「…えーと、つまり?」
「加速は出来ても減速が不可能と言うことです。ソユーズ-MS機は依然、ほぼ第二宇宙速度で航行中です」
「
同僚の懇切丁寧な説明に表情を曇らせるトレーナー。
視界が暗転し意識が遠のく、その間際。トレーナーは著しく処理能力の低下した頭でぼんやりと、
(俺が寝てる間に全部解決しないかな)
などと責任者にあるまじき、しかし確かに同情に値する淡い期待に抱かれつつ事切れていた。
気付けば彼は暖かな風に包まれた夢の世界におり、しばらくの間夢遊と言う名の現実逃避に興じていたのだが、視界に広がる花畑が丸ごと火炎放射器で粉塵と化したのを見て絶叫しながら目を醒ました。
結局彼が失神していたのは数十秒。顔を引き攣らせながらこちらを凝視する管制補佐と視線がかち合い、大丈夫ですか、と尋ねる彼にトレーナーは生返事しか返せなかった。
ちなみに火炎放射器を持っていたのは当然ゴールドシップである。
兎にも角にも、トレーナーの期待も虚しく状況は一向に改善していなかった。システムの再起動には成功したものの、正常に動作しているのは赤外線センサーやレーダー測距離計など、ISSとのドッキング・シーケンスがおじゃんになった今では無用の長物でしかないモノ達ばかり。
『姿勢制御スラスタだけでも生きててよかったぜ、ひとまず舵は効くんだからよ』
対してゴールドシップは相変わらずのほほんとした態度を見せる。それが底なしの知識からくる冷静さなのか、はたまたシンプルに危機感が欠如しているのかを見分ける術は殆ど無い。が、今しがた宇宙開発の叡智の産物をひと昔前の接触不良の家電製品の如き扱いをした後では、果たしてその判断は後者に傾きつつある。
「だからって秒速11キロで大気圏再突入なんて、機体が耐えられる訳が無いだろ」
そうなんだよな、と彼女は返す。
『このままほっといても、他の人工衛星と事故るか数日後に大気圏でポップコーンになってお陀仏。無理矢理軌道を制御してISSに行こうにも減速出来ねぇなら意味がねえ。どうしたもんかね』
「人工衛星との衝突については朗報だ。あと2分40秒エンジン停止が遅れてたらアメリカの気象衛星とニアミスするところだった」
『おっほー、ゴルシちゃんお手柄じゃねえ!?奢りにラーメンと半チャーハンも追加しとけよ!』
検討しておく、とだけ呟いて、トレーナーは黙り込んだ。打開策が見つからない。他の飛行管理メンバーも沈黙を守ったままだ。現状、上空500キロメートル付近を超音速飛行中のソユーズを止める手段はない。太陽光パネルがある限り船内酸素の循環システムはしばらく保つだろうが、それは死を先送りにしているに過ぎない。要するに「詰み」というやつだ。
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『おいおいトレピッピ、なぁに辛気臭くなってんだよ。もっと肩の力抜こーぜ』
はぁ?と間の抜けた声でトレーナーは答える。
「お前、自分の命が懸かってるって分かってんのか?逆に何でお前はずっとそんな平然としてられるんだよ」
『…なんかよ、感動してんだよ、アタシ』
急にしおらしくなった彼女にトレーナーは怪訝な顔をする。先程まで機内が悲痛な振動音と大仰なアラームに打ち震えていたせいか、エンジンが停止した今ではいやに静かに思える。しんとする宇宙船の中、その見てくれの平穏に彼は底知れぬ不安さを感じていた。
「ゴルシ?」
『ウマ娘の走る速度、知ってっか?」
───それ今じゃなきゃダメか?
不服さを噛み潰す。ひとまず、今は素直に答えてやることにした。そうした方が良いと、思った。
「個人差あるが時速60から70キロメートル。サイレンススズカやミホノブルボンはそれ以上出てたようにも見えたけどな」
『そ。まぁアタシは300キロ出して新幹線と並走したことあるけどな』
そんなバケモンがいてたまるか、とトレーナー。だが、往年の春天ではウマ娘の限界を打ち破る光景を目の当たりにしたような気もする。そんな懐古に身を寄せる彼を現実に引き戻すように、ゴールドシップは言う。
『でもよ、今のアタシはどうだ?新幹線や鳥や風どころじゃねえ、音より速くアタシは空を飛んでる。信じられねぇよな』
ビデオ通信は遮断されている。声しか聞こえないはずなのに、なぜかトレーナーには彼女がいたいけな少女のように目を輝かせている様子がはっきりと見えた。
『多分アタシらは生まれっからそうなんだ。この星のどんな生き物よりも速さを追い求めちまう。自分より速く走るヤツなんか見た日には、身体じゅうがウズウズして仕方ねぇんだ』
──だから。
彼女は続ける。
『アタシはもっと速く
ばっ。
拳を頭上に突き上げる。サイドの副船長がぐえ、と鈍く呻いた。狭い船内に体格制限ギリギリのゴールドシップが押し込まれたせいである。
『一か八かの大勝負!最大戦速でぶっ飛ばすぜ!!目指すは遥か地球遠軌道外だ!!!』