神の一手   作:風梨

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約8900字



第10話

 

 

 

 

「──名人」

 

 声掛けに気がついて塔矢行洋は振り向いた。

 そこには三大タイトルの一つである『本因坊』の座を守り続ける桑原仁がいた。飄々とした表情にはどことない笑みを感じさせながら歩いてきていた。

 

「おや、桑原先生。おはようございます」

「久しぶりだね、顔を合わせるのは。ちょうどいいから、挨拶もしておこうか」

 

 碁聖戦の挑戦者に自らが決まったと言い放ち『ヨロシク』と言った。行洋も鷹揚に受ける。先輩と後輩という立場の違いこそあれど、それ以上に、現在の棋聖の座を守るタイトル保持者(塔矢行洋)と、その挑戦者(桑原仁)という構図が行洋の物腰に確固たる主軸を添えていた。

 その後もいくつかのやり取りを経て話題は塔矢行洋の一人息子の話へと移った。

 

「そういえば、キミの息子さんはどうしてる? 院生じゃないんだろう?」

「私とはよく打っています。家に来る棋士たちとも打っていますし、碁の勉強には事欠きませんよ」

「ほぉそうかい。そりゃあ良かった。で、プロ試験はまだ受けないの? 随分と前からプロ並みだって噂が聞こえてたけどねぇ。彼、今どうしてるの?」

「ええ……」

 

 行洋は思い返す。

 つい先日の息子とのやりとりを。

 

 

 

 自宅の和室での一幕だった。

 月明かりが照らし出す中で夜の春風が塔矢行洋の頬を撫でる。

 据えてある碁盤には棋譜が並べられていた。

 目の前の盤面から視線を逸らさず、行洋は静かな語り口で声を掛けた。

 

「アキラ。海王中で囲碁部に入ったと聞いた時、私は何も言わなかった。お前の存在が、部の励みになると校長先生に言われた事もあり、お前の好きにさせた。……だが、大会に出るとはどういうわけだ。お前のウデでたかだか部活の大会に出るなどいかにも配慮に欠けよう。お前らしくもない……。いったい何があった?」

 

 アキラは、もう盤面に目を向けていなかった。

 行洋をしっかりと見据えながら言う。

 

「周りを思いやる余裕が、今のボクにはありません」

 

 自身を状況を理解しているアキラの言動に、行洋も棋譜を並べていた手を止めて聞き入った。

 

「進藤ヒカルが部活で大会に出るという限り、ボクは彼を追うだけです。──お父さん。生意気に聞こえるかもしれませんが、ボクの目標はお父さんです。ボクはその自信と自負を、ボク自身の努力で培ってきた。でも、違ったんです」

 

 言葉を切って、手のひらを見つめながらアキラは言葉を続けた。

 

「真っ直ぐ歩いて行けばいいと、そう思っていました。真っ直ぐ歩いていれば、神の一手に近づけるのだと思っていたんです。けど、それはあまりにも甘い考えでした。──ボクは手も足も出なかった。あの、進藤ヒカルに。お父さんとも違う。緒方さんとも違う。彼の存在がボクに重くのしかかる。……今は、彼を追うことだけしか……、ボクの頭の中にはないんです」

 

 戸惑いが渦巻く胸中で見据えるのはあの子供か。

 

「彼は強い。この私に勝つほどだ」

「わかっています。けれど、それが追うのを辞める理由にはなりません」

 

 真っ直ぐとした瞳。恐れながらも立ち向かっていく。そういった目だ。

 その真摯な眼光を受けて、行洋は満足げな笑みを口端に微かだけ浮かべた。

 

「……いいだろう、お前の好きにしなさい。私はお前を応援しよう」

「っ! ……はい! ありがとうございます!」

 

 恐れながら立ち向かっていく息子の姿に行洋は深い満足感を抱いていた。

 それこそが人を成長させる。

 以前のアキラにはなかったものだ。

 震えながらも追い、怯えながらも挑もうとするアキラの姿こそが。

 

