第1話
駅前の碁会所。
市河は顧客対応をしていた。
お茶を汲んだり、レジ打ちをしたり、指導碁の案内や初めて来店した顧客が打つ相手の選定や紹介などが主な業務内容だ。
今は来店した常連客の受付業務をしている。
フンフンと鼻歌を歌いながらご機嫌な様子だった。
「──どうしたの、いっちゃん。随分とご機嫌だね」
「やっぱりそう見える? ふふふ」
「あ、ああ」
少し赤に染まった頬に手を当てて、想いを馳せている姿は少しばかり関わり難い。
なんだか話しかければ最後、と思わせる仕草だった。
常連客は危険を察して何も聞かずに受付を離れた。
そこに犠牲者1号が現れた。
塔矢アキラのことを以前から先生と呼び指導碁を受けていた広瀬だった。
人が良く普段から『のほほん』としている。
しかし今日は打って変わって興奮した様子だった。
広瀬は入口を潜るなり、普段とは少し様子の違う市川にも気が付かず急いで口を開いた。
「ちょっとちょっと、今朝室井さんから聞いたんだけど! ホントなのかい? 市河さん! アキラ先生がプロ試験受けるって! 私はそれを聞いていてもたっても居られなかったよ!」
「あら、広瀬さんこんにちは。ええ、本当よ。アキラくんから、私も聞いたわ」
アキラくんから、という部分を鼻高々に強調する市川にも気が付かない。広瀬は目を輝かせた。
「ホントなんだ! うわーっ、ビッグニュースじゃない! これは来年から囲碁界が楽しみだ! 何せずっと前からプロ並みって言われてたのに、アキラ先生の希望でプロにならなかったんだから! いやー、それにしても突然だね! てっきり今年も受ける気がないと思ってたのに」
「ホントにそうよね。でも、アキラくん、最近スゴく近寄りがたい雰囲気あったじゃない? それがね、もうまったくゼロよゼロ。昔に戻ったみたいに、いえ、それよりもずっと接しやすくなったの」
「へぇ何かあったのかな、アキラ先生」
「ふふふ、いいわ。広瀬さんには話してあげる」
「え! 市河さん事情を知ってるの!? ぜひ聞かせてよ!」
ワクワクとした面持ちでそう聞いた広瀬と共に周囲も聞き耳を立てた。
聞きたいとは思っていた。
ただ、自分が犠牲になるのは避けたいとも思っていただけで。
そんな思惑で今の今までずっと待っていた市河が得意げに話し始めたのは進藤ヒカルを追いかけていた塔矢アキラの物語だった。
1年前の敗北から始まって修練を経て三度の再戦。
そして三度の敗北。
『悔しいけど、でも、確かに差は縮まっていたんだ。ボクの努力は間違っていなかった。彼というカベを超えるために必要なものも理解できたから、ボクは進むよ、市河さん。彼のライバルとして、より相応しい打ち手になるためにもね』
堂々と言い放ったアキラの瞳には少年特有の輝きが含まれていた。
それを思い出して市河は嬉しそうに笑った。
そしてその時に提案して了承を貰った、長い長い話が始まった。
「それでね、広瀬さん。アキラくんったら──」
ただその話はあまりにも長いので割愛する。
終始頬を赤く染めながら、10分以上にも渡るその話の最後に、市河はそれだけ言えば大体の話の内容がわかる言葉を続けた。
「『先生じゃなくて。市河さんにはこれまで通り呼んでほしいよ。碁会所に行きづらくなっちゃうから』って言うの♡──イヤ〜〜ン♡もちろんよ、アキラくん〜〜♡♡♡」
「へ、へぇ。そうかい、よかったねえ」
ようやく口を挟むことができた広瀬の安堵も束の間に、市河の説明はループした。
「そうなの! アキラくんったら──」
あ、これ終わらないやつだ。
ようやく危険に気がつき、思わず遠い目をした広瀬を尻目に、市河の話に聞き耳を立てていた周囲はそそくさと盤面に向き直った。
触らぬ神に祟りなし、である。
ところ変わって場所は多目的ホールだった。
囲碁関連のイベントのために借りられた施設で、今日は盤面解説が執り行われていた。そんな場所で、今日はヒカルも佐為を連れ立って訪れていた。その表情に若干の不満を滲ませながら。
「──佐為。お前最近、ちょっとワガママじゃないか?」
そんなヒカルが見上げる先では、扇子を握りしめた佐為が大きな身振りで首を振っていた。
『そんなことありませんよ! ヒカルが言ってくれたんじゃないですか、いいもん経験させてくれたから、好きなことさせてやるって! だから、こうして筒井さんに誘われたプロの大盤解説を見に来たのに、ヒカルってば途中で席を離れちゃうんだから! もうっ!』
