大日本帝国歴代内閣
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21代 第三次桂太郎内閣(2572(大正元・1912)年12月21日~2573(大正2・1913)年5月11日)
▽来歴・概要
元長州藩士。第17代、第19代内閣総理大臣。陸軍大臣。
西園寺内閣が倒れたのは、西園寺と陸軍勢力の確執によるものであった。二個師団増設要求は西園寺内閣倒閣を意図して行われたものではなかったし、陸軍長老の山縣も桂も西園寺内閣の倒閣回避のために動いた。増師要求、陸相単独辞任の結果として起こった西園寺内閣総辞職に対しては、元老各員も困惑した。もともと西園寺は政権に対して淡白であり、権力維持に固執するほうではなかった。この西園寺の政治家としての性質がゆえに、西園寺が首相を続けることに嫌気がさしたと言われている所以である。
西園寺は後任には桂を推挙した。増師問題を扱った西園寺の目からは陸軍の増長が見て取れ、陸軍の長老でもあった桂に陸軍を抑えさせようとしたのである。一方の桂は逡巡した。政党である立憲同志会を組織したばかりで、地方組織も充分に機能しているとは言えない状況である。半年ほど前に行われたばかりの総選挙では、政友会が議会過半数を獲得したばかりで、これに抗するのは厳しい。桂は、議員数と言う観点からも、政友会を勝利させた国民感情と言う観点からも、今桂が政権を取るというのは危険であると認識していた。
山縣は桂首班に賛成しなかった。現在の政治情勢では桂が潰されると考えたからである。山縣にとって、政党を組織した桂は純粋な意味での陸軍閥の後継者とはいえなかった。とはいえ、その政治手腕は認めている。自身の後継として他に上げられるのが、朝鮮総督の寺内正毅陸軍大将と元台湾総督の児玉源太郎陸軍大将であったが、寺内は几帳面で、制度構築や管理といった地味な仕事に対して有能であったが、国家全体を見通す政治家としてはその力量に乏しいと考えられており、児玉は山縣の後継としての力量はあったが、脳溢血を発症後に左下肢に麻痺を生じたため、その才を惜しむ山縣によって軍事参議官入りはさせた(予備役編入ではなく現役維持を図る為)ものの自身の後に陸軍の長老とすることには不安があった。このような状況の為、山縣は桂を失うことを恐れ、桂後継には賛成できなかった。
とはいえ、西園寺内閣総辞職の原因が陸軍にあったことは明白であり、陸軍を操縦できる人物以外にこの難局を指揮できるのはいないというのが、元老内の意見の大勢であり、桂に大命降下の運びとなった。
第三次桂内閣は、政見として、行財政整理の推進、「国防会議」による軍備拡張額管理の制度化や軍務大臣武官制への改正(現役以外に予備役・後備役・退役軍人にも就任資格を拡大)を掲げる。これまでと同様に立憲政友会には、閣外での協力を求めたが、立憲同志会と言う政党を組織した以上幹部以外の政友会の大半は手切れと解釈した。
このころの帝國議会通常会は、前年の年末に召集され、議長副議長委員長を選挙し、それぞれの「院」を成立させた後、年末年始の期間は自然休会に入っていた。第三次桂内閣が臨む第30帝國議会も大正元年12月27日に開院式を迎えた後は、自然休会に入った。大正2年1月21日に帝國議会は再開するが、それまでの間に桂内閣を取りまく、政治情勢は日に日に悪化した。
第二次西園寺内閣末期の後継首相の人選が難航している頃から、今回の政変は陸軍と藩閥政治家、特に山縣の横暴であるという批判が世間では高まった。衆議院と言う帝國憲法上の正当な機関を経由して決められた政策が、陸軍と言う憲法外の機関によって歪められているというのが、この憲政擁護運動の基礎となった。
大正元年12月13日、東京の新聞記者・弁護士らが憲政振作会を組織して二個師団増設反対を決議し、翌14日には交詢社有志が発起人となって時局懇談会をひらいて、会の名を憲政擁護会とした。(交詢社は明治13(1880)年に福澤諭吉が提唱し、結成された日本最初の実業家社交クラブである。慶應義塾の同窓会メンバーが中心となって発会された。)19日の歌舞伎座での憲政擁護第1回大会では、政友会、国民党の代議士や新聞記者のほか実業家や学生も参加し、約3000の聴衆を集めて「閥族打破、憲政擁護」を決議している。この動きは憲政擁護運動、後に第1次護憲運動と呼ばれることとなる。27日には、野党の国会議員や新聞記者、学者らが集まって護憲運動の地方への拡大を決めた。その後、大正2年1月にかけて運動は全国に広がり、日露戦争後の重税に苦しむ商工業者や都市民衆が多数これに参加した。
大衆は、陸軍の長老である山縣が陸軍の拡張(すなわち、二個師団増設)の為に、これに反対する西園寺内閣を潰し、更に、子分である桂を内閣総理大臣に座らせたうえで、桂を操って新党を結成させて、政友会を潰そうとしている、とみなしており、この当時は山縣に批判の声が集中した。政友会は、議会第三党の立憲国民党(犬養毅党首)からの誘いにより、所属党員が憲政擁護運動に加わる。西園寺をはじめとした政党幹部はこれに加わらなかったものの日に日にその運動が拡大していくことになった。憲政擁護運動が地方に拡大すると盤石な地方組織を持つ政友会は次第に地方からの声にも押され、憲政擁護運動に傾斜していくこととなる。
大正2年1月21日の議会再開時、国民党の誘いを受けた政友会が内閣不信任決議案を提出する機先を制して、桂内閣は議会に15日間の停会を命じた。そして、政友会や国民党、藩閥、貴族院などの切り崩し工作を行った。議会停会中に更に護憲運動は過熱した。24日、東京・新富座にて憲政擁護第2回大会が開かれ、会場内に3千人、会場外には2万人の大群衆が詰めかけた。この頃になると、批判の矛先は、山縣だけでなくその手下である(と思われていた)桂も、攻撃の対象となった。議会が再開された2月5日、政友会、国民党などの野党は内閣不信任決議案を提出した。政友会の尾崎行雄議員の有名な弾劾演説はこの時のものである。この趣旨説明の演説の後、議会は再度、5日間の停会となり、議会周辺に詰めかけた群衆の間では騒然とした空気になった。
桂内閣は、加藤高明外相から、明治天皇の諒闇中(服喪期間)であることを理由に政争を中止するよう詔勅を引き出すことを提案される。英国のジョージ5世が即位したころ(1910年)、即位直後を理由に自由党と保守党との政争の中止を命じて、これを実現させたことにならうものであった。これを優詔政策という。2月4日、5日の閣議で議論され、勅語渙発の方針が決まる。8日、桂首相は加藤外相の仲介で西園寺総裁と会談に臨み、優詔が出た場合の政友会の出方を伺う。西園寺も「内閣を取り巻く現状は気の毒であるが、自分の一存で党内を抑えられない(ので、御沙汰を出していただくよりほかにはない)」と、勅語渙発の方向に賛同(黙認)する。2月9日、桂は最終手段として大正天皇の詔勅(優詔、御沙汰)を引き出し、西園寺、原ら政友会首脳も一旦は矛を収めることに同意する。同日、西園寺総裁が参内、大正天皇から御沙汰を受けた。その日の夜、政友・国民両党の幹部が西園寺邸で協議を行い、御沙汰を奉じる他なし、と決議した。一方で、8日には、両国国技館にて第3回憲政擁護大会が開かれ、場内だけで2万人の聴衆が集まった。翌9日、朝から数万人の民衆が停会明けの議事堂を包囲した。
1月半ばごろから桂は政権存続と総辞職の間で悩み、大衆運動の高まりを受けて、桂内閣の進退は行き詰まり、優詔政策の裏では、桂と山縣の間で内閣総辞職の方向で話は進みつつあった。しかし、これに待ったをかけたのが、伊藤であった。伊藤は桂に対して、「大衆が国会議事堂を取り囲み、現実の圧力を以て政権を倒すのは革命であり、立憲政治ではない。ここは我が国立憲政治の正念場である。桂君はこの土壇場に遭って猶も決然として解散総選挙の途を選ぶべきである。なるほど選挙の情勢を鑑みれば、政友会の有利は動かぬだろう。しかし、たとえ敗北するとしても、それでもなお、桂君は暴徒まがいの集団の圧力によって政権を退くのではなく、正々堂々選挙によって退くべきである。」と述べ、解散総選挙を選択するよう促した。内閣総辞職でまとまりかけていた元老会議はこれによりひっくり返され、桂は伊藤の言葉に大いに感銘を受け、解散総選挙の途を選択した。
停会の開けた衆議院本会議において、桂内閣不信任決議に対して桂首相は衆議院議場で自ら反対演説を行い、衆議院解散を行った。この反対演説が始まると、衆議院の議場は喧騒に包まれた。この喧騒を静め、桂首相の演説を聞くようにと衆議院傍聴席から一喝したのが、次に首相となる政友会総務委員の星亨男爵である。
衆議院解散から3か月、大正2年5月5日の日曜日に行われた総選挙において、同志会は解散前議席から4議席を増やし、91議席を獲得した。それでも、政友会の198議席(前回2議席増)の前に敗れたと判断し、桂内閣は総辞職した。
▽在任中の主な出来事
・大正政変
▽内閣の出した主な法令
・
・
・
▽内閣の対応した帝國議会
第30回帝國議會・通常会
日程
召集:2572(大正元・1912)年11月 9日(官報公示9日)
集会:2572(大正元・1912)年12月24日
開会:2572(大正元・1912)年12月27日
停会:2573(大正2・1913)年 1月21日自
2573(大正2・1913)年 2月 4日至(15日間)
2573(大正2・1913)年 2月 5日自
2573(大正2・1913)年 2月 9日至(5日間)
解散:2573(大正2・1913)年 2月10日
会期:90日、実数46日
議院役員
貴族院議長
5 德川家達(とくがわ いえさと)
就任:2570(明治43・1910)年12月 5日(再任)
退任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(任期満了)
生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、49歳
出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)
学歴:英イートン・カレッジ
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)
会派:火曜会
回数:終身
前職:麝香間祗候
特記:德川家達家初代。
貴族院副議長
6 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2568(明治41・1908)年10月 7日(再任)
退任:2575(大正 4・1915)年10月 7日(任期満了)
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、45歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。黒田侯爵家当主
衆議院議長
16 大岡育造(おおおか いくぞう)
就任:2571(明治44・1911)年12月24日(選出)
退任:
生年:2516(1856)年7月4日(安政3年6月3日)、56歳
出生:長門国豊浦郡小串村(山口県下関市)
学歴:長崎医学校(現・長崎医科大学)、講法学舎
官職:衆議院議員(山口県郡部区)
会派:立憲政友会
回数:10回(1期~10期)
前職:代言人/東京府会議員
特記:
衆議院副議長
12 関直彦(せき なおひこ)
就任:2568(明治41・1908)年12月23日(選出)
退任:
生年:2517(1857)年9月4日(安政4年7月16日)、55歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:東京大学法学部法律科卒業
官職:衆議院議員(東京府東京市区)
会派:立憲国民党
回数:6回(1期~2期、6期、9~11期)
前職:東京日日新聞記者、日報社社長/弁護士資格取得、東京弁護士会長/東京日日新聞・大阪日日新聞・帝国石油各社長/麹町区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員、衆議院議員
特記:紀州藩士関平兵衛の次男
第12回衆議院議員総選挙
改選数:395
投票日:2573(大正2・1913)年5月5日
選挙制度:大選挙区制(一部1人区制)、秘密投票制
実施地域:48庁府県(北海道(千島列島以外)、沖縄県(沖縄本島以外)、樺太庁(豊原町、大泊町など一部以外)、小笠原諸島を除く)
選挙権:
直接国税10円以上納税の満25歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
被選挙権:
満30歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
宮内官、司法官、会計検査官、収税官、警察官
管轄区内の府県郡官吏
各選挙区の市町村選挙管理担当吏員
神官、僧侶、教師
選挙結果:
立憲政友会
前回選挙:209
選挙直前:196
獲得議席:198(+2)
立憲同志会
前回選挙:新党
選挙直前:87
獲得議席:91(+4)
立憲国民党
前回選挙:95
選挙直前:32
獲得議席:29(△3)
中央倶楽部
前回選挙:31
選挙直前:23
獲得議席:21(△2)
立憲帝政党
前回選挙:18
選挙直前:15
獲得議席:15(±0)
無所属
前回選挙:
選挙直前:23
獲得議席:41
▽内閣閣僚
内閣総理大臣
21 桂太郎(かつら たろう)
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(新任)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2508(1848)年1月4日(弘化4年11月28日)、64歳
出生:長門国阿武郡萩町(山口県萩市)
学歴:ドイツ留学
官職:予備役陸軍大将
会派:立憲同志会・総裁
回数:
前職:長州藩士/陸軍次官、第三師団長、台湾総督/内閣総理大臣(17、19、21)
特記:子爵/外務大臣兼任
外務大臣
25 桂太郎(かつら たろう)
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(再入閣・兼任)
退任:2573(大正2・1913)年 1月29日(免兼)
※内閣総理大臣兼任
26 加藤高明(かとう たかあき)
就任:2572(大正元・1912)年 1月29日(再入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2520(1860)年1月25日(安政7年1月3日)、53歳
出生:尾張国海東郡佐屋(愛知県愛西市)
学歴:名古屋藩立洋学校(現・愛知県第一中学校)。東京外国語学校(現・東京外事専門学校)。東京大学法学部(現・東京帝國大学法学部)首席卒業。
官職:特命全権大使/
会派:立憲同志会
回数:
前職:三菱入社、三菱本社副支配人/大隈外相秘書官兼政務課長、駐英公使、外務大臣(17)、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、衆議院議員/駐英大使/外務大臣(26)、
特記:男爵
内務大臣
28 大浦兼武(おおうら かねたけ)
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(再入閣・新任)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2510(1850)年6月15日(嘉永3年5月6日)、62歳
出生:薩摩国薩摩郡宮之城郷(鹿児島県薩摩郡さつま町宮之城屋地)
学歴:
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:茶話会
回数:
前職:薩摩藩士/警視庁警部、大阪府警部長、内務省警保局次長/島根県知事、山口県知事、熊本県知事、宮城県知事、警視総監、逓信大臣(12)、農商務大臣(18)、内務大臣(28)
大蔵大臣
21 若槻禮次郎(わかつき れいじろう)
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(初入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2526(1866)年3月21日(慶応2年2月5日)、55歳
出生:出雲国松江雑賀町(島根県松江市雑賀町)
学歴:司法省法学校首席卒業、帝国大学法科大学(現:東京帝國大学)首席卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:立憲同志会
回数:明治44(1911)年8月24日
前職:大蔵省入省、愛媛県収税長、大蔵省主税局内国税課長、主税局長兼行政裁判所評定官、大蔵次官、錦鶏間祗候
特記:松江藩下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男。叔父・若槻敬の養子。
陸軍大臣
13 木越安綱(きごし やすつな)
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(初入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2514(1854)年4月22日(嘉永7年3月25日)、56歳
出生:加賀国石川郡金沢(石川県金沢市)
学歴:陸軍教導団、陸軍士官学校(旧1期)卒業、ドイツ留学
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:陸軍歩兵少尉任官、第3師団参謀(師団長桂太郎)、陸軍省軍務局軍事課長、台湾補給廠長、台湾総督府陸軍幕僚参謀長、陸軍省軍務局長、歩兵第23旅団長、第5師団長、第1師団長、陸軍大臣(13)
特記:明治40(1907)年9月21日、男爵叙爵
海軍大臣
9 斎藤實(さいとう まこと)
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(留任)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2518(1858)年12月2日(安政5年10月27日)、49歳
出生:陸奥国胆沢郡塩竈村(岩手県奥州市水沢吉小路)
学歴:海軍兵学寮(6期)卒業
官職:海軍中将→海軍大将
会派:
回数:
前職:米国留学兼駐米公使館付駐在武官、海軍次官、兼海軍省軍務局長、兼艦政本部長
特記:
司法大臣
21 松室致(まつむろ いたす)
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(初入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2512(1852)年1月22日(嘉永5年1月2日)、60歳
出生:豊前国企救郡松ヶ江村大字畑(福岡県北九州市門司区)
学歴:司法省法学校
官職:
会派:
回数:
前職:司法省出仕、検事総長(7)、司法大臣(21)
特記:
文部大臣
21 長谷場純孝(はせば すみたか)
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(初入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2514(1854)年4月27日(嘉永7/安政元年4月1日)、54歳
出生:薩摩国日置郡串木野郷(鹿児島県串木野市)
学歴:薩摩藩校造士館
官職:衆議院議員(鹿児島県郡部)
会派:立憲政友会
回数:10回(1期~10期)
前職:鹿児島県会議員、衆議院議員、衆議院議長(14)
特記:
23 柴田家門(しばた かもん)
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(初入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2523(1863)年2月6日(文久2年12月18日)、49歳
出生:長門国萩城下平安古(山口県萩市平安古東区)
学歴:大学予備門(第一高校)、東京帝国大学法科大学卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:茶話会
