神の一手   作:風梨

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約7800字



第2話

 

 

 

 夏休みが始まって、もう2週間以上が経過した。

 ヒカルは今日もインターネット喫茶に入り浸って『sai』として、或いは『hikaru』としてインターネットの海で好きなだけ囲碁を打っていた。

 そんな最中のことだった。

 以前に『ワールド囲碁ネット』を教えて貰った時に聞いた展開が訪れた。

 

『to good! you professional player?』

 

「──おわっ!?」

 

「どうしたの?」

 

「あっ、三谷の姉ちゃん」

 

「あはは、そう言われるとなんか照れ臭いね。で、どうしたの?」

 

「あー、えっと。英語でイキナリ話しかけてきたんだ。どうしたらいい?」

 

「ふーん。──へぇ『アナタは強すぎる、プロですか?』だって。スゴイじゃなーい! もしかして、進藤くんって碁がすっごく強いの?」

 

 少し悪戯っぽく聞いてくる魅力的な年上のお姉さんにも動揺せず、ヒカルは得意げに笑って答えた。

 幸いな事にヒカルはまだ色気より食い気である。

 

「へへっ、まぁね」

 

「あら、生意気ね。返事はしないの?」

 

「しない! しない! んなの恥ずかしいもん」

 

 恥ずかしい。

 それはインターネットに慣れ親しんだお姉さんからすれば、少し不思議な印象を受けた。

 普通は面と向かって言う方が恥ずかしがるのに、自分には得意げに答えて、ネット上では恥ずかしがっている。

 ウブな少年らしいヒカルの姿に微笑みが溢れた。

 

「ふふふ、おかしな子ね。ネット上での方が恥ずかしがるんだから。じゃ、カーソルをここに合わせて『カチッ』と……、返事をしたくない時はこの操作でね」

 

「う、うん。覚えてみる。アリガト」

 

「はいはい、また何かあったら呼んでね」

 

「ウン」

 

 颯爽と仕事に戻るお姉さんを見送るヒカル。

 そんなヒカルを尻目に、初日からずーっと目を『キラキラ』させっぱなしの佐為が、もう楽しくて仕方がないといった様子で着物の袖を『パタパタ』と(しき)りに動かしていた。

 

『ねぇねぇヒカル。不思議ですね、なぜこんな箱で色んな人と碁が打てるのでしょーね!』

 

(知らねーよ。オレに聞くなって。なんかこう、すごい技術なんだよ)

 

『今は人が月に行く時代ですものねぇ』

 

(そうそう。月に行くことに比べたら大したことないって。──お)

 

 ヒカルに目に飛び込んできたのは『ワールド囲碁ネット』を知ったときに見た名前。

 子供かもしれないと係員の人が言っていた『zelda』という名前だった。

 対局が空いていた事もあって、ヒカルはカーソルを『zelda』に合わせた。

 

「よし! コイツと対局だ!」

 

『わーい! 対局対局♡』

 

(楽しそうだな、佐為)

 

『ハイ! それはもう♡』

 

 そこまで喜ばれるとヒカルもインターネット碁を始めた甲斐があるというものだ。

 最初は程々に遊ぶつもりだった。

 しかし、今では『コレ』なしの夏休みなど考えられない。

 

 始めは『hikaru』という自分のアカウントも作って打っていたのだが、ここ1週間近くは『sai』で打っている。

 自分で打つのは楽しいが、それ以上に佐為に打たせていた。

 

 理由はわからない。

 何となく佐為に打たせていた。

 

 言語化の難しい感情ではあったが、仮に名前を付けるなら、やはり『楽しい』になるだろう。

 自分で打つよりも『楽しい』のである。

 佐為が打っているはずなのに、何故か自分が打ったような満足感も残る奇妙な感覚だったが、ヒカルは『楽しければ良いや』と特に深くは考えずに佐為に打たせていた。

 

 ──それは佐為の指し示す場所が、ヒカルが打ちたいと思った箇所と『偶然』にも一致していたからであったが、それが何を意味するのか、この時点でヒカルは気がついていなかった。

 

 ただ一つ言える事は、この出来事がキッカケとなって二人の笑顔が曇る事はないだろう、ということだ。

 楽しく心地良い『この感覚』は佐為とヒカルの味方だった。

 

 

 

 ネット碁の中では弱い者も多い。

 しかし、新しい定石を学び、そして試すには打って付けの場である。

 学んで試す。

 それは囲碁が好きな者にとって垂涎の遊び場である。

 佐為が思った以上に喜んでいる理由の一つだ。

 

