神の一手   作:風梨

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約8700字



第5話

 

 

「──緒方さん、本当に、その、お願いしてもよろしいのですか?」

「ええ、構いませんよ。アキラくんはあんな調子ですから。ここは私が持ちます」

「そ、そうですか。しかし、この会場を借りるための費用や光熱費、人件費も込みでの延長料、清掃業者への遅延料金などなど、結構な金額になりますが……」

「構いませんよ。……普段偉そうにしているのでね、これくらいは大人である私が持ちます。それに、私も『sai』との対局は中断させたくない。むしろ、私の無理を聞き入れてくださった事を感謝しています。本来ならば、優先すべきは大会ですから」

「はぁ、そう言ってくださると助かりますが……」

 

 そう思うなら中断して欲しかった、と言いたげな大会運営委員会の男から視線を逸らして、緒方は未だ対局途中の塔矢アキラとその周囲に集まる世界各地の棋士たちを見る。

 

 金で買える光景ではない。

 一つの対局を見るためだけに、これだけの人が言語を超えて観戦している。

 そしてそれを作り出しているのは日本の若き二人。

 これからの日本囲碁界の明るい未来を予期させる光景を改めて目にして、緒方は機嫌良さげに微笑んだ。

 

「──まったく、オレも混ぜて欲しいもんだよ」

 

 そう、少しばかり本音を漏らしながら。

 

 

 

 緒方はその後に『sai』とアキラの一戦を、気迫溢れる塔矢アキラに面食らいながらも一部始終を観戦し終えた。

 そして口々に称賛の言葉が飛び交う会場をアキラと共に後にする。車の助手席に乗せ、高速を走らせる。二人とも無言だった。助手席に座る塔矢アキラまでもが静かだった。 

 意気を落としているのではない。

 むしろその逆。

 さらなる成長を遂げるために深く深く思考を巡らせているのだろう。あれほどの敗北を喫した直後でもまるで心が折れた素振りもないのは素直に感心させられる。

 その様子を見取ってフォローは必要ないと思い、緒方も改めて先ほどの対局を思い返す。

 

(『sai』……。もしやと思ったが、しかしどう見ても子供の打ち方ではない。だがオレの勘はあれが進藤ヒカルだと言っている……。どんなに素質のある子でもミスが出る。それがオレの持論だったんだが……。あるいは進藤ヒカルが子供という枠に収まる存在ではないのか)

 

 同じ車に乗る二人の思考は『sai』と進藤ヒカルに関してのみ巡った。

 会話はない。

 しかし互いに何を考えているのか手に取るように理解できた。

 だからこそ会話など邪魔でしかないという、暗黙の了解がそこにはあった。

 

 アキラを塔矢宅まで送り届け、自宅に戻ってきた緒方はスーツを脱ぎ、シャツだけのラフな格好で椅子に乱暴に腰掛けた。

 その手にはロックグラスが握られている。注がれたブランデーがロックグラスを琥珀色に染めていた。球体にカットされた氷が器の中で『カラン』と音を立てて転がる。

 

 しばしの沈黙。

 ロックグラスに口付けることすらなく、徐々に氷がブランデーに溶け出していく。

 溶けた氷がグラスのフチに触れて再び『カラン』と音を鳴らす。

 

 そして、ようやく時が動き出した。

 

 緒方は軽く唇を湿らせるようにロックグラスに口付ける。

 仄かな香りが鼻腔をくすぐる。腹に落ちる熱い液体と体温の温度差が返って頭を冷やした。

 手首を使ってロックグラスを回すと、僅かに小さくなった氷の球体が器の中で軽やかな音を立てる。だが軽い音色とは裏腹に、緒方の思考は重みを持ったままだった。

 

「……いや、強い。やはり強すぎる。一年。たったの一年で、人はあそこまで強くなれるものなのか……?」

 

 緒方が見たのは1年前の対局だ。

 進藤ヒカルの対局相手はあの塔矢行洋だった。その時は、置き石こそ置いたがあの名人を相手に中押しという結果を出した。

 あの時の進藤ヒカルが手札を隠していたとは考えづらい。

 だというのに、1年前には見られなかった打ち筋が今回の対局で垣間見えた。

 ──何故そこに? と一見思えるような一手を放ったかと思えば、十数手を重ねた先で効力を発揮し始めるのだ。

 

