それが起きたのは、様々な偶然が重なったからだ。
例えば、大学の同期との飲み会があって隣にいた奴が咳き込んでいたとか、久しぶりの飲み会で、ついつい調子にのって自分でも自覚があるくらい飲み過ぎたとか。
加えて、酒臭い息で望月の元に帰りたくないと公園のベンチで休憩していたらうっかり寝てしまい、オマケに気がついたら小雨が降っていて濡れていた。その時点で、少し喉に違和感があったのだが、どうせ明日は休みだし寝て起きたら治るだろうと薬も飲まずにそのまま寝てしまった結果。
「ゲホッゲホッ……三十九度超え……マジかよ」
(多分)インフルエンザでは無いものの、高熱で動けなくなっていた。
「も、望月……」
ぼんやりと霞む視界の中で、不安そうな表情でこちらを窺う望月の顔が見える。ああ、そういえばミルクまだやってなかったな。せめてミルクだけは用意しないと。
節々の痛みを無理やり押しやって立ち上がろうとしたものの、情けない声をあげて布団の上にすっ転んだ。
「や、やべぇ……」
熱で目の前が朦朧とする。頭の中がふわふわしていて、意識がはっきりしない。正直、望月のミルクの事がなければ寝ているのか起きているのかも曖昧なくらいだ。これは不味い。悪いがミルクどころじゃない、命の危機をヒシヒシと感じる。
「悪い……そこのボディバックの中に財布があるからとって来てくれ。後、テーブルに置いてあるスマホも」
直ぐに頼んだ物が手渡されたので、財布の中から名刺を取り出す。これは以前、村上さんから貰ったハウスキーパーの事業所の名刺だ。彼女の言葉を思い出す。
「私がよく頼んでる業者のヤツよ。オルトレマーレとは無理だったけれど、観用少女の世話を経験したことのあるスタッフもいるから、どうしても望月ちゃんに手が回せないって時は使ってみるといいんじゃない?」
「あー、もしもし。観用少女の世話を一日お願いしたいんですが。はい、はい、住所は……」
気力を振り絞って電話越しに用件を伝えれば、三十分程で来てくれるとのこと。望月に入口のロックを外してもらってから、念のために管理人さんに来客の連絡を入れれば、問題はないはずだ。
起きているのがしんどくて、直ぐに瞳を閉じれば安心感もあるのだろう、意識が曖昧になっていく。そして約束の三十分が経ったのか人の気配を感じたので、顔を上げると。
「初めまして、お電話いただきありがとうございます。本日お世話になる―――あら、ひょっとしなくても、伊達君?」
「え、その声……喜多さんですか?」
「すいません、望月の世話を頼んだのに、俺の面倒までみてもらって」
「別に構わないわよ。逆に、重病人を見て見ぬふりして観用少女の世話だけしてる方が、申し訳なくなるし。上乗せになる料金も、伊達君との仲だし今回は秘密にしておいてあげる」
額に貼り付けられた冷えピタが心地よい。目を閉じたままで悪いなと思いながらも、意識を保つためにも会話を続ける。
喜多さんは、大学の同じサークルに属していて、三つ学年が上の人だった。なので、接する期間はそれほど長くはなかったものの、思い出は色々とある。
理由は単純、この喜多さんはとにかく世話焼きで、かつ甘やかし上手だったのだ。どれぐらい甘やかすのが上手いかというと、サークル内での喜多さんのあだ名が「母さん」だったことから察してもらえるだろう。
サークル内にいた時も、喜多さんは細々と何かをしていて、手を動かす事を止めることがなかった。部屋には何時も喜多さんが作ったお菓子が置かれていて、喜多さんの隣には悩み相談にのってもらおうとしたり、甘やかされたい男女が常に貼りついていた。あー、そういえば俺が耳掻きに嵌まったのも、手持ち無沙汰だった喜多さんに「耳掻きするの好きなの。やるから膝に頭のせて」って誘われてやってもらったからだったんだよな、懐かしい。
「伊達君」
「っはい、喜多さん」
思い出に浸っていたら、名前を呼ばれて我に返る。
「さっき教えてもらった掛かり付けのお医者さんに電話して、午後から診察の予約とれたから、タクシーも頼んでいいかしら?」