 けれど、それよりも大きな理由があった。

 ヒカルがネット碁ばかりやっている理由。

 

 それは、あかりが関係していた。

 

 夏休みに入ってから遊ぶ機会が減ったのだ。

 それもガクッと。

 ちょっと時間が取れなくなったと謝られてしまった。

 今までヒカルにベッタリだったあかりが急に離れていったから、ヒカルは少なからずショックを受けた。

 そんな気持ちを誤魔化す目的もあって、最近はネット碁に熱中している、という訳だった。

 

(……オレと遊ぶより大事なことってなんだよ。ちぇ)

 

 理由のわからない『モヤモヤ』としたものを抱えながらも、けど、佐為と碁を打っている間は忘れられる。

 没頭するようにヒカルはネット碁を打ち続けていた。

 

 そうこう考えているうちに『zelda』との対局が始まった。

『zelda』の黒番。佐為の白番。

 コミは5目半。

 持ち時間は30分。

 

 意気揚々とヒカルはマウスを握った。

 その表情は明るい。囲碁を心から楽しんでいる表情だった。

 

(佐為。日本人だぜ。しかも、子供かもしれないぞコイツ。前に子供っぽいセリフ言ってたの見たんだ)

 

『子供ですか? いいですね。あっヒカル、打ちマチガイはしないで下さいね! このあいだも大ポカをしてしまって危うく負けそうになったんですからねっ』

 

(だから、パソコン慣れてないんだよ、オレ! ついこないだから使い始めたばっかだぞ!? 意外と難しいんだって!)

 

 そうボヤキながらも、ヒカルは一手一手を丁寧に打ち込んでいく。

 カーソルを合わせてポチリ。

 それだけで遠くにいる見ず知らずの人と碁が打てる。

 

 ヒカルも佐為ほどではないが、それを不思議に思う。

 そしてこれも佐為ほどではないが、ヒカルにとって嬉しいことだった。

 

 ヒカルは飛躍的に実力を伸ばしてゆく。

 佐為と共に導かれるように高みに昇っていく。

 その実力は優にプロレベルにまで到達していた。

 

 

 

『zelda』相手に打ちながら、ヒカルの表情は次第に真剣になっていく。

 形勢は終始佐為が有利。

 

 しかし、佐為は普段から全力を出さない。

 棋力が上回る者が、下の者を一方的に痛めつけるだけの碁など言語道断。

 故に大差を付けて突き放しはしない。

 だが、指導碁、というほど丁寧ではない。

 所謂楽しむための碁。

 伸び伸びと色んな手を試すような、楽しめる碁を打っていた。

 

 そんな佐為が『ワクワク』しながらも、少しずつ真剣味を帯びてゆく。

 同調するようにヒカルの表情も変わっていった。

 

(なぁ佐為。コイツ……)

 

『ええ、強いです。今までの誰より』

 

(だよな。えっと、子供だよな? 実は大人だったのか? わかんねーよな、ネット碁ってさ)

 

 そう言いながらも『ヒカル』の手付きに淀みはない。

 相手を試すような一手をどんどんと盤面に放っていく。

 

 こういう時は、どう対処するのか。

 まるで教師が生徒に対して質問するかのような展開。

 佐為がそのレベルを次第に上げていくが、対局相手は必死にそれに食い下がってくる。

 

 伸び伸びと打っていた碁が、形を変えて指導碁染みてくる。

 珍しいことだった。

 定石を学んでいた初めの頃こそ多かったが、今では少なくなった試合運び。

『こう打たれたら、どうしますか?』

 そう、語りかけるような碁。

 

 そしてついには相手の限界を見定めるように、痛烈な一手を放って厳しい展開を押し付ける。

 もしこれに応じられるようなら、塔矢アキラに近い実力がある。

 

 ある意味相手に期待しての一手。

 もしかしたら、隠れた実力者かもしれないと思っての展開だったが、対局者にそこまでの実力はなかった。

 幾つか用意してある模範解答から外れて、二人の意図しない方向に盤面が流れてゆき、そして。

 

(──あ、投了してきた)

 

『強いからこそ、形勢判断が早く正確なのです。『私たち』の力量を知り、これ以上は無理だと思ったのでしょう。力のない者ほどそういった判断ができず、もう勝てない碁を打ち続けるものです。そういう意味では、形勢を正確に判断した上で終始読み切ったヒカルの実力は、この者よりも数段上にある、ということになりますね』

 