ぐうの音も出ないとはこのことで、ヒカルは頬を掻いてみせる。ちょっと試しに言ってみただけなのだが、思ったよりも本気の抗議が返ってきたので困った。だが佐為の囲碁好きを考えれば当然だったかもしれない。
ヒカルも囲碁を見るのは嫌いじゃない。なのに、プロ直々の大盤解説をふいににしてまで会場を出た。と言っても会場を出たのは結構衝動的だった。会場での事を振り返りながら、素直に理由を話す。
「あー、悪かったって。だって、塔矢と佐為の碁に比べたらさー。あんまり面白くねーんだもん」
『それは、贅沢なこと言いますね、ヒカルも。けど、きっとそれだけじゃありませんよ。あの者の闘志とでも呼べるものに感化されて、きっとそれがヒカルは楽しかったんだと思います』
「……そーかもな」
あれから、風の噂で塔矢がプロ試験を受けると聞いた。
宣言通りプロになろうとする塔矢に相変わらずだと苦笑いしながら、けれどヒカルはプロ棋士になる気はなかった。
『でもでも、ホントに碁会所にも顔を出さないんですか? ちょっとくらい、塔矢と打ってもいいと思いますケド……』
「あのなー、あんな堂々とプロで待つ宣言した奴のとこに、どの面下げて院生でもないアマチュアのオレが打ってくれ、なんて言いに行けるんだよ! そりゃ断られやしないだろうけど、なんか恥ずいだろ! オレはそれがやなの!」
『もうっ! ヒカルの方がずっとワガママじゃないですかっ』
やいのやいのと騒ぎながら、ヒカルはロビーに出た。
色んな人と打ちたい気持ちはある。
佐為がどんな碁を打っていくのか興味はある。
だけどプロになるなら話は別だ。
期待してくれている塔矢には悪いが、将来の夢を決断するには囲碁暦一年半じゃ短すぎる。
高校を卒業してから考えればいいか、とヒカルは呑気に構えていた。
「お、あっちではパソコンで碁打ってら」
騒ぎ続ける佐為を置いて、少し興味を惹かれてヒカルは足を運んだ。
小学生くらいの子供がパソコンに向き合って囲碁を打っている。
その様子を眺めるヒカルに声がかかる。係員の男性だった。
「ねぇキミ、家にパソコンある?あるならぜひオススメだよ、ネット碁」
「あー、ないです」
「そ、そっかあ。そうだよね、ないよね……はは」
対局画面を見ながらヒカルは受け答えしていた。
ピコピコとテレビゲームみたいな画面に囲碁が映ってるのが少し不思議だった。
佐為と出会う前なら3秒で飽きていたに違いない。そう考えると、今では食い入るように見てるんだから少しおかしかった。
「じゃあ、インターネットとかにはキョーミないかな? あはは」
男性は誤魔化すように笑ったが、ヒカルは単語の一つが気になった。
「いんたーねっと?」
「うん。ホラ、これ。今この子がちょうどインターネットで対局してるんだよ。この子が黒で……、ホラ、今相手が白石を打ったろ? 次にこの子が黒石を打つ。ね?」
そんなことが出来るのか、と感心していたが対局内容がちょっと酷かった。
少年が打った次の一手にヒカルが顔を引き攣らせた。
あんまりの大ポカだった。
(おいおい、そんなとこ打ったら大石取られるぞ。あ、ホラ取られた。ったく何やってんだよ)
少年はそのことが頭に来たようでパソコンを叩いてゲームを中断してしまった。
ヒカルが『あっ』と言う間もなくそのままどこかへと走り去っていく。
子供の悪い面を見せられたような光景だった。
「ああっ! 何するんだ! これはTVゲームじゃない! 相手がちゃんといるんだぞ!! ああもう! すぐ謝らなきゃ、えーっと『すみません、勝手にゲームを中断し──』……あ。先に書かれた……」
係員の男性がそう言うので覗き込んでみると、そこには相手が書いたであろう発言が載っていた。
『テメーッ! オオイシトラレタカラッテキルナ! バカヤロー!!』
「うわーっ、オモシロいね!」
「ははは、そう言って貰えてよかったよ、うん。──向こうの人は子供かな?」
「子供? コイツ子供なの?」
「ああいや、実際のところわからないけどね。このセリフといい、登録名といい、子供じゃないかなと思っただけだよ」
「登録名?」
「インターネットの中で使う名前さ。ほら、これが相手の登録名」
「Zelda? ふーん、確かに子供っぽいかも」
ふんふんと頷いているヒカルに、ちょっと意味ありげに笑いながら係員の男性は続けた。
