― )
双子、真希の妹。
高治親王第三子第三女子
由紀女王(ゆき、2670(平成22、2010)年1月20日 ― )
高治親王第四子第一男子
高幸王(たかゆき、2673(平成25、2013)年9月12日 ― )
嵯峨宮家
嵯峨宮家(さがのみやけ)は、明治天皇の第五皇子輝仁親王の第三男子捷仁親王(かつひと)の第二男子師仁親王が創設した宮家である。宮号の由来は、門跡寺院であった大覚寺の山号から選ばれた。
師仁親王(もろひと、2613(昭和28、1953)年5月6日 ― )
元帥陸軍大将。
近衛師団近衛歩兵第一連隊長。陸軍大学校卒業。近衛師団長。
ロシア帝国駐在武官時代にミハイル・アレクサンドロヴィチ大公の三女マリアを見初め、求婚。日露の宮廷が協議した結果、マリアの改宗は不要であるが、祭祀への参加と両立すること、子女に対してロシア皇帝継承権の放棄が条件とされ、師仁とマリアがこの条件を受け入れたため、皇室初の国際結婚が成立した。皇族軍人の中では、三笠宮、葛城宮に次ぐ年長者で長老として扱われている。
師仁親王妃
マリア(まりあ、2617(昭和32、1957)年8月15日 ― )
ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公の三女マリア。ロシア正教。
師仁親王第一子第一男子
露仁親王(つゆひと、2640(昭和55、1980)年9月30日 ― )
海軍中尉。
露仁親王妃
亜梨沙(ありさ、2644(昭和59、1984)年12月3日 ― )
二條公爵嫡子次女。
露仁親王第一子第一女子
朋子女王(ともこ、2668(平成20、2008)年7月9日 ― )
露仁親王第二子第二女子
智代女王(ともよ、2671(平成23、2011)年6月17日 ― )
露仁親王第三子第三女子
智香女王(ともか、2673(平成25、2013)年4月23日 ― )
師仁親王第二子第一女子
露子内親王(つゆこ、2642(昭和57、1982)年1月14日 ― )
近衛男爵夫人。
師仁親王第三子第二女子
西子内親王(にしこ、2643(昭和58、1983)年11月29日 ― )
德川男爵夫人。
師仁親王第四子第三女子
亜子内親王(あこ、2645(昭和60、1985)年3月6日 ― )
李公夫人。
師仁親王第五子第四女子
露奈内親王(あきな、2647(昭和62、1987)年6月28日 ― )
吉田男爵夫人。
師仁親王第六子第二男子
宏西親王(ひろあき、2651(平成3、1991)年9月26日 ― )
師仁親王第七子第五女子
亜美内親王(あみ、2654(平成6、1994)年4月7日 ― )
伏見宮系
伏見宮家
伏見宮家(ふしみのみやけ)は、日本の宮家の一つで、四世襲親王家の一つ。菊の花を裏から見た様子を描いた裏菊を家紋とし、家紋同様に天皇家とは深い繋がりのある宮家であった。現在の天皇家も伏見宮家の系統であり、伏見宮貞成親王の男系子孫である。当主博明王の子女は全て女子であり、継嗣無き状態である。
博明王(ひろあき、2592(昭和7、1932)年11月9日 ― )
退役海軍大将。
北白川宮家
北白川宮家(きたしらかわのみやけ)は、明治初期、伏見宮邦家親王の第13王子・智成親王が創設した宮家。2代能久親王は伏見宮邦家親王の第9王子で、智成親王の兄宮に当たる。3代成久王は、能久親王の第3王子。明治20年に誕生。明治28年、父宮の薨去により宮家を相続。4代永久王は、成久王の第1王子。明治43年誕生。大正12年、成久王薨去により、宮家を相続した。5代道久王は、永久王の第1王子。昭和12年に誕生。昭和15年に父・永久王が飛行機事故で薨去し、3歳で北白川宮家を継承。当主道久王の子女は全て女子であり、継嗣無き状態である。
道久王(みちひさ、2597(昭和12、1937)年5月2日 ― )
退役海軍大将。
道久王妃