 神の一手に近づいてゆく唯一の道であると、行洋自身が知っている。

 

 

 

 ──あの夜の出来事を思い返し終えた行洋は、今度ばかりは機嫌の良い笑みを浮かべた。

 

「……息子は今、中学校の囲碁部にいますよ」

 

 そう言われた桑原は、発言と行洋の嬉しげな表情が結び付かずに一瞬だけ固まった後に首を傾げた。

 

「はて、学校の囲碁部? またなんでそんなところに?」

「はは、近々部活の大会にも出るらしくて。なんでも、私を負かした少年も参加するようなのです」

 

 平然と出てきた刺激的な話題に少しばかり桑原も笑みを深めた。

 

「……あの噂か。いつものホラ話かと思ったが、お前さんの口から出たとなれば真実か。──かっか! 面白い! 出来れば詳しく聞きたいが、タイトル戦が控えているこの状況では、流石に難しいかね?」

「ハハハ、おっしゃる通りですね。どうかご勘弁を」

「ふぉっふぉ。まったく、中々に活きの良いのが育ってるじゃないか」

 

 桑原と会話しながらも、行洋の脳裏にあったのは進藤ヒカルのことだった。

 盤面で向かい合った際の、古豪の棋士を前にした時のような圧迫感。

 凄まじいまでの気迫が伝わってくる姿を思い返す。

 

(それにしても、私にも勝ち、アキラをより高みへと導いていく。進藤ヒカルとはいったい、何者なのだろうか)

 

 天才の一言では片付けられない人物の出現に戸惑いを覚えながらも、どこか興奮している自分を自覚する。

 既に研究会を断られた身なのだから己を諌めるべきだ。そう考える理性とは裏腹に、その眼差しには今まで以上の光が宿っていた。

 

 彼ならば、遅かれ早かれ棋士たちの前に姿を現すだろう。

 行洋はその機会がいつ何時訪れても良いように備えていた。

 

 新たなる脅威に、身を震わせる未来を期待しながら。

 

 

 

 

「──けど、良かったな。あかりも大会出れてさ」

 

 場所は海王中学だった。

 囲碁部の男子の部は加賀を加えて規定人数を揃えられたが、女子は入部者が少なかったため出られるかわからなかった。

 そこでヒカルも力になろうとしたのだが、その前に、あかりは自力で助っ人要員に頼み込んで大会に参加するための条件を満たしていた。

 

「うん! 津田さんが初心者だけど、やってみてもいいって言ってくれたんだ。金子さんもバレー部との兼部なら大会に出てもいいって言ってくれて。ほんとに嬉しかった。──私たちも優勝目指して頑張るね!」

 

 フンスと鼻息荒く気合い十分なあかりに触発されて、ヒカルも拳を握った。

 

「ああ、目指せ打倒海王! だな!」

「うん!」

 

 ヒカルと拳を合わせた後に、あかりは得意げに言った。

 

「お弁当も作ってきたから、みんなで食べようね」

「おぉ! お前えらい!」

「えへへ、でしょ」

 

 あかりと仲良く談笑していると葉瀬中メンバーが続々と集合してくる。

 相変わらず強気に笑みを浮かべる加賀と、控えめに笑っている筒井だった。

 

「おうおうおう、相変わらず来るのが早いじゃねーか、小僧」

「あはは、おはよう。進藤くん、昨日は眠れた? ボク、今日が楽しみすぎてちょっと寝不足だよ」

 

 そう言って、筒井はメガネをズラして少し眠そうに瞼を掻いていた。

 

「ったく、お前は遠足前の小学生かよ」

「しょ、しょうがないだろ! 去年は僕たちが海王を倒したんだ……。失格になっちゃったけど。でも、今回も前回と同じメンバーだし、ボクは去年と比べてもずっと強くなってる。また勝てるかもって思ったら、もう楽しみでしょうがないよ!」