 そんな新しく得た武器ですら既に我が物としていることが、緒方の目には恐ろしくも非常に魅力的に映った。

 癖というものはそう簡単には変わらないはずだが、どうやってあの奇抜な発想を実現可能なレベルにまで昇華させたのか、非常に興味深い。

 

「ふっ。考えても仕方ないか」

 

 緒方は思考に区切りを付ける。

 立ち上がって自室の水槽に近づくと、水槽の脇に置いてある魚の餌を手に取って熱帯魚に餌を振り撒いた。

 

「どちらにせよ、あれが進藤ヒカルなら、ヤツの実力は尋常じゃない。──上がってこい、進藤。オレは、オレたちはお前が来るのを高みで待っているぞ」

 

 その緒方の口調は、まるで『sai』が進藤ヒカルだとわかっている口振りだった。

 進藤ヒカルならばありうる。子供ながらに練達している可能性を、緒方は奇妙なことに確信していた。

 

 

 

 

 

 塔矢とネット碁で対局した日の夜。

 ヒカルはあかりと打っていた。

 もう夏休みも残すところ十日(とおか)前後となっていた。

 いつものようにヒカルは指導碁を打っていたが、今日はあかりの様子が少し変だった。

 理由はわからない。でもどこか緊張感を持って対局しているように見えた。そして終局する。五子置いたあかりの勝利だった。

 ぐっと拳を握ったあかりが、ヒカルを見る。

 

「──ねぇヒカル」

「ん? なんだよ」

 

 一呼吸を置いた。

 そんなあかりをよそにヒカルはお茶の入ったコップを手に取る。

 

「私、院生になろうと思うの」

「ぶっ!!」

 

 対局直後のぶっ込みに、ヒカルは飲んでいたお茶を吹き出して固まった。

 あかりはそれでも真剣な表情を崩さなかった。

 

「この夏休みでね、お母さんとも話し合って、塾である程度の成績が残せたらいいよって言われて。それであんまり会えなかったの。黙っててごめんね」

「い、いや、うん。まぁちょっとは気になってたけど、そーゆーことか……って、院生!? マジで!?」

「うん。お母さんから許可は貰ったの。だから、あとはヒカルから貰うだけ」

「いやいや、俺からって……。 そうだ、囲碁部はどうすんだよ! 院生になったら大会にも出れねーんだぞ!?」

「もう、決めたから。ヒカルみたいに強くなりたい、もっと碁を打ちたいって。塔矢くんとヒカルが打ったみたいな、あんな碁が私も打ちたい」

 

 海王囲碁部との大会。

 今年の夏休み前の大会で、男子は2-1で海王の勝利。女子は3-0で海王の勝利だった。

 男子の一勝はヒカル。

 葉瀬中のメンバーで勝利を拾ったのはヒカルだけだった。

 あかりは大将として打って、日高という海王三年の女子に敗北していた。

 

 だがあかりが本格的にプロを意識し始めたのは日高と打ったからではない。ヒカルとアキラの三将戦が契機だった。

 長い長い戦いだったために、女子大将戦が決着してもまだヒカルたちは対局の途中だった。

 両者の作り上げた美しい棋譜を、あかりはずっと見ていたのだ。

 

 あかりの価値観は一変した。

 二人ともあかりの知る人物で、その一人はあかりの想い人であるヒカルだった事も一因かもしれない。だがそれはあくまでも一因だ。

 囲碁を始めた理由にはなっても、プロを志した理由にはならない。

 

 ──初めて棋譜を美しいと思った。

 あかりの目の前で、一手が生み出される珠玉のやり取りが輝いて見えた。

 

 その時に、あかりは心に決めた。

 囲碁のプロになろう、と。

 そのために必要な事を調べて、今の自分では到底難しい事がわかった。

 だから院生になるつもりだった。

 

 ヒカルに置いていかれたくないという思いで始めた囲碁に、生涯を懸けることになるなんて1年前は想像も出来なかった。

『真剣』という言葉の意味を考えるくらい、あかりは囲碁に夢中になったのだ。

 