回数:明治36年7月15日勅選
前職:内閣書記官、法制局参事官、行政裁判所評定官、内務省地方局長、内閣書記官長(18、21)、文部大臣
特記:
農商務大臣
20 仲小路廉(なかしょうじ れん)
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(再入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2526(1866)年8月12日(慶応2年7月3日)、49歳
出生:周防国(山口県)
学歴:大阪府立開成学校卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:
回数:明治44(1911)年8月24日
前職:判事検事登用試験合格、東京地裁検事、東京控訴院検事兼司法省参事官、行政裁判所評定官、逓信省大臣官房長、内務省土木局長、警保局長、逓信次官
特記:
逓信大臣
17 後藤新平(ごとう しんぺい)
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(再入閣)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2517(1857)年7月24日(安政4年6月4日)、55歳
出生:陸奥国胆沢郡鹽竈村(岩手県奥州市水沢)
学歴:須賀川医学校(現:福島県立医科大学)
官職:
会派:
回数:
前職:愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)勤務医、学校長兼病院長/内務省勤務、内務省衛生局長/臨時陸軍検疫部事務官長、台湾総督府民政長官、南満洲鉄道初代総裁/逓信大臣(15、17)
特記:兼鉄道院総裁、兼拓殖局総裁
内閣書記官長
23 江木翼(えぎ たすく)
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(新任)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(内閣総辞職)
生年:2533(明治6・1873)年12月 5日、39歳
出生:山口県御庄村(山口県岩国市)
学歴:山口中学校、山口高等中学校予科・本科卒業、東京帝国大学法科大学英法科卒業、東京帝国大学法科大学英法科修了
官職:
会派:
回数:
前職:内務省入省、神奈川県事務官、法制局参事官、拓殖局部長、内閣書記官長(23)
特記:旧姓羽村。江木千之の養子。明治改暦後初の内閣書記官長
法制局長官
17 一木喜德郞(いちき きとくろう)
就任:2572(大正元・1912)年12月21日(再任)
退任:2573(大正2・1913)年 5月11日(依願免本官)
生年:2527(1867)年5月7日(慶応3年4月4日))、45歳
出生:遠江国佐野郡倉真村(静岡県掛川市)
学歴:帝国大学法科大学卒業、ドイツ留学
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:研究会
回数:明治33(1900)年9月26日勅選
前職:帝国大学法科大学教授/内務省大臣官房文書課、県治局員、参事官、参与官、法制局長官(13、17)
特記:
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22代 星亨内閣(2573(大正2・1913)年5月11日~2574(大正3・1914)年4月16日)
▽来歴・概要
男爵。立憲政友会副総裁。
星亨を首相に押し上げたのが、大正政変時に衆議院において桂内閣不信任決議が出された際の桂首相の反対演説の際の自身の行動言動である。星は貴族院議員であり、衆議院には議席はなかった。停会明けの衆議院では内閣不信任決議が上程されており、その反対演説を桂首相が自ら行うという。帝國議会は二院制で貴族院と衆議院は別々の組織であるが、内閣不信任決議という重大事が片方で審理されている以上、貴族院では予算委員会も自然休会していた。そのため、星は衆議院傍聴席に移動し、議場の動向を確かめた。ところが、衆議院の議場は喧騒で収拾がつかぬほどになっていた。星は、「諸君。光輝ある帝國の首相閣下が衆議院において演説をせんとするのを諸君らは何故妨害する。諸君らは議事堂外の民衆の手本とならねばならぬのに、この有様は何か。帝國議会は言論の府であるぞ。静かに聞け。」と怒鳴った。当時63歳の星の声で議場は静まり返り、桂は星の方を見て、わずかに頭を下げた。この行動に感じ入った桂太郎が自信の総辞職に際して次期首班にと推薦させた動機となった。
星内閣における重要政策として取り上げられたのが、軍部大臣現役武官制の改正である。当時、陸海軍大臣は現役の大中将に限っていた。元々は連立入りした政党の軍事作戦への介入を予防する目的であったが、第二次西園寺内閣の事例を見ると分かるように、軍部当局が大臣を引き上げると内閣を潰せるという前例を生み出してしまった。西園寺内閣の後を継いだ桂もこの制度の改正に動いていたが、大正政変の余波で改正までにはいかず、星内閣において実現した。
枢密院の定数削減が行われたのもこの内閣においてである。28人から24人へと定数が削減されたが、この措置も西園寺倒閣の黒幕とされていた山縣の牙城を切り崩すというパフォーマンスを示すものであり、山縣の同意の下行われた。
陸軍による倒閣という騒動に見舞われた西園寺政友会内閣の後だったため、星は海軍に接近した。もちろん、元老は承知していたし、多分にパフォーマンス的なところもあった。海軍の長老であった山本権兵衛を副総理格と言う形で班列大臣(無任所の国務大臣)として迎えた(本職は軍事参議官)。星は、桂内閣でも手を付けていた国防会議による軍事編制大権の制度化の一環として兵力量の政府側と軍部側の調整機関としての国防会議を考えていた。副総理格として海軍から山本を招くとともに、軍事参議官入りしていた児玉を陸軍側の中心人物にして、制度考究を担当させた。
星政権は、与党政友会の数、世論の支持を背景にして、陸軍を抑え、政策を推進したが、翌大正3年1月、シーメンス事件が発覚する。当時の世界情勢として、ドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世がイギリス海軍に対抗する形での海軍拡張を進めていた。太平洋に植民地(ドイツ領ニューギニア)を持つ関係から、日本海軍の金剛型戦艦4隻を「ドイツ東洋艦隊を無力化する」として脅威に感じていた。欧州では英独対立の情勢にあり、ドイツ東洋艦隊の増強が図られていたことから、日英同盟を基端にした日独対立もありうるということで、日本海軍もまた軍備増強を強化しようとしていた時期であった。
大正二年度予算は、総選挙後の内閣交代直後に臨時議会が開かれたために、海軍新規予算は抑えめであった。しかし、大正三年度予算は、上記の国際情勢を背景として海軍拡張のための増税含めた予算案を提出したがために、これに反対する民衆の攻撃の的となった。海軍の汚職事件であったが、海軍拡張予算を通した星内閣にも民衆の反発の矛先は向けられた。また、最終的には無関係とはなったものの、星はかつて東京市疑獄事件などに関りあるとされたことがあり、黒い噂の絶えない政治家でもあった。このことから、星内閣そのものに対しても世論の目は厳しくなった。
第32議会においても野党立憲同志会・立憲国民党・中正会の三派が合同して、星内閣を糾弾した。星首班を後押ししたこと、衆議院に議席を持たないことなどから、同志会総裁の桂と彼に近い陸軍出身の代議士は、どちらと言うと抑えに廻ったが、同志会の大勢は星内閣の攻撃に廻った。2月10日、三派は、内閣弾劾決議決議案を上程するに至った。この決議案は、政友会が多数与党ということもあり、164対205で否決されたが、この決議否決に対して民衆は反発し、帝国議会議事堂を包囲して、抗議した。
貴族院は衆議院を通過した予算案から海軍拡張に関する海軍予算7000万円を削減することを可決した(一般特別会計併せて総国家予算約16億円)。貴族院内部では、星内閣に対する対応は分かれていた。政友会の別動隊と言われる院内会派交友倶楽部は衆議院で成立した予算案の原案可決を望んだが、院内最大会派の研究会は海軍に対する懲罰の意味を込めて海軍予算を削減することを決した。中でも貴族院における山縣閥の牙城と言われた茶話会は、山縣が陸軍出身だったこともあってか、予算の削減の急先鋒となった。両院協議会が開かれたが、協議は不調に終わった。星首相は、帝國憲法71条の規定により、前年度予算の執行を命じ、3月24日、予算不成立の責任を取って総辞職の意向を表明した。
▽在任中の主な出来事
・シーメンス事件
・
▽内閣の出した主な法令
・陸海軍省官制改正
・枢密院官制改正
・
▽内閣の対応した帝國議会
第31回帝國議會・臨時会
日程
召集:2573(大正2・1913)年 6月12日(官報公示13日)
集会:2573(大正2・1913)年 7月21日
開会:2573(大正2・1913)年 7月23日
閉会:2573(大正2・1913)年 8月11日
会期:20日
議院役員
貴族院議長
5 德川家達(とくがわ いえさと)
就任:2570(明治43・1910)年12月 5日(再任)
退任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(任期満了)
生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、49歳
出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)
学歴:英イートン・カレッジ
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)
会派:火曜会
回数:終身
前職:麝香間祗候
特記:德川家達家初代。
貴族院副議長
6 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2568(明治41・1908)年10月 7日(再任)
退任:2575(大正 4・1915)年10月 7日(任期満了)
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、45歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。黒田侯爵家当主
17 大岡育造(おおおか いくぞう)
就任:2573(大正2・1913)年 7月22日(選出)
退任:
生年:2516(1856)年7月4日(安政3年6月3日)、57歳
出生:長門国豊浦郡小串村(山口県下関市)
学歴:長崎医学校(現・長崎医科大学)、講法学舎
官職:衆議院議員(山口県郡部区)
会派:立憲政友会
回数:12回(1期~12期)
前職:代言人/東京府会議員
特記:
衆議院副議長
14 関直彦(せき なおひこ)
就任:2573(大正2・1913)年 7月22日(選出)
退任:
生年:2517(1857)年9月4日(安政4年7月16日)、55歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:東京大学法学部法律科卒業
官職:衆議院議員(東京府東京市区)
会派:立憲国民党
回数:7回(1期~2期、6期、9~12期)
前職:東京日日新聞記者、日報社社長/弁護士資格取得、東京弁護士会長/東京日日新聞・大阪日日新聞・帝国石油各社長/麹町区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員、衆議院議員
特記:紀州藩士関平兵衛の次男
第32回帝國議會・通常会
日程
召集:2573(大正2・1913)年11月12日(官報公示13日)
集会:2573(大正2・1913)年12月24日
開会:2573(大正2・1913)年12月26日
停会:2574(大正3・1914)年 3月23日自
2574(大正3・1914)年 3月25日至
閉会:2574(大正3・1914)年 3月25日
会期:90日、実数92日
議院役員
※第31回帝國議會に同じ
貴族院議長
5 德川家達(とくがわ いえさと)
就任:2570(明治43・1910)年12月 5日(再任)
退任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(任期満了)
貴族院副議長
6 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2568(明治41・1908)年10月 7日(再任)
退任:2575(大正 4・1915)年10月 7日(任期満了)
衆議院議長
17 大岡育造(おおおか いくぞう)
就任:2573(大正2・1913)年 7月22日(選出)
退任:2574(大正3・1914)年 3月 6日(辞職)
18 長谷場純孝(はせば すみたか)
就任:2574(大正3・1914)年 3月 7日(選出)
退任:2574(大正3・1914)年 3月15日(死去)
生年:2514(1854)年4月27日(嘉永7/安政元年4月1日)、59歳
出生:薩摩国日置郡串木野郷(鹿児島県串木野市)
学歴:薩摩藩校造士館
官職:衆議院議員(鹿児島県郡部)
会派:立憲政友会
回数:12回(1期~12期)
前職:鹿児島県会議員、衆議院議員、衆議院議長(14)、文部大臣、衆議院議長(18)
特記:
19 奥繁三郎(おく しげさぶろう)
就任:2574(大正3・1914)年 3月17日(選出)
退任:
生年:2521(1861)年8月1日(文久元年6月25日)、52歳
出生:山城国綴喜郡八幡(京都府八幡市)
学歴:京都府師範学校卒業、関西法律学校中
官職:衆議院議員(京都府郡部区)
会派:立憲政友会
回数:8回(5期、6期補、7期~12期)
前職:小学校訓導兼校長、京都府会議員、衆議院議員、衆議院議長(19)
特記:代言人試験合格
衆議院副議長
14 関直彦(せき なおひこ)
就任:2573(大正2・1913)年 7月22日(選出)
▽内閣閣僚
内閣総理大臣
22 星亨(ほし とおる)
就任:2573(大正2・1913)年5月11日(新任)
退任:2574(大正3・1914)年4月16日(内閣総辞職)
生年:2510(1850)年5月19日(嘉永3年4月8日)、61歳
出生:武蔵国江戸築地小田原町(東京都中央区築地)
学歴:横浜英学所、開成所、英ミドル・テンプル
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:立憲政友会
回数:
前職:幕府大蔵局、横浜税関所長、弁護士、自由党員、駐米公使、外務大臣、逓信大臣/衆議院議員(当選回数9回、2期~10期)
特記:実父は左官職人。
明治40年11月、男爵叙爵
外務大臣
27 牧野伸顕(まきの のぶあき)
就任:2573(大正2・1913)年5月11日(再入閣・新任)
退任:2574(大正3・1914)年4月16日(内閣総辞職)
生年:2521(1861)年11月24日(文久元年10月22日)、51歳
出生:薩摩国鹿児島郡鹿児島城下加治屋町(鹿児島県鹿児島市)
学歴:アメリカ留学、東京大学中退
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:
回数:大正3(1914)年3月31日、貴族院勅選議員
前職:外務省入省、英公使館在勤、
内閣書記官、法制局参事官、兵庫県書記官、首相秘書官、福井県知事、茨城県知事、
文部次官、在イタリア公使、オーストリア公使、文部大臣、農商務大臣(19)
特記:大久保利通次男
明治40年11月、男爵叙爵
内務大臣
29 原敬(はら たかし)
就任:2573(大正2・1913)年5月11日(再入閣・再任)
退任:2574(大正3・1914)年4月16日(内閣総辞職)
生年:2516(1856)年3月15日(安政3年2月9日)、55歳
出生:陸奥国岩手郡本宮村(岩手県盛岡市)
学歴:司法省法学校中途退学、パリ政治学院・科目履修生(国際公法)
官職:衆議院議員(岩手県盛岡市区)
会派:立憲政友会・総務委員
回数:4回(7期~10期)
前職:郵便報知新聞社記者
外務省御用掛、清国天津領事、仏公使館在勤、農商務省参事官
外務省通商局長兼大臣官房移民課長兼取調局長、外務次官、朝鮮国駐箚特命全権公使
大阪毎日新聞社編集総理、同社長
逓信大臣、内務大臣(25、27、29)
特記:兼鉄道院総裁
大蔵大臣
23 高橋是清(たかはし これきよ)
就任:2573(大正2・1913)年5月11日(初入閣)
退任:2574(大正3・1914)年4月16日(内閣総辞職)
生年:2514(1854)年9月19日(嘉永7年/安政元年閏7月27日)、58歳
出生:武蔵国江戸芝中門前町(東京都港区芝大門)
学歴:ヘボン塾(現・明治学院)
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:立憲政友会
回数:明治38(1905)年1月29日
前職:文部省御用掛、農商務省御用掛、同書記官、特許局長、日本銀行副総裁、兼横浜正金銀行頭取、日本銀行総裁、大蔵大臣(23)
特記:松江藩下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男。叔父・若槻敬の養子。
明治40年9月、男爵叙爵
陸軍大臣
13 木越安綱(きごし やすつな)
就任:2573(大正2・1913)年 5月11日(留任)
退任:2573(大正2・1913)年11月11日(依願免本官)
生年:2514(1854)年4月22日(嘉永7年3月25日)、56歳
出生:加賀国石川郡金沢(石川県金沢市)
学歴:陸軍教導団、陸軍士官学校(旧1期)卒業、ドイツ留学
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:陸軍歩兵少尉任官、第3師団参謀(師団長桂太郎)、陸軍省軍務局軍事課長、台湾補給廠長、台湾総督府陸軍幕僚参謀長、陸軍省軍務局長、歩兵第23旅団長、第5師団長、第1師団長、陸軍大臣(13)
特記:明治40(1907)年9月21日、男爵叙爵
14 楠瀬幸彦(くすのせ ゆきひこ)
就任:2573(大正2・1913)年11月11日(初入閣)
退任:2574(大正3・1914)年4月16日(内閣総辞職)
生年:2518(1858)年4月28日(安政5年3月15日)、55歳
出生:土佐国(高知県)
学歴:東京海南私塾、陸軍幼年学校、陸軍士官学校(旧3期)卒業、フランス留学
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:陸軍砲兵少尉任官、陸士教官、近衛砲兵連隊中隊長、参謀本部第1局員、参謀本部副官、ロシア公使館付、台湾総督府参謀、西部都督部参謀長、第12師団参謀長、対馬警備隊司令官、大阪砲兵工廠提理、第2軍兵站監、満州軍重砲隊司令官、由良要塞司令官、樺太守備隊司令官、技術審査部長、陸軍大臣(14)
特記:
海軍大臣
9 斎藤實(さいとう まこと)
就任:2573(大正2・1913)年5月11日(留任)
退任:2574(大正3・1914)年4月16日(内閣総辞職)
生年:2518(1858)年12月2日(安政5年10月27日)、54歳
出生:陸奥国胆沢郡塩竈村(岩手県奥州市水沢吉小路)
学歴:海軍兵学寮(6期)卒業
官職:海軍大将
会派:
回数:
前職:米国留学兼駐米公使館付駐在武官、海軍次官、兼海軍省軍務局長、兼艦政本部長
特記:
司法大臣
22 松田正久(まつだ まさひさ)
就任:2573(大正2・1913)年 5月11日(再入閣・再任)
退任:2573(大正2・1913)年11月11日(依願免本官・病気療養)
生年:2505(1845)年5月17日(弘化2年4月12日)、67歳
出生:肥前国小城郡牛津(佐賀県小城市)
学歴:昌平坂学問所
官職:衆議院議員(佐賀県郡部区)
会派:立憲政友会・総務委員
回数:7回(1期、6期~11期)