 

 興奮して捲し立てる筒井に、加賀も強く否定はできずに頷いた。

 

「……ま、小僧が負けるとこは想像できねーから、1勝は確実だからな。とゆーか、前回と同じがいいって理由で大将じゃなく三将を選ぶなんざ、変な小僧だぜ、まったく」

 

 悔しげに顔を歪めながらも、ヒカルのことを認める加賀の物言いだった。

 

「へへっ、海王戦が楽しみだね、加賀、筒井さん! 海王の三将ってどんな奴かな?」

「おまっ、前から思ってたけどよ、なんでオレだけ『さん』が付いてねーんだよ!」

「あいたた! だって、加賀は加賀だろ!?」

「理由になってねーだろが!」

 

 わいわいと、去年とは違って騒ぎ立てている(ヒカルの中では)葉瀬中の面々に近づいてくる影があった。

 艶やかな黒髪に、ぴっしりと制服を着こなした少年。

 

「──ボクだよ。海王の三将はボクだ、進藤」

 

 声は背後からした。

 ヒカルが振り返れば、そこには塔矢が立っていた。

 この日を待ち望んでいたと語るように、瞳には強い光が宿ってる。思わず一歩引いてしまうくらい強い眼光だった。

 

「塔矢……。なんでお前が? プロを目指す奴は囲碁部になんか入んないはずだ。なのに、お前が海王にいて、しかも三将……?」

「ボクと打たないと言ったのを覚えてるか?」

 

 理科室でのことだろう。思い出してヒカルは頷いた。

 

「……ああ」

「ボクはキミと同じ立場になった。キミは言った。囲碁部で大会に出るんだと。だから、ボクも海王の囲碁部として大会に参加した。──やっとここまで来た」

「……塔矢、お前そのために?」

 

 アキラは頷きで応えた。

 ここまで来ることは簡単じゃなかった。

 海王中学は実力主義だ。当然ながら順位は実力順で、本来ならアキラは大将だった。

 

 だが大将では三将のヒカルと戦えない。それでは囲碁部に参加した意味がない。だから先生に無理を言って三将に変えてもらったが、その条件は厳しかった。この大会が終われば退部する。そう明言しなければ変えてもらえなかった。この一戦だけでいい。この一戦にすべてを賭けているんだと伝えることができなければ、先生は三将となることを許してくれなかっただろう。それほど大きな決断を塔矢は先生に求めた。

 

 全てはヒカルともう一度対局するために。

 

 ただそれだけのためにアキラは前回の対局からの約半年間努力し続けてきた。

 二度の敗北で得た経験を元に必殺の刃を研いできた。

 この日のためだけに。

 たった一局のために、全てを注いできた。

 

「今日は、前のような負け方はしない」

 

 身体が震えるほどに力がこもる。

 だがもしこれで無様に敗北して仕舞えば、どうすればいいのか。この瞬間まで考えたこともなかった恐怖が一瞬だけ塔矢の脳裏を過って──、ポンと肩を叩かれて我に帰った。

 

「塔矢、随分肩に力が入ってるのね。あなたの言ってた進藤ヒカルって、その子?」

「日高先輩……。はい、そうです」

「へぇそう。キミがねぇ」

 

 ショートカットの少女が勝気な笑みを浮かべる。塔矢の先輩である日高だった。

 余裕の微笑みを浮かべながら日高は続ける。

 

「塔矢が追いかけるほどの相手がいるなんて。面白いわ、キミと塔矢の一戦が楽しみね」

 

 毅然とした立ち振る舞い。

 王者としての風格漂う海王中の女子大将の姿だった。

 

 葉瀬中の女子大将である、藤崎あかりはいずれぶつかる対局相手の貫禄に生唾を飲んだ。

 海王囲碁部の女子大将。

 あかりが勝利しなければならない相手が、日高だった。

 