慶子(けいこ、2603(昭和18、1943)年7月23日 ― )
侯爵島津忠承3女。
久邇宮家
久邇宮家(くにのみやけ)は、明治時代前期に伏見宮邦家親王の第四王子朝彦親王が創立した宮家。宮号の由来は、恭仁京にちなんだといわれている(伏見宮の当主が1代おきに「邦」の1字を偏諱としていたことによるという説もある)。
初代朝彦親王は、文政7(1824)年に誕生。明治8(1875)年に久邇宮の宮号を賜った。その後、朝彦親王は神宮祭主として古儀復興に取り組み、明治24(1891)年に68歳で薨去。2代邦彦王(くによし)は、明治6(1873)年に誕生。明治24(1891)年に父宮薨去によって、宮家を相続した。昭和4(1929)年56歳で薨去。3代朝融王(あさあきら)は、明治34(1901)年に誕生。昭和34(1959)年に58歳で薨去。4代邦昭王(くにあき)は、 昭和4年に誕生。
邦昭王(2589(昭和4、1929)年3月25日 ― )
神宮祭主。学習院高等科。神宮皇學館大學。
邦昭王妃
正子(まさこ、2597(昭和12、1937)年1月19日 ― )
邦昭王第一男子
朝尊王(あさたか、2619(昭和34、1959)年10月30日 ― )
神宮大宮司。学習院高等科。神宮皇學館大學。
朝尊王妃
良子(よしこ、2623(昭和38、1963)年12月19日 ― )
勲二等宝冠章
朝尊王第一男子
邦浩王(くにひろ、2650(平成2、1990)年12月19日 ― )
朝尊王第二男子
朝宏王(ともひろ、2653(平成5、1993)年6月7日 ― )
朝尊王第三男子
朝光王(ともみつ、2654(平成6、1994)年8月14日 ― )
朝香宮家
朝香宮家(あさかのみやけ)は、明治後期、久邇宮朝彦親王の第8皇子である鳩彦王が創設した宮家。初代・鳩彦(やすひこ)王は、明治39(1906)年に明治天皇から朝香宮の宮号を賜った。昭和56年4月12日に94歳で薨去した。2代孚彦(たかひこ)王は鳩彦王第1王子で、大正元年出生。平成6年5月6日に81歳で薨去。3代誠彦(ともひこ)王は、2603(昭和18、1943)年8月18日に出生し、平成6年に宮家を相続した。
誠彦王(ともひこ、2603(昭和18、1943)年8月18日 ― )
誠彦王妃
貴子(たかこ、2608(昭和23、1948)年3月21日 ― )
男爵内海勝二の嫡男長女
誠彦王第一男子
明彦王(あきひこ、2932(昭和47、1972)年11月7日 ― )
明彦王妃
翔子(しょうこ、2934(昭和49、1974)年6月9日 ― )
明彦王第一子第一男子
輝孝王(てるたか、2957(平成9、1997)年4月29日 ― )
明彦王第二子第二男子
良英王(よしひで、2960(平成12、2000)年2月25日 ― )
明彦王第二子第一女子
咲良女王(さくら、2962(平成14、2002)年10月5日 ― )
竹田宮家
竹田宮家(たけだのみやけ)は、明治後期に北白川宮能久親王の第1王子、恒久(つねひさ)王が創設した宮家である。初代恒久王は、能久親王の第1王子(庶長子)として、明治15(1882)年に誕生。明治39(1906)年に明治天皇より竹田宮(京都市伏見区の地名に由来)の宮号を賜る。2代恒徳(つねよし)王は、明治42(1909)年に誕生。大正8(1919)年に父宮の薨去により、わずか10歳で宮家を相続した。平成4(1992)年5月11日、82歳で薨去した。3代恒正(つねただ)王は、昭和15年(1940)年に誕生。平成4年に宮家を相続した。
恒正王(つねただ、2600(昭和15、1940)年10月11日 ― )
退役陸軍中将。
恒正王妃
恭子(きょうこ、2605(昭和20、1945)年9月9日 ― )
男爵根津嘉一郎三女。
恒正王第一男子
恒貴王(つねたか、2634(昭和49、1974)年2月20日 ― )