 あの棋譜を見た瞬間から、あかりは本当の意味で碁に向き合い始めた。

 

 直向(ひたむ)きな気質のあるあかりだ。

 元から飲み込みは早かったが、あの対局から急激に実力を伸ばしていた。

 海王囲碁部の決勝戦で、日高にあっという間に負けてしまった悔しさもバネとなっていた。

 

 ヒカルの置石の数が『夏休みを経ても』変わっていないことからもそれがわかる。

 それを可能にするためには、急激な成長を遂げた佐為と同等の速度で成長し続ける必要があったからだ。

 

 もちろん、実力差が極端なため一概に同じ速度とは言えない。

 高いレベルになればなるほど成長曲線が緩やかになるのは囲碁であっても変わらないからだ。

 だがそれはあかりの凄さを霞ませる理由にはならない。とんでもない成長を遂げたヒカルと佐為に付いて来れたあかりも、また尋常ではない成長曲線を描いて実力を伸ばしていた。

 

 佐為はそれに気がついていた。

 ヒカルも気がつかないフリをしていただけで、本当はあかりが急激に腕を伸ばしている事には気がついていた。

 その理由もヒカルはわかってる。

 あのアキラとの一戦はヒカルにとっても特別な対局だったからだ。

 

 だから表情と言葉では驚きを見せていたが、内心では『やっぱりな』と思っていた。

 そんなヒカルの内心を察して佐為が囁くように背中を押した。

 

『認めておあげなさいよ、ヒカル。こんなにも真剣に頼んでるんですよ?』

(わぁってるよ、コイツが真剣なのは。──あかりのヤツってば、塔矢とおんなじ目をしてるからな)

 

 だからヒカルも柄じゃないと思いながらも佇まいを正して、碁盤を挟んであかりに向き合った。

 真剣な瞳が絡み合う。

 あかりには佐為なんて憑いてない。

 純粋な実力だけで、プロになろうとしてる。

 

 ヒカルの中での院生。

 いや、セミプロの基準は塔矢アキラだ。

『zelda』の事は印象が薄いので基準にはならなかった。

 塔矢アキラの印象が強すぎるとも言える。

 

 つまりヒカルの中で、あかりがプロを目指す上で超えるべき最初の壁は塔矢アキラになっている。

 ヒカルは厳しく視線を投げつけた。

 

「院生って。本気なんだな」

「うん」

 

 見つめ合う。

 そこに甘い空気は一切ない。

 固唾を呑むような固い空気が流れている。

 甘く見積もってもあかりの実力は塔矢の足元にも及ばない。そんなあかりがプロになる。

 無謀に近いだろう。生半可な覚悟じゃ挫折するだけだ。

『sai』として打った対局で、塔矢の闘志と実力を肌で感じたヒカルにはそれがよく理解できた。

 

「今日、塔矢と打った。アイツまた強くなってるぞ。これからだって、どんどん強くなる」

「うん」

「お前じゃ、アイツにはまだ勝てない。ずっと追いかけ続けられんのか?」

 

 あかりは自分のように無鉄砲ではない。

 少なくない年月を共にしたから、ヒカルはそのことをよく知っている。

 単なる思いつきなら夏休みが始まる前に自分に言っていただろう、と思う。そんなことはわかってる。

 それでも厳しい言葉を掛ける。ここで折れるなら、躊躇するなら、その程度の覚悟だってことだ。だがあかりはその上を行った。

 

「──違うよ。私の目標は塔矢くんだけじゃない。ヒカルも私の目標だから。ううん、プロになるならその先まで行きたい。止まるつもりなんてないから」

 

 あかりは本気で囲碁の世界で生きていこうとしてる。言葉を交わしてヒカルはようやくその事実が腑に落ちた。

 その事が少しショックだったのは、ヒカルがまだ覚悟を決めきれていないからだろう。

 

 ヒカルは囲碁界のことに詳しくない。

 碌に調べてもいないし、出会ったプロも数えるほどだ。

 

 そして対局したのは『塔矢行洋』だけ。

 だからヒカルのプロ棋士の基準は『塔矢行洋』になる。

 周りが聞けば、冗談だろ、と顎が外れるような基準だが、ヒカルが出会ったのは囲碁教室の先生、緒方九段、塔矢行洋だけだ。

 対局して肌でその凄みを感じたのは、やはり『塔矢行洋』だけになる。

 

