カザフスタン共和国内ロシア租借領、冬場は氷点下40度を回るチュラタムの町───バイコヌール宇宙基地はそこに居を構えている。
国営ロスコスモス社直轄のこの基地は14の発射場を擁する。ロシア宇宙開発史上ほぼ全ての有人宇宙船はここから打ち上げられており、
それが、2時間前。
打ち上げ自体は至って筒がなく進行した。
コロリョフの十字架───第一段ロケット切り離し時に現れる十字状の煙跡───を地上から見上げた後、リフトオフから約530秒でソユーズMS-31は地球周回軌道へ到達する。
この530秒間が航空宇宙開発に際して最も事故の頻発する「魔の時間」である事は、殊に訓練を受けたプロジェクトメンバーで無くとも感覚的に分かるだろう。ほんの微細な綻びが空に悲劇の花火を咲かせることのなきよう、地・空両チームは神経を尖らせる。
斯くして、事態は最初のヤマ場を乗り切りヒリついた空気が綻んだ、正にその瞬間に急転した。
第三段ロケット点火後、ISS(国際宇宙ステーション)とのドッキングを図る為高度400kmを目指す道中、推進エンジンが異常速力で点火。同時に通常も切断され、地上管制はパニックに陥ったのだった。
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そして話は冒頭に戻る。
『あ?』
「あ?じゃねぇよ!お前民間人飛行士だろうが、何お前がちゃっかり仕切っちゃってんだ!」
───事態が事態だからツッコめなかったけども!
あっけらかんとした彼女の様子に、本プロジェクトの通信オペレーターを任された男──ゴールドシップの元トレーナーの頭もようやく冷え、正常な判断力を取り戻していた。
『はぁ〜〜〜ん?民間人だか香港人だか知らねえけどんなこと気にしてる場合かよ!イチバン強ぇ奴がヤマ取り仕切るってのが世の常じゃねえか!』
「どこの世の話してんだ動物園の猿かオメーは!!
『あっはい、ヴィクタです』
「主導権握られてるじゃないですか!アンタ船長でしょ、何か言ってやってくださいよ!」
『いや〜ゴルシ姐さんには敵わないっす。私なんか全然カスで…トーヘンボクで…ほんとに…スンマセン…』
──絶句する。彼はロスコスモス内でも屈指のベテランで、厳格な性格だと周知されていた筈だ。一体この2時間で何があったと言うのか。もはやこれは歴史上初の成層圏外でのハイジャックである。
無茶苦茶な状況に、再びトレーナーの脳内ファンが唸りを上げ始めた。長い付き合い上、思えばこんな事態は初めてでは無い。
「何でコイツが選ばれたんだ…もうやだ…この職場…」
『っつー訳でこの船の主はアタシってこった。なぁオマエら!』
強めに肩パンされたのか、隣に座るニコライ副船長が短くヒッ、と声をあげた。どうやら力関係は明白であるようだ。トレーナーは死んだ目で哀れで不憫な二人に十字架を切る。アーメン。
ここまでの会話の通り、ゴールドシップは民間宇宙旅行者の枠で今回の航行に参加している。トゥインクルシリーズから退いて早6年。凱旋門賞等海外レースで(良くも悪くも)爪痕を残した彼女は世界的にもなまじ名が知れており、ロスコスモス社の募集する民間人飛行士枠選考を余裕綽々で通過するや否や本来最低2年の訓練期間を半年以上縮めてのスピード搭乗となった。疾風迅雷である。
打ち上げ時の垂直Gに対応すべく全飛行士の訓練が義務付けられた遠心シュミレーションにおいては、大抵の人間が失神する9G環境下でアヘ顔ピースをぶちかまし、ムキになった訓練官が12Gまで上昇させるもハンムラビ法典を暗唱し始めるなどの噂に違わぬ変人・超人ぶりを見せた。
これらの奇行をメディアが面白おかしく喧伝したために今回のフライトへの注目は高まりに高まり、ロスコスモス社は度々批判に晒されることとなる。そう言う事情で、驚天動地の破天荒ウマ娘をどうにかこうにかしようと言う目論見の下召喚されたのが、現通信担当、ゴールドシップの元トレーナーであった。
いよいよ頭痛の兆しを見せた彼は助けを懇願する目で後ろを振り向く──が、そこにいたのは青筋を浮かべた局長の姿。
「Я убью вас, ребята, даже если вы в ссоре…!」
怖ぇ────!!!!何で俺が怒られるんだ!!!!!!
当然ガチギレである。彼の斡旋が決まった2年前から必死に習得したロシア語が全く役に立たない。おおよそテキストに載せられないような言葉で罵られたのだろう。尤も、人命が懸かった今現在では無理もない話ではあるが。
ロスコスモス社はかつて、米国との冷戦下において設立されたロシア航空宇宙局を前身に持つ由緒ある国営企業だ。トラブルを起こそうものなら、ゲストであるトレーナーと言えど首を落とすことなど雑作も無い。彼もまた、難関と名高いオペレーター課程を潜り抜けた一端の職員である。下手な真似は許されない。
「…あー、分かった。OKコマンダー・ゴールドシップ。兎に角今ソユーズは手動操作系の故障ってことでいいか?」
『そうだな。システム再起動はさっき試したがウンともスンとも言わねぇんだ。最悪舵が効くようになればな…今の航行データ分かるか?』
「今は10.6キロメートル毎秒、どんどん加速してる。軌道傾斜角は赤道基準で60.8...今61度になった。高度は420キロを突破したから、低軌道上のISSとのドッキングは困難だな。ミッションの中断と地球への帰還を提案する」
『チームゴルシ了解、同意見だぜ。ひとまずこの暴走エンジンを止めなきゃな』
──そうは言っても、実際この状況は絶望的と言わざるを得ない。各細部の不具合ならまだしも、今ソユーズは事実上全電源喪失状態。喩えるなら電源ボタンの効かないスマートフォン。再起動以外に目ぼしい解決策はない。
『って思ってるだろ、トレーナー』
ニヤリ。
唐突な読心術の披露に戸惑う間もなく、意味深な物言いにトレーナーは目を見開いた。
「…あるのか!?解決策が!」
『ふふーん、ゴルシちゃんナメてもらっちゃ困るぜ?アタシの船のことについちゃここにいるオッサン達より知ってらぁ!」
「大ベテランをオッサン呼ばわりするな、失礼だから!」
それにしても彼女の知識量には昔から感服させられる。遠洋漁業の為の大型船舶免許や2級電気工事施工管理技士資格なんかもトレセン時代から取得していた筈だ。まるでどこぞの下町の警察官のようである。
──まあ、それらが活かされたところを見たことは無いが。むしろ悪用して寮の警備システムをバグらせたり、中庭で打ち上げ花火をして窓ガラスを悉く粉砕したり、トレーナー室の扉を蹴破ったり…
…ん?まさか、コイツ…
「待て、待て待て待てゴルシ!!!」
『加賀清瀧派直伝 ────…』
良からぬ未来を察した彼の静止も虚しく、精密機器が密集した操作盤に手が振り下ろされる!
『極技手刀打ちィーーーーッッ!!!』
ガツーーーーーーン!!!!!!
「何やってんだテメェェェェエエエエエエエエエエ!!!!!」
『うるせえ!こーゆーのは大体叩けば直んだよ!』
ガキン!バキン!
これでもかと言わんばかりに手刀が打ち込まれる。回線からは船長と副船長の絶叫が絶えず聞こえた。
「ブラウン管テレビじゃねえんだよ!!やめろバカ!やめろ!やめて下さい!お願いします!オイ!
もうヤケである。ガチガチと歯を鳴らしながらも半狂乱になってゴールドシップを押さえ込む壮年男性2人。内憂外患、阿鼻叫喚の様相は余りに情報量が多かったのか、地上管制官達はあんぐりと口を開けたまま動けなくなってしまっている。
『おっ何しやがんだオメーら!離せ!!アタシには清瀧派を未来の世代に繋ぐ義務があるんだよ!!』
『地球に帰ってからにして下さい!!!』
「この世の終わりだ…」
白目を剥いてよろめくトレーナー。だが────
ピピッ、ヴィィィィン。
『お、直った。』
悲鳴が歓声に変わった。涙を浮かべながら抱き合うプロジェクトチーム。憔悴したまま肩で息をする船長副船長。ガハハと高笑いするゴールドシップ。
この場でただ1人、押し寄せる
【To Be Continued】