『──アキラ? ヒカル、今アキラと言いましたか?』
「そーだよ、あのアキラだよっ! 本物かどうか、わかんねーけど」
『カチカチ』と次々に入ってくる対局申し込みを断りながら、ヒカルは何度も聞いてくる佐為にぶっきらぼうに答えた。
次々に入ってくる対局依頼を断っているのは『akira』という名前のプレイヤーと打つためだった。
海王戦と比べて佐為の実力は飛躍的に向上している。
その事をヒカルは誰よりも理解しているからこそ、現時点での塔矢アキラとの距離感を確認したかった。
ただまぁ。ネット上の『akira』という名前であるというだけだから、別人だろう、とは半ば以上に思っているのだが。
『おぉお! 塔矢もこの中にいるのですか! ぜひ、ぜひ打ちましょう!』
(だからさァ、アキラなんて珍しくもない名前だろ? たぶん違うって)
『え? え? 違う? 違うのですか?』
「わかんねーって。あっ対局OKしてきた」
その一声に佐為は喜んで踊り回り、そして思いついた事を楽しげに続けた。
『試してみましょうか、ヒカル。この者が塔矢かそうでないか』
『ワクワク』と楽しそうに提案した佐為。
しかし、ヒカルから返ってきた返事は予想外の拒絶だった。
「……え? やだよ」
『ぇ!ええ!? た、確かめる流れですよね、今のは!?』
『がーん』と擬音が付きそうなほど凹んだ佐為が慌てて気を持ち直してヒカルにそう言ったが、当のヒカルは呆れ顔で答えた。
「いや、だってさ。アレだろ、前の対局なぞるとかだろ? そんなのオレ興味ないって。……もしこれが本物の塔矢なら、そんな対局したらアイツ絶対言うぜ。『ふざけてるのか、本気で打て、進藤』ってさ。『sai』って名前でもアイツなら気づくだろうし」
ヒカルに自分が『sai』というハンドルネームで活動している事を隠すつもりは全くなかった。
バレたところで困らないと思ってるから。
ある意味危機感がないとも言えるが、ヒカルの中で特に違和感は生まれなかった。
そして。
それ以上に佐為の言動が気になった。
仏頂面のヒカルが佐為に厳しい口調で続ける。
「──そもそも、アイツを相手に序盤の有利捨てるって、相当舐めた事言ってる自覚あるのかよ、佐為」
ヒカルの言葉に佐為は『ハッ』として着物の袖で口元を覆った。
前回の対局で序盤に差を付けられた事は記憶に新しい。
それでも負ける事はなかっただろう。
当時も、そして今振り返っても改めて思うが、ヒカルの輝くような発想から生まれた一手を使わずとも勝っていた自信はある。
しかし、問題はそこではない。
仮に『akira』が別人であれ、塔矢本人であれ、本気でぶつかってくるであろう相手に対して、『塔矢アキラ』であることを確かめる1局を作るなど、
知らず緩んでいた気持ちを引き締める心地で佐為は瞳を閉じた。
塔矢と再び打てるという喜び。
そして自分の実力が飛躍的に伸びているだろう、と感じているからこその油断。
ヒカルが自分にたくさん打たせてくれている事への感謝。
自分を通じてヒカルが成長している、深い満足感。
様々な感情が要因となって絡み合って佐為の内面を覆っていた。
だからこそ、ある意味で調子に乗っていたのだろう、と佐為は自己分析した。
しかし、それはあまりに不甲斐ない。
碁打ちである自分が本分を忘れてしまっては本末転倒。
囲碁が最も楽しいと感じる時は、真剣に全力で打つ時なのだから。
気を引き締めた佐為が再び目を開いた。
その眼光は鋭い。
刺すような
楽しむために碁を打つ普段の様子は微塵もない。
そこに立つのは、一人の棋士としての『藤原佐為』だった。
『……不覚でした。ヒカル、感謝します。どうやら私は知らず知らずに慢心していたようです。棋士たるもの好敵手には全力を出さねばなりません。弱いモノを
「ああ。打つぞ、佐為!」
『はい!』
知らず二人の中に、画面越しの相手が『塔矢アキラ』ではない、という仮定の可能性は消えていた。
第六感が察知したのか、はたまた忘れてしまっただけなのか。
佐為は、ヒカルは、全力で画面に向き合い、白番を握って第一手目を盤面に放った。
『右上スミ 小目』
佐為の涼やかな声が走る『前』に、ヒカルは無意識にカーソルを動かして、佐為の指示した通りの場所を打った。
表裏一体。
その片鱗を見せる対局が始まった。
「──来た」
その一言に会場がどよめいた。
言葉の意味するところはただ一つ。
『sai』からの対局申し込みが行われたという事だ。
『sai』から対局を申し込む事など今となっては殆どない。
ネット上で有名になりすぎたために、無数の対局依頼が『sai』に舞い込むようになった結果、相手を選り好みしない佐為が手当たり次第、と言うと言葉が悪いかもしれないが、相手を選ばずに対局し続けた結果だった。
その『sai』が対局を申し込んできた。
偶然にしては些か出来すぎではあるものの、周囲の思考は何故、ではなく。
今後の対局に対して期待を寄せた。
『あの『sai』が対局を申し込むなんて、珍しいな』
『そんなことはどうでもいい。リアルタイムで、しかもこのJPNで『sai』の対局が見られるんだ。これ以上のことは望まないよ』