前職:小城藩士/幕府陸軍局/長崎県会議員、同会議長、司法省出仕、大蔵大臣(14)、衆議院議長(12)、司法大臣(17、20、22)
特記:小城藩士横尾只七の次男
23 奥田義人(おくだ よしと)
就任:2573(大正2・1913)年11月11日(転官)
退任:2574(大正3・1914)年 4月16日(内閣総辞職)
生年:2520(1860)年7月31日(万延元年6月14日)、53歳
出生:出羽国置賜郡米沢城下信夫町(山形県米沢市)
学歴:東京大学法学部卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:立憲政友会
回数:明治45年(1912)年5月27日
前職:農商務省参事官、特許局長、内閣官報局長、衆議院書記官長、農商務次官、法制局長官、衆議院議員(2期)、宮中顧問官、貴族院議員、文部大臣(24)
特記:
文部大臣
24 奥田義人(おくだ よしと)
就任:2573(大正2・1913)年 5月11日(初入閣)
退任:2573(大正2・1913)年11月11日(転官)
生年:2520(1860)年7月31日(万延元年6月14日)、52歳
出生:出羽国置賜郡米沢城下信夫町(山形県米沢市)
学歴:東京大学法学部卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:立憲政友会
回数:明治45年(1912)年5月27日
前職:農商務省参事官、特許局長、内閣官報局長、衆議院書記官長、農商務次官、法制局長官、衆議院議員(2期)、宮中顧問官、貴族院議員、文部大臣(24)
特記:
25 元田肇(もとだ はじめ)
就任:2573(大正2・1913)年11月11日(転官)
退任:2574(大正3・1914)年4月16日(内閣総辞職)
生年:2518(1858)年2月28日(安政5年1月15日)、55歳
出生:豊後国国東郡来浦村(大分県国東市国東町来浦)
学歴:東京大学法科卒業
官職:衆議院議員(大分県郡部区)
会派:立憲政友会
回数:12回(1期~12期)
前職:弁護士、衆議院議員(大成会・国民協会・帝国党・立憲政友会)、衆議院副議長
特記:
農商務大臣
21 山本達雄(やまもと たつお)
就任:2573(大正2・1913)年5月11日(初入閣)
退任:2574(大正3・1914)年4月16日(内閣総辞職)
生年:2516(1856)年4月7日(安政3年3月3日)、57歳
出生:豊後国海部郡(大分県臼杵市)
学歴:慶應義塾中退、明治義塾(三菱商業学校)卒業、
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:立憲政友会
回数:明治36(1903)年11月20日
前職:郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)入社、日本銀行入行、横浜正金銀行取締役、ロンドン派遣、日本銀行理事、日本銀行総裁(5)、貴族院勅選議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣
特記:
逓信大臣
18 元田肇(もとだ はじめ)
就任:2573(大正2・1913)年5月11日(初入閣)
退任:2574(大正3・1914)年4月16日(内閣総辞職)
生年:2518(1858)年2月28日(安政5年1月15日)、55歳
出生:豊後国国東郡来浦村(大分県国東市国東町来浦)
学歴:東京大学法科卒業
官職:衆議院議員(大分県郡部区)
会派:立憲政友会
回数:12回(1期~12期)
前職:弁護士、衆議院議員(大成会・国民協会・帝国党・立憲政友会)、衆議院副議長
特記:
25 野田卯太郎(のだ うたろう)
就任:2573(大正2・1913)年11月11日(初入閣)
退任:2574(大正3・1914)年 4月16日(内閣総辞職)
生年:2513(1853)年12月21日(嘉永6年11月21日)、59歳
出生:筑後国三池郡岩津村(福岡県三池郡高田町)
学歴:
官職:衆議院議員(福岡県郡部区)
会派:立憲政友会
回数:8回(5期~12期)
前職:福岡県会議員
特記:地域の豪農・野田伊七の長男として出生
内閣書記官長
24 山之内一次(やまのうち かずじ)
就任:2573(大正2・1913)年5月11日(新任)
退任:2574(大正3・1914)年4月16日(内閣総辞職)
生年:2526(1866)年12月12日(慶応2年11月6日)、46歳
出生:薩摩国(鹿児島県鹿児島市上之園町)
学歴:錦城学校卒業、第一高等学校卒業、東京帝国大学卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:
回数:大正3(1914)年3月31日勅選
前職:内務・鉄道官僚/内務省警保局保安課長、青森県知事、逓信省鉄道局長、兼南満州鉄道株式会社監理官、兼帝国鉄道庁副総裁、鉄道院理事・総務部長、鉄道院運輸部長、鉄道院管理部長、北海道庁長官、内閣書記官長(24)、貴族院議員
特記:
法制局長官
18 岡野敬次郎(おかの けいじろう)
就任:2573(大正2・1913)年 5月11日(再任)
退任:2573(大正2・1913)年 9月20日(依願免本官)
生年:2525(1865)年11月9日(慶応元年9月21日)、47歳
出生:上野国群馬郡岩鼻町(群馬県高崎市)
学歴:共立学校、第一高等中学校、帝国大学法科大学(現・東京帝国大学)卒業、同大学大学院
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:交友倶楽部
回数:1908年12月28日
前職:帝国大学法科大学教授、農商務省官房長、内閣恩給局長、高等捕獲審検所評定官、法制局長官(14)、兼宮中顧問官、貴族院勅選議員、法制局長官(16、18)
特記:
19 倉富勇三郎(くらとみ ゆうざぶろう)
就任:2573(大正2・1913)年 9月20日(新任)
退任:2574(大正3・1914)年 4月16日(依願免本官)
生年:2513(1853)年8月20日(嘉永6年7月16日)、60歳
出生:筑後国竹野郡(現、福岡県田主丸町を経て久留米市)
学歴:司法省法学校卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:
回数:大正3(1914)年3月31日勅選
前職:司法省入省、司法省民刑局長、東京控訴院検事長、韓国法部次官、朝鮮総督府司法部長官、法制局長官(19)
特記:
―――――
23代 第二次大隈重信内閣(2574(大正3・1914)年4月16日~2576(大正5・1916)年10月9日)
▽来歴・概要
元佐賀藩士。参議大蔵卿、貴族院子爵議員。首相在任中に伯爵へ陞爵し、一時勅任議員になるが、伯爵議員補欠選挙で伯爵議員に就任。立憲同志会名誉会員。立憲同志会最高顧問。第14代内閣総理大臣。
星内閣は、シーメンス事件のあおりを受けた予算不成立の責任を取り総辞職した。組閣から一年に満たない内閣崩壊であり、原因となった貴族院での予算不成立には陸軍とも関係が深い茶話会が背後にいたことからも、世論の動揺は昨年の大正政変再びと言うような状況となりつつあった。
当時の政治慣習では衆議院第一党の内閣が倒れたときに衆議院第二党の政党が政権を引き継ぐという「憲政の常道」は確立されていなかった。星亨内閣は政友会内閣であったが、内閣崩壊の原因となったシーメンス事件は、海軍にかかわる汚職であったため、政友会には直接的な落ち度はない。これがため、元老集団は当初政友会を母体としつつも、政友会とは中立の人間に組閣をさせようとした。しかし、桂に次ぎ星と短命の内閣が続いたことや民衆の政治勢力としての台頭といった政治情勢の変化から、尻込みするものが多く適当な者がいなかった。德川家達貴族院議長や清浦奎吾元内相の名前が出たが、前者は大政奉還から明治維新の記憶も未だ新しいことから幕府政治への転換とも受け取られかねぬとの反対があり、清浦の場合は本人はやる気であったが貴族院からの反対によって潰えた。
病気療養中であった、榎本武揚元老が大隈の名を出し、桂が賛意を示した。立憲改進党の系譜は、憲政党、憲政本党そして同志会へと続いており、大隈は同志会会員として名を連ねていた。当時、大隈は政治活動は行っておらず、早稲田大学の創設運営に注力していたが、榎本元老が直々に交渉して、賛成を取り付けた。
第二次大隈内閣は、立憲同志会、中正会、大隈伯後援会の三会派を議会与党として大正3年4月16日に発足した。中世会は桂内閣総辞職に際して、桂から星への禅譲が行われたことに対して反発した脱党した立憲政友会議員を中心として発足した会派である。大隈伯後援会は、大隈が政界を事実上引退した後に憲政本党から離脱した無所属議員を中心に作られた会派である。
第二次大隈内閣発足の大正3年は、同年中に4度も帝國議会が召集されることになる異例の年となった。第33臨時議會は、同年4月9日に崩御した昭憲皇太后大喪関連予算の帝國議会への協賛を求めてのものであった。第34臨時議會は、本予算で否決された軍艦建造費の一部を追加予算として計上するものであった。奇しくも、帝國議会閉会の6月28日は、欧州大戦のきっかけとなったサラエヴォ事件の日であった。第35臨時議會は、欧州大戦への参戦のための臨時予算計上のためである。欧州大戦へ参戦に対しては、当初元老集団は慎重論が中心で、中立を意図していた。加藤外相が強硬に閣議を主導して参戦へ持っていったことで、参戦への舵が切られたが、元老への十分な相談、御前会議の開催もなく開戦を主導したことに対しては後々加藤の首班擁立に響くこととなる。そして、第36通常議會は、直接的には二個師団増設予算が政友会の反対によって否決されたことを契機として解散となるが、その解散総選挙において大隈首相は欧州大戦への本格的な介入を世論に問うた。
帝國軍隊を欧州戦域に出動させるかという点は、統帥権の独立にも絡む問題であり、軍部は大隈によい顔をしなかった。また、元老側も一国の参戦地域の拡大と言う国家にとって重大な問題を世論に問うという大隈の姿勢には賛同できず、早くもこのころから大隈を退陣させるべく動き出した。しかし、大隈は総選挙において各地で遊説を繰り返し、世論の支持を得ていき、総選挙において、明治33(1900)年以来、衆議院の第一党を守ってきた政友会から比較第一党を勝ち取った。
同志会総裁であった桂は第三次政権の退陣後に総裁を辞職したが、桂は後継としていた加藤高明が未だに元老の支持を得ていないことから総裁代行として在任していた。大隈政権で外相に就いた加藤の強引な参戦への行動は、元老をして加藤を後継に据えることを躊躇させた。元老は、桂の総裁代行を維持することで加藤への牽制を意図したが、それは同志会内部で桂総裁代行から加藤総裁への禅譲を迫る声が高まっていくことにもつながっていった。
元老達の加藤への不信は参戦段階のものだけではなく、いわゆる対華21カ条要求によっても高まる。桂は加藤に対する元老達の不信感を払しょくするには時が必要と判断し、加藤に自重を促した。一方で大隈は加藤を自身の後継にすべく、加藤の行動を後押しをしていった。これにより、元老と大隈の関係は冷え切ったものとなる。
転機が訪れたのは、総選挙後に大浦内相が選挙干渉への関与を検察から追及されたことに端を発する。大正4年7月29日、大浦は内相を辞任し、大隈もその翌日責任を取って全閣僚の辞表を捧呈し、総辞職の意向を伝えた。しかし、11月に大正天皇の即位礼を迎えたこの時期に政変を起こすようなことはできないという元老の判断で、総辞職は回避された。
内相、外相、蔵相、海相といった主要閣僚を交代させた大隈改造内閣だが、対中強硬派であった加藤外相を後退させたことで、国民からは不満が出た。元老の非難を浴びた加藤の対中政策ではあったが、国民の支持は得ていた。この加藤を外したことで大隈の人気に陰りが見えた。
加藤高明の後任には駐仏大使の石井菊次郎男爵が就任した。大正4(1915)年9月5日に、英国ロンドンでイギリス、フランス、ロシアの間で単独不講和に関する宣言が発表された。いわゆるロンドン宣言である。日本は、この宣言に10月19日に加盟した。この指揮を執ったのが石井である。
対中強硬外交から欧州協調外交にシフトチェンジした大隈内閣は続けて対英支援の艦隊を欧州に派遣することを発表した。2年前にシーメンス事件と言う大失態を犯した海軍は、この構想に相乗りする。「維新以来鍛錬を重ね、日清日露の輝かしい戦果を挙げてきた海軍は、今や遠く欧州の海へと大遠征を敢行す」。多分にパフォーマンス的な意味合いはあったが、国民の多くは海国日本の躍進と雄飛という大隈と海軍の言説を支持した。
元老と陸軍はここでも面白くなかった。ヨーロッパまで艦隊を派遣するとなればかかる経費は莫大なものとなり、国家予算の大きな負担となる。また、陸軍としては、海軍のように簡単に海外派兵ができる環境になかった。英国との関係から通商護衛の小艦隊を派遣することは、元老も理解していたが、金剛型巡洋戦艦を軸とする艦隊を派遣するという作戦には簡単に賛成できなかった。海軍の志願兵が基本となる海軍に比べて、陸軍は徴兵による兵が主体である。陸軍首脳は、徴兵された兵が日本から遠く離れた欧州まで行って戦争に参加したいと思うとは思えなかったためである。
金剛型巡洋戦艦四隻中金剛と比叡の二隻を主軸とする欧州方面艦隊が組織され、大正5(1916)年3月にイギリスに到着した。彼らの主目的はドイツ海軍を北海に押し込めることが目的であったが、同年5月にユトランド沖海戦が起きる。イギリス側としては戦力は少しでも多い方がよいとも考えたが、日本の艦船に被害が出た場合、日本本国が派遣継続に消極的になることを恐れて、当初は日本艦隊に出動の要請は行わなかった。しかし、使えるものは何でも使えと当時の英国海軍卿ウィンストン・チャーチルが欧州方面艦隊司令長官加藤定吉海軍中将に出撃を要請し、加藤はこれを快諾した。遅れて出撃した日本艦隊は、英独両艦隊の死闘の最中に戦場に到着し、損傷を受けていたドイツ艦隊に猛攻を加え、巡洋戦艦「フォン・デア・タン」、同「デアフリンガー」の撃沈という殊勲を挙げた。日本の戦艦は沈まなかったが、金剛大破、比叡中破といった大きな被害を出した。加えて、果敢に敵艦隊に肉薄した水雷戦隊には駆逐艦の撃沈といった被害も生じていた。
海軍の活躍に気を良くした日本国内では陸軍も派遣せよとの世論の声が高まりだした。既に大正4年に参謀次長に就任した田中義一及び軍事参議官であった児玉源太郎を中心として、欧州方面への軍隊派遣についての研究がなされていた。参謀本部は欧州派兵に対する態度をなかなか明確にしなかった。一方で、元老の意を組んだ岡市之助陸相をはじめとする陸軍省は欧州大戦参戦当初から欧州派兵には慎重論を取っていた。陸軍省としては、陸軍懸案の二個師団増設問題にケリをつけることができた。その新師団の部隊錬成途中という状況であり、陸軍に部隊を派遣する余裕はなかった。政府内部では、元々加藤高明外相を中心に欧州派兵を望む声が存在した。積極的に外交を展開することで日本の国際的な地位を高めるという点で外務省の主導で派兵を提唱していた。加藤外相時代からあった声は徐々に高まっていったが、石井外相に変わるとトーンダウンする。加藤と違い、石井が国内勢力、特に元老にも配慮するようになったからである。国際協調路線と言う点に変りはないが、陸軍省の欧州派兵慎重論に外務省も同調しつつ政策転換しつつあった。
大正4年12月、参謀総長に元陸相上原勇作が就任する。陸軍大臣を辞職後、第三師団長、教育総監として現役であった上原は、参謀総長就任後に参謀本部を派兵賛成論でまとめる。陸軍は省部(陸軍「省」と参謀本「部」)で意見が割れる形となった。この動きに大隈は呼応して、内閣の方針も欧州陸軍派兵に傾けようとしていた。しかし、大正5年5月のユトランド沖海戦を受けて、再び大隈は派兵に対して逡巡した。海戦では戦死者数は少なかったが、陸戦ともなれば、大きな被害が出ることが充分に予想されたからである。
二個師団の錬成が進み、世論の声に押されるにつれて、陸軍省内部にも欧州派兵に賛成する声が挙がりだした。それでも、大隈の逡巡は続いていた。陸軍大臣は、大正5年3月に、派兵に慎重であった岡市之助から派兵に向けた検討を厭わないとした大島健一へと交代した。陸相交代の時点では大隈も派兵に積極的だったので、元老からの反対を押し切り、この人事を後押ししたが、ユトランド沖海戦後は陸軍からの突き上げに苦労することとなる。大隈は石井外相を通じて対露協商改正交渉に取り組むなど極東における権益強化に舵を切ったため、加藤前外相が中心となっている同志会の支持は依然として続いていた。対して、陸軍は次第に大隈への圧力を強めていった。
陸軍三長官は会合を開き、派兵に向けた取り組みを行わないのであれば、大島陸相の単独辞任も有り得るとの合意を取り付けた。しかし、この合意は公表されず、三長官は元老からの追及にも陸軍の欧州派兵に関する検討を行っただけにすぎないとの回答しか行わなかった。積極的に陸軍派遣を唱える上原参謀総長としても、陸軍による倒閣と言うのは避けたいことであった。陸軍は政治工作を進めることとなる。ここに同志会の加藤と陸軍の間に妥協が成立する。欧州派兵ということでは、海軍の協力が不可欠であり、陸軍は海軍との間に協力関係を結ぼうとした。
シーメンス事件以来、海軍は信頼回復に努めていた。この海軍の信頼回復の陣頭指揮にあたったのは、八代六郎海軍大臣であった。八代海相は、綱紀粛正の名のもとに山本権兵衛と斎藤実両大将を予備役に編入する人事の大ナタを振るった。大隈首相が主導した日英同盟に基づいたドイツへの宣戦布告に対しても賛成した。いずれも、軍令部長であった島村速雄をはじめとする海軍主流派の意向を抑えて、八代海相の独断ともいえる形で行われた。民衆の支持が高い大隈内閣に忠実な海軍を演じることで、海軍の信頼回復に一定の効果を挙げた。八代海相は地道な努力によって海軍の勢威が高まることを意図しており、それには、比較対象としての陸軍が活躍することは望ましくない。二個増師達成で世間の陸軍への目が厳しくなりつつあった時期を凌ぎ、国民の目に海軍はよくやっていると思わせることに成功しているため、八代海相には欧州派兵は冒険としか思えなかった。そのため、当時は欧州への派兵に積極的であった大隈改造内閣成立時には海相を外された形となった。
新たに海軍大臣となった加藤友三郎は、欧州派兵に積極的に乗り出し、そしてそれはユトランド沖海戦の勝利に結実した。加藤海相は海軍の勢威が高まるだけでは、陸軍との関係に良くないと考え、陸軍が欧州派兵に乗り出した時には賛成する姿勢を示した。
陸海軍が欧州派兵に舵を切りめたころ、政界では、政友会が欧州派兵には戦費負担の点で賛成しがたいと反対していた。政友会の支持基盤は地方の地主・名士層であり、陸軍の兵の多くは地方の小作の次男三男から成り立っていたため、彼らは労働力の確保と言う点から欧州派兵には賛成してはいなかった。同志会は、都市部の人間を支持基盤としており、彼らは欧州派兵を支持していた。必然的に陸海軍は同志会との協調を強めだした。
大隈は、最後まで欧州派兵に逡巡した。大隈は、欧州へ陸軍を派遣させると、欧州の地で多くの天皇の赤子が戦死する可能性に耐えきれなかったと回顧している。陸海軍の圧力に耐えきれなくなった大隈は、欧州への陸軍派兵を実行するのであれば、陸軍出身の首班を立てるべきとして、元老に対して辞意を伝えた。元老は意見の調整を行い、後任に軍事参議官の児玉源太郎陸軍大将を充てることとした。
▽在任中の主な出来事
・欧州大戦勃発
・対華21カ条要求
・ロンドン宣言加入
・第四次日露協約
・
▽内閣の出した主な法令
・
・
・
▽内閣の対応した帝國議会
第33回帝國議會・臨時会
日程
召集:2574(大正3・1914)年4月17日(官報公示17日)
集会:2574(大正3・1914)年5月 4日
開会:2574(大正3・1914)年5月 5日
閉会:2574(大正3・1914)年5月 7日
会期:3日、実数3日
議院役員
貴族院議長
5 德川家達(とくがわ いえさと)
就任:2570(明治43・1910)年12月 5日(再任)
退任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(任期満了)