竹田若宮。陸軍大佐。
恒貴王妃
弘子(ひろこ、2640(昭和55、1980)年8月31日 ― )
恒貴王第一子第一男子
恒友王(つねとも、2665(平成18、2005)年2月20日 ― )
恒貴王第二子第一女子
敬子女王(よしこ、2667(平成20、2007)年11月2日 ― )
恒貴王第三子第二女子
冴子女王(さえこ、2670(平成23、2010)年1月8日 ― )
恒貴王第四子第三女子
裕子女王(ゆうこ、2672(平成25、2012)年9月23日 ― )
東久邇宮家
東久邇宮家(ひがしくにのみやけ)は、明治時代後期に久邇宮朝彦親王の第9子である稔彦王が創立した宮家。初代稔彦王は、久邇宮朝彦親王の九男として明治20(1887)年に誕生。明治39(1906)年に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。平成2(1990)年1月20日に102歳で薨去。2代信彦王は、稔彦王第1子盛厚王の第1子(稔彦王の孫)であり、昭和20(1945)年3月10日に誕生。平成2年に継承。
信彦王(のぶひこ、2605(昭和20、1945)年3月10日 ― )
信彦王妃
吉子(よしこ、)
信彦王第一男子
征彦王(まさひこ、2633(昭和48、1973)年4月3日 ― )
東久邇若宮。
征彦王第一子第一男子
孝彦王(たかひこ、2658(平成10、1998)年11月29日 ― )
征彦王第二子第一女子
綾香女王(あやか、2661(平成13、2001)年1月2日 ― )
征彦王第三子第二女子
香織女王(かおり、2663(平成15、2003)年3月18日 ― )
絶家した宮家
梨本宮家
梨本宮家(なしもとのみやけ)は、伏見宮貞敬親王の第9王子守脩親王が創設した宮家。初代守脩親王は文政2(1819)年に誕生する。守脩親王には実子がなかったため、明治14(1881)年に山階宮菊麿王が梨本宮を継承する。3代守正王は、明治8(1874)年久邇宮朝彦親王の第4王子として誕生。明治33(1900)年に侯爵鍋島直大の二女伊都子と結婚し、方子女王、規子女王をもうけた。昭和21(1946)年、78歳で薨去、昭和51年、伊都子妃も薨去し、嗣子なく絶家した。
賀陽宮家
賀陽宮家(かやのみやけ)は、明治中期に久邇宮朝彦親王の第2王子邦憲王が、父宮がかつて称していた宮号を受け継いで、新しく創設した宮家である。賀陽宮の宮号は、朝彦親王の宮邸の榧(かや)の老木に由来するという。
初代邦憲王(くにのり)は、慶応3年(1867年)に誕生。2代恒憲王(つねのり)は、邦憲王の第1王子。3代邦寿王(くにながおう)は恒憲王の第1王子。昭和51(1986)年4月16日薨去し、嗣子なく絶家。祭祀は邦寿王の弟の賀陽伯爵家が継承した。
山階宮家
山階宮家(やましなのみやけ)は、江戸時代末期、伏見宮邦家親王の第一王子、晃(あきら)親王が創設した宮家。初代晃親王。2代菊麿王は、晃親王の第一王子。3代武彦王は、菊麿王の第一男子。昭和57年8月に藤沢の病院で薨去し、嗣子なく絶家。
高松宮家
高松宮家(たかまつのみやけ)は、大正天皇の第三男子である宣仁親王の創設した宮家である。昭和62年2月3日に宣仁親王、また平成6年12月18日には喜久子妃がそれぞれ薨去し、絶家となった。
秩父宮家
秩父宮家(ちちぶのみやけ)は、大正天皇の第二男子である雍仁親王の創設した宮家である。平成7年8月25日、雍仁親王妃勢津子の薨去により絶家した。
桂宮家
桂宮家(かつらのみやけ)は、大正天皇の第四皇子三笠宮崇仁親王の第二男子宜仁親王により創設された宮家。昭和58年1月1日、昭和天皇から「桂宮」の称号を受け、独立の生計を立てるようになった。宮号はお印に因んだもので、旧桂宮家の再興とは無関係とされる。平成26年6月8日に薨去し断絶となった。