(へへっ、まぁオレもここ最近ずっと佐為に付き合ってるからな。──やっぱ、子供かな、コイツ)

 

 何となくではあるが、ヒカルはそう思った。

 もし子供なら、話しかければ何か反応を返してくるかもしれない。

 そう思ってヒカルはお姉さんを探して呼びかけた。

 

「三谷のおねーさん」

 

「はーい、どうしたの?」

 

「『強いだろ、オレ』って向こうに送ってよ」

 

「あら、また勝ったの? スゴイじゃない。──いいわよ、やったげる」

 

(なぁ佐為。おもしれーなインターネットって)

 

『ハイ♡私もたくさんの者と対局できて幸せです♡』

 

(あはは、そーだな)

 

 顔も年齢も、何もわからない相手と会話できる。

 ヒカルはそんな環境にも楽しみを見出していたのであるが、佐為はただただ対局が出来る事が楽しいみたいだ。

 佐為ならそう言うか、とも思いつつ返事を待てば『zelda』から驚きの返事が返ってきた。

 

『オマエ ハ ダレダ! コノ オレハ ''インセイ'' ダゾ!』

 

 院生。

 セミプロとも呼ばれる、日本棋院が運営する囲碁のプロ育成機関である。

『zelda』がプロを目指しているヤツだと知って、ヒカルは塔矢を連想した。

 そして納得の表情を浮かべる。

 塔矢ほどじゃなかったが、強かったのも頷ける、と。

 

 そして、ヒカルは楽しげな笑みを浮かべる。

 

(’’院生’’か。なったらなったで、おもしれーんだろうな)

 

 佐為がセミプロ達と戦う姿を想像して、ヒカルは楽しそうに席を立った。

 

 

 

 

 その翌日。

 プロ試験予選 初日。

 

 リーグ戦形式で戦う予選は予選参加者たちが幾つかのグループに分かれて対局する。

 対局は合計5回だ。

 

 その1日目。

 つまり一局目の試験前半が終わり、食事の時間になって、『zelda』もとい和谷義高は悩ましげに腕を組んで『イライラ』していた。

 そんな和谷を見て、のんきに福井裕太──愛称『フク』は声をかけた。

 

「……和谷くん。和谷くんてば。何考えてんの?」

 

「ん……あ?」

 

「あ、もしかして。前半にポカでもやったの? 和谷くんらしいなー」

 

「やってねーよ! ウルセーな」

 

 そう答えつつ、フクに若干感謝していた。

 多少であれ気が紛れたからだ。

 

(ちっ、プロ試験の予選の真っ最中だぞ? 我ながら、ったくよー。こんなにイライラしてちゃマズイだろ、落ち着け、オレ)

 

 ふと視線を上げれば、少し離れた場所に、眉間にすごいシワを寄せている男性が居た。

 

(すっげー眉間のシワ。ま、1年に一度のチャンスだもんな。他人事じゃねーや。……あーくそっ。アイツのことでイラついてる場合じゃねーよ。……なんか、一人『詰碁集』なんか読んでスマしてるヤツがいやがるけど……って、え?)

 

 その人物に気がついて、和谷は思わず言葉が漏れた。

 黒い髪。整った顔立ち。

 何より印象的な『のほほん』とした雰囲気。

 しかし、一度対局となれば、それが凄まじい切れ味に変貌する少年。

 

「塔矢……アキラ……?」

 

「ハイ。──なんでしょう?」

 

 本を読んでいた黒髪の少年が顔を上げる。

 和谷が考えた通り、その人物は塔矢アキラだった。

 この場はプロ試験の予選だ。

 居てもおかしくない人物だが、だからといって平然と受け入れられる人物ではない。

 何せ──

 

「アイツが? オレ見た事ないや」

 

「塔矢名人の息子が今年受けるってのは聞いてたけど、塔矢アキラってアイツか」

 

「ああ、あんまりカオ知られてないんだよな、滅多に大会にもカオ出さないし、かなり昔から知ってるヤツだけだろ? ほら、昔は囲碁教室に通ってたらしいし」

 

「ああ、オレも通ってた。時間が経ってて気がつかなかったけど、言われれば面影あるな。アイツだよ、塔矢アキラって」

 

 ──何せ名人の息子で、プロ並みの腕前を持っているともっぱらの噂だからだ。

 

 ざわめき始めた周囲を他所にマイペースなフクが思い出したように呟いた。

 

「ボク知ってたよ。塔矢くんだって」

 