 あかりは友達の二人を囲碁部に引っ張ってきた。無理を言ってきてもらった。友達の二人は乗り気だったが、それでも誘った身として、葉瀬中の大将として不甲斐ない対局だけは見せたくない。

 葉瀬中と海王中。

 双方共の高まる緊張感を目にした周囲が興奮して騒ぎ立てる猥雑とした声が室内を埋める中で、筒井は改めて進藤ヒカルがどれほどの人物なのか悟って息を呑んだ。

 

「塔矢アキラが三将……。進藤くんを追って……」

「あいつの言い方を考えるに、間違い無いだろうな。……けっプロなんざいつでも成れるってか。相変わらず嫌味なやろーだぜ」

「進藤くん……」

 

 心配そうに呟く筒井を余所に、向かい合うヒカルとアキラの二人。

 前哨戦としての、舌戦かと思い身構えるヒカルを前に、アキラはそれ以上何も言わずに背を向けた。

 

 後の全ては盤上で語る、とでも言いたげな様子にヒカルは思わず一筋の汗を流した。

 

 半年前。

 塔矢アキラは佐為に一刀両断された。

 けれどそれはアキラが弱かったからではない。

 むしろその逆だ。

『あの佐為』が手加減すれば負けると判断したから手を緩められなかったのだ。

 

 あの時点でそれほどまでに佐為に肉薄した塔矢が、半年間打倒ヒカル……いや。打倒佐為を目標にその牙を磨き続けてきた。

 そんな恐ろしい事実に今更ながら気づいてヒカルは佐為を仰ぎ見た。

 

(佐為。……勝てるよな?)

『さて、どうでしょうか。私はこの半年間でヒカルとあかりの指導に力を入れてきましたが、彼はその間ずっと己の力を磨いてきたハズです。楽しみですね』

(こんな時に楽しみですねって、お前なぁ……。負けるのはごめんだぜ、佐為)

『ええ、もちろん。やるからには勝つつもりでやりますよ、私は』

 

 メラメラと闘志を燃やすいつも通りの佐為の姿にヒカルは少しだけ余裕を取り戻して苦笑いした。

 そして係員の男性からの声が掛かる。

 

 

「大会を始めます。1回戦男子。川萩中・対・田井中。葉瀬中・対・岩名中。海王中・対──」

 

 葉瀬中の1回戦は3-0での快勝。順当に勝ち上がった。

 当然という顔をする加賀。

 ホッと一息を吐いた筒井。

 この後に控える塔矢を見据えて少し固い表情のヒカル。

 三者三様の様子を見せていた。

 

 

 そして塔矢アキラ。

 アキラは1回戦では非常に丁寧な碁を心がけていた。

 少しでも高ぶる気持ちを鎮めるために一手一手に時間を掛けて打った。

 

 この後に控える対局相手は進藤ヒカルだ。付け入る隙を与えれば途端に首が胴から離れるだろう。

 アキラにはその確信があった。はやる気持ちを押さえつけるように一手を丁寧に重ねる。

 これまでに積み重ねたものをぶつければ良い。

 そう思いながらも心とは不思議なもので、気にしないように思えば思うほどに強く意識してしまう。

 

 掌を固く握りしめる。

 今日こそは進藤ヒカルに勝つ。

 その一念を掴み取るように。そして終局を迎えた塔矢に、話しかける男性がいた。

 

「随分と一手一手がゆっくりだったな、塔矢」

(ユン)先生。……少し気持ちを落ち着かせようと、思いました」

「そうか。葉瀬中は3-0で勝ったよ。さすがは去年私たちを下したメンバーだった」

「進藤の対局を見られたんですか!? どうでした?」

 

 その返答に尹は苦慮した。

 進藤ヒカルは強かった。だというのに、何故苦慮する必要があるのか。

 それには、塔矢アキラが三将になるまでに経た、海王中学囲碁部の事情があった。

 