「お願いします」
「後、市販の薬があったから飲めるようなら何か食べられるものつくるけれど、いけそう?」
「重くないものなら」
「それなら……ねぇ、観用少女ちゃんの名前って何て言うの?」
「望月ですけれど……」
「ありがとう。あのね望月ちゃん、貴女のミルクを少し伊達君に使いたいんだけど……いいかしら?」
会話の様子は窺えないが「ありがとう、いい子ね」というやりとりを聞く限り、頷いてくれたんだろ。流石俺の望月、気配りも出来て最高だな。
少しして「どうぞ」と出されたのはパン粥だった。濃厚で旨い、しっかし前に冗談で言ったことを実践することになるとはな。今度蒲生に教えてやろう。
「はい、それじゃあ薬と水はここに置いておくから、食べ終わったら飲んでね。望月ちゃんの事はしっかり見ておくから、伊達君は少しでも早く風邪を治すこと。いい?」
小声ながらも返事をすれば「いい子ねー、素直な子大好き」と頭を撫でられる。子供扱いしないで下さいよ、と言いたいところだが、病気の身には、この優しさと甘やかしに安心する。
食べ終えた食器を片付けてくれる喜多さんの背中を見送ってから、俺は睡魔に任せるままに目を閉じた。
「伊達君、後二十分くらいでタクシーが来るからそろそろ起きて着替えた方がいいわよ」
ゆさゆさと揺すられて、目を覚ます。多少は薬が効いているのか、熱っぽい感覚はかわらなものの、視界はだいぶクリアだ。
起き上がろうとするものの、やけに重い。何だ? と視線を下げれば布団に覆い被さるようにしがみついている望月がいた。
「望月ちゃんね、ミルクを飲んだ後はずうっと心配して、寝てる伊達君の傍から離れようとしなかったのよ。健気ねー」
そうだったのか、悪いことしたなと、俯せのまま身動ぎしない望月を撫でようと手を伸ばしかけた瞬間、とんでもない事を喜多さんが言いはなつ。
「それにしても、観用少女って涙を流すと石になるのね、ビックリしちゃった」
「え……泣い、た?」
「ええ、ほらみて。真珠のようにキラキラして宝石みたい」
綺麗よねーなんて笑みを漏らしながら、喜多さんが掌に『天国の涙』を転がしてくれた。それも七粒もだと!?
「も、望月……」
恐る恐る、望月に触れる。……髪の艶よし、肌も荒れた様子はない。体温もあるし呼吸もしっかりしている。
(よ、よかった……)
顔を上げて具合を確認しても、異常がありそうな様子はない。動かないのも泣きつかれて寝ているだけで、メンテナンスが必要な状態ではなさそうだ。本当によかった。この前、望月にあんな告白まがいなこと言ったばかりで、枯らしたりなんてしたら、一生後悔して生きていくしかない。
「凄く懐かれてるのね、でも女の子泣かしちゃ駄目よ」
「もう二度としません。……あ、喜多さん。これ一粒どうぞ」
「あら、いいの? ありがとう」
「『天国の涙』って言うんですよそれ。もし要らなくなったら『紹鴎』という骨董店に持っていって下さい。そこの今井さんという方が欲しがってるんで」
「へー」
しばらくしてから「ちょっと伊達君、あの値段なに!?」と驚いた喜多さんから電話を貰うことになるのだが……それは数年後の話だ。
だてくんがかぜをひいた。
ねつでくるしそうにしていたのに、わたしはなにもしてあげられなくて。
やってきたおとなのおんなのひとが、だてくんをかんびょうしてあげていた。
だてくんをたすけられないのが、かなしくて、つらくて。
きがついたらないていた。なみだはとまらなくて、だんだんむねがくるしくなる。
このままこわれちゃうのかとこわくなっていたら、おんなのひとが「だいじょうぶ。かぜだから、おいしゃさんにいけばすぐによくなるわ」おしえてくれてなみだはとまった。
おんなのひとのいうとおり、ふつかでだてくんはげんきになってあんしんする。
よかった、うれしい。けれど。
おとなだったら、わたしひとりでだてくんをたすけられたのかな。
おとなだったら、あのおんなのひとみたいに、だてくんにやさしくしてあげられるのかな。
おとなだったら―――。
「きめた」