生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、49歳
出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)
学歴:英イートン・カレッジ
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)
会派:火曜会
回数:終身
前職:麝香間祗候
特記:德川家達家初代。
貴族院副議長
6 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2568(明治41・1908)年10月 7日(再任)
退任:2575(大正 4・1915)年10月 7日(任期満了)
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、45歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。黒田侯爵家当主
衆議院議長
19 奥繁三郎(おく しげさぶろう)
就任:2574(大正3・1914)年 3月17日(選出)
退任:
生年:2521(1861)年8月1日(文久元年6月25日)、歳
出生:山城国綴喜郡八幡(京都府八幡市)
学歴:京都府師範学校卒業、関西法律学校中
官職:衆議院議員(京都府郡部区)
会派:立憲政友会
回数:8回(5期、6期補、7期~12期)
前職:小学校訓導兼校長、京都府会議員、衆議院議員、衆議院議長(19)
特記:代言人試験合格
衆議院副議長
14 関直彦(せき なおひこ)
就任:2573(大正2・1913)年 7月22日(選出)
退任:
生年:2517(1857)年9月4日(安政4年7月16日)、55歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:東京大学法学部法律科卒業
官職:衆議院議員(東京府東京市区)
会派:立憲国民党
回数:7回(1期~2期、6期、9~12期)
前職:東京日日新聞記者、日報社社長/弁護士資格取得、東京弁護士会長/東京日日新聞・大阪日日新聞・帝国石油各社長/麹町区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員、衆議院議員
特記:紀州藩士関平兵衛の次男
第34回帝國議會・臨時会
日程
召集:2574(大正3・1914)年5月 8日(官報公示9日)
集会:2574(大正3・1914)年6月20日
開会:2574(大正3・1914)年6月22日
閉会:2574(大正3・1914)年6月28日
会期:7日、実数7日
議院役員
第33議会に同じ
第35回帝國議會・臨時会
日程
召集:2574(大正3・1914)年8月23日(官報公示23日)
集会:2574(大正3・1914)年9月 3日
開会:2574(大正3・1914)年9月 4日
閉会:2574(大正3・1914)年9月 9日
会期:3日、延長3日、実数6日
議員役員
第33議会に同じ
第36回帝國議會・通常会
日程
召集:2574(大正3・1914)年10月26日(官報公示26日)
集会:2574(大正3・1914)年12月 5日
開会:2574(大正3・1914)年12月 7日
解散:2574(大正3・1914)年12月25日
会期:90日、実数19日
議院役員
第33議会に同じ
※但し、貴族院副議長黒田長成は、2575(大正4・1915)年10月7日に貴族院議長に再任されたため第7代の貴族院副議長(4期目)となる。
第13回衆議院議員総選挙
改選数:395
投票日:大正4年3月25日
選挙制度:大選挙区制(一部1人区制)、秘密投票制
実施地域:48庁府県(北海道(千島列島以外)、沖縄県(沖縄本島以外)、樺太庁(豊原町、大泊町など一部以外)、小笠原諸島を除く)
選挙権:
直接国税10円以上納税の満25歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
被選挙権:
満30歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
宮内官、司法官、会計検査官、収税官、警察官
管轄区内の府県郡官吏
各選挙区の市町村選挙管理担当吏員
神官、僧侶、教師
選挙結果:
立憲同志会
前回選挙:91
選挙直前:95
獲得議席:153(+58)
立憲政友会
前回選挙:198
選挙直前:184
獲得議席:108(△76)
中正会
前回選挙:新党
選挙直前:36
獲得議席:33(△3)
立憲国民党
前回選挙:29
選挙直前:32
獲得議席:27(△5)
大隈伯後援会
前回選挙:新党
選挙直前:
獲得議席:19
立憲帝政党
前回選挙:15
選挙直前:15
獲得議席:14(△1)
無所属
前回選挙:
選挙直前:
獲得議席:41
第37回帝國議會・特別会
日程
召集:2575(大正4・1915)年3月30日(官報公布30日)
集会:2575(大正4・1915)年5月17日
開会:2575(大正4・1915)年5月20日
閉会:2575(大正4・1915)年6月 9日
会期:21日、実数21日
議院役員
貴族院議長
5 德川家達(とくがわ いえさと)
就任:2570(明治43・1910)年12月 5日(再任)
退任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(任期満了)
生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、51歳
出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)
学歴:英イートン・カレッジ
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)
会派:火曜会
回数:終身
前職:麝香間祗候
特記:德川家達家初代。
貴族院副議長
7 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2575(大正 4・1915)年10月 7日(再任)
退任:2582(大正11・1922)年10月 7日(任期満了)
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、48歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。黒田侯爵家当主
衆議院議長
20 島田三郎(しまだ さぶろう)
就任:2575(大正4・1915)年5月17日(選出)
退任:
生年:2504(1852)年12月17日(嘉永5年11月7日)、62歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:昌平黌、ブラウン塾、沼津兵学校、大学南校、大蔵省附属英学校
官職:衆議院議員(神奈川県横浜市区)
会派:立憲同志会
回数:13回(1期~13期)
前職:幕臣/元老院書記官、文部省書記官、横浜毎日新聞社長、神奈川県会議長、衆議院議員、衆議院副議長
特記:
衆議院副議長
13 花井卓蔵(はない たくぞう)
就任:2575(大正4・1915)年5月17日(選出)
退任:
生年:2528(1868)年7月31日(慶応4年6月12日)、46歳
出生:備後国御調郡三原町(広島県三原市)
学歴:英吉利法律学校(現・中央大学)卒業
官職:衆議院議員(広島県郡部区)
会派:中正会
回数:8回(7~13期)
前職:弁護士、衆議院議員
特記:明治23(1890)年12月代言人試験合格
第38回帝國議會・通常会
召集:2575(大正4・1915)年10月 4日(官報公布5日)
集会:2575(大正4・1915)年11月29日
開会:2575(大正4・1915)年12月 1日
閉会:2576(大正5・1916)年 2月28日
議院役員
貴族院議長
5 德川家達(とくがわ いえさと)
※第37議会に同じ
貴族院副議長
7 黒田長成(くろだ ながしげ)
※第37議会に同じ
衆議院議長
20 島田三郎(しまだ さぶろう)
※第37議会に同じ
衆議院副議長
13 花井卓蔵(はない たくぞう)
就任:2575(大正4・1915)年 5月17日(選出)
退任:2575(大正4・1915)年12月26日(選出)
生年:2528(1868)年7月31日(慶応4年6月12日)、55歳
出生:備後国御調郡三原町(広島県三原市)
学歴:英吉利法律学校(現・中央大学)卒業
官職:衆議院議員(広島県郡部区)
会派:中正会
回数:8回(6~13期)
前職:弁護士、衆議院議員
特記:明治23(1890)年12月代言人試験合格
14 早速整爾(はやみ せいじ)
就任:2575(大正4・1915)年12月26日(選出)
退任:
生年:2528(1868)年11月15日(明治元年10月2日)、55歳
出生:広島県沼田郡新庄村(現・広島市西区新庄町)
学歴:広島中学、東京専門学校政治経済英学科(現・早稲田大学)卒業
官職:衆議院議員(広島県広島市区)
会派:中正会
回数:7回(7~13期)
前職:埼玉英和学校校長代理兼教頭、芸備日日新聞社長兼主筆、広島市会議員、同議長、広島県会議員、広島商工会議所会頭、衆議院議員
特記:
▽内閣閣僚
〇第二次大隈内閣(2574(大正3・1914)年4月16日~2575(大正4・1915)年8月10日)
内閣総理大臣
23 大隈重信(おおくま しげのぶ)
就任:2574(大正3・1914)年 4月16日(新任)
退任:2575(大正4・1915)年 8月10日(内閣改造)
生年:2498(1838)年3月11日(天保9年2月16日)、76歳
出生:肥前国佐賀郡佐賀城下会所小路(佐賀県佐賀市水ヶ江町)
学歴:佐賀藩校弘道館
官職:貴族院議員・華族議員(子爵)
会派:立憲同志会名誉会員。立憲同志会最高顧問。
回数:
前職:佐賀藩士/太政官治部省出仕、幕府外務局出向、大蔵局転任、大蔵奉行、大蔵次官、大蔵大臣、外務大臣、内閣総理大臣
特記:子爵
外務大臣
28 加藤高明(かとう たかあき)
就任:2574(大正3・1914)年4月16日(再入閣)
退任:2575(大正4・1915)年8月10日(内閣改造)
生年:2520(1860)年1月25日(安政7年1月3日)、53歳
出生:尾張国海東郡佐屋(愛知県愛西市)
学歴:名古屋藩立洋学校(現・愛知県第一中学校)。東京外国語学校(現・東京外事専門学校)。東京大学法学部(現・東京帝國大学法学部)首席卒業。
官職:特命全権大使/
会派:立憲同志会
回数:
前職:三菱入社、三菱本社副支配人/大隈外相秘書官兼政務課長、駐英公使、外務大臣(17)、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、衆議院議員/駐英大使/外務大臣(26、28)
特記:男爵
内務大臣
30 大浦兼武(おおうら かねたけ)
就任:2574(大正3・1914)年4月16日(再入閣)
退任:2575(大正4・1915)年8月10日(内閣改造)
生年:2510(1850)年6月15日(嘉永3年5月6日)、63歳
出生:薩摩国薩摩郡宮之城郷(鹿児島県薩摩郡さつま町宮之城屋地)
学歴:
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:茶話会
回数:明治33(1900)年3月19日勅選
前職:薩摩藩士/警視庁警部、大阪府警部長、内務省警保局次長/島根県知事、山口県知事、熊本県知事、宮城県知事、警視総監、逓信大臣(12)、農商務大臣(18)、内務大臣(28、30)
大蔵大臣
24 若槻禮次郎(わかつき れいじろう)
就任:2574(大正3・1914)年4月16日(再入閣)
退任:2575(大正4・1915)年8月10日(内閣改造)
生年:2526(1866)年3月21日(慶応2年2月5日)、48歳
出生:出雲国松江雑賀町(島根県松江市雑賀町)
学歴:司法省法学校首席卒業、帝国大学法科大学(現:東京帝國大学)首席卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:立憲同志会
回数:明治44(1911)年8月24日勅選
前職:大蔵省入省、愛媛県収税長、大蔵省主税局内国税課長、主税局長兼行政裁判所評定官、大蔵次官、錦鶏間祗候、大蔵大臣(22、24)
特記:松江藩下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男。叔父・若槻敬の養子。
陸軍大臣
15 岡市之助(おか いちのすけ)
就任:2574(大正3・1914)年4月16日(初入閣)
退任:2575(大正4・1915)年8月10日(内閣改造)
生年:2520(1860)年3月28日(安政7年3月7日)、54歳
出生:長門国阿武郡萩(山口県萩市)
学歴:大阪外語学校、陸軍士官学校(旧4期)
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:陸軍歩兵少尉任官、歩兵第8旅団副官、歩兵第20連隊中隊長、陸士教官、第1師団参謀(日清戦争時)、参謀本部第2部員兼軍令部第2局員、陸軍省軍務局軍事課長(日露戦争時)、陸軍少将、歩兵第22旅団長、参謀本部総務部長、歩兵第29旅団長、軍務局長、陸軍次官、陸軍中将、第3師団長、陸軍大臣(15)
特記:
海軍大臣
10 八代六郎(やしろ ろくろう)
就任:2574(大正3・1914)年4月16日(初入閣)
退任:2575(大正4・1915)年8月10日(内閣改造)
生年:2520(1860)年1月25日(安政7年1月3日)、54歳
出生:尾張国丹羽郡楽田村(愛知県犬山市)
学歴:犬山藩藩校敬道館、愛知英語学校(愛知一中)、海軍兵学寮(6期)卒業
官職:海軍中将
会派:
回数:
前職:海軍少尉任官、海軍参謀部、ウラジオストク出張、ロシア公使館附武官、「八島」副長、常備艦隊参謀、「宮古」艦長、「和泉」艦長、海軍大学校選科学生、「浅間」艦長(日論戦争時)、ドイツ公使館・大使館附武官、海軍少将、横須賀予備艦隊、第1艦隊、練習艦隊、第2艦隊司令官、海軍中将、海軍大学校長、舞鶴鎮守府司令長官、海軍大臣(10)
特記:
司法大臣
24 尾崎行雄(おざき ゆきお)
就任:2574(大正3・1914)年4月16日(再入閣)
退任:2575(大正4・1915)年8月10日(内閣改造)
生年:2518(1858)年12月24日(安政5年11月20日)、55歳
出生:相模国津久井県又野村(神奈川県相模原市緑区又野)
学歴:慶應義塾(現・慶應義塾大学)中退、工学寮(現・東京帝國大学)中退
官職:衆議院議員(三重県郡部区)
会派:憲政党(旧進歩党系)
回数:12回(1期~12期)
前職:東京府会議員、衆議院議員
特記:
文部大臣
26 一木喜德郞(いちき きとくろう)
就任:2574(大正3・1914)年4月16日(初入閣)
退任:2575(大正4・1915)年8月10日(内閣改造)
生年:2527(1867)年5月7日(慶応3年4月4日))、46歳
出生:遠江国佐野郡倉真村(静岡県掛川市)
学歴:帝国大学法科大学卒業、ドイツ留学
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:研究会
回数:明治33(1900)年9月26日勅選
前職:帝国大学法科大学教授/内務省大臣官房文書課、県治局員、参事官、参与官、法制局長官(13、17)
特記:
農商務大臣
22 河野広中(こうの ひろなか)
就任:2574(大正3・1914)年4月16日(初入閣)
退任:2575(大正4・1915)年8月10日(内閣改造)
生年:2509(1849)年8月24日(嘉永2年7月7日)、64歳
出生:陸奥国田村郡三春(福島県田村郡三春町)
学歴:
官職:衆議院議員(福島県郡部)
会派:立憲同志会・総務委員
回数:12回(1期~12期)
前職:福島県会議長、衆議院議員、衆議院議長(11)
特記:
逓信大臣
20 武富時敏(たけとみ ときとし)
就任:2574(大正3・1914)年4月16日(初入閣)
退任:2575(大正4・1915)年8月10日(内閣改造)
生年:2516(1856)年1月16日(安政2年12月9日)、58歳
出生:肥前国佐賀(佐賀県)
学歴:大学南校
官職:衆議院議員(佐賀県郡部区)
会派:立憲同志会総務委員
回数:11回(1期、3期~12期)
前職:「肥前日報」社長/佐賀県会議員、同副議長、同議長/農商務省商工局長、同省商務局長、大蔵省勅任参事官/内閣書記官長(15)
特記:
内閣書記官長
25 江木翼(えぎ たすく)
就任:2574(大正3・1914)年4月16日(再任)
退任:2575(大正4・1915)年8月10日(内閣改造)
生年:2533(明治6・1873)年12月 5日、40歳
出生:山口県御庄村(山口県岩国市)
学歴:山口中学校、山口高等中学校予科・本科卒業、東京帝国大学法科大学英法科卒業、東京帝国大学法科大学英法科修了
官職:
会派:
回数:
前職:内務省入省、神奈川県事務官、法制局参事官、拓殖局部長、内閣書記官長(23、25)
特記:旧姓羽村。江木千之の養子。明治改暦後初の内閣書記官長
法制局長官
19 倉富勇三郎(くらとみ ゆうざぶろう)
就任:2573(大正2・1913)年 9月20日(新任)
退任:2574(大正3・1914)年 4月25日(依願免本官・事務引継)
生年:2513(1853)年8月20日(嘉永6年7月16日)、60歳
出生:筑後国竹野郡(現、福岡県田主丸町を経て久留米市)
学歴:司法省法学校卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:
回数:大正3(1914)年3月31日勅選
前職:司法省入省、司法省民刑局長、東京控訴院検事長、韓国法部次官、朝鮮総督府司法部長官、法制局長官(19)
特記:
20 高橋作衛(たかはし さくえ)
就任:2574(大正3・1914)年 4月25日(新任)
退任:
生年:2527(1867)年11月5日(慶応3年10月10日)、60歳
出生:肥前国(長崎県)
学歴:第一高等学校、帝国大学法科大学政治学科卒業(首席)、東京帝大大学院修了(法学博士)
官職:
会派:
回数:
前職:海軍教授、常備艦隊司令長官付幕僚(法律顧問)、旅順口根拠地司令長官付(通訳)、海軍大学校勤務、東京帝大法科大学教授(国際公法第二講座)、海軍省嘱託、海大教授嘱託、帝国学士院会員、法制局長官(20)
特記:
〇第二次大隈改造内閣(2575(大正4・1915)年8月10日~2576(大正5・1916)年10月9日)
内閣総理大臣
23 大隈重信(おおくま しげのぶ)
就任:2575(大正4・1915)年 8月10日(留任)
退任:2576(大正5・1916)年10月 9日(内閣総辞職)
生年:2498(1838)年3月11日(天保9年2月16日)、77歳
出生:肥前国佐賀郡佐賀城下会所小路(佐賀県佐賀市水ヶ江町)
学歴:佐賀藩校弘道館
官職:貴族院議員・華族議員(子爵)
会派:立憲同志会名誉会員。立憲同志会最高顧問。
回数:
前職:佐賀藩士/太政官治部省出仕、幕府外務局出向、大蔵局転任、大蔵奉行、大蔵次官、大蔵大臣、外務大臣、内閣総理大臣
特記:子爵
外務大臣
29 大隈重信
就任:2575(大正4・1915)年 8月10日(兼任)
退任:2575(大正4・1915)年10月13日(免兼)
30 石井菊次郎(いしい きくじろう)
就任:2575(大正4・1915)年10月13日(初入閣)
退任:2576(大正5・1916)年10月 9日(内閣総辞職)
生年:2526(1866)年4月24日(慶応2年3月10日)、49歳
出生:上総国長柄郡真名村(千葉県茂原市)
学歴:千葉中学校、大学予備門、東京帝国大学法科大学法律学科卒業
官職:特命全権大使
会派:
回数:
前職:外務省入省、パリ公使館勤務、仁川領事、清国公使館勤務(義和団の乱に遭遇)、外務省電信課長、兼人事課長兼取調課長、通商局長、外務次官(第1次西園寺内閣、第2次桂内閣)、男爵受爵、駐仏大使、外務大臣(30)
