ーーー私はこれまで自分という存在に、とても価値があるとは思えなかった。
世界的にも知名度のある貴族家に生を受け、何不自由なく育つことが出来たのは幸せだったと思う。
この世界にはそんな環境の前提の前提すら手に入れられない人々が数え切れないほどいる。
そう考えれば、自分の人生はどれだけ恵まれていたことだろうか。
でも、私の生活に自由時間と呼べるものは存在しなかった。
毎日毎日、礼儀と作法、それから稽古を教え込まれた。
食事の内容も、睡眠時間も、運動量も全てを管理されて、親からも親族からも腫物のように扱われた。
だって私が求められていた役割は、あくまでも『釣り餌』。
他の貴族家の優秀な人間を自分の家に引き込むためのお飾り。
一片でも傷が付いていればもう使い物にならない。
だから、使用人たちは過剰なまでに私の健康に気を遣い、家の庭に出ることすら禁止されていた。
私が赤ん坊のころに死んでしまったという母はどうだったか分からないが、父から愛情らしきものを注がれた記憶なんて一つもない。
縁談をする相手だって、いつも私のことは見ていなかった。
見られていたのはどんな時だって家の力、そしてそれに相応しい振る舞いが出来ているか。
そんな境遇が嫌で嫌で仕方なくて、ひたすらに抵抗をした。
時に稽古から逃げ出し、時に見合いの席から抜け出し、時に親や執事から何を言われても知らん顔をし続けた。
こんなことをし続けたせいもあって、親族からは『出来損ない』、『一族の汚点』などと散々に揶揄されてきたが、家柄を保つ為の道具になるよりは良かった。
そんな息が詰まる生活で、唯一の心の支えだったのは『トリスタンとイゾルデ』の物語だった。
内容は難解で、子どもだった頃の私には風全てを理解することはできなかったが、それでもあの自由な物語には心惹かれた。
私にはない自由な人生、自由な恋。
正直、主人公のトリスタンが死んでしまうラストにはあまりいい思い出がないが私もこの物語のように家を出て、誰かを好きになりたい。
そんな空想を何度も何度もした。
何度も、逃げ出したいと思った。
何度も、全てを恨んだ。
でもそんな日々は、ある日突然終わりを迎えた。
「ーーシャグラン・トリステアと申します。 本日は宜しくお願い致します。」
『運命の人』と呼べる人に、私は出会った。
その翡翠色の少年は、私の心の全てを奪った。
運命の赤い糸なんてこれっぽっちも信じていなかった私は、跡形もなく吹き飛んだ。
子供心ながらに直感した。
彼こそが、私を救ってくれる『トリスタン』なのだと。
だが私の反応とは対照的に、父はあまり好印象ではない様子だった。
「所詮旧知の仲というだけだ。あのような落ちぶれた家柄に興味はない。」
トリステア家の当主は、父と亡き母の友人だったらしくその縁もあって此度の縁談に結びついたらしい。
だが、トリステア家は近年没落傾向にあるらしく見合いの席には使用人の一人も連れて来ていなかった。
きっとそんな余裕すらないのだろう。
私はこの日、初めて父に逆らった。
「あの方との縁談を断るなら私はこの家を出ます!!絶対の絶対にです!!」
たかが子供がこんなことを言っても脅しにすらならないのは分かっていた。
だが、父も初めての娘の反発に度肝を抜かれたのか、彼との縁談を簡単に許してくれた。
父は『所詮子供の恋心。少し放置すれば終わるだろう。』などと考えていたようだが、私の恋心は燃え続けた。
縁談から程なくして、トリステア家が我が家に住み始めることが決まった。
それから毎日彼と顔を合わせ、同じ時間を過ごし、彼のことを深く深く知っていった。
どんなことを喜んで、悲しんで、好いて、嫌っているのか。
どんな顔をして笑って、泣いて、叫んで、怒って、嘆くのか。
彼を知れば知るほど、この心は焦がれていく。
15の時、私たちは正式に交際が認められた。
交際といっても、許嫁という立場上もはや確定事項のようなものだったが、それでもやはり嬉しいものだった。
そしてこの交際をきっかけに、父もようやく彼との関係を認めてくれた。
きっと、もう私に関心がなかったのだろう。
家のことは数年前に生まれた妹に託すつもりなのだ。
私は、彼女と言葉を交わした覚えがない。
そもそも、手を握ったことも、頭を撫でたこともない。
近付こうとするだけで、父は全力で私を遠ざけた。
『イゾルデのような出来損ないにはさせない』、と父が使用人に漏らしているのを小耳に挟んだことがある。
本当に、私はもう邪魔だったのだろう。
親子関係なんてあるようでなかったものだったが、やはり悲しいことではあったし、実の妹を辛い立場に追い遣ってしまったことへの罪悪感はあった。