 当初、塔矢アキラは大将だった。

 任命したのは(ユン)だ。海王中学の伝統を守るために、尹は塔矢を大将に任命した。

 王者は堂々としていなければならない。勝つために、故意に実力者を三将にするなど、序列を歪めるなどあってはならない。──確かに、実態は違う。進藤ヒカル(強者)塔矢アキラ(強者)を当てようとしているだけだ。だが外野から見れば、勝つために策を弄して、実力者である塔矢アキラを三将にしたように見えてしまう。

 

 だから尹は塔矢アキラを大将にした。

 本人からの抗議を受けた時も、塔矢を大将とした自分の判断に間違いはないと確信していた。塔矢一人の問題ではないからだ。

 だがそれも、塔矢自身のあまりにも強い要望を受けて、渋々ではあるが、三将となることを許した。そういった経緯があった。

 

 そして、ヒカルの碁を目にした尹は揺らいでいた。前回のヒカルがマグレの勝利などではなかったと再確認した。塔矢以外に勝てる者は海王中に存在しないと断言してもいい。

 尹の指導は伝統を守るものだった。それは正しい判断だ。だが王者は勝利しなければならない。策を弄するものではない。強者と強者の対局によってのみ得られる勝利。その勝利のためには、三将になるために退部まで懸けたアキラの判断が正しいのだ。

 

 だというのに、結果に関わらず退部という厳しい条件を塔矢に突きつけた自分が、今更どの口で応援するのかという迷いが口を濁らせる。

 それでも尹は教師だった。個人としての気持ちを飲み込んででも、教師としてかけるべき言葉はわかっていた。

 

「……そうだな。キミを三将にした判断は正解だった、と言わざるを得ない。それほどの対局だったよ」

「……では!」

「心して掛かった方がいい。いや、私に言われるまでもないだろうが……。それほどの打ち手だよ、彼は」

 

 緊張感すら伴って告げる尹先生の姿を見てアキラは武者震いが止まらなかった。

 退部のことも既に頭にはない。

 今アキラの頭の中にあるのは進藤ヒカルのことだけだ。

 彼と三度(みたび)相見えることが嬉しくて仕方がなかった。

 震えながらも、恐れながらも、塔矢が浮かべる表情にはしっかりと喜色が滲んでいた。

 

「先生。ボクはこの日のために鍛錬を積んできました。必ず、必ず勝利して見せます!」

 

 その純粋なまでに勝利を求める塔矢の姿は、尹の心残りを振り払うに十分だった。これほどの覚悟と喜びを見せている若い棋士に、遠慮など不要だろう。

 応援しよう、心から。

 その気持ちで尹は精一杯の言葉を繋げた。

 

「ああ、彼に勝てるとすれば、それは塔矢。キミだけだ。……初めはキミを大将に任命した者が、こんなことを言うのは筋違いかもしれない。だが、海王中が優勝するためにはキミの力が、塔矢アキラの力が必要だ。──頼んだぞ」

「ハイ!!」

 

 勢い良く、戦意漲らせて塔矢は答えた。

 

 そしてお昼休みとなる。

 一人で席に座ったままの塔矢に、日高が声を掛けた。

 

「塔矢、お昼食べないの?」

「あ、日高先輩。ボクはちょっと」

「そう?」

 

 塔矢に断られて少し残念そうにする日高に、同じく3年の、囲碁部の大将である岸本がひっそりと話しかけた。

 

「日高。お昼の前にちょっといいかな。内密で聞いておきたいことがある」

「? ええ、いいわよ」

 

 物陰に消えていく二人。

 そしてヒカルはと言うと、あかりとちょうど話していた。

 表情を少し曇らせながら。

 

「ヒカル、お弁当! みんなで食べよ。葉瀬中は男子も女子も一回戦突破だもん! 次に備えなきゃ!」

「んー、いや。オレいーわ。わざわざ作ってくれたのに、悪いな」

「え。いいって……」

 

 驚くよりも先に、不思議そうなあかりの表情に思いを巡らせる余裕はヒカルにはなかった。

 塔矢を意識してのことだった。

 佐為が負けるとは思わない。

 だが、この半年間で塔矢がどれほど強くなったのか。

 無策で向かってくる奴じゃない。

 きっと腹案(ふくあん)がある。

 純粋な実力だって向上させただろう。

 

 ヒカルも強くなった。

 だが、佐為にはまだ勝てない。

 もし塔矢が佐為に勝ってしまうようなら。

 あるいは、さらに隔絶とした才能の差を見せつけられてしまったら。

 

 そう考えてしまって、とてもではないが食事は喉を通らなかった。

 考え込みながら当てもなく海王の校舎を歩けば、とある会話が耳に入った。

 

 

「──岸本くん話って。もしかして、告白とか?」

「バカなことを言うな、日高」

「あはは、ごめんごめん。塔矢がイジメにあってたことでしょ?」

「……塔矢は、確かに部で浮いた存在だったが、やはりホントだったか」

「ええ。三人がかりで塔矢に目隠し碁をさせて、恥をかかせるか、囲碁部から追い出すか、したかったらしいわ。私がたまたま止めに入ったんだけどね、運が良かったわ。私も、塔矢も」

 

 強気な姿勢を漂わせて日高が続けた。

 

「でもね。仮にどんなに恥をかかされたって、塔矢は囲碁部を辞めなかったでしょうね。彼ってアレでいて頑固なところがあるから」

「ふっ、だろうな」

「進藤ヒカル。……彼の対局を見たわ。女子の部とは少し時間がズレてたから見れたんだけど、途中までね。……塔矢があそこまで執着するのもわかる気がする」

「何? オレは残念ながら間に合わなかったが、それほどだったのか?」

 

 静かに頷いて、日高は続けた。

 

「対局相手がそこまで強くなかったから、正確なところまではわからないけれどね。恐らく塔矢と互角の実力。だけど、楽観的な事を言えば塔矢の方が有利かしらね。進藤ヒカルが妙に古い定石を使っていたから、序盤にかなり追い込めそうなの。……でも、その実力は十分。終盤以降のオオヨセ(終盤戦の初期で十目以上の大きいヨセ)が凄まじかったわ。──進藤ヒカル、塔矢アキラ。きっと、これから先の時代を担う二人なんでしょうね」

 

 語尾に嫉妬を滲ませる言葉だった。

 岸本は意外そうに目を見張る。

 

「キミらしくもない。竹を割ったような普段の振る舞いから、想像もできない言葉だね」

「あら、私だって乙女なのよ? 少し沈んだ気持ちになることもあるわよ」

「そうだな、失礼した」

「いいわ、他ならない岸本くんだもの」

 

 くすりとした笑みすら溢す余裕の女王の姿に、岸本も肩をすくめた。

 

「……塔矢は、今回の大会。(ユン)先生に逆らってまで、進藤と同じ三将になった。今日限りで囲碁部をやめることを条件にして。──塔矢も自分の身勝手さを承知しているだろうから、あいつも辛かっただろう。心中を察するよ。──それでもなお、『一度きりでいい!』と尹先生に食ってかかった塔矢の顔。今でも鮮明に思い出せる」

 

 過去を思い出しながらの岸本の言葉に、日高がぽつりと本音らしきものを溢した。

 

「……それ、ちょっと見たかったかも」

「おや、日高が年下好きだとは思わなかったよ」

 

 猫をかぶるのはお手のものか、すぐさま表情を取り繕った日高は余裕の笑みを浮かべる。

 

「あら、乙女の秘密を暴こうなんて、いけない人ね。岸本くん」

「そうだな。──だがまァ何にせよ、塔矢が居なくなれば囲碁部も落ち着くだろうが」

「そんなこと言って、岸本くんが一番残念がってるくせに。知ってるのよ? 塔矢と誰よりもあなたが打ちたがっていたってね。立場上どうしても難しいってボヤいてたんでしょ? まぁあの一度だけじゃ満足できないわよね」