特記:石井邦猷の養子/明治44(1911)年8月24日、男爵受爵
内務大臣
31 一木喜德郞(いちき きとくろう)
就任:2575(大正4・1915)年 8月10日(転官)
退任:2576(大正5・1916)年10月 9日(内閣総辞職)
生年:2527(1867)年5月7日(慶応3年4月4日)、48歳
出生:遠江国佐野郡倉真村(静岡県掛川市)
学歴:帝国大学法科大学卒業、ドイツ留学
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:研究会
回数:明治33(1900)年9月26日勅選
前職:帝国大学法科大学教授/内務省大臣官房文書課、県治局員、参事官、参与官、法制局長官(13、17)、文部大臣(26)、内務大臣(31)
特記:
大蔵大臣
25 武富時敏(たけとみ ときとし)
就任:2575(大正4・1915)年 8月10日(転官)
退任:2576(大正5・1916)年10月 9日(内閣総辞職)
生年:2516(1856)年1月16日(安政2年12月9日)、59歳
出生:肥前国佐賀(佐賀県)
学歴:大学南校
官職:衆議院議員(佐賀県郡部区)
会派:立憲同志会総務委員
回数:11回(1期、3期~12期)
前職:「肥前日報」社長/佐賀県会議員、同副議長、同議長/農商務省商工局長、同省商務局長、大蔵省勅任参事官/内閣書記官長(15)、逓信大臣(20)、大蔵大臣(25)
特記:
陸軍大臣
15 岡市之助(おか いちのすけ)
就任:2575(大正4・1915)年 8月10日(留任)
退任:2576(大正5・1916)年 3月30日(依願免本官)
生年:2520(1860)年3月28日(安政7年3月7日)、54歳
出生:長門国阿武郡萩(山口県萩市)
学歴:大阪外語学校、陸軍士官学校(旧4期)
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:陸軍歩兵少尉任官、歩兵第8旅団副官、歩兵第20連隊中隊長、陸士教官、第1師団参謀(日清戦争時)、参謀本部第2部員兼軍令部第2局員、陸軍省軍務局軍事課長(日露戦争時)、陸軍少将、歩兵第22旅団長、参謀本部総務部長、歩兵第29旅団長、軍務局長、陸軍次官、陸軍中将、第3師団長、陸軍大臣(15)
特記:
16 大島健一(おおしま けんいち)
就任:2576(大正5・1916)年 3月30日(初入閣)
退任:2576(大正5・1916)年10月 9日(内閣総辞職)
生年:2518(1858)年6月19日(安政5年5月9日)、54歳
出生:美濃国恵那郡岩村町(岐阜県恵那市)
学歴:陸軍士官学校(旧4期)
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:陸軍砲兵少尉任官、ドイツ留学、砲工学校教官、第1軍副官(日清戦争時)、参謀本部部員、参謀本部第4部長事務取扱、参謀本部第4部長心得、陸軍砲兵大佐、参謀本部第4部長、陸軍少将、参謀本部附、参謀本部第4部長事務取扱、参謀本部総務部長、参謀本部第4部長、参謀次長、陸軍中将、陸軍次官、陸軍大臣(16)
特記:
海軍大臣
11 加藤友三郎(かとう ともさぶろう)
就任:2575(大正4・1915)年 8月10日(初入閣)
退任:2576(大正5・1916)年10月 9日(内閣総辞職)
生年:2521(1861)年4月1日(文久元年2月22日)、54歳
出生:安芸国広島城下大手町(広島県広島市中区大手町)
学歴:広島藩校修道館(現:私立修道館中学校)、海軍兵学寮(7期)卒業(次席)、海軍大学校甲号1期
官職:海軍中将
会派:
回数:
前職:海軍少尉任官、防護巡洋艦「吉野」回航委員、「吉野」砲術長、海軍少佐、海軍大学校教官、海軍中佐、巡洋艦「筑紫」艦長、海軍大佐、高等教育会議議員、兼海軍省軍務局第二課長、港湾調査会委員、兼海軍臨時建築部部員、海軍省軍務局局員]、第二艦隊参謀長、海軍少将、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長、海軍次官、海軍省司法局長、海軍中将、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官、海軍大臣(11)
特記:
司法大臣
24 尾崎行雄(おざき ゆきお)
就任:2575(大正4・1915)年 8月10日(留任)
退任:2576(大正5・1916)年10月 9日(内閣総辞職)
生年:2518(1858)年12月24日(安政5年11月20日)、55歳
出生:相模国津久井県又野村(神奈川県相模原市緑区又野)
学歴:慶應義塾(現・慶應義塾大学)中退、工学寮(現・東京帝國大学)中退
官職:衆議院議員(三重県郡部区)
会派:憲政党(旧進歩党系)
回数:12回(1期~12期)
前職:東京府会議員、衆議院議員
特記:
文部大臣
27 高田早苗(たかた さなえ)
就任:2575(大正4・1915)年 8月10日(初入閣)
退任:2576(大正5・1916)年10月 9日(内閣総辞職)
生年:2520(1860)年4月4日(安政7年3月14日)、55歳
出生:武蔵国江戸深川(東京都江東区)
学歴:共立学校(現・開成中学校)、官立東京英語学校(現・第一高等学校)、大学予備門、東京大学文学部哲学政治学及理財学科卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:同成会
回数:大正4(1915)年5月19日勅選
前職:東京専門学校評議員・講師、読売新聞主筆、法学博士、衆議院議員(埼玉県選出、通算6期)、外務省通商局長、文部省参事官、高等学務局長、参与官兼専門学務局長、早稲田大学学長、同総長
特記:
農商務大臣
22 河野広中(こうの ひろなか)
就任:2575(大正4・1915)年 8月10日(留任)
退任:2576(大正5・1916)年10月 9日(内閣総辞職)
生年:2509(1849)年8月24日(嘉永2年7月7日)、64歳
出生:陸奥国田村郡三春(福島県田村郡三春町)
学歴:
官職:衆議院議員(福島県郡部)
会派:立憲同志会・総務委員
回数:12回(1期~12期)
前職:福島県会議長、衆議院議員、衆議院議長(11)
特記:
逓信大臣
21 箕浦勝人(みのうら かつんど)
就任:2575(大正4・1915)年 8月10日(初入閣)
退任:2576(大正5・1916)年10月 9日(内閣総辞職)
生年:2514(1854)年3月13日(嘉永7年2月15日)、61歳
出生:豊後国臼杵(大分県臼杵)
学歴:慶應義塾
官職:衆議院議員(大分県全県)
会派:立憲同志会
回数:12回(1期~12期)
前職:郵便報知新聞社長、衆議院議員、衆議院副議長(11)
特記:
内閣書記官長
25 江木翼(えぎ たすく)
就任:2575(大正4・1915)年 8月10日(留任)
退任:2576(大正5・1916)年10月 9日(内閣総辞職)
生年:2533(明治6・1873)年12月 5日、40歳
出生:山口県御庄村(山口県岩国市)
学歴:山口中学校、山口高等中学校予科・本科卒業、東京帝国大学法科大学英法科卒業、東京帝国大学法科大学英法科修了
官職:
会派:
回数:
前職:内務省入省、神奈川県事務官、法制局参事官、拓殖局部長、内閣書記官長(23、25)
特記:旧姓羽村。江木千之の養子。明治改暦後初の内閣書記官長
法制局長官
20 高橋作衛(たかはし さくえ)
就任:2574(大正3・1914)年 4月25日(新任)
退任:2576(大正5・1916)年10月 9日(依願免本官)
生年:2527(1867)年11月5日(慶応3年10月10日)、60歳
出生:肥前国(長崎県)
学歴:第一高等学校、帝国大学法科大学政治学科卒業(首席)、東京帝大大学院修了(法学博士)
官職:
会派:
回数:
前職:海軍教授、常備艦隊司令長官付幕僚(法律顧問)、旅順口根拠地司令長官付(通訳)、海軍大学校勤務、東京帝大法科大学教授(国際公法第二講座)、海軍省嘱託、海大教授嘱託、帝国学士院会員、法制局長官(20)
特記:
―――――
24代 児玉源太郎内閣(2576(大正5・1916)年10月9日~2578(大正7・1918)年9月29日)
▽来歴・概要
元長州藩士。陸軍大臣。陸軍大将、任期中に予備役陸軍大将。軍事参議官。
大隈首相が元老に対して、後継首班の選定あり次第退陣するとの意向を伝えたのは、大正5年8月初旬であった。大隈は自身の内閣設立を後押しした榎本武揚と立憲同志会の総裁代行であった桂太郎とにこのことを伝えた。このころ両元老は体調を悪くしており、彼らは後継首班の選定にはかかわらなかった。
榎本と桂からの連絡を受けた元老は、後継首班の選定に入った。桂の進言により、元老は児玉源太郎に後継首班の連絡を入れる。しかし、児玉は過去に脳溢血を起こしており、左下肢麻痺という身体上の障害があったことから後継首班を固辞した。これ以降も寺内正毅や上原勇作といった人物が挙がったが、いずれも国家の宰相としての器量はないと判断され、元老は再び児玉に後継首班について相談し、再度の相談に児玉も受け入れた。
児玉内閣が発足するに当り、児玉はこれまで軍事参議官として研究していた欧州大戦への本格的な参画に関する措置を実施した。それが担当国務大臣の導入である。児玉は、現役陸軍軍人が組閣することに対して海軍が反発する可能性を考えた。そこで八代人事で予備役となった山本権兵衛などの海軍重鎮を中央政界に復帰させることで、海軍側を懐柔しようとした。また、児玉は立憲同志会を与党としつつも、立憲政友会にも政権参画を呼び掛けた。
この結果として二つの国務大臣が新規に任命された。一つが、山本権兵衛を大臣とする軍部出身の大臣である。欧州への派兵計画を陸海軍纏めて統御するために置かれ、陸軍大臣と海軍大臣に対して、欧州派兵計画に限定した区処権を持たせた。星内閣の場合と違うのは、星内閣における副総理格と言うのがあくまでも待遇面においてであり、軍事参議官が本官であったのに対して、今回は国務大臣が本官となり、軍事参議官が兼官扱いとなったことにある。もう一つが、派兵計画に伴う国内国外問題を統合調整するために置かれた担当大臣である。この大臣はあくまで調整役であり、他の国務大臣に対する命令権は持たせておらず、挙国一致体制をつくる建前的な部分があった。しかしながら、この国務大臣は児玉内閣と同時に発足した臨時外交調査会の委員首座の任を与えられており、他の国務大臣の格上と言う印象を与えていた。政友会側は基本的に欧州派兵には懐疑的であったことから、調整が難航したが、伊藤博文と西園寺公望が共同して依頼することで、政友会の星総裁もこれを受け容れた。
臨時外交調査会は欧州大戦に関して重要の案件を考査審議する天皇に直属する機関として設置された。総裁には天皇の統治権を代行する征夷大将軍が、副総裁には内閣総理大臣が充てられることで権威を高め、委員には外務大臣、内務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、大蔵大臣の主要5閣僚、牧野伸顕、伊東巳代治、平田東助の3枢密顧問官、上原勇作参謀総長と島村速雄海軍軍令部長の統帥部責任者、加藤高明立憲同志会総裁代行補佐、原敬立憲政友会幹事長、犬養毅立憲国民党常務委員そして委員首座である星亨立憲政友会総裁と山本権兵衛国務大臣の15名を委員とした。
挙国一致の体制を以て児玉内閣は第39議会に臨んだ。欧州派兵に向けて積極的な憲政会(同志会が他小党(中正会・公友倶楽部)と合同して改組。総裁加藤高明。)と消極的な政友会と言う関係で始まった帝國議会は、欧州派兵に関する予算案とそれを裏付ける増税案を含んでいた。これに対して政友会側が難色を示した。欧州派兵に対しては半ば決定事項であったので、増税の規模を縮小することで派兵規模も縮小することで骨抜きにしようと考えていた。この動きに犬養毅率いる立憲国民党も同調し、明治以来の民力休養を合言葉に政府批判を強めた。これに対して与党憲政会は、「同盟国である英国を助け、帝国の威信を世界に轟かす」、「極東の憲兵から世界の憲兵へ」、「世界最強のドイツ陸軍との決戦」、「海軍の大捷に続け」、「戦争に貢献し、列強入りを果たす」などと言った美辞麗句を以てマスコミを扇動し、議会外での運動を強めた。
しかし、児玉は無理をしなかった。臨時外交調査会の席上で、欧州派兵に関する予算案の一部を削減しつつも、その分を予備費としてプールする。その上で予算を成立させ、予備費を原資とした補正予算の成立を懸けて総選挙を実施することを述べた。大正6年1月25日、衆議院は解散され、4月20日投票日となった。その結果、憲政会は第一党を維持したが、7議席減となった。政友会は議席を伸ばし、第二党を維持した。
解散から投票日までの間に外交的に大きな問題が生じた。ロシア二月革命の勃発である。ロシアの政情不安は日に日に悪化し、児玉首相は対露外交の重要性が増したと判断した。その結果、外務大臣が元駐露大使の本野一郎子爵に交代となった。ロシア革命は、ついにはロシア皇帝ニコライ二世の退位に行きつくに至り、参謀本部内ではロシア救援作戦について計画し始めた。これを後押ししたのが陸軍の長老にして元老の山縣有朋であった。日露戦争を参謀総長として戦い抜いた山縣は、日露協約に基づく日露の友好関係が破綻し、ロマノフ王朝に代わるロシアが対日復讐戦を考えだすことを恐れた。この件に関しては、新たに外相となった本野も同意見であった。外交調査会では、欧州派兵が既定路線となっている以上と二方面作戦となるための、戦費増大に反対論が多く、時期尚早として作戦についての考究を続けることのみが決定された。
総選挙後、直ちに議会が召集され、欧州派兵に関する臨時予算が提出された。欧州派兵は既定路線であったため、予算は難なく衆議院を通過する。しかし、貴族院において、ロシアの動向を気にする山縣の意を組んだ議員からロシア方面出兵の質問があり、審議が一時中断するという事態が起こった。衆議院で予算が通過後、参謀本部は直ちに動員準備を発令した。7月10日に臨時予算が成立すると、翌11日動員令が発令され、戦時編成を完了した2個師団が輸送船に乗り、欧州へと向かっていった。
ロシアの政情不安は、ついに10月革命によりボリシェヴィキ政権が成立するに至った。2月革命で成立したロシア臨時政府は、ニコライ2世を退位させたが、帝政を完全に廃止する予定ではなかった。臨時政府は、ニコライ2世の弟ミハイル大公に接触し続け、立憲君主としての即位を要請していた。ロシアの政情不安からミハイル大公は、現時点での即位には応じない姿勢を貫いていたが、10月革命によってこの構想自体が破綻した。帝政復帰の余地を残していたロシア臨時政府は瓦解し、レーニン率いるボリシェヴィキが権力を掌握する。劣勢に立たされた臨時政府残党が東に逃れると、ペトログラードは一気に政治的空白地帯となった。すると今度はレーニンとレーニン以外の集団で内部闘争が始まり、ペトログラードは混乱のるつぼと化した。
10月革命の勃発により、山縣はロシア救援から手を引いた。山縣は、ロシアの混乱は長引くと予想し、その間に東方大公としてシベリア地方に根を張るヴォストークニイ=ロマノフ家を中心とした国家をロシアとの緩衝国家として独立させることで、日本の安全を確保しようとした。しかし、参謀本部の見解は違った。既に二個師団を欧州に派兵しているため、東部戦線が落ち着けば、その分西部戦線の戦闘が激化し、派遣部隊の被害も増大すると考えた。このため、積極的に東方大公家を支援し、白軍と合流させたうえで西進させ、東部戦線を再び構築させることを望んだ。本野外相もかつての赴任地ロシアの凋落を好まなかったということもあり、また駐仏公使だったことから、フランスとの縁もあり、西部戦線の激化をさけたかったということから、ロシア救援の出兵を主張した。
二方面の出兵となることは児玉は賛成しなかった。そして、欧州方面よりも対米関係を重視する姿勢を見せていた政友会もまた賛成しなかった。当時、アメリカでは黄禍論が唱えられ始め、極東で力をつけてきた日本を、アメリカが警戒して言たことから、アメリカの警戒心を招くような出兵は避けるべきと彼らは主張していた。
大正7年4月26日、ニコライ2世一家がトボリスクからエカチェリンブルクへと移送される途中で襲撃され、皇帝一家の身柄が攫われるという事件が勃発した。後に、彼らの身柄はシベリアのステッセルグラード市内にあるヴォストークニイ=ロマノフ家の屋敷(現:ヴェルフネウジンスク宮殿)に送られた。ニコライ2世が奪還されたことは、レーニンにとっては問題であり、反レーニン派からの攻撃を受けた。これにより、レーニンによる反対派への粛清は日に日に激しくなり、ボリシェヴィキ内部での抗争は激化する。それに伴い、一般市民に対する抑圧も厳しくなり、ロシア国民はボリシェヴィキを恐れるようになった。更には、ロシア皇族の中でも民衆に人気のあったニコライ2世の弟ミハイル大公を殺害するという事件が起こると続々とロシア貴族の亡命や白軍への参加が増していった。
ロシア革命の様子については、新聞各紙は詳細に伝えていた。政府はこれに検閲をかけなかった。ロシアと同じく日本は君主国であり、君主と皇族に対する不敬・大逆を許すような背景がなかったため、反ボリシェヴィキ感情を高めるために、参謀本部の強い意向で、革命を肯定的に評価するような社説を除いて、内務省は検閲を緩めた。
ニコライ2世一家の救出、ミハイル大公の殺害といった事件を経て、児玉首相は政策を転換した。イギリス、フランス、アメリカに対してロシア救援の為の共同出兵を提案した。外交調査会の席で原は、共同出兵にアメリカが参加することを絶対条件とすることでシベリアへの出兵を了承した。斯くして、大正7年8月2日、帝國政府はシベリアへの出兵を宣言するに至った。
ドイツは、大正7(1918)年3月3日、ボリシェヴィキ政府とブレスト=リトフスク条約を結び、講和した。これにより、東部戦線に片を付けたドイツ軍は西武戦線への戦力転換を容易にした。3月21日、ドイツ軍は春季攻勢の緒戦であるミヒャエル作戦を発動した。ドイツ軍は英仏両軍の間隙を突くことに成功し、8日間の戦闘により65キロもの前進に成功した。パリ東方100キロに到達したドイツ軍は、1914年以来初めてパリを砲撃の射程圏内に収めた。3門のクルップ製超大型列車砲がパリに183発の砲弾を撃ち込み、多くの市民がパリから脱出した。ヴィルヘルム2世は3月24日を国民の祝日であると宣言した。このとき、ドイツ人の多くが勝利を確信した。しかし、進撃速度に補給線が追いつかず、またドイツ軍の激しい消耗で攻勢は止まってしまった。
英仏両軍はドイツの攻勢を受けて、ここへきてようやく指揮系統の統一に合意した。ドゥラーズ会議で聯合国軍最高司令部が設置され、総司令官にフランス軍のフェルディナン・フォッシュが任命された。イギリス軍司令官ダグラス・ヘイグはフォッシュに彼の軍の指揮を委ねた。しかし、日米両軍は最高司令部の統帥に復復することを拒否した。日本軍は、日本軍の統帥は唯一大元帥陛下によってのみなされるものとして他国の容喙を許すことは軍制度上できないとして、極めて真摯な協力のみを約束した。アメリカ軍は、英仏両国ではドイツ軍を抑えきれないので、アメリカに参戦要求があったのであり、この上遠征軍の指揮迄まで要求すると言うのはいかがなものかと不満を訴え、彼らが下に就くならまだしも、彼らの下に就くことはできないとした。
7月15日、ドイツ軍は聯合国軍の戦線突破を意図して、第二次マルヌ会戦が勃発する。戦闘は、当初ドイツ軍の優勢となるが、攻勢により形成された戦線突起部に対して聯合国軍は攻勢をかける。戦線はじわじわとドイツ軍が押され気味になり、聯合国軍による攻撃はこれまでに見ない成功を収めたかに見えたが、シャトウチェリーに布陣していたアメリカ軍が瓦解し、戦線の突破に失敗した。ドイツ軍は最終的に会戦前の戦線維持に成功するという痛み分けで終わった。
第二次マルヌ会戦の2日後の8月8日から、今度は聯合国軍の攻勢が実施され、アミアンの戦いが開始された。聯合国軍は600輌以上の戦車と800機の飛行機を使用して奮戦していた。この際、日本軍はドイツ軍陣地に夜襲を決行し、一気に戦線突破を図ろうとした。突然の襲撃にドイツ軍も驚き、夜襲は成功したかにみえた。電信でこの報を聞いた聯合国軍最高司令部も英仏軍を即座に動かしたが、ドイツ軍は混乱を治めて対応した。これらに遅れてアメリカ軍も戦闘へと突入したが、夜襲への準備不足であったためか、攻勢に失敗し、アメリカ軍の戦線は瓦解した。これを幸いとドイツ軍が再度戦線を押し返したが、両軍ともに息切れとなる。