きっと、この胸の痛みは消えることはない。
でも、シャグラン様は…
「『心は傷つくためにある』、私の父の言葉です。傷を受け入れて、前に進むんです。どんな時でも、私が支え続けます。」
こんな私を、受け入れてくれた。
21の時、シャグラン様が『トリスタン』の名を拝命したのと時を同じくして、私たちは結婚した。
本当に、私たちは『トリスタンとイゾルデ』になれた。
この時、私たちは我が家を離れ新しい屋敷に住まうことになった。
今まで生活していた屋敷に比べれば小さいものだったが、私は満足していた。
使用人も一新して、我が家には新しい使用人たちが来ることになった。
「本日からお二人のお付きになります。ユーリス・エトワールと申します。今後は、何かあれば私に申しつけください。」
彼を筆頭に、5人の使用人が我が家に住み込みで働くことになり、一気に家族が増えたような気がした。
そして、私は今ーーーー
「…くさま…………奥様。」
誰かが呼んでいる。
抑揚はないが、どこが優しさのある声。
毎日聞いている、馴染み深い声質。
「……あら…ユーリス、さん…?」
目の前には、霞んで見えるがいつも通りの厳しいサングラス姿の執事。
見違うはずもなく、我が家の執事長ユーリスがただずんでいた。
どうやら、眠ってしまっていたらしい。
きっと昨日の夜、生花を徹夜でやっていたせいだ。
シャグランの久しぶりの帰宅についつい張り切ってしまった。
寝惚け眼で起き上がると、窓から夕陽が差し込んでオレンジ色になっていた。
何だか嫌な予感がして部屋の大時計を見ると、
「……あれ!?もうこんな時間ですか!?」
時刻はとうに6時を回っていた。
本来なら、もう夕飯の時間のはずだ。
「ああ、折角シャグラン様がお帰りになるというのに私なんてことを……。」
だが一瞬、『夕飯』というキーワードが頭に留まる。
我が家の食事は、基本使用人たちが作ってくれている。
それなのに、目の前には調理を担当しているはずのユーリスがいる。
「ユ、ユーリスさん?今日の夕飯はもしかして…。」
「ああ、そういえば今日は旦那様自ら夕飯をお作りになっていますよ。」
「えっ…!?」
その言葉に、身体の芯から凍り付く。
「何でそれを早く言ってくれないんですか!」
「いえ、見事に爆睡なさっていたので…。」
「それでもですよ!!」
料理下手なイゾルデが何かが出来るわけではないが、それでも疲れているはずのシャグランに料理を任せて自分は寝ているなんて以ての外だ。
「足元にはお気を付けて。」
ユーリスの言葉を背に自室を飛び出してイゾルデは大慌てで厨房に向かう。
「シャグラン様!!」
「ああ、イゾルデ。丁度いいタイミングです。 たった今、夕飯が出来ましたよ。」
ドアを開け放つと、そこにはエプロン姿のシャグランが
テーブルに目を遣ると、アクアパッツァをはじめとした豪勢な料理がテーブルを埋め尽くしていた。
どうやら、既に調理は終わってしまっていたらしい。
「申し訳ありません…シャグラン様だってお疲れ様ですのに…。」
「いいえ、私が好きでやっているんです。どうか気にしないでください。それに、今日は特別な日ですから。私もつい張り切ってしまいました。」
妻としてあるまじき行為をしてしまった自分のことを、シャグランはいつものように優しい笑顔で許してくれた。
シャグランはエプロンを外すと、テーブルに並べられたワイングラスに真っ赤なワインを注ぎ、一つをイゾルデに手渡す。
ワインのラベルに目を遣ると、これは祝いの席で開けていた高級品だ。
「特別な日…ですか?」
とりあえずグラスを受け取ったものの、正直今日が何の記念日なのか、さっぱりわからない。
誕生日でもないし、結婚記念日でもない。
「はい、今日は私とイゾルデが初めて出会って日です。」
彼の言葉に、ほんの一瞬呆気に取られた。
誕生日や結婚記念日、シャグランがコードネームを拝命した日等は全て覚えていたが、初めて出会った日なんて、イゾルデはとうに忘れていた。
いや、本当は頭の何処かでは覚えていたのかもしれない。
だからこそ、さっきの夢であの日のことを思い出したのだろう。
「……シャグラン様。」
「はい。」
胸が、この上なく熱い。
ーー私の恋は、愛は、本当に幸せなんだ。
この胸の、万感の想いを言葉に込めて彼に伝えることがある。
もう何十回も口にした言葉だが、改めて伝えないといけない。
「ーーー愛しています。この世界の、何よりも。」
「ーーー私も同じ気持ちですよ、イゾルデ。」
嗚呼、愛している、彼のことを。
絶対に、黒帆の運命になんか追いつかせてやるものか。
急いで書き上げたせいで雑なところがあって申し訳ないです…