『同感だね、彼が何者であれ、私たちが興味を引かれているのは彼が生み出す一手だ。……対戦相手の少年は、Toya名人の息子なんだろう? 期待が膨らむね』
『ザワザワ』とした会話が背後で行われる中、ギャラリーを背負いながらもアキラの思考に曇りはなかった。
『スルスル』とカーソルが動く中で手番とルールが決まっていく。
アキラの黒番。ヒカルの白番。
コミは5目半。
対進藤ヒカル戦でアキラが握る初めての黒だった。
目を瞑ったアキラは自らの気持ちを確かめるつもりで言葉を漏らした。
「──キミとまた打てる。今はそれだけでいいと思っていた。だけど──」
そこから先は言葉にはしない。
逃さぬように、胸の内だけで吐露した。
強い決意を秘めた胸の中で、言葉が溶けるように染み込んだ。
(進藤、今日こそボクが勝たせてもらう)
真剣な眼差しで見据えながら、先手をノータイムで塔矢は打った。
塔矢の脳裏では碁盤を挟んで対面にヒカルが居た。
実際の対局のように、ヒカルがいつもの真剣な表情を浮かべながら一手を放ってきた。
応手はいつもの『右上スミ 小目』。
ただその一手だけでアキラは悟る。
相手は間違いなく進藤ヒカルであると。
画面を隔てても伝わってくる気迫。
まだ一手目。
それは錯覚であるはずだが、塔矢の中に疑問は生まれなかった。
彼の中では確信があった。
向こう側に座るのは進藤ヒカルである、と。
そう感じた瞬間。
感化されるように、碁笥に素早く手を差し込むつもりでアキラはカーソルを操った。
重ねる、一手を重ね続ける。
流れるように打つ手は止めどない。
夏休みに入る前、約3ヶ月前にも対局したとはいえ、アキラにとってヒカルとの対局は待ち遠しいものだった。
あっという間に終わらせてしまうのは惜しい。
けれど、我慢できる物でもない。
心の赴くままに、打ちたい一手を積み重ねていった。
決して油断ではなく、手加減でもない。
それこそが自分の実力を最も発揮できると理解した上での選択だった。
しかし、その自信は序盤の時点で揺らぎ始めていた。
(強い! 前回敗れた時以上……、明らかにウデを上げている!! 定石を学んだからか!? いや、それ以上に何か……根本的に何かが違う!! これは、あまりにも……)
強すぎる、あまりにも。
あの海王戦での進藤は確かに全力だった。
その確信がある。
ならばこれは、前回以上に高いカベを感じるこれは、この3ヶ月間で進藤がウデを飛躍的に上達させたことに他ならない。
そんな事実を前にして、アキラの
僅かに強張った表情がそれを物語る。
ライバルがより強大となって立ち塞がる。
手が届きそうだった相手が離れてゆき、置いていかれる。
離れてゆく背中を連想する。
暗闇の中、光り輝く進藤の背中が遠のく。
暗い道が広がって飲み込まれて、視界が
足元は見えている。
だからこそ理解できてしまう。
進藤の背中が、あまりにも遠すぎる、と。
動揺を抑えるようにアキラは打つ手を止めた。
そして自分でも気がつかない無意識の内に、掌で胸元を押さえて服ごと握りしめた。
絶望など一側面でしかない。
見方を変えれば、いくら欲しても得られなかった同年代のライバルが自分を先導するかのように前を歩いているだけだ。
ならば。
自分はその背に置いていかれぬように、ただその背中だけを見て追うだけだ。
それだけが今の自分に出来ることだから。
ライバルとして、進藤ヒカルに追い縋る者として唯一の存在証明。
それすら放棄してしまえば、もはやそれはライバルとは呼べない。
アキラは自分で自分を許せなくなる。
そう、思いながらも。
だが。
それは、明らかな強がりだった。
歯を食いしばる。
それでも、それでも。
直視したくないと閉じかけた心の
彼は
半年間という修練を経て届きそうだった壁を。
届きそうな手が再び突き放された事実。
それは寒々しいほど鋭い風となって塔矢の心を覆っている。
当然だった。
無力感に打ちひしがれて芯が砕けても無理はないほどの差。
たったの数ヶ月。
それだけの修練で再び突き放された衝撃と絶望は如何程のものか、想像に余りある。
しかし、それでも塔矢の心は折れない。
不屈ではない。
苦しさも、挫折感も、悔しさも、余す事なく感じている。
『屈しているか』と聞かれれば悔しながらに頷く他ないだろう。
だが、『立ち上がれるか』と聞かれれば。
その問いにも『力強く』頷くだろう。『必ず』と答えるだろう。
何度挫けようとも、何度屈しようとも。
芯ある者はそう易々と諦めない。
──いや、諦められないのだ。
何故なら。
場面は戻る。
アキラは思考を回す。
少しでも、ほんの少しでも追い縋るために、全力を出し切るために。
そのためにまず観察から入った。
進藤の古かった定石は一新され、こちらの考えを見透かしたかのように、読みはより深くなっている。
意図の読めなかった一手が目が覚めるような鮮烈さを持って盤面で効力を発揮し始める。
放たれる一手一手に振り回される自分を自覚せざるを得ない。
厳しい、厳しすぎる
改めて感じる力の差に冷や汗すら流れる。
(形勢は……まだ、戦える!! なのに。か、勝てる気がしない……!!──くそッ!!弱気になるな、そんな暇があれば活路を見つけろ!!どこだ、どこにある!?)