シベリア出兵、西部戦線停滞、そして、児玉首相に米騒動が襲い掛かった。大正7年7月に富山県で起こった米の廉売運動は、8月10日の京都市と名古屋市の廉売運動を皮切りに全国の都市に波及した。政府は13日に1000万円の国費を米価対策資金として支出することを発表し、各府県庁に向けて米の安売りを実施させた。16日には、農商務大臣が米穀類を強制買収し得る穀類収用令を緊急勅令として公布し、更なる手を打った。児玉首相は10日の騒動発生を知り、直ちに手を打っていったが、運動が全国に波及するにつれて疲労の色を濃くしていった。
生活必需品たる米の不足に端を発する騒動は、次第に炭鉱労働夫の労働争議に飛び火した。労働争議の発生に枢密院が敏感に反応した。ロシア革命に関する報道の検閲の不十分が、労働争議の発生を招いたのではないかとして、枢密院は児玉に政策の修正を要求した。
欧州大戦における西部戦線の停滞と米騒動への対処、シベリアから進む救露軍への手当と様々なことが児玉には重なっていた。ついには9月15日、ドイツ軍がパリを列車砲の射程に収めたままで、ドイツ首相マックス・フォン・バーデン公爵が、平和に対する声明を発表した。聯合国に対して講和を打診した。ドイツ政府は、連合国が休戦に応じれば、すぐさまパリへの砲撃を停止し、パリの地にて全交戦国による名誉ある講和を前提とする会議に出席する用意があると主張した。中央同盟国はこのころすでに全国家で継戦能力の限界を迎えていた。
声明に対してフランス国内は二分した。フォッシュ元帥をはじめとする対独強硬派はドイツの継戦能力が限界にきていることを主張し、反撃を行えば有利に転じることを主張した。一方、パリを重砲の射程下に置かれ、避難民となったパリ市民をはじめとする国民の半数は、長年にわたる戦争に疲弊し、講和を望む声が高まっていった。英仏はドイツに対して決定的な勝利を得る期待が未だもてなく、また継戦も難しいと判断した。
このような情勢下で9月20日、児玉が再び卒中で倒れた。意識はすぐに回復したものの、左下肢のみであった麻痺が左半身へと増悪し、最早首相の任に堪えられないと判断された。直ちに副総理として入閣していた山本権兵衛が総理大臣臨時代理として後継首班成立までの間、内閣の指揮を執った。退陣の直接の原因は、児玉首相の健康問題ではあった。しかし、直前に米騒動が起こったこともあり、憲政会を形式的に与党としていた関係上、次期首班は政友会から出すのが至当とされた。そして、欧州大戦が終結に差し掛かっていると判断されたことから軍人内閣を継続するのは不適当と考えられ、立憲政友会総裁の原敬に大命が降下した。
▽在任中の主な出来事
・臨時外交調査会
・石井=ランシング協定
・シベリア出兵
・米騒動
・
▽内閣の出した主な法令
・障碍者援護法
・
・
▽内閣の対応した帝國議会
第39回帝國議會・通常会
日程
召集:2576(大正5・1916)年11月10日(官報公布11日)
集会:2576(大正5・1916)年12月25日
開会:2576(大正5・1916)年12月27日
解散:2577(大正6・1917)年 1月25日
会期:90日、実数30日
議院役員
貴族院議長
5 德川家達(とくがわ いえさと)
就任:2570(明治43・1910)年12月 5日(再任)
退任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(任期満了)
生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、51歳
出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)
学歴:英イートン・カレッジ
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)
会派:火曜会
回数:終身
前職:麝香間祗候
特記:德川家達家初代。
貴族院副議長
7 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2575(大正 4・1915)年10月 7日(再任)
退任:2582(大正11・1922)年10月 7日(任期満了)
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、48歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。黒田侯爵家当主
衆議院議長
20 島田三郎(しまだ さぶろう)
就任:2575(大正4・1915)年5月17日(選出)
退任:
生年:2504(1852)年12月17日(嘉永5年11月7日)、62歳
出生:武蔵国江戸(東京都)
学歴:昌平黌、ブラウン塾、沼津兵学校、大学南校、大蔵省附属英学校
官職:衆議院議員(神奈川県横浜市区)
会派:立憲同志会
回数:13回(1期~13期)
前職:幕臣/元老院書記官、文部省書記官、横浜毎日新聞社長、神奈川県会議長、衆議院議員、衆議院副議長
特記:
衆議院副議長
14 早速整爾(はやみ せいじ)
就任:2575(大正4・1915)年12月26日(選出)
退任:
生年:2528(1868)年11月15日(明治元年10月2日)、55歳
出生:広島県沼田郡新庄村(現・広島市西区新庄町)
学歴:広島中学、東京専門学校政治経済英学科(現・早稲田大学)卒業
官職:衆議院議員(広島県広島市区)
会派:中正会
回数:7回(7~13期)
前職:埼玉英和学校校長代理兼教頭、芸備日日新聞社長兼主筆、広島市会議員、同議長、広島県会議員、広島商工会議所会頭、衆議院議員
特記:
第14回衆議院議員総選挙
改選数:398
公示日:2577(大正6・1917)年1月31日
投票日:2577(大正6・1917)年4月20日
選挙制度:大選挙区制(一部1人区制)、秘密投票制
実施地域:48庁府県(北海道(千島列島以外)、樺太庁(豊原町、大泊町など一部以外)、小笠原諸島を除く)
選挙権:
直接国税10円以上納税の満25歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
被選挙権:
満30歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
宮内官、司法官、会計検査官、収税官、警察官
管轄区内の府県郡官吏
各選挙区の市町村選挙管理担当吏員
神官、僧侶、教師
選挙結果:
憲政会
前回選挙:新党
選挙直前:197
獲得議席:190(△7)
立憲政友会
前回選挙:108
選挙直前:112
獲得議席:137(+25)
立憲国民党
前回選挙:27
選挙直前:28
獲得議席:35(+7)
立憲帝政党
前回選挙:15
選挙直前:15
獲得議席:13(△2)
無所属
前回選挙:
選挙直前:
獲得議席:20
第40回帝國議會・臨時会
日程
召集:2577(大正6・1917)年5月11日(官報公布12日)
集会:2577(大正6・1917)年6月21日
開会:2577(大正6・1917)年6月23日
閉会:2577(大正6・1917)年7月14日
会期:21日、延長1日、実数22日
議院役員
貴族院議長
5 德川家達(とくがわ いえさと)
就任:2570(明治43・1910)年12月 5日(再任)
退任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(任期満了)
生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、51歳
出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)
学歴:英イートン・カレッジ
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)
会派:火曜会
回数:終身
前職:麝香間祗候
特記:德川家達家初代。
貴族院副議長
7 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2575(大正 4・1915)年10月 7日(再任)
退任:2582(大正11・1922)年10月 7日(任期満了)
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、48歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。黒田侯爵家当主
衆議院議長
21 大岡育造(おおおか いくぞう)
就任:2577(大正6・1917)年6月21日(選出)
退任:
生年:2516(1856)年7月4日(安政3年6月3日)、60歳
出生:長門国豊浦郡小串村(山口県下関市)
学歴:長崎医学校(現・長崎医科大学)、講法学舎
官職:衆議院議員(山口県郡部区)
会派:立憲政友会
回数:12回(1期~3期、5期~12期、14期)
前職:代言人/東京府会議員
特記:
衆議院副議長
14 濱田國松 (はまだ くにまつ)
就任:2577(大正6・1917)年6月21日(選出)
退任:
生年:2528(1868)年4月2日(慶応4年3月10日、55歳
出生:三重県伊勢市
学歴:三重師範学校卒業、東京法学院(現・中央大学)卒業
官職:衆議院議員(広島県広島市区)
会派:立憲国民党
回数:6回(9~14期)
前職:小学校教員、弁護士
特記:
第41回帝國議會・通常会
召集:2577(大正6・1917)年11月 9日(官報公布10日)
集会:2577(大正6・1917)年12月25日
開会:2577(大正6・1917)年12月27日
閉会:2578(大正7・1918)年 3月26日
会期:90日、実数90日
議院役員
第40議会に同じ
※但し、貴族院議長德川家達は、2577(大正6・1917)年12月5日に貴族院議長に再任されたため第6代の貴族院議長(4期目)となる。
▽内閣閣僚
内閣総理大臣
24 児玉源太郎(こだま げんたろう)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(新任)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2512(1852)年4月14日(嘉永5年閏2月25日)、48歳
出生:周防国都濃郡徳山横本町(山口県周南市児玉町)
学歴:
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:周防藩士/陸軍大学校長、陸軍次官兼軍務局長、第三師団長、台湾総督
特記:男爵
内閣総理大臣臨時代理
山本権兵衛(やまもと ごんべえ/ごんのひょうえ)
就任:2578(大正7・1918)年 9月22日(総理大臣職務執行不能)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
外務大臣
30 石井菊次郎(いしい きくじろう)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(留任)
退任:2577(大正6・1917)年 3月20日(依願免本官)
生年:2526(1866)年4月24日(慶応2年3月10日)、49歳
出生:上総国長柄郡真名村(千葉県茂原市)
学歴:千葉中学校、大学予備門、東京帝国大学法科大学法律学科卒業
官職:特命全権大使
会派:
回数:
前職:外務省入省、パリ公使館勤務、仁川領事、清国公使館勤務(義和団の乱に遭遇)、外務省電信課長、兼人事課長兼取調課長、通商局長、外務次官(第1次西園寺内閣、第2次桂内閣)、男爵受爵、駐仏大使、外務大臣(30)
特記:石井邦猷の養子/明治44(1911)年8月24日、男爵受爵
31 本野一郎(もとの いちろう)
就任:2577(大正6・1917)年 3月20日(初入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 5月12日(依願免本官)
生年:2522(1862)年3月23日(文久2年2月23日)、54歳
出生:肥前国佐賀郡久保田徳万村(佐賀県佐賀市)
学歴:仏・パリに留学、東京外国語学校、リヨン大学法学部・法学博士
官職:特命全権大使
会派:
回数:
前職:横浜貿易商会仏リヨン支店勤務、外務省翻訳官、法典調査会委員、ロシア公使館一等書記官、 駐白公使、駐仏公使、駐露公使、男爵・勲一等旭日大綬章受章、駐露大使、子爵、外務大臣(31)
特記:明治40(1907)年9月14日、男爵受爵/大正5(1916)年7月14日、子爵陞爵
32 後藤新平(ごとう しんぺい)
就任:2578(大正7・1918)年 5月12日(転官)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2517(1857)年7月24日(安政4年6月4日)、60歳
出生:陸奥国胆沢郡鹽竈村(岩手県奥州市水沢)
学歴:須賀川医学校(現:福島県立医科大学)
官職:貴族院議員・勅選議員
会派:茶話会・立憲同志会会員
回数:明治36(1903)年11月20日勅選
前職:愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)勤務医、学校長兼病院長/内務省勤務、内務省衛生局長/臨時陸軍検疫部事務官長、台湾総督府民政長官、南満洲鉄道初代総裁/逓信大臣(15、17)、内務大臣(33)、外務大臣(32)
特記:鉄道院総裁
内務大臣
32 後藤新平(ごとう しんぺい)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(再入閣・新任)
退任:2578(大正7・1918)年 5月12日(転官)
生年:2517(1857)年7月24日(安政4年6月4日)、59歳
出生:陸奥国胆沢郡鹽竈村(岩手県奥州市水沢)
学歴:須賀川医学校(現:福島県立医科大学)
官職:貴族院議員・勅選議員
会派:茶話会・憲政会
回数:明治36(1903)年11月20日勅選
前職:愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)勤務医、学校長兼病院長/内務省勤務、内務省衛生局長/臨時陸軍検疫部事務官長、台湾総督府民政長官、南満洲鉄道初代総裁/逓信大臣(15、17)、内務大臣(33)
特記:鉄道院総裁
33 水野錬太郎(みずの れんたろう)
就任:2578(大正7・1918)年 5月12日(初入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2528(1868)年2月3日(慶応4年1月10日)、59歳
出生:武蔵国江戸浅草鳥越町(東京都台東区鳥越)
学歴:共立学校、大学予備門(現・第一高等学校)、帝国大学法科大学(東京帝國大学法学部)卒業
官職:貴族院議員・勅選議員
会派:交友倶楽部・立憲政友会
回数:大正元(1912)年12月5日勅選
前職:第一銀行/農商務省鉱山局、内務省転職、内務社寺局長、地方局長、内務次官、錦鶏間祗候、内務次官、内務大臣(33)
特記:秋田藩士水野立三郎の子
大蔵大臣
26 勝田主計(しょうだ かずえ)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(初入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2529(1869)年10月19日(明治2年9月15日)、46歳
出生:愛媛県松山市一番町
学歴:勝山学校、伊予尋常中学、第一高等学校、東京帝国大学法科大学卒業
官職:貴族院議員・勅選議員
会派:無所属
回数:大正3(1914)年3月31日勅選
前職:大蔵省入省、主税局属。函館税務管理局長兼税関長、欧州派遣、大蔵省理財局長、大蔵次官、貴族院勅選議員、朝鮮銀行総裁、大蔵大臣(26)
特記:明治生まれ初の大蔵大臣
陸軍大臣
16 大島健一(おおしま けんいち)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(留任)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2518(1858)年6月19日(安政5年5月9日)、58歳
出生:美濃国恵那郡岩村町(岐阜県恵那市)
学歴:陸軍士官学校(旧4期)
官職:陸軍中将
会派:
回数:
前職:陸軍砲兵少尉任官、ドイツ留学、砲工学校教官、第1軍副官(日清戦争時)、参謀本部部員、参謀本部第4部長事務取扱、参謀本部第4部長心得、陸軍砲兵大佐、参謀本部第4部長、陸軍少将、参謀本部附、参謀本部第4部長事務取扱、参謀本部総務部長、参謀本部第4部長、参謀次長、陸軍中将、陸軍次官、陸軍大臣(16)
特記:
海軍大臣
11 加藤友三郎(かとう ともさぶろう)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(留任)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2521(1861)年4月1日(文久元年2月22日)、55歳
出生:安芸国広島城下大手町(広島県広島市中区大手町)
学歴:広島藩校修道館(現:私立修道館中学校)、海軍兵学寮(7期)卒業(次席)、海軍大学校甲号1期
官職:海軍中将
会派:
回数:
前職:海軍少尉任官、防護巡洋艦「吉野」回航委員、「吉野」砲術長、海軍少佐、海軍大学校教官、海軍中佐、巡洋艦「筑紫」艦長、海軍大佐、高等教育会議議員、兼海軍省軍務局第二課長、港湾調査会委員、兼海軍臨時建築部部員、海軍省軍務局局員]、第二艦隊参謀長、海軍少将、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長、海軍次官、海軍省司法局長、海軍中将、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官、海軍大臣(11)
特記:
司法大臣
25 松室致(まつむろ いたす)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(再入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2512(1852)年1月22日(嘉永5年1月2日)、64歳
出生:豊前国企救郡松ヶ江村大字畑(福岡県北九州市門司区)
学歴:司法省法学校
官職:貴族院議員・勅選議員
会派:無所属
回数:大正7(1918)年9月21日勅選
前職:司法省出仕、検事総長(7)、司法大臣(21)、法政大学学長、司法大臣(25)
特記:
文部大臣
28 岡田良平(おかだ りょうへい)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(初入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2524(1864)年6月7日(元治元年5月4日)、55歳
出生:遠江国佐野郡倉真村(静岡県掛川市)
学歴:東京府第一中学、大学予備門、帝国大学文科大学哲学科(現東京帝國大学文学部)卒業、同大学院
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:
回数:明治37(1904)年8月22日勅選
前職:第二高等中学校教授、文部省視学官、文部省大臣官房報告課長、参事官、山口高等中学校校長心得、同校校長兼文部省参事官、免兼、文部大臣官房会計課長、文部省実業学務局長、フランス派遣、文部省総務長官(文部次官)、兼任普通学務局長事務取扱、貴族院勅選議員、京都帝國大学総長就任、文部次官、錦鶏間祗候、文部大臣(28)
特記:一木喜徳郎の長兄
農商務大臣
23 仲小路廉(なかしょうじ れん)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(再入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2526(1866)年8月12日(慶応2年7月3日)、50歳
出生:周防国(山口県)
学歴:大阪府立開成学校卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:無所属
回数:明治44(1911)年8月24日
前職:判事検事登用試験合格、東京地裁検事、東京控訴院検事兼司法省参事官、行政裁判所評定官、逓信省大臣官房長、内務省土木局長、警保局長、逓信次官、農商務大臣(20、23)
特記:
逓信大臣
22 田健治郎(でん けんじろう)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(初入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2515(1855)年3月25日(安政2年2月8日)、61歳
出生:丹波国氷上郡柏原藩領下小倉村(兵庫県丹波市柏原町下小倉)
学歴:
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:茶話会
回数:明治39(1906)年1月7日勅選
前職:熊谷県下級吏員、警保局官吏、逓信省入省、局長・逓信次官・鉄道会議幹事、同議/関西鉄道社長/錦鶏間祗候、衆議院議員(2回、6期補欠~7期)、逓信次官、逓信大臣(22)
特記:明治40(1907)年9月21日、男爵叙爵
国務大臣(欧州派兵関連軍務担当)
山本権兵衛(やまもと ごんべえ/ごんのひょうえ)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(再入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2512(1852)年11月26日(嘉永5年10月15日)、48歳
出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市加治屋町)
学歴:開成所、海軍操練所、海軍兵学寮(2期)卒業
官職:予備役海軍大将
会派:
回数:
前職:海軍大臣官房主事、海軍大臣副官、海軍省軍務局長、海軍大臣
特記:
国務大臣(欧州派兵関連国内政策担当)
星亨(ほし とおる)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(再入閣)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2510(1850)年5月19日(嘉永3年4月8日)、61歳
出生:武蔵国江戸築地小田原町(東京都中央区築地)
学歴:横浜英学所、開成所、英ミドル・テンプル
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:立憲政友会総裁
回数:
前職:幕府大蔵局、横浜税関所長、弁護士、自由党員、駐米公使、外務大臣、逓信大臣/衆議院議員(当選回数9回、2期~10期)、貴族院勅選議員、内閣総理大臣(22)、立憲政友会総裁
特記:実父は左官職人。/明治40年11月、男爵叙爵/大正6(1917年2月1日、枢密院副議長就任)
内閣書記官長
25 児玉秀雄(こだま ひでお)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(新任)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2536(明治9・1876)年 7月19日、40歳
出生:山口県
学歴:佐倉英学校(現・千葉県立佐倉中学校)、東京府尋常中学校(現・府立一中)、第二高等学校、東京帝国大学法科大学政治学科卒業
官職:
会派:
回数:
前職:大蔵省入省、理財局、臨時煙草製造準備局、大本営御用掛(日露戦争時)遼東守備軍司令部付、満洲軍総司令部付、大蔵省煙草専売局事務官兼大蔵書記官、朝鮮総督府総務部会計課長、秘書官、朝鮮総督府総督官房会計局長、兼秘書官、総務局長、内閣書記官長(26)
特記:児玉源太郎嫡男
法制局長官
21 有松英義(ありまつ ひでよし)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(新任)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(依願免本官)
生年:2523(1863)年7月25日(文久3年6月10日)、53歳
出生:備前国御野郡岡山城下(岡山県)
学歴:岡山師範学校卒業、獨逸学協会学校専修科卒業
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:研究会
回数:1911年8月24日勅選
前職:小学校教員、『自治新報』記者、司法省参事官、農商務省参事官、内務省書記官兼法制局参事官、内務省警保局長、三重県知事、警保局長、貴族院勅選議員、帝室林野管理局長官、枢密院書記官長、法制局長官(20)
特記:
―――――
25代 第一次原敬内閣(2578(大正7・1918)年9月29日~2581(大正10・1921)年11月4日)
▽来歴・概要
陸奥国岩手郡本宮村(現:岩手県盛岡市)出身。外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣、衆議院議員(明治35年の第7回総選挙以来8回連続当選)、内務大臣などを歴任した。
児玉内閣の期間中に立憲政友会総裁星亨が枢密顧問官に勅任されることとなった。枢密院官制によって、枢密顧問官は帝國議会と交渉することができないと規定されているため、星は政友会総裁、貴族院勅撰議員を辞職した。後継総裁に副総裁兼幹事長の職にあった原敬に勅命が下された。原は、黄禍論の高まるアメリカとの関係からシベリア出兵にアメリカも出兵させることを強く主張した。この経緯から、戦後を見据えた対米外交もあると元老から判断されたことが、当時政権与党の扱いであった憲政会の加藤高明を抑えて、首班に推薦された経緯である。
原内閣成立後の政治課題は、欧州大戦終結に向けての取り組みとなった。ドイツ首相マックス・フォン・バーデン公爵による「平和に対する声明」には、聯合国側は拒絶とも、受諾ともどちらの動きにも直ちには繋がらなかった。連合国としては継戦能力が払底してきていることは確かであったが、パリを列車砲の射程内に抑えられたままで講和に応じるというのでは、ドイツ側が優勢であるということを世界に認めるようなものであったため、躊躇していた。
一方のドイツ・オーストリアといった中央同盟国側にも継戦能力に限界が来ており、バーデン公爵による「平和に対する声明」に対しては弱腰であるという声もあったが、ドイツ参謀本部では内心歓迎する声向があったことも確かである。おまけに、シベリアの地からロシア皇帝軍が赤軍を破竹の勢いで攻め破り、西へ向かっていたことも焦りとなっていた。このままでは、一度集結させた東部戦線が復活しかねないということにもなりかねず、そうなると兵力の再転換には時間がかかり、総崩れとなる可能性が十分にあった。
英仏側にも白軍と赤軍の戦いの情報は届いており、英仏はこのまま時間を稼ぎ、戦闘再開とすることを考えていたが、10月1日、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは突如として、バーデン侯爵の「平和に対する声明」を歓迎する声明を発した。英仏はアメリカの態度の豹変に困惑し、ドイツはすぐさまアメリカの声明を歓迎するメッセージを発表した。一月ほどの間、英仏とアメリカとの間で戦闘再開に向けてのやり取りが行われたが、11月11日、ついにドイツと連合国との間に休戦協定が発効した。
当初原首相は、自らこの講和会議に出席することを希望していた。諸外国列強の首脳が集まるということで、日本の国際的立場を引き上げることを目的に参戦していた以上、その輪の中に入ることが重要であると考えていた。とはいえ、日本からフランスは船で30日かかる距離である為、この構想は早くに消えることとなった。代わって、政友会の元総裁であった西園寺公望と彼と交互に政権を担当した元同志会総裁の桂太郎の両名が共同で首席全権として派遣されることが決まった。現代においても、政治的な条約の締結に際しては、議会第一党と第二党から全権が選ばれているが、このときのこの二名の派遣がその嚆矢とされている。
西園寺は、当初ドイツに対する苛烈な賠償を定めようとしていた草案に反対し、カルタゴの和平を強いることは絶対に容認できないとしてこれを改めさせた。イギリスは日本の陸海軍の欧州派遣をとても高く評価しており、西園寺を列強国に相当する待遇で取り扱った。講和条約における少人数の秘密会議である四人会議(英首相デビッド・ロイド・ジョージ、仏首相ジョルジュ・クレマンソー、米大統領ウッドロウ・ウィルソン、西園寺公望)の一員となり、條約の基本的部分の決定に深く関与した。桂は、フランス語がしゃべれなかったので、彼らから一歩引いていたがドイツ側との間の連絡役を買って出ていた。英仏の強硬な姿勢で、講和条件についてはドイツ側と協議して行うものではないという表向きの姿勢は堅持されたが、ドイツ側の反応を知るために桂が秘密裏に接触して、ドイツ側の反応を確認していた。
中央同盟国との講和条約と国際連盟憲章が採択されたことを受けて、日本は列強入りを果たした。日本国内は戦勝祝賀ムードで覆われ、日本国民は列強国の一員となったことで大いに自信を高めた。原はこの状況を利用して、これまで温めていた政策を通すことを決めた。帝國憲法の改正である。
帝國憲法の起草に際して中心的な役割を担った元老伊藤博文は、いわゆる小宰相主義を採用した。明治維新によって徳川幕府は消滅したが、徳川将軍家の当主である徳川慶喜は太政大臣として執政の中枢に残った。その慶喜の当初の方針の通り、徳川家が政権の中枢に存在するという体制は明治10年11月まで存在した。その後に内閣制度がはじまったが、初代板倉勝静、2代勝海舟と幕府時代を含めて徳川慶喜の部下だった者が首相となり、慶喜が彼らを後見していた。慶喜は、第一線を引くと同時に自身に代わって、自身がこれまで行ってきた執政や政権担当者への後見を明治天皇が為すように働きかけてきた。皇室への尊崇の篤い水戸徳川家出身の慶喜にとって、天皇を国家統治の中心とする思想は近代国家を創設するにあたって大前提であった。憲法構想にあたって伊藤もこの考え方を前提として草案をまとめた。
明治憲法体制も30年が経過すると、様々な形で憲法的な習律が確立していた。その一つが内閣制度である。
明治憲法が採用した小宰相主義とは、大宰相主義に対する言葉である。この大宰相主義とは、内閣総理大臣に各国務大臣に対する強力な統制権限を付与した体制を意味する。その権限の中には自身の命令を以て国務大臣の行政命令を中止させたり、国務大臣が内閣の方針と違った行動を採る時はその大臣を罷免する権能を持つなどがある。大日本帝國の内閣総理大臣にはそのような強力な権限が付与されていない。すなわち、内閣総理大臣を含む国務各大臣が並列して天皇を輔弼する態勢を取っているのである。
帝國憲法には、「内閣」という用語すら存在していなかった。これは、帝国の統治権は、天皇が親しく執るという、天皇親政を色濃く反映する規定にする必要があったからである。天皇が「大政を委任」したとされていた徳川時代の政体を改めたのが明治維新であったとされている。天皇自ら大政を指示するのではなく、その下に首相を置く内閣の存在は、「幕府的」であるという指摘は常にあった。これがために天皇親政の色を濃くした憲法から、その規定が除かれたのである。
しかし、憲法の運用と共に内閣制度は存続し、国家統治機関としては欠くべからざる存在となった。この憲法的習律を明文化しておく必要があると原は考え、これがために、憲法にも内閣について規定すべきであると考えた。そしてこの思想は、明治憲法を起草した伊藤にも理解された。
憲法の改正に当っては、全部改正の形を取らずに、新たに憲法を追加するという「増補」の形を取ることになった。皇室典範は、明治40年に増補という形で修正が入っている。皇室典範は、その制定の前文で祖宗の「遺訓ヲ明徴ニ」にしているということから、法典そのものを修正することがはばかられたがゆえに増補という形が採られた。憲法もまた「不磨ノ大典」として公布されていることから、同じく作り直すというのははばかられたことから、同じく「増補」という形が採られた。
原首相は、憲法改正をスローガンとして第43議会に臨み、憲法改正の勅命渙発の是非を問うために大正9年2月26日、衆議院を解散した。原内閣は、第42議会で衆議院議員選挙法を改正し、これまで選挙法の対象外となっていた樺太の北部、北海道の千島列島、東京府の小笠原諸島も含めて、台湾と朝鮮の植民地以外すべてに選挙法を施行した。併せて選挙権も直接国税の要件を10円から3円へと引き下げた。また、議員定数は398議席から486議席へ拡張され、有権者数は前回選挙の倍の数となった。
野党側は更なる選挙権の拡大を掲げて普通選挙運動を展開し、第43議会で法案を提出していたが、衆議院での通過前に衆議院解散となった。野党側は憲法改正の是非を問うとするならば、選挙権の納税要件を撤廃し、日本臣民の成人男子全てが選挙に参加してから為すべきという主張を展開したが、原は現時点での普選には消極的であり、政友会の唱える「初の憲法改正」と言うスローガンの前に敗れた。大正9年5月10日、第15回総選挙選挙が施行され、政友会は議院第一党へ返り咲いた。
衆議院選挙後、原内閣は直ちに臨時議会を召集する手続きを行った。第44議会で原内閣は憲法改正に向けたスケジュールを開示した。この臨時議会で野党側の意向をある程度聴取し、内閣側で原案を取り纏る。その後、枢密院に原案を提出して、議決を経る。次の通常議会で勅命を奉じて可決を経て、再度枢密院の議決を経るという形となった。
原内閣の憲法改正を後押しするかの如く、枢密院議長が山縣有朋から伊藤博文へと交代し、会議をリードした。この枢密院会議では、明治天皇の時とは異なり、大正天皇は第一回の会議と最後の会議のみにしか出席せず、ほぼ全てを臣下に任せることとなった。
大正9年12月27日、第45議会が開会し、同日の原首相による施政方針演説の後、帝國憲法増補案が勅書として衆議院に下付された。4章11条からなる憲法増補案は、前回議会において草案が開示されたこともあり、スムーズに議事は進み、1月中に貴族院でも可決した。その後、枢密院に於いて、大正天皇臨席の下開かれた最終会議で憲法増補案は可決し、大正10年2月11日公布された。
憲法改正を果たした原の権勢は高まったかにみえたが、次は摂政設置問題が浮上してきた。大正天皇の病状は次第に悪化し、意思疎通も不都合になっていった。原が憲法増補を通して「内閣」の機能を強化したのも天皇の負担を軽減するものであり、原は摂政設置には消極的であった。帝國憲法第75條は、摂政を設置している間の憲法の変更を禁止している。もし、憲法改正前に摂政設置ということになったとしても、原は、帝國憲法増補は、帝國憲法への追加であり、元の憲法を変更するものではないという理由でこれに対処しようとしたが、摂政設置は避けたいことであった。憲法は改正されたが、その後すぐに摂政設置となると憲法を改正するために摂政の設置を推しとどめたと言われることもあって、摂政の設置を遅らせようとした。それだけではなく、原と大正天皇との間には厚い信頼関係があり、個人的な心情もあって、原は摂政設置には消極的であった。
しかし、摂政設置に対する圧力は日に日に強まっていった。原の他に有力者として山縣も摂政設置に消極的であり、天皇の神聖性を根拠として摂政設置に反対の立場を表明していた。山縣は、皇太子成婚に関わる宮中某重大事件においても成婚阻止に動こうとしていたため、宮中からの印象が悪化していた。原は山縣とも連携を組み、摂政設置を遅らせようとしていたが、政友会の党内からも異論が出始めた。更には、右翼団体から摂政設置に反対するのは、皇太子の資質に疑義ありということかと山縣と原は攻撃され始めた。摂政設置問題を混乱させた責任を取り、山縣は枢密院議長職を辞任した。山縣は原に対して、最早摂政設置を認めるほかなし、自身が顕職を退くから、それを禊として摂政設置に動けと説得するが、原はこれを固辞し、自身の責任で摂政設置を行うわけにはいかないとし、下野を決めた。
原内閣は、以上の課題以外にも様々な問題に取り組んだ。その一つが教育機関の拡充である。大正7(1918)年12月、原内閣は、大学令と高等学校令を発し、公立・私立大学の設置が認められた。これにより大正8(1919)年2月には慶應義塾大学、早稲田大学、4月には明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、國學院大學、同志社大学が専門学校から大学への昇格が認可された。また議会では「高等諸学校創設及拡張計画」を発表し、4,450万円の莫大な追加予算を伴って可決された。その計画で高等学校10校、実業専門学校17校(高等工業学校6校、官立高等農業学校4校、官立高等商業学校7校)、専門学校2校(外国語学校、薬学専門学校)が新設され、5万人の進学の道が開かれた。
交通政策においては、鉄道省の設置にみられるように、鉄道路線の拡充強化が主眼とされ、日本全国に鉄道が敷かれていくこととなった。
原内閣は、摂政設置問題での倒閣となったが、宮中も絡む問題であることから、原の一身上の辞任とされ、政友会内閣の失策とはされなかった。そのため、後継内閣は政友会を母体として、組閣することとなった。政友会内部では、原の責任を問う声もあったが、宮中が絡むことを考慮して、原の総裁職は続投となった。貴族院議員となっていた政友会顧問の山本権兵衛退役海軍大将に大命が降下する運びとなった。
▽在任中の主な出来事
・衆議院議員選挙権拡大(直接国税10円から3円へ引き下げ)
・大日本帝國憲法改正
・宮中某重大事件
・第三次日英同盟協約延長
▽内閣の出した主な法令
・衆議院議員選挙法改正
・大日本帝國憲法増補
・
・
▽内閣の対応した帝國議会
第42回帝國議會・通常会
日程
召集:2578(大正 7・1918)年11月 9日(官報公布10日)
集会:2578(大正 7・1918)年12月25日
開会:2578(大正 7・1918)年12月27日
閉会:2579(大正 8・1919)年 3月26日
会期:90日、実数90日
議院役員
貴族院議長
6 德川家達(とくがわ いえさと)
就任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(再任)
退任:2584(大正13・1924)年12月 5日(任期満了)
生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、55歳
出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)
学歴:英イートン・カレッジ
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)
会派:火曜会
回数:終身
前職:麝香間祗候
特記:德川家達家初代。
貴族院副議長
7 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2575(大正 4・1915)年10月 7日(再任)
退任:2582(大正11・1922)年10月 7日(任期満了)
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、51歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。黒田侯爵家当主
衆議院議長
21 大岡育造(おおおか いくぞう)
就任:2577(大正6・1917)年6月21日(選出)
退任:
生年:2516(1856)年7月4日(安政3年6月3日)、62歳
