大日本帝國召喚   作:もなもろ

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若槻禮次郎という人はなかなか興味深い。少年期は貧乏で苦労したが、帝大は首席で卒業し、大蔵官僚としても優秀でトントンと次官に上り詰めた。明治国家の成功例を見る思いです。惜しむらくは天才型で淡白な性格であったことか。最も、史実の第一次内閣の最後の時点ではこれ以上どうしようもなかったのは事実でしょうがね。
拙作世界線では、外交的に成功し、国会で取り上げるなど民本主義の拡張に寄与しましたが、経済政策で守旧派に敗れたという形になりました。なお、幣原外交は史実とは違って好意的です。南京事件は蒋介石の北伐が始まっていないので、起こっていません。ソ連がないから当然ですね。


大日本帝国歴代内閣(第30代 第一次若槻禮次郎内閣:第55議会から第55議会まで)

大日本帝国歴代内閣

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30代 第一次若槻禮次郎内閣(2587(昭和2・1927)年4月25日~2587(昭和2・1927)年6月3日)

▽来歴・概要

 松江藩の下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男として皇紀2526(西暦1866)年3月21日(慶応2年2月5日)、出雲国松江雑賀町(現:島根県松江市雑賀町)に出生した。奥村家は極めて貧乏だったため、内職のようなことをして、ようやく生活していた。16歳のころから3年ほど、小学校の代用教員をする。明治16(1884)年、司法省法学校に私費生として入学し、在学中に叔父・敬の養子となり、若槻姓となる。明治25(1892年7月、帝国大学法科を98点5分という驚異的な成績を残し、首席で卒業した。同期に、後に司法大臣、鉄道大臣を歴任した政党政治家・小川平吉、数期にわたり内務大臣を務めた官僚政治家・水野錬太郎、常設国際司法裁判所所長・安達峰一郎らがいる。若槻は、法学校でも帝国大学でも常に首席であった。

 大学卒業後大蔵省に入り、主税局長、大蔵次官を歴任する。第三次桂太郎内閣で大蔵大臣として初入閣。その後、蔵相、内相といった主要閣僚を歴任し、在任中に死去した加藤高明の後を継ぎ、憲政会総裁及び内閣総理大臣に就任した。

 若槻内閣は加藤高明の居抜き内閣として成立した。但し、外務大臣は若槻が兼任した。これは加藤内閣の外務大臣であった幣原喜重郎がドイツのベルリンで講和交渉を継続中であったため、親任式に出席できないためであった。若槻は、幣原の帰朝後に内閣改造を行う腹積もりであった。

 加藤前首相は、第55議会を大幅に延長した。帝國議会の会期延長は天皇大権によっておこなわれるので、詔書の渙発が必要となる。閣議で延長理由について閣僚から尋ねられた際に、加藤は、その理由について次のように説明している。講和交渉における妥結内容を国会で報告し、外交についても議会の関与する途を開こうという意図があるということを加藤は説明し、政友会側にもそのことは匂わされていた。若槻は、加藤の遺志を継ぎ、帝国議会衆議院と貴族院で登壇し、講和条約に関する説明を行った。若槻は、外交はあくまで天皇大権に属するものであり、議会の干渉する所ではないこと、外交も亦国家の大事であるために、議会において広く国民の知る機会を設けるべきところであることを前提としつつも、今回の外相演説は議会の協賛を求めてのものではないが、質問は受け付けるということを明言した。若槻は外相として、対米講和交渉内容について貴衆各院の本会議で報告した。与党憲政会においても野党政友会においても賠償金が取れないことに対する不平の声が多く上がったが、若槻の行動が議会の協賛を求めてのものではないということを事前に通告していたことで、非難決議などの行動には至らなかった。

 ドイツ・ベルリンにおいては講和交渉が大詰めを迎えていた。加藤=ボールドウィン間の電話会談で大筋合意の道が開かれ、ジーベル独首相の斡旋もあり、日英米三国間の交渉が大筋合意を見たが、細かな点での詰めの作業が残っていた。アメリカ側は、講和受諾を前提としつつも少しでも有利な条件での講和を目指して粘っていた。幣原全権は、チェンバレン外相との間に協力関係を強固に固めるとともに、アメリカ側と粘り強い交渉を行い、講和条件の細部の交渉をまとめ上げることに成功した。アメリカ側との直接交渉やイギリスとの共同交渉、果てには仲介国ドイツ国にも華を持たせるためとしてドイツからの提案という形を採るなど、幣原は様々な形で条件交渉を行った。

 かくて2587(昭和2・1927)年5月16日、ドイツ国ベルリン郊外のポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿において、「グレートブリテン及びアイルランド連合王国並びにその海外領土並びにインド帝國及び大日本帝國とアメリカ合衆国との平和条約」が各国全権委員の署名の下締結された。講和条約の内容として次に記す事項が合意された。

1、レイテ島マーシンのイギリス人管理区域に対する3年の管理期限延長

2、条約締結から3年後のマーシン周辺地域の行政権返還

3、米政府の出資による日英軍戦死者に対する弔慰金基金の設立

4、米領グアムの国際連盟日本統治委任領への編入

5、国際連盟の主導する新たな軍縮会議の開催

6、拿捕された米艦艇の引き渡し

7、米軍捕虜収容費用のフランスへの支払

 この講和條約締結を機として、幣原は、欧州諸国での歓待を受けるようになり、帰国が伸びることとなる。なお、幣原首席全権が主導し、現在にもつながる欧州諸国との協調関係を重視した外交姿勢を指して「幣原外交」と呼んでいる。

 5月20日、衆議院本会議において若槻首相は、講和条約の締結とその内容について外務大臣として報告した。議場では与野党から拍手を以て迎えられた。これは、條約の締結について議会で報告することが議会の協賛を得るためのものではないという従前からの説明があったためで、単に戦争の正式な終結が成ったことを慶んでの行動であった。翌21日にも、若槻は貴族院本会議において同様の報告を行った。外交分野においては華々しい成果を見せた若槻内閣であったが、経済分野での混乱で短命な内閣に終わった。

 

 欧州大戦後の戦時特需の終焉で日本経済は不況に陥ったが、そこに関東大震災が起こったことで不況はより深刻になった。その痛手から回復していない時期に起こった西太平洋戦争は、軍需特需という側面では、軍需産業を中心として経済を回復に向かわせたかに見えた。しかし、震災不況から回復していない状況もあって、反って市場に混乱をきたすこととなった。そして、西太平洋戦争の早期終結は、この混乱の中にあった企業に追い打ちをかけることとなった。戦時特需が終了し、再度の戦後不況が始まると、市場に不安が広がり、欧州大戦中に急成長した企業の多くが業績悪化した。その中にあって、最大の規模のものが鈴木商店の倒産を巡るものであり、この倒産を巡る混乱が若槻内閣の総辞職に繋がった。

 関東大震災により支払のできなくなった手形(震災手形)は、震災手形割引損失補償令によって、日本銀行によって再割引が行われていた。手形の割引とは、企業が保有する約束手形を期日前に銀行などへ売却し、手数料(割引料)を差し引いた金額で早期に現金化することである。日本銀行が震災手形を割り引いたことで現金が市中に流れることになり、いわゆる日銀特融が行われたのであった。この再割引手形の決済期限は、関東大震災から2年後の大正14年9月30日とされ、手形の決済時期に2年の猶予を付けることで企業の支払能力を確保しようとした。しかし、景気の後退により、その処理は進まず、再割引手形の決済期限は2度延長され、昭和2年9月30日まで伸びていた。再割引された手形が不渡りになった場合に日本銀行が被る損害には政府保証がつけられていた。そして、加藤政権下の昭和2年1月、帝国議会に震災処理に関する震災手形善後処理法と震災手形損失補償公債法の震災手形関係二法が提出された。これにより、震災手形の割引によって生じる損害額に相当する額を国債の貸付によって政府が補償する態勢が強化された。

 これらの震災手形処理のスキームの中に欧州大戦による投機の投機の失敗で決済不能となった手形が大量に紛れ込み、決済が済んでいない手形が大量にあった。震災手形関係二法が帝國議会に提出されたころには、不良債権のかなりの部分が台湾銀行の所有するものであり、その要因は鈴木商店への多額の貸付の焦げ付きであるとささやかれていた。鈴木商店は、欧州大戦中の一時期、三井物産や三菱商事の売上を遥かに上回っていた。戦後の不興により売り上げを落としたものの当時の日本経済においては、鈴木商店は大きなウェイトを占めていた。この鈴木商店の倒産は、日本経済に対する多大な悪影響を及ぼすことは明らかであった。そして、その鈴木商店に資金提供を行っていた取引銀行が台湾銀行であった。

 台湾銀行は鈴木商店と緊密な関係を有していた。欧州大戦時に鈴木商店が莫大な投資を行った際に資金供給源としてそれを支えた。鈴木商店の急成長を支えた台湾銀行であったが、戦後不況で鈴木商店の経営が悪化すると多額の融資が焦げ付き、追い貸しを行うようになった。追い貸しとは、経営再建の見込みが乏しい融資先に貸出を継続または拡大することで倒産処理を遅らせることを指す。即ち、台湾銀行としては、追加の融資を行うことで鈴木商店の経営を下支えし、鈴木商店が業績を好転させることを期待していた。

 加藤前首相は鈴木商店の倒産が日本経済にもたらす悪影響を考慮し、台湾銀行ともども鈴木商店を救済する方向で考えていた。そして、鈴木商店の救済のため台湾銀行に対する日銀特融を行おうと考えていた。閣僚の中でも、商工大臣であった片岡直温や、次の大蔵大臣と言われていた農務大臣の早速整爾は若槻首相の構想に賛成した。

 だが、大蔵大臣の濱口雄幸は、一企業である鈴木商店を無理やりに救済しようとするのは、市場経済の健全性を損ねるとして反対した。この当時、「大きすぎて潰せない」という問題は認識されていなかった。このため、特定の企業を救済しようという話は、自由主義経済の原則に違背するという濱口の主張は正鵠を射ていた。更に言えば、濱口は当初、自由な市場経済の下の健全な競争によって企業は勃興し淘汰されるが、それは「見えざる手」によるものであって、市場全体として成長するためには不可避なものであるとして、鈴木商店の倒産をやむを得ないものであるとも主張していた。

 また、ジャーナリスト出身で憲政会の選挙対策を指揮していた逓信大臣の安達謙蔵もまた、震災不況・戦後不況にあえぐ国民がいる中で、政商とも呼ばれている鈴木商店を救済しようとすれば、国民の怨嗟の声が憲政会に向くとして鈴木商店を焦点に充てた救済案には反対した。

 最も濱口にせよ、安達にせよ加藤前首相の懸念するところは理解していた。従って、鈴木商店の倒産を回避するための鈴木商店側が経営を好転させるまでの繋ぎとして震災手形処理を「悪用」していることを「黙認」していた。内閣の二閣僚が、鈴木商店救済を含めた台湾銀行救済に同意しない状況は、加藤内閣の居抜き内閣となった若槻内閣においても続いていた。

 帝國議会における震災手形関係二法の審議中にも鈴木商店を巡る状況は悪化していた。法案審議のさなかに鈴木商店を巡る台湾銀行の不良債権問題が顕在化し、本法が台湾銀行の不良債権処理に眼目があることがわかると台湾銀行と鈴木商店の経営に対する不安が拡大し、台湾銀行と鈴木商店の資金繰りが悪化した。台銀は、日常取引の資金の大部分を銀行間取引市場(コール市場)に求めていたが、他の銀行が台銀への融資を引き揚げ始めた。

 それでも、台銀は鈴木商店との取引を継続する姿勢を示し続けたが、事態は突如として空転した。米国誌・ウォール・ストリート・ジャーナルが5月18日、台湾銀行破綻目前の記事を掲載すると、その余波は極東にも及んだ。日本国内の金融界に、香港上海銀行が台銀へのコール融資を差し止めるという噂や、台銀も鈴木商店の融資を引き揚げるという噂が飛び交った。この余波によって、5月21日の土曜日、鈴木商店の系列であった六十五銀行が休業を決定した。六十五銀行に対する取り付け騒ぎが起こり始めており、月曜日を迎えられないと判断したためである。

 六十五銀行は、鈴木商店の機関銀行というほどの規模ではなかったが、鈴木商店の首脳陣に与える影響は大きかった。鈴木商店側は、翌日の日曜日、台銀に対して追加融資の依頼を行った。しかし、台銀の融資担当者は日曜日であることを理由に返答を保留した。これを鈴木商店側は新規融資の打ち切りと早合点し、新規取引の停止を発表し事実上休業した。

 市場は、鈴木商店の休業発表に驚いたのが、それは台銀も同様であった。台銀から鈴木商店への融資は不良債権化していたが、一応は回収困難な状態であった。しかし、鈴木商店が倒産となれば、完全に焦げ付くことになり、回収不能となれば早晩台銀は破綻する。各行は一斉にコール市場から融資を引き上げ、また台銀に持っていた債権の回収にかかった。コール資金に大きく依拠していた台銀は即座に行き詰り、大日本帝国政府に救済を要請した。台湾銀行は大日本帝國政府の責任で設立された特殊銀行であり、これが破綻することは帝国政府ひいては日本の対外的な信用にもかかわる重大問題であった。

 5月23日、濱口蔵相は日本銀行に対して台銀への日銀特融を行うように促した。日銀はそれまでの銀行救済に際して都度特融に応じてきたが、今回の台銀については規模が大きいこともあり補償の裏づけのある法律に拠らなければ融資はできないと同日、大蔵省に返答した。

 同日、政府閣僚は、深夜に首相官邸に集まり、善後策を討議した。濱口蔵相は帝國議会を延長して、台銀救済の法律案を通過させるべきと主張した。この案件は予算措置を伴うものであり、財政的な処分にあたるため、帝国議会の協賛が必要であった。しかし、翌日24日が第55議会の閉会日であり、これから会期延長を行うのは難しかった。このため、若槻首相をはじめとして閣僚は、帝国議会閉会後に帝國憲法第8條及び同第70條による緊急勅令を以て台銀への救済を実施すべしと主張した。数時間の討論の末、濱口蔵相が折れて、日銀非常貸出補償令を発布し、日銀から台銀に無担保融通をさせ(帝国憲法第8條による事項)て、それによって生じたる損失は2億円を限度として政府が補償する(帝国憲法第70條による事項)緊急勅令案を準備するに至った。

 5月24日、帝国議会閉院式に出席した若槻首相はその足で倉富勇三郎枢密院議長を訪れ、近く、台湾銀行救済の為の緊急勅令案を枢密院に提出するので早急に可決するよう依頼した。倉富は審査結果に責任は待てないが、早急な審議は実施すると返答した。この間、濱口蔵相は大蔵省預金部に命令して、台銀への資金の融通実施し、台銀への破綻を食い止めていた。そして、27日、若槻内閣は枢密院に対して台銀救済の緊急勅令案を提出した。28日の土曜日、枢密院は平沼騏一郎を長とする精査委員会を設置し、勅令案の審査を始めた。当日の夜、枢密院事務局は内閣側に対して、緊急勅令案が憲法第8條及び同第70條違反であるという理由を以て否決されるべき見通しにあることを伝えてきた。

 帝國憲法第8條には、緊急勅令制定の要件として、「公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝國議會閉會ノ場合ニ於テ」という要件を定めている。また、同70條には、「公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需要アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝國議會ヲ召集スルコト能ハサルトキ」が要件となっている。即ち、立法措置においても予算措置においても帝国議会の議決が要件であるとするのが帝國憲法の原則であり、緊急勅令は例外的なものである。本来であれば、帝国議会が閉会中であるのならばこれを召集して、法律として制定すべきである。しかし、その時間的及び環境的余裕がない「緊急時」に緊急勅令は、議会の協賛なくして制定できる。特に、帝國憲法第70条では、更に帝国議会の召集不能という要件を加えており、この召集不能の事態というのは、天災事変などの物理的な障害に際しての規定であり、緊急財政処分勅令は一般の緊急勅令よりも要件が厳格である。原内閣の時代、欧州大戦勃発により下落した蚕糸業を保護するために財政支出を為そうとして内閣は緊急勅令を制定しようとしたが、枢密院は既存の法令の活用により目的を達成できるとして、勅令の制定に「緊急の必要」があるとは認めなかった。このときは、審査委員会の決定が出た時点で「御沙汰ニ依リ返上」(政府側より撤回)となった。

 枢密院精査委員会の判断は原内閣当時と同じであった。緊急財政処分を伴う緊急勅令の制定には帝国議会の召集不能という条件が必要であるが、その帝國議会は先日閉会し、再召集を不可能とする特段の事情も存在しない以上、召集が不能であるとは認められない。更に言えば、政府は開会中の帝國議会を延長して法律案を提出すれば、緊急勅令と同じ効果を得ることができた。今回の政府の措置は帝国議会の権限を奪うのものであり、憲法違反と言わざるを得ないと結論付けた。

 既に記載したようにこの当時、「大きすぎて潰せない」という経済学的な問題は充分に認識されておらず、政府による市場介入を抑制的に考える古典派経済学の流れを汲んだ経済思想が主流であった。また、枢密顧問官の中に経済の専門家はいなかった。法制局長官を務めた司法官僚出身の倉富勇三郎枢密院議長や大審院長や検事総長を務め、司法大臣の就任歴のある平沼騏一郎同副議長を始めとして、司法・外務・内務の元官僚が顧問官の多数を占めていた。若槻内閣が持っていた経済的危急の事態であるという意識を顧問官はよく認識していなかった。

 29日、日曜日にもかかわらず、濱口蔵相は大蔵官僚を顧問官の下に向かわせ、勅令案可決への説明と説得に向かわせたが、成果は芳しくなかった。30日、枢密院精査委員会は勅令案否決の審査報告書を議決し、倉富議長は政府へ勅令案の撤回を促した。しかし、若槻内閣は本会議での可決に一縷の望みをかけて本会議に臨むこととした。

 5月31日午後2時、宮中東溜の間において、枢密院本会議が開かれた。平沼精査委員長より委員会の審議経過が述べられ、憲法第70条及び第8条に該当する要件を具備していないとして、委員会は原案否決が議決されたことが報告された。

 これに対して若槻首相は約40分にわたり原案支持論を試みた。現下の経済的情勢は危急の状況にあり、本勅令案が通過しない場合、財界に一大変動を惹起し、公共の安全を害し又は災厄を起すに至るべきことに言及した。更に、本勅令案は少しも憲法第70条及び第8条に違反するものではないと続けた。財界の現状は帝國議会を召集して法律案の協賛を求めている余裕がなく、議会召集によっては公共の安全が害される結果ともなりかねず、経済的逼迫による召集困難は、憲法の条規に言う召集不能を含むものであると述べた。

 政府側の反駁に対して伊東巳代治顧問官、金子堅太郎顧問官はそれぞれ委員長報告に賛成の意見を述べた。両者は、伊藤博文の下で帝國憲法を起草しており、彼らの憲法解釈が大きな力を持っていた。中でも、伊東顧問官は、帝國議会を無視したかのような法令手続は、憲法の精神を没却せしむるものとして論難し、議会延長による立法の手段を採らなかった若槻内閣の政権運営を失政として非難した。若槻はこれについても時間的な余裕について、議会による長期間の審査では経済的な危難を避けることができないと更に答弁した。討論が終局したと判断した倉富議長は採決を宣言し、政府側を除く顧問官全員が起立して、枢府側全会一致で緊急勅令案は否決に決した。

 台湾銀行救済に行き詰った若槻首相は、31日同日、首相官邸で最後の閣議を開き、閣僚の辞表を取り纏めて参内し、内閣総辞職の意向を奏上した。今回の総辞職は、政権運営の不手際に因るものと看做され、大命は政友会総裁の田中義一に下ることとなる。

▽在任中の主な出来事

・ポツダム講和條約締結

・鈴木商店破綻

▽内閣の出した主な法令

▽内閣の対応した帝國議会

第55回帝國議會・通常会

日程

 召集:2586(大正15・1926)年11月10日(官報公布11日)

 集会:2586(大正15・1926)年12月24日

 開会:2586(昭和 元・1926)年12月26日

 閉会:2587(昭和 2・1927)年 5月24日

 会期:90日、延長60(30+30)日、実数150日

議院役員

※第52議会に同じ

▽内閣閣僚

内閣総理大臣

30 若槻禮次郎(わかつき れいじろう)

 就任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(新任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(内閣総辞職)

 生年:2526(1866)年3月21日(慶応2年2月5日)、61歳

 出生:出雲国松江雑賀町(島根県松江市雑賀町)

 学歴:司法省法学校首席卒業、帝国大学法科大学(現:東京帝國大学)首席卒業

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:無所属・憲政会総裁

 回数:明治44(1911)年8月24日勅選

 前職:大蔵省入省、愛媛県収税長、大蔵省主税局内国税課長、主税局長兼行政裁判所評定官、大蔵次官、錦鶏間祗候、大蔵大臣(22、24)、内務大臣(39)

 特記:松江藩下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男。叔父・若槻敬の養子。

外務大臣

38 若槻禮次郎(わかつき れいじろう)

 就任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(新任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(内閣総辞職)

 生年:2526(1866)年3月21日(慶応2年2月5日)、61歳

 出生:出雲国松江雑賀町(島根県松江市雑賀町)

 学歴:司法省法学校首席卒業、帝国大学法科大学(現:東京帝國大学)首席卒業

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:無所属・憲政会総裁

 回数:明治44(1911)年8月24日勅選

 前職:大蔵省入省、愛媛県収税長、大蔵省主税局内国税課長、主税局長兼行政裁判所評定官、大蔵次官、錦鶏間祗候、大蔵大臣(22、24)、内務大臣(39)

 特記:松江藩下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男。叔父・若槻敬の養子。

内務大臣

39 若槻禮次郎(わかつき れいじろう)

 就任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(再任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(内閣総辞職)

 生年:2526(1866)年3月21日(慶応2年2月5日)、59歳

 出生:出雲国松江雑賀町(島根県松江市雑賀町)

 学歴:司法省法学校首席卒業、帝国大学法科大学(現:東京帝國大学)首席卒業

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:無所属・憲政会副総裁

 回数:明治44(1911)年8月24日勅選

 前職:大蔵省入省、愛媛県収税長、大蔵省主税局内国税課長、主税局長兼行政裁判所評定官、大蔵次官、錦鶏間祗候、大蔵大臣(22、24)、内務大臣(39)

 特記:松江藩下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男。叔父・若槻敬の養子。

大蔵大臣

32 濱口雄幸(はまぐち おさち)

 就任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(再任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(内閣総辞職)

 生年:2530(1870)年5月1日(明治3年4月1日)、57歳

 出生:土佐国長岡郡池村唐谷(高知県高知市)

 学歴:高知中学、第三高等中学校、帝国大学法科政治学科(東京帝国大学)卒業

 官職:衆議院議員(高知県第2区)

 会派:憲政会

 回数:5回(13期~17期)

 前職:大蔵省入省、専売局長官、逓信次官、大蔵次官、衆議院議員、大蔵大臣(32)

 特記:

陸軍大臣

22 宇垣一成(うがき かずしげ)

 就任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(再任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(内閣総辞職)

 生年:2528(1868)年8月9日(慶応4年6月21日)、58歳

 出生:備前国磐梨郡大内村(岡山県岡山市東区瀬戸町大内)

 学歴:成城学校、陸軍士官学校(1期)、陸軍大学校(14期)

 官職:陸軍中将

 会派:

 回数:

 前職:教員採用試験合格、小学校校長/成城学校/陸軍入営、陸軍軍曹、陸軍士官学校(1期)卒業(歩兵科11番/103名)、陸軍歩兵少尉任官、陸軍大学校(14期)卒業(3番/39人)、ドイツ留学、陸軍歩兵大佐、陸軍省軍務局軍事課長、歩兵第6連隊長(名古屋)、陸軍省軍務局軍事課長、陸軍少将、参謀本部第一部長、陸軍中将、第10師団長(姫路)、陸軍次官、陸軍大臣(20、22)

 特記:

海軍大臣

14 財部彪(たからべ たけし)

 就任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(再任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(内閣総辞職)

 生年:2527(1867)年5月10日(慶応3年4月7日)、59歳

 出生:日向国都城(宮崎県都城市)

 学歴:攻玉社、海軍兵学校(15期首席)、海軍大学校(丙号)

 官職:海軍大将

 会派:

 回数:

 前職:海軍少尉任官、「松島」航海士、フランス出張、海大丙号学生、海軍大尉進級、巡洋艦「高雄」分隊長、イギリス駐在、駆逐艦「霓」回航委員長、海軍少佐進級、「霓」艦長、海軍中佐進級、海軍大佐進級、イギリス差遣、巡洋艦「宗谷」艦長、戦艦「富士」艦長、第一艦隊参謀長、海軍少将進級、海軍次官、海軍中将進級、第三艦隊司令官、旅順要港部司令官、舞鶴鎮守府司令長官、佐世保鎮守府司令長官、海軍大将親任、横須賀鎮守府司令長官、海軍大臣(12、14)

 特記:都城藩士、財部(児玉)実秋の二男。

司法大臣

32 江木翼(えぎ たすく)

 就任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(再任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(内閣総辞職)

 生年:2533(明治6・1873)年12月 5日、53歳

 出生:山口県御庄村(山口県岩国市)

 学歴:山口中学校、山口高等中学校予科・本科卒業、東京帝国大学法科大学英法科卒業、東京帝国大学法科大学英法科修了

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:同成会・憲政会会員

 回数:大正5(1916)年10月5日勅選

 前職:内務省入省、神奈川県事務官、法制局参事官、拓殖局部長、内閣書記官長(23、25)、司法大臣(32)

 特記:旧姓羽村。江木千之の養子。明治改暦後初の内閣書記官長

文部大臣

34 岡田良平(おかだ りょうへい)

 就任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(再任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(内閣総辞職)

 生年:2524(1864)年6月7日(元治元年5月4日)、62歳

 出生:遠江国佐野郡倉真村(静岡県掛川市)

 学歴:東京府第一中学、大学予備門、帝国大学文科大学哲学科(現東京帝國大学文学部)卒業、同大学院

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:同和会

 回数:明治37(1904)年8月22日勅選

 前職:第二高等中学校教授、文部省視学官、文部省大臣官房報告課長、参事官、山口高等中学校校長心得、同校校長兼文部省参事官、免兼、文部大臣官房会計課長、文部省実業学務局長、フランス派遣、文部省総務長官(文部次官)、兼任普通学務局長事務取扱、貴族院勅選議員、京都帝國大学総長就任、文部次官、錦鶏間祗候、文部大臣(28、34)

 特記:一木喜徳郎の長兄

農務大臣

1 早速整爾(はやみ せいじ)

 就任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(再任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(内閣総辞職)

 生年:2528(1868)年11月15日(明治元年10月2日)、58歳

 出生:広島県沼田郡新庄村(現・広島市西区新庄町)

 学歴:広島中学、東京専門学校政治経済英学科(現・早稲田大学)卒業

 官職:衆議院議員(広島県第1区)

 会派:憲政会

 回数:11回(7~17期)

 前職:埼玉英和学校校長代理兼教頭、芸備日日新聞社長兼主筆、広島市会議員、同議長、広島県会議員、広島商工会議所会頭、衆議院議員、衆議院副議長(14)、農商務大臣(30)、農務大臣(1)

 特記:

1 片岡直温(かたおか なおはる)

 就任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(再任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(内閣総辞職)

 生年:2528(1859)年10月13日(安政6年9月18日)、67歳

 出生:土佐国高岡郡半山郷永野村(高知県津野町永野)

 学歴:高知県陶冶学校(現・高知県師範学校)卒業

 官職:衆議院議員(京都府第2区)

 会派:憲政会

 回数:7回

 前職:小学校教員、郡書記、滋賀県警部長、内務本省、日本生命保険会社副社長、同社長、都ホテル社長、共同銀行、関西鉄道、衆議院議員、商工大臣(1)

 特記:

逓信大臣

27 安達謙蔵(あだち けんぞう)

 就任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(再任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(内閣総辞職)

 生年:2524(1864)年11月22日(元治元年10月23日)、62歳

 出生:肥後国熊本(熊本県)

 学歴:済々黌(現・熊本県立中学済々黌)

 官職:衆議院議員(熊本県第2区)

 会派:憲政会

 回数:11回(7期~17期)

 前職:邦字新聞『朝鮮時報』同諺文新聞『漢城新報』社長兼新聞記者、熊本国権党党務理事、衆議院議員、逓信大臣(27)

 特記:

鉄道大臣

6 仙石貢(せんごく みつぐ)

 就任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(再任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(内閣総辞職)

 生年:2517(1857)年7月22日(安政4年6月2日)、69歳

 出生:土佐国(高知県)

 学歴:東京大学理学部土木工学科卒業

 官職:元衆議院議員

 会派:憲政会

 回数:2回

 前職:東京府土木掛、内務省鉄道局勤務(日本鉄道、甲武鉄道工事を担当)、工学博士、逓信省鉄道技監、筑豊鉄道社長、九州鉄道社長、南満洲鉄道設立委員、猪苗代水力電気社長、鉄道院総裁、衆議院議員、土木学会第7代会長、鉄道大臣(6)

 特記:

内閣書記官長

31 塚本清治(つかもと せいじ)

 就任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(再任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(内閣総辞職)

 生年:2532(1872)年12月5日(明治5年11月5日)、54歳

 出生:兵庫県揖東郡旭陽村(兵庫県姫路市)

 学歴:第三高等学校、東京帝国大学法科大学卒業

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:同成会

 回数:大正15(1926)年1月29日勅選

 前職:東京府職員、内務省移、神社局長、地方局長、社会局長官、内務次官、内閣書記官長(31)、大喪使次官兼任

 特記:

法制局長官

26 山川端夫(やまかわ ただお)

 就任:2587(昭和 2・1927)年 4月25日(再任)

 退任:2587(昭和 2・1927)年 6月 3日(内閣総辞職)

 生年:2533(明治6・1873)年12月15日、53歳

 出生:長崎県

 学歴:長崎中学、第五高等学校、東京帝国大学法科大学政治学科卒業、同大学院

 官職:貴族院議員・勅任議員(勅選)

 会派:研究会

 回数:大正15(1926)年12月7日勅選

 前職:海軍省参事官、兼高等捕獲審検所事務官、兼鉄道院理事、海軍教官兼海軍省参事官、講和会議全権委員随員、法学博士、外務省転籍、臨時平和条約事務局第1部長、条約局長、法制局長官(26)

 特記:

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