圧倒的な強さ。
以前の進藤に感じた隙のある強さは一切ない。
実力という『物量』で『押し潰される』感覚。
言うならば、そのような容赦のなさを感じる。
本気、全力。
これが今のオレだと言わんばかりの猛攻。
持てる技量の全てを曝け出すような全力全開の攻撃を受けながら、塔矢アキラは炎を宿すかのような瞳で立ち向かい、脂汗を流しながらも。
限界ギリギリの状態で、その口角だけを。
歓喜で形作っていた。
進藤ヒカルの本気。
それは絶望であり恐怖でもあったが、歓喜でもあった。
手が届いたと思えば離れていくその姿に悔しさを感じると同時に、そうでなくては、と喜んでいる自分も確かに居るのだ。
どれほど欲しただろう。
自らと同じ位置に立って、共に歩んでいく同年代のライバルを。
贅沢は言わない。
たった一人だけでもライバルとなってくれる存在が欲しいと、何度そう願ったことか。
プロにならなかったのは不安があったからだ。
このまま何の障害もなくプロになることに一抹の不安と疑問を抱いたからだ。
そのかつての願い。
それは想像を上回る好敵手の存在で塗り替えられた。
ようやく得られたその存在を、自らの実力不足で手放すなど有り得ないとアキラは断言出来る。
改めてその事実を自認したアキラは、今持てる全てを一滴残らず絞り出そうと全身全霊を懸けて、再び挑み掛かる。
その姿勢は対面に居るヒカルのみならず、周囲にも伝播した。
あまりの真剣さに静寂が場を支配している。
痛いほどの沈黙の中で、会場に居る全ての者の視線が画面だけに集中する中で、盤面は動いてゆく。
苦しい局面。
進藤の中央への合流を許してしまい、アキラの中央と左辺、どちらかしか助けられない盤面に突入する。
だが、それでも両方を助けねば負けが確定してしまう。
苦しい中でもアキラは諦めない。
活路を見出すためにシツコク、丁寧に一手一手を重ねていく。
アキラは必死に食らいついていくが、進藤の容赦のない追撃は続き、左は生きたが中央の黒を完全に殺されてしまう。
交互に打つ関係上、基本戦術としては、両者は互いに四隅のうち2つを占拠して地を作り合う。
そのため相手の陣地を崩す以外には、中央を制したものが勝利すると言われるほどに、中央の地の価値が大きい。
黒番が有利な理由の一つだ。
初手天元が珍しいのはこの理由が大きい。
中央を確定地とするために要する手数は四隅の倍以上掛かると言われているためだ。
そしてそれはイコール中央の重要性を、地の大きさを意味する。
それ故に四隅が互角ならば、中央が死ぬことは致命的な敗因となる。
完敗。
かつての2戦目の如く、その文字が再び脳裏に過ぎって塔矢は歯を食いしばった。
先ほどの、言葉の続きを連想する。
何度挫けようとも、何度屈しようとも。
芯ある者はそう易々と諦めない。
──いや、諦められないのだ。
何故なら。
何故なら。
塔矢アキラは囲碁を誰よりも愛しているから。
絶望と希望は表裏一体。
誰かが言ったその言葉は、今この瞬間にも当て嵌まる。
掴めたはずの
それは確かに心を折るほどの衝撃だろう。
しかし、それすら糧として受け入れよう。
絶望するほどに強いライバルを見上げれば、絶望という影を作り上げた彼自身が光り輝いているのが見える。
思わず、手を伸ばさずに居られない程に鮮烈な光。
だから、『笑って』みせよう。
むしろこれを待ち望んでいたと『言って』みせよう。
『強がって』みせよう。
今は強がりでも、いつかそれが本当に変わるまで。
塔矢は、囲碁を愛している。
だから打つのだ。
果てのないその時まで。
──神の一手に、限りなく近づけるその時まで。
そして。
いつか必ずキミに並んでみせる、と確固たる決意を秘めながら。
塔矢アキラは『投了』にカーソルを合わせる。
その表情は悔しげでありながら、成し遂げる者だけが発する熱い闘志が篭っていた。
──『akira』が『投了』しました。