出生:長門国豊浦郡小串村(山口県下関市)
学歴:長崎医学校(現・長崎医科大学)、講法学舎
官職:衆議院議員(山口県郡部区)
会派:立憲政友会
回数:12回(1期~3期、5期~12期、14期)
前職:代言人/東京府会議員
特記:
衆議院副議長
14 濱田國松 (はまだ くにまつ)
就任:2577(大正6・1917)年6月21日(選出)
退任:
生年:2528(1868)年4月2日(慶応4年3月10日、50歳
出生:三重県伊勢市
学歴:三重師範学校卒業、東京法学院(現・中央大学)卒業
官職:衆議院議員(広島県広島市区)
会派:立憲国民党
回数:6回(9~14期)
前職:小学校教員、弁護士
特記:
第43回帝國議會・通常会
日程
召集:2579(大正 8・1919)年11月10日(官報公布11日)
集会:2579(大正 8・1919)年12月24日
開会:2579(大正 8・1919)年12月26日
解散:2580(大正 9・1920)年 2月26日
会期:会期90日、実数63日
議院役員
第44議会に同じ
第15回衆議院議員総選挙
改選数:486
公示日:2580(大正 9・1920)年3月 5日
投票日:2580(大正 9・1920)年5月10日
選挙制度:小選挙区制、秘密投票制
実施地域:48庁府県
選挙権:
直接国税3円以上納税の満25歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
被選挙権:
満30歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外
華族の当主、現役軍人
禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人
宮内官、司法官、会計検査官、収税官、警察官
管轄区内の府県郡官吏
各選挙区の市町村選挙管理担当吏員
神官、僧侶、教師
選挙結果:
立憲政友会
前回選挙:137
選挙直前:135
獲得議席:249(+114)
憲政会
前回選挙:190
選挙直前:185
獲得議席:164(△19)
立憲国民党
前回選挙:35
選挙直前:32
獲得議席:30(△2)
立憲帝政党
前回選挙:13
選挙直前:13
獲得議席:12(△1)
無所属
前回選挙:20
選挙直前:30
獲得議席:31
第44回帝國議會・臨時会
日程
召集:2580(大正 9・1920)年5月14日(官報公布15日)
集会:2580(大正 9・1920)年6月29日
開会:2580(大正 9・1920)年7月 1日
閉会:2580(大正 9・1920)年7月28日
会期:28日、実数28日
議院役員
貴族院議長
6 德川家達(とくがわ いえさと)
就任:2577(大正 6・1917)年12月 5日(再任)
退任:2584(大正13・1924)年12月 5日(任期満了)
生年:2523(1863)年8月24日(文久3年7月11日)、55歳
出生:武蔵国江戸江戸城田安屋敷(東京都千代田区宮城)
学歴:英イートン・カレッジ
官職:貴族院議員・華族議員(公爵)
会派:火曜会
回数:終身
前職:麝香間祗候
特記:德川家達家初代。
貴族院副議長
7 黒田長成(くろだ ながしげ)
就任:2575(大正 4・1915)年10月 7日(再任)
退任:2582(大正11・1922)年10月 7日(任期満了)
生年:2527(1867)年6月7日(慶応3年5月5日)、51歳
出生:筑前国福岡(福岡県福岡市)
学歴:英ケンブリッジ大学キングス・カレッジ卒業
官職:貴族院議員・華族議員(侯爵)
会派:無所属
回数:終身
前職:宮内省式部官、福岡県立中学修猷館館長
特記:第12代福岡藩主黒田長知の長男。黒田侯爵家当主
衆議院議長
22 奥繁三郎(おく しげさぶろう)
就任:2580(大正 9・1920)年6月29日(選出)
退任:
生年:2521(1861)年8月1日(文久元年6月25日)、歳
出生:山城国綴喜郡八幡(京都府八幡市)
学歴:京都府師範学校卒業、関西法律学校中
官職:衆議院議員(京都府第5区)
会派:立憲政友会
回数:9回(5期、6期補、7期~12期、15期)
前職:小学校訓導兼校長、京都府会議員、衆議院議員、衆議院議長(19、22)
特記:代言人試験合格
衆議院副議長
18 粕谷義三(かすや ぎぞう)
就任:2580(大正 9・1920)年6月29日(選出)
退任:
生年:2526(1866)年9月23日(慶応2年8月15日)、歳
出生:武蔵国入間郡上藤沢村(埼玉県入間市)
学歴:米ミシガン大学、法学士
官職:衆議院議員(埼玉県第2区)
会派:立憲政友会
回数:10回(5期~9期、10期繰上、11期、12期、14期~15期)
前職:自由新聞主筆、埼玉県会議員、県会副議長、衆議院議員、衆議院副議長(18)
特記:
第45回帝國議會・通常会
日程
召集:2580(大正 9・1920)年11月11日(官報公布12日)
集会:2580(大正 9・1920)年12月25日
開会:2580(大正 9・1920)年12月27日
閉会:2581(大正10・1921)年 3月26日
会期:90日、実数90日
議院役員
第44議会に同じ
▽内閣閣僚
内閣総理大臣
25 原敬(はら たかし)
就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(新任)
退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)
生年:2516(1856)年3月15日(安政3年2月9日)、62歳
出生:陸奥国岩手郡本宮村(岩手県盛岡市)
学歴:司法省法学校中途退学、パリ政治学院・科目履修生(国際公法)
官職:衆議院議員(岩手県盛岡市区)→(岩手県第1区)
会派:立憲政友会・総務委員
回数:8回(7期~14期)→9回(7期~15期)
前職:郵便報知新聞社記者/外務省御用掛、清国天津領事、仏公使館在勤、農商務省参事官、外務省通商局長兼大臣官房移民課長兼取調局長、外務次官、朝鮮国駐箚特命全権公使/大阪毎日新聞社編集総理、同社長/逓信大臣、内務大臣(25、27、29)、立憲政友会総裁(4)、内閣総理大臣(25)
特記:
外務大臣
33 内田康哉(うちだ こうさい/やすや)
就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(再入閣)
退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)
生年:2525(1865)年9月29日(慶応元年8月10日)、52歳
出生:肥後国八代郡竜北(熊本県八代郡氷川町)
学歴:新川義塾、同志社英学校中退、東京帝国大学法科卒業
官職:
会派:
回数:
前職:外務省入省、外務省通商局長ロンドン公使館勤務、清国北京公使館勤務、清国臨時代理公使、外務次官、駐墺大使兼スイス公使、駐米大使、外務大臣(24、33)
特記:明治40(1907)年11月4日、男爵叙爵/明治44(1911)年8月24日、子爵陞爵/大正9(1920)年9月7日、伯爵陞爵
内務大臣
34 床次竹二郎(とこなみ たけじろう)
就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(初入閣)
退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)
生年:2527(1867)年1月6日(慶応2年12月1日)、51歳
出生:薩摩国鹿児島城下新照院通町(鹿児島県鹿児島市)
学歴:共立学校、第一高等中学校、大学予備門、東京帝国大学法科大学政治科卒業
官職:衆議院議員(鹿児島県郡部区)
会派:立憲政友会
回数:3回(12期補~14期)→4回(12期補~15期)
前職:大蔵省入省、愛媛県収税長、内務省転属、宮城県内務部第一課長、岡山県警察部長、山形県書記官、新潟県書記官、兵庫県書記官、東京府書記官、徳島県知事、秋田県知事、内務省地方局長、樺太庁長官、内務次官、内務大臣(34)
特記:兼鉄道院総裁
大蔵大臣
27 高橋是清(たかはし これきよ)
就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(再入閣)
退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)
生年:2514(1854)年9月19日(嘉永7年/安政元年閏7月27日)、64歳
出生:武蔵国江戸芝中門前町(東京都港区芝大門)
学歴:ヘボン塾(現・明治学院)
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:立憲政友会
回数:明治38(1905)年1月29日勅選
前職:文部省御用掛、農商務省御用掛、同書記官、特許局長、日本銀行副総裁、兼横浜正金銀行頭取、日本銀行総裁、大蔵大臣(23)
特記:明治40年9月、男爵叙爵
陸軍大臣
17 田中義一(たなか ぎいち)
就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(初入閣)
退任:2581(大正10・1921)年 6月 9日(依願免本官)
生年:2524(1864)年7月25日(元治元年6月22日)、54歳
出生:長門国阿武郡萩城下菊屋横町(山口県萩市呉服町)
学歴:陸軍教導団、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)
官職:陸軍中将→陸軍大将
会派:
回数:
前職:村役場職員、小学校教員、陸軍教導団、陸軍歩兵少尉任官、ロシア留学、満州軍参謀(日露戦争時)、歩兵第三連隊連隊長、陸軍省軍務局軍事課長、陸軍少将、歩兵第二旅団長、陸軍省軍務局長、陸軍中将、参謀次長、陸軍大臣(17)、陸軍大将
特記:大正9(1920)年9月7日、男爵叙爵
18 山梨半造(やまなし はんぞう)
就任:2581(大正10・1921)年 6月 9日(初入閣)
退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)
生年:2524(1864)年4月6日(元治元年3月1日)、57歳
出生:相模国大住郡下島村(神奈川県平塚市下島)
学歴:耕余塾、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)
官職:陸軍中将→陸軍大将
会派:
回数:
前職:陸軍歩兵少尉任官、歩兵第五連隊付、陸軍大学校(8期)卒業、歩兵第四旅団副官(日清戦争時)、歩兵第五連隊中隊長、第二軍副官、占領地総督部副官/参謀本部第四部員、兼陸大教官、ドイツ駐在、陸大教官、第二軍参謀(日露戦争時)、同軍参謀副長、第三師団参謀長/オーストリア公使館付、ドイツ大使館、陸大幹事、歩兵第五十一連隊長、陸軍少将、歩兵第三十旅団長、歩兵第一旅団長、参謀本部総務部長、独立第十八師団参謀長、功二級/教育総監部本部長、陸軍中将、陸軍次官、兼航空局長官、陸軍大臣(18)、陸軍大将
特記:
海軍大臣
11 加藤友三郎(かとう ともさぶろう)
就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(留任)
退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)
生年:2521(1861)年4月1日(文久元年2月22日)、57歳
出生:安芸国広島城下大手町(広島県広島市中区大手町)
学歴:広島藩校修道館(現:私立修道館中学校)、海軍兵学寮(7期)卒業(次席)、海軍大学校甲号1期
官職:海軍大将
会派:
回数:
前職:海軍少尉任官、防護巡洋艦「吉野」回航委員、「吉野」砲術長、海軍少佐、海軍大学校教官、海軍中佐、巡洋艦「筑紫」艦長、海軍大佐、高等教育会議議員、兼海軍省軍務局第二課長、港湾調査会委員、兼海軍臨時建築部部員、海軍省軍務局局員]、第二艦隊参謀長、海軍少将、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長、海軍次官、海軍省司法局長、海軍中将、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官、海軍大臣(11)、海軍大将
特記:
司法大臣
26 元田肇(もとだ はじめ)
就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(再入閣)
退任:2581(大正10・1921)年 5月15日(転官)
生年:2518(1858)年2月28日(安政5年1月15日)、55歳
出生:豊後国国東郡来浦村(大分県国東市国東町来浦)
学歴:東京大学法科卒業
官職:衆議院議員(大分県郡部区)→(大分県第6区)
会派:立憲政友会
回数:14回(1期~14期)
前職:弁護士、衆議院議員(大成会・国民協会・帝国党・立憲政友会)、衆議院副議長(25)
特記:
27 大木遠吉(おおき えんきち)
就任:2581(大正10・1921)年 5月15日(初入閣)
退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)
生年:2531(1871)年9月19日(明治4年8月5日)、歳
出生:肥前国赤松町(佐賀県佐賀市)
学歴:学習院
官職:貴族院議員・華族議員(男爵)
会派:研究会・立憲政友会
回数:明治41(1908)年、伯子男爵議員補選当選(3期)
前職:東京工科学校顧問、司法大臣(27)、帝国公道会会長、大日本国粋会総裁、
特記:明治32(1899)年11月1日、男爵襲爵
文部大臣
29 中橋徳五郎(なかはし とくごろう)
就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(初入閣)
退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)
生年:2521(1861)年10月13日(文久元年9月10日)、55歳
出生:加賀国石川郡金沢町(石川県金沢市)
学歴:東京大学英法科卒業、東京帝国大学法学部選科卒業
官職:衆議院議員(石川県金沢市区)→(大阪府第3区)
会派:立憲政友会
回数:4回(11期~12期、13期再選挙、14期)→5回(11期~12期、13期再選挙、14期~15期)
前職:判事試補、横浜陪審裁判所詰、農商務省転籍、参事官、衆議院制度取調局出仕、欧米出張、衆議院書記官、逓信省参事官、逓信省監査局長、鉄道局長/大阪商船社長、宇治川電気株式会社初代社長、日本窒素重役、日清汽船取締役/大阪市会議員、同議長、衆議院議員、文部大臣(28)
特記:
農商務大臣
24 山本達雄(やまもと たつお)
就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(再入閣)
退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)
生年:2516(1856)年4月7日(安政3年3月3日)、57歳
出生:豊後国海部郡(大分県臼杵市)
学歴:慶應義塾中退、明治義塾(三菱商業学校)卒業、
官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)
会派:立憲政友会
回数:明治36(1903)年11月20日
前職:郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)入社、日本銀行入行、横浜正金銀行取締役、ロンドン派遣、日本銀行理事、日本銀行総裁(5)、貴族院勅選議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣(21)、農商務大臣(21、24)
特記:
逓信大臣
23 野田卯太郎(のだ うたろう)
就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(再入閣)
退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)
生年:2513(1853)年12月21日(嘉永6年11月21日)、59歳
出生:筑後国三池郡岩津村(福岡県三池郡高田町)
学歴:
官職:衆議院議員(福岡県郡部区)→(福岡県第12区)
会派:立憲政友会
回数:10回(5期~14期)→11回(5期~15期)
前職:福岡県会議員、逓信大臣(19、23)
特記:地域の豪農・野田伊七の長男として出生
鉄道省設置(2581(大正10・1921)年5月15日)
鉄道大臣
1 元田肇(もとだ はじめ)
就任:2581(大正10・1921)年 5月15日(転官)
退任:2581(大正10・1921)年11月 4日(内閣総辞職)
生年:2518(1858)年2月28日(安政5年1月15日)、55歳
出生:豊後国国東郡来浦村(大分県国東市国東町来浦)
学歴:東京大学法科卒業
官職:衆議院議員(大分県第6区)
会派:立憲政友会
回数:15回(1期~15期)
前職:弁護士、衆議院議員(大成会・国民協会・帝国党・立憲政友会)、衆議院副議長(25)。司法大臣
特記:
国務大臣(欧州派兵関連軍務担当)
山本権兵衛(やまもと ごんべえ/ごんのひょうえ)
就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(留任)
退任:2580(大正 9・1920)年 1月18日(免官)
生年:2512(1852)年11月26日(嘉永5年10月15日)、48歳
出生:薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島県鹿児島市加治屋町)
学歴:開成所、海軍操練所、海軍兵学寮(2期)卒業
官職:予備役海軍大将
会派:
回数:
前職:海軍大臣官房主事、海軍大臣副官、海軍省軍務局長、海軍大臣
特記:
国務大臣(欧州派兵関連国内政策担当)
星亨(ほし とおる)
就任:2578(大正 7・1918)年 9月29日(留任)
退任:2580(大正 9・1920)年 1月18日(免官)
生年:2510(1850)年5月19日(嘉永3年4月8日)、61歳
出生:武蔵国江戸築地小田原町(東京都中央区築地)
学歴:横浜英学所、開成所、英ミドル・テンプル
官職:枢密院副議長
会派:立憲政友会
回数:
前職:幕府大蔵局、横浜税関所長、弁護士、自由党員、駐米公使、外務大臣、逓信大臣/衆議院議員(当選回数9回、2期~10期)、貴族院勅選議員、内閣総理大臣(22)、立憲政友会総裁、枢密院副議長
特記:実父は左官職人。/明治40年11月、男爵叙爵
内閣書記官長
27 高橋光威(たかはし みつたけ)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(新任)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(内閣総辞職)
生年:2528(1868)年1月13日(慶応3年12月19日)、50歳
出生:越後国(新潟県新発田市菅谷)
学歴:慶應義塾、慶應義塾大学部法律科卒業
官職:衆議院議員(大分県郡部区)→(新潟県第5区)
会派:立憲政友会
回数:6回(10期~15期)
前職:内外通信社主幹、福岡日日新聞主筆、大阪毎日新聞入社/内務大臣秘書官(原敬)、衆議院議員、内務省参事官、内閣書記官長(27)
特記:児玉源太郎嫡男
法制局長官
22 横田千之助(よこた せんのすけ)
就任:2576(大正5・1916)年10月 9日(新任)
退任:2578(大正7・1918)年 9月29日(依願免本官)
生年:2530(1870)年9月17日(明治3年8月22日)、48歳
出生:下野国足利郡足利町本城(栃木県足利市)
学歴:東京法学院(現・中央大学)卒業、代言人試験合格
官職:衆議院議員(栃木県郡部区)→(栃木県第7区)
会派:立憲政友会
回数:5回(11期~15期)
前職:弁護士、実業界、衆議院議員、法制局長官(22)
特記:
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