 プロを目指すなら本気じゃなきゃ無理。

 感覚ではあったがヒカルはそう思ってる。

 ちょっとプロになってタイトルの一つでも取るか、なんて冗談でも思えない。

 

 人生を懸ける覚悟なんて簡単に決められる筈がない。

 

 だけどヒカルだって男だ。

 幼馴染がこれだけ覚悟を見せているのに、自分だけ日和(ひよ)るなんてヒカルのプライドが許さない。

 

 今まで踏ん切りが付かなかっただけだった。プロの世界に脚を踏み入れて一生を捧げる覚悟がなかった。

 実力も資格もヒカルは十分持ってる。

 必要なのは一歩踏み出す勇気だけだった。

 

 それが、幼馴染に負けていられるか、という微笑ましい動機だったとしても。

 

「わかった、許可する。けど、お前が院生になるんなら、オレもなる。──これからはライバルだな」

 

『ニヤリ』と笑ったヒカルにつられてあかりも笑──える訳なかった。

 

「ええ!? ライバルになるの!?」

「当たり前だろ? これからは互先な」

「ちょっとヒカル!? それ無理! 無理だって! 勝てるわけないじゃん!」

 

 慌てふためくあかりに機嫌良くヒカルが笑った。

 院生も面白そうだ。どんな奴がいるんだろうと少しワクワクしていた。

 

『ヒカル、いいんですか!?』

(塔矢みたいな奴がいればいいな、佐為)

『〜〜っ!! ハイ♡』

 

 唐突な院生になる宣言に、佐為が踊るほど喜んだのは言うまでもない事だった。

 

 

 

 

 

「──アキラくん♡ね、どうだった? 大事な対局」

「え? どうして市河さんが知ってるの?」

「知ってるのって、当たり前じゃなーい! アキラくんのプロ試験初日よ? 忘れるわけないじゃない!」

 

 1週間近く前の『sai』との対局のことをどうして知っているんだろう、とドキリとしながら市河に聞けば、返って来た答えはそういえばと思い出すものだった。

 

 昨日はプロ試験初日だった。

 プロ棋士になるための大事な1局だ。

 それはアキラも重々承知している。

 けれど、それよりも進藤との対局の方が重要だったので、『大事な対局』と言われてすぐに浮かんだのは進藤のことだった。

 だがそんなことを市河に言うわけにもいかず、アキラは誤魔化すように苦笑いした。

 

「あ、ウン。そうだよね、そっちだよね」

「で、どうだったの?」

「うん。勝ったよ」

「きゃー! さっすがアキラくんね!」

「おいおい、(いっ)ちゃん。若先生が初戦でコケる訳ないだろ? これから20何戦ってあるのに、イチイチ聞いてちゃ若先生も辟易しちまうよ」

「いいじゃない! 20戦分! 私は喜びたいの!」

「お、おう。……そうかい」

 

 なんか文句あるか、とでも言いたげな市河の言動と表情に押されて、常連客の北島は黙ってタバコを吹かせた。

 そこから少しだけ会話をしてアキラは今日来た理由を話した。

 

「それでね。緒方さんって今日みえられるかな? 一局お相手してもらえたらと思って来たんだけど……」

 

 その時、ちょうど碁会所の扉が開いた。

 緒方かと思い期待して振り向けば、そこには広瀬が鼻息荒くして立っていた。アキラ先生と以前から呼んでくれる常連客の一人だ。

 

「アキラ先生! どうでした!? 初戦の結果は!?」

「え、あ」

「や! アキラ先生に勝敗を聞くなんて失礼でしたか」

「広瀬さんっ! プロ試験のことはアキラくんに任せておけばいーの! さっさとおカネ払って!」

「ハイハイっ、わかりました。──ああ、そうそう。ここにくる途中であの子を見かけましたよ。前にアキラ先生に勝った──えーと」

 

 言い淀む広瀬に、すかさずアキラは言った。

 

「進藤ですか?」

「そうそう、彼です。パソコンがたくさん置いてあって、インターネットとかが出来るお店ってