大日本帝國陸軍参謀本部第二部所属退役陸軍少佐塩沢敏文は、クワ・トイネ公国西部にある都市ギムにてチームを統率しての諜報活動を実施していた。
諜報対象は、ロウリア王国の東部に位置し、ギムから一番近い街マインゲンにてロウリアとクワ・トイネ間の行商人の往来を監督する立場の者だ。監督といっても大層なことはしていない。出国者リストと入国者リストを持っているというだけの存在であり、関所のお役人とでもいうべきだろうか。だが、下っ端とはいえロウリア王国の役人であることは間違いなく、ロウリア王国につなぎをつけるとすれば、現状はこの男以外に他はいない。本日自国の外交官と会合する予定であり、おそらくギムの街に対する偵察も兼ねてやってくるのであろう。
「宇野班長。最終報告です。傍受機器の最終テスト問題ありません。カメラも問題なく録画されております。バッテリーの予備も正常に稼働します。」
「よし、あと10分ほどで対象が部屋に入ってくるだろう。各自身支度を整えたうえで、仕事を開始してほしい。」
新世界転移によって参謀本部の対外派遣チームはすべて壊滅したが、教育担当として国内に勤務していた者を中心にして新たなチームが組まれた。その分不足した人員は、定年で退官したものを再雇用する形で本部の書類整理などで穴埋めしている状況だ。
派遣チームは5人。班長の塩沢、退役陸軍軍曹で三菱商事勤務の井野、退役海軍上等兵曹で三井物産勤務の日野、早稲田大卒で出光勤務の小野、大阪帝大卒で住友商事勤務の矢野。当然使用している名前は偽名である。班長の塩沢も宇野としてチームの前で自己紹介をしていた。
外出して尾行していた井野からの報告の無線が入った。
「各員。マル対が食事を開始した。コーヒーを準備されたい。どうぞ。」
「了解。小野と日野はヘッドホン装着。矢野は外部警戒開始。井野はマル対の入室を確認後部屋に戻ってくれ。どうぞ。」
「了解。通信終わり。」
数分の後、ヘッドフォンから声が聞こえ始めた。
「さあ、御入室ください。部屋は暖めておりますので、コートはそちらにおかけください。暖かいクワ・トイネとはいえ、今日は冷えますな。外は寒かったでしょう。暖かいコーヒーを準備しておりますので、ミルクと砂糖はお好みで調節されてください。」
「前回もらったコーヒーは美味だった。貰ったコーヒー豆と道具で言われたとおりに豆を砕いて飲んでみたのだか、少し味が違った気がした。いろいろやり方を試して飲んでみたが、だいぶ近づいてきた感じがある。今日は美味いコーヒーを飲みに来たようなものだな。」
「はい。また豆を準備しておりますので、どうぞお持ち帰りください。また、他にもいろいろと珍しいものをご用意しておりますのでお試しください。」
「フフフそうか、色々とか楽しみだ。・・・、用件を先に済ませたい。貴殿は前回上に話は通さなくてもよいということだったが、いくらクワ・トイネと交流があるといっても、他国から来た外交官ということだったのでね、王都には使いを出した。日本国という国の外交官が我が国との交際を望んでいて、マインゲンに訪れた。28日に再度会うことになっているので、至急対応方法を指示されたいとね。」
「早速の対応ありがとうございます。それで、本国はなんとおっしゃっておりましたか。」
「うむ。やはり想像した通りというか、私が前回申し上げた通りというか、やはり貴国は我が国の上層部には受けが悪いな。クワ・トイネと交流があるのにもかかわらず、我が国と交流を持とうとするのは、どういうつもりだということだ。転移国家ということも伝えたが、何の話だと、そんな話を真に受けたのかと言われてしまってな。だが、貴殿からもらったコーヒーはな、私はこの生涯で一度も飲んだことはないのだ。地方の役人を長くやっているが、クワ・トイネからこのような品が運ばれてきたという記憶も記録もない。クワ・トイネが新たな作物も作り出したという話も聞いたことがないし、何よりあの道具やコーヒーの淹れ方も精錬されたものがあると感じた。試行錯誤の途中である私が言うのだから間違いはないだろう。とすればだ、貴国が転移国家であるというのはさておき、ただの未開の部族ではないだろうことは、コーヒーの一件からも、また貴殿らの装束や装身具からもまた想像できる。そう思って、上には報告したが、正式な交流というのは難しいのではないかと思うのだ。」
「そうですか・・・。いや、話を上に通していただいてありがとうございます。まだ、接触を開始した直後ですから、いろいろとお互いのことを知らないので、やむを得ない状況かと思います。まずは、我が国という存在を貴国の政府が知ったということでまずは、交渉の第一歩がスタートしたと思いたいです。私共としては、これからもハンメルさんとは交渉の窓口としてつながりを維持したいと思うのです。このギムの街やマインゲンのほうで折衝を重ねていき、いつか正規の外交ルートとしての窓口を貴国の首都に開設したいと思うのです。もちろん、ハンメルさんの今のお話では時間はかかりましょうが、辛抱強くやっていきたいと思いますので、とりあえずは、コーヒーを飲むだけでも構いませんので、これからもお話をさせてください。」
「このようにうまいコーヒーを頂けるのだ。私個人としてはつながりを維持することそれ自体は喜んで対応させてもらう。ただ、交渉の成否だけは私ではどうにもならないので、そこは期待しないでくれ。」
「わかりました。まずは、お互いのことをよく知るために話し合いを続けたいと思います。ですが、それよりもまず新しい飲み物を用意しておりますので、こちらは紅茶と申しまして、またコーヒーとは違った飲み物です。お試しください。」
小野と日野には傍受を続けてもらい、宇野はヘッドホンを外した。井野と矢野とで外部警戒を継続してもらい、宇野は思案する。ハンメルという役人は、国境線の役人としては目の付け所がよいといえるだろう。コーヒー一つで、なかなかの洞察をしていると考えさせられた。何かもっと引き込める材料はないだろうかと、考えているところに、日野から班長と呼ばれ、ヘッドホンを指さされた。再度ヘッドホンを装着する。
「私の祖父は、昔本国政府で大蔵大臣を務めていたのですが、先々代の国王の対クワ・トイネ戦争に反対を唱えましてね。なんでも、財政的な負担が発生するだけで、大きな利益は産み出さないとのことで、反対したようなのですが、そのせいで失脚しまして、幸いにしてこれまで国に尽くしてきたということで処刑は免れたのですが、地方に飛ばされまして、失意のうちに亡くなりました。父も中央での登用は遠慮しまして、結局戦争の結果得られたマインゲンの民心安定に尽くすことで祖父の罪を贖ったというかたちで、現在は隠居しております。私も父の跡を継いで、同じようにマインゲンの出入国審査所に勤めておる次第でして、一応は所長という待遇を得ております。所長とは名乗っておりますが、本国からすれば木っ端役人です。このように歓待していただきながら、なかなか良い返事をすることができないのは申し訳なく思いますが、御了解願いたい。あるいはですが、このまま、クワ・トイネのように細々とした関係を持ち続けるということでは行きますまいか。このギムとマインゲンの街は国交のないロウリアとクワ・トイネの最前線の街として、本国政府とは比べてですが、穏やかな関係を維持していると思っております。私は、このギムの市長や出入国管理所長とも面識はあります。両国はこれまでそのような形で関係を維持してきましたが、貴国ともそのような形で関係を持ち続けるという形であれば、少なくともつながりは維持できるとは思うのですが・・・」
「ご指摘ありがとうございます。本国政府には、そのような申し出があったことは伝えておきます。」
「よろしくお願いします。私も今日の会合について本国に報告書を出さねばなりませんが、相手からつながりだけは維持したいといわれたことだけは記載しておきます。とりあえずは、そんなところで、ご容赦いただきたい。」
早期の正式な国交交渉は難しそうであることは本国に伝えるとして、ロウリア本国は、最前線の街に対してはまだ正式に戦争開始の通達は出していないようだ。そうでなければ、下級役人が本国政府につながりを維持するとはとても言えることではないだろう。下手すればスパイ容疑もかかりかねない。
ロウリアの動向は各種の情報から戦争に向かって舵を切っているといって間違いない。ハンメルの言動をつぶさに確認すれば、ロウリアの戦争開始時期も見えてくるだろう。塩沢は、そう結論付けて、本国に対する報告書の作成に取り掛かった。