 

 あの一度というのは塔矢に頼んで打ってもらった指導碁に近い対局のことを指しているのだろう。だが、あの話はあまり他勢には知られていないはずだが。

 

「参ったな、誰に聞いたんだ?」

「内緒。さ、そろそろ戻りましょう。もーお腹ペコペコよ」

「……そうだな。早めに昼食を済ませてしまおう」

「ええ」

 

 だがやられっぱなしは岸本の沽券に関わる。

 

「途中の自販機でよければ、何か買おうか」

「あらいいの? 気が利くわね」

「貴重な時間をもらった、せめてものお礼だよ。『いちごオレ』でよかったかな?」

 

 日高は竹を割ったような振る舞いとは裏腹に意外と少女趣味だ。それを隠しているのも、岸本は知っていた。

 

「……あなたも中々のようね? 岸本くん」

「ははは、キミほどじゃないよ、日高」

「はははは」「うふふふ」

 

『仲良く』笑い合う男女を見送りながらも、ヒカルの内面は塔矢のことでいっぱいだった。

 

「イジメねえ、まあ当然かもな。アイツ、自分のことしか考えてねーから。……それくらい、佐為のことを追いかけてんだ」

『三将になるために、頭まで下げていたんですね。あの子なら当然、大将でしょうからねえ』

「そこまでしないよ、フツー。お前のことしか頭にないんだ、アイツ」

 

 それを改めて自覚してヒカルは少し寂しいような気持ちになった。

 少しだけ、ほんの少しだけ、自分で打ちたいとも思っていた。

 佐為には悪いと思いながらも、ほんの少しだけ。

 

 だけど、そこまでして佐為を追いかけている塔矢のことを知ってしまえば、もうそんなワガママなんて言えない。

 

 ──それでも、ヒカルはあえて伸び伸びと笑った。

 他でもない、佐為を信じているから。

 佐為はすごいヤツだ。

 いっぱい、いっぱい、コイツに打たせてやろう。微かな胸の痛みを忘れるように、ニヤリと挑発的な笑みを佐為に向けた。

 

「佐為。負けらんねえ理由が増えたな。ここまで追っかけて来たんだ、生半可な打ち方じゃ塔矢は納得しねーよ、大丈夫か?」

『ええ、心して掛からねばならないでしょうね。彼のこれまでの努力に応えるためにも、私たちも全身全霊で立ち向かいましょう。さぁヒカル、準備はいいですか?』

「ああ」

 

 頷くヒカルと佐為は心の深いところで繋がっている。

 

 だから佐為はヒカルに深い感謝の念を抱いていた。

 打ちたい欲求をヒカルが堪えている事を察していたから、尚のこと、その感謝は深かった。

 

 ヒカルは佐為のことを尊敬して信じている。

 始めはただ強さに圧倒されて対局を重ねる都度、次第に尊敬に変わった。

 そして去年の海王戦で得た素晴らしい一局を契機に気の置けない親友のような存在になっていた。

 

 ヒカルは一歩を踏み出していた。佐為は心を許していた。

 色々な意味で重要な一歩を、『神の一手』に近づくその一歩を、人知れずに。彼ら自身ですら気が付かないうちに。

 

 

 

「──第二回戦を始めます。海王と葉瀬。阿由と田井。浜地と──」

 

 ヒカルは向き合っていた。

 対面に腰掛ける、海王の三将、塔矢アキラと。

 

 塔矢は真っ直ぐにヒカルを見つめている。

 ヒカルもその瞳を見つめ返した。

 

 佐為の代わりになる。

 そのつもりで力強い瞳を返した。

 

「始めてください」

 

 そして、三度目の戦いの火蓋が落とされた。

『四人』にとっての、運命の一戦が始まる。

 

 そして誰もが初めて目にするだろう。

 ──『ヒカルの碁』を。

 

 

 

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