「……なんで? オマエ、コイツの顔知ってたっけ?」

 

「ううん、顔は知らなかったけど、名前はホラ、有名人だからさ。今日の対戦表見たときに、あ、あの塔矢くんだって気がついたんだ」

 

「ってことは、フクの相手って」

 

「うん、そう。ボクの今日の相手だよ。対局してみたけど、もう全然敵わないよ」

 

「おめー、プロになろうってヤツがそんな泣きゴト言ってどーする!」

 

「うっ! そーだけどぉ、ほんとに強いんだってぇ」

 

 和谷が気合を入れてやるつもりで『わしっ』とフクにヘッドロックを仕掛ける。

 本気ではないのでフクもさほど抵抗せずにされるがままだ。

 そんな仲が良さげな様子に、アキラが割って入った。

 

「お二人は院生ですか? あ、その、随分仲が良さそうなので」

 

「嫌味かてめー」

 

「うん、ボクは今年が初めての受験なんだ。和谷くんはね、3回目なんだって。ね?」

 

「ね、じゃない! 何バラしてんだ!」

 

「えー、いいじゃん、そのくらい。あーあ、今日はもうボク負けるー、初戦黒星かー」

 

「まだ前半だろ。対局も終わってないのに諦めんなよ。逆転勝ちしろよ、こんなヤツなんか!」

 

「和谷くん、カリカリしすぎー。何かあったの?」

 

 和谷は普段から気が強いが、それでも初対面に近い人物にこうまで言う人じゃない。

 フクはそれを知っているからこそ、聞いていた。

 このままでは、フクも気を悪くするかもしれない。

 そう思って恥を偲んで和谷は口を開いた。

 

「……昨日、インターネットで碁やってたら、やたら強いのに負かされたんだ。あの強さは絶対プロだ。なのに、そいつが『強いだろオレ』って書いてきたんだ! ありえるか!? プロだぜ、プロ! めちゃくちゃ悔しいぜ!」

 

 そんな和谷のボヤキに、塔矢がクスリと笑った。

 とある発言を思い出しての事だった。

 その『誰か』の発言内容が、あまりに彼のようだったから。

 

「……ふふっ」

 

「オマエ、何がおかしいんだよ!」

 

「あ、いや。ごめん、キミを笑ったつもりはなかったんだ」

 

 まったく納得しておらず、眉を怒り上げて自分を見つめてくる和谷の姿に、口元を押さえながら『参ったな』と思いながら、しょうがなくアキラは続けた。

 

「ボクの知り合いに、すっごく似てるから。最近、彼と対局したんだけど、負けちゃってね。同じセリフを言われたから、ちょっと思い出しちゃって」

 

 同じセリフ。

 いや、それよりも気になる事が。

 そう思ったのは和谷だけではなかったようで、フクがびっくりして言った。

 

「ええ!? 塔矢くん、負けちゃったの?」

 

「ハイ。互先の手合いでしたが、負けてしまいました」

 

 顔を恥ずかしそうに僅かに背けて、頬を『ポリポリ』と掻きながら塔矢がそう言った。

 それを見て和谷が苛立たしげに言った。

 

「けっ! どうせ塔矢名人の研究会に参加してるプロとかいうオチだろ? プロにしか負けないっていう自慢かよ」

 

「……いえ。彼はアマチュアの囲碁部ですよ、院生ですらありません」

 

「い、囲碁部!!?」

 

「それに、ボクと同い年です」

 

「同い年ぃ!!?」

 

 思わず和谷は驚愕の声を二度も上げてしまった。

 

 アマチュア。

 塔矢と同い年。なら中1だ。

 

 和谷はフクに向けて、心当たりあるか、と視線で聞いてみるが、フクは『フルフル』と首を振ってきた。

 

(だよな、そんなヤツがいたら、噂になっても、おかしく……)

 

 噂。そう思い返して、たった一人だけ思い当たる人物がいた。

 名前も知らない。

 顔も、もちろん知らない。

 ただ噂でだけ聞いたことのある、眉唾ものの人物。

 

 随分前に流れた噂話。

 あの塔矢名人に勝ったという、小学生の話だ。

 

「……あっ。もしかして、塔矢名人に勝ったっていう……」

 

 記憶を探った結果として溢れた和谷の言葉に、塔矢は少し驚きながらも頷いた。

 

「……ご存じなのですか。それほど広まっていないと思っていましたが、やはり人の噂というものに戸は立てられないのですね」

 

「いや、マジなのかよ!?」

 