「──だけど、インターネットはカオも年齢も本名も表に出ないから、本当のところはわからないんだよ。もちろん、子供も利用するけど……。子供だけじゃなく外国の人だってホラ……、JPNが日本、CHNが中国、CANがカナダ、USAがアメリカ、GERがドイツ、たくさんいるだろう? それに大半はアマだけど、中にはプロの人がお忍びで打ってたりもするんだ。お遊び半分だろうけど、運がよければプロとだって打てる。そう考えると、ネット碁も面白いだろ? ネット碁で強くなりすぎて、アマの人が、あなたはプロですか、なんて聞かれる、っていう夢物語もあったりするんだよ」
「あはは、確かにオモシロそうだね」
「まぁ現実的じゃないけどね。ところで、どう? キミもやってみないかい? パソコンがあればどこでも出来るよ。最近はインターネット喫茶も増えてきたし、手順や操作はカンタンで……」
プロとも打てるかもしれない。
それに不特定多数の世界中の相手と名前を隠して打つことが出来る、というのはヒカルには魅力的に映った。
そこでなら、ヒカルも打つことが出来ると思った。
詳しく説明を聞いてみれば、ネット碁の中にも段位があって勝てば勝つほど強い人と打てるシステムになっているようだった。
それを聞いてヒカルは表情を明るくさせた。
碁会所に行く必要もない。
匿名だから前みたいに塔矢名人に捕まったりすることもない。
時間の都合も自分に合わせる事が出来て、何ならあかりと一緒に遊ぶことも出来るかもしれない。
そう思ってヒカルは佐為がびっくりするほど熱心にネット碁のやり方を聞き始めた。
「──ワールド囲碁ネット? ここにアクセスすればいいの? でも私、パソコンは出来ても碁のことはさっぱりよ。手伝えないわ、きっと」
場所はインターネットカフェだった。
ネット碁の方法を学んできたヒカルはさっそくお店に来店していた。
「大丈夫。対局の仕方はオレ教わってきたから、世界中の人と碁が打てるんだ」
「世界中って……キミ英語できるの?」
訝しげに尋ねるお姉さんに、ヒカルが自信満々に言った。
「英語なんて出来ないよ。オレ、中学生だよ?」
堂々とそう言い放ったヒカルだが、発言が自慢げに言う内容ではない。思わずお姉さんは苦笑いした。
「ああ、うん。そうよね。私の弟もちょうど中1なんだけど、勉強してるのかしら?」
「へぇそうなんだ。オレ葉瀬中の1年だよ」
パソコン画面と向き合いながらのヒカルの一言にお姉さんは『びっくり』と言わんばかりに表情を一変させた。
「え、嘘。私の弟も葉瀬中よ。三谷裕輝って言うんだけど、知らない?」
「ん〜〜〜。中学も結構クラス分かれてるから、ごめん。わかんないかも」
「そっかぁ。学校でどうしてるか気になってるのよね〜。あ、そうだ」
そう言って、お姉さんはこそこそっとヒカルに耳打ちした。
「今は夏休み中でしょ? その間、ナイショでお金なしでインターネット使わせてあげる。私のいない日はダメだけどね。だから、夏休み終わったらこっそり私の弟の様子見てきてくれない? ちょっと気になるのよね」
「様子見? ……まぁそんなので良いなら」
「お、契約成立だね。じゃあ、世界中の人との囲碁を楽しんでね」
そう言って背中越しに手を振って去っていくお姉さんを見送った。
ヒカルはさっそくパソコンに向き合って表情を輝かせた。
後ろで佐為も目をキラキラさせながらはしゃいでいる。
『ねえねえヒカル。好きなだけ!? ホントに!?』
(ああ、もう。そう言っただろ? 碁会所は勘弁だけど、このくらいはな。あと! オレも打つからな! ……名前は変えるけど。とりあえずお前のアカウント作るか)
名前は『s』『a』『i』を並べて。
──『sai』
その日から、お姉さんが居るときはインターネット喫茶に入り浸って、お姉さんが居ない日はあかりと打ったりしてヒカルの囲碁尽くしの夏休みが始まった。
そして世界中がインターネットを通じて一人の存在に気がつき始める。
ネット上で生まれた、伝説的な棋士の存在。『sai』の存在に。
アメリカ。オランダ。中国。韓国。
国境を超えて世界中にその存在が知れ渡ってゆく。
そして、国際アマチュア囲碁カップの開幕が間近に迫っている現在。
様々な思惑を胸に日本に世界中の棋士たちが集まってくる。
その誰もが『sai』という名を心の片隅に秘めながら。
お待たせしました。
最短で22日予定でしたが、勢いで書いてしまおうと思います。
隔日更新予定です。
よろしくお願いします。