 虚言の類だと思っていた和谷の驚きように『塔矢名人の息子』が、キョトンとした顔で頷いた。

 

「ハイ。本当ですよ。ちなみにですが、ボクも彼には全敗しています。その一局以外に二度対局していますが、通算で3戦全敗ですね」

 

 心底嬉しげにそう言い放つ塔矢の頭がおかしいんじゃないかと思いながら、和谷は聞いていく。

 

「なんで負けたオマエが嬉しそうなのかは置いておくとしてだ! なんでそんなヤツが無名なんだよ? 噂ですら、名前も出てこなかった! いや、もしかして知ってるヤツなのか……?」

 

「ええっと、たぶん、知らないと思いますよ? 彼が囲碁を始めたのは2年くらい前と聞いていますし、アマの大会にも出た事がないそうですから」

 

「に、二年……?」

 

 たった二年で、あの名人に勝利。

 そして塔矢アキラ相手に三戦全勝。

 しかも、塔矢アキラと同い年なら中学一年生だ。

 

 どんなバケモンだよと和谷は冷や汗が止まらなかった。

 そして、さらにトンデモない事実に和谷は気がついた。

 

「……いや、待てよ? 確かその噂が出たのは一年くらい前だ。ってことは、囲碁歴一年で、名人に、勝ったのか……? お、置き石は!? さすがに置き石くらいはしてるよな!?」

 

「え、ハイ。昔のボクと同じく、3子置いたと聞いています。なんでも『中押し』で彼が勝ったとか」

 

「……いや、理解が追いつかねえ」

 

『ヘナヘナ』と座り込んだ和谷を誰も責められない。

 その話を聞いていた、この場の者達全員が、あまりの内容に絶句していた。

 信じ難い話だ。

 しかし、仮にも塔矢名人の息子である、『塔矢アキラ』が話しているとなれば信憑性は高い。

 

「でもさ、そんな子がいるなら、もっと噂になってなきゃおかしくない? ボク、そんな噂聞いたこともないや」

 

 フクがそう言ったが、和谷は首を振った。

 

「いや、オレだって先生から聞いたから知ってたんだ。眉唾だし、そもそも大会に出てこないんなら、噂にならないのも納得だ。そもそも、その噂も一年も前の話だしな。……けど、確かにちょっと不自然だよな。──いや、だって、そんなに強いんならプロの師匠がいるはずだろ? 弟子をなんでワザワザ隠してるんだ?」

 

 フクからの、なんで? という視線に応えて和谷はそう続けたが、またしても塔矢が否定した。

 

「いえ、彼に師匠はいないようですよ。これは又聞きで申し訳ないのですが、父と彼が対局した時に同席していた緒方さんが言うには、彼は師匠がいないと言っていたそうです」

 

「……マジで、何者なんだよソイツ」

 

 もはやなんと言っていいのやら。

 腰が抜けたように『ドサリ』と背中を地面に降ろした和谷が、天井を眺めながら顔を押さえて、吐き捨てるように続けた。

 

「……で。そんなトンデモヤローの名前くらいは知ってんだろ。なんてヤツなんだよ、ソイツ」

 

「……進藤。進藤ヒカル。彼はこうも名乗っていましたが。──『本因坊秀策』の生まれ変わり、と」

 

 場には静寂が広がった。

 冗談だろ、とは誰も言えなかった。

 今語られた内容が真実であることは、当事者から語られたために疑いようがない。

 

 しかも。

 あの『塔矢アキラ』が言ったのだ。

 

『本因坊秀策』を名乗るなんて冗談だろ、なんて。

 誰がそんなことを言えるだろうか。

 

 乾いた笑いを漏らして、和谷が続いた。

 

「ハハッ、進藤。進藤ヒカルね……。いいぜ、ソイツの名前、覚えといてやる」

 

 和谷の脳裏に『sai』への苛立ちなんて、もはや残っていなかった。

 それよりも鮮烈な名前が和谷の脳裏には刻まれたから。

 

 しかし、『sai』=進藤ヒカルであるとも言える。

 つまりその実、和谷の脳裏を占める人物は変わっていないが、そんなことを和谷が知る由もない。

 

 お昼が終わる。

 気持ちを新たに和谷はプロ試験予選、初日に挑んでいく。

 一室に集まっていた者達も『ゾロゾロ』と対局室に戻っていく。

 その、あまりの衝撃に隠しきれない疲労を浮かべながらも、彼らは真剣な表情でプロ試験予選に(のぞ)んだ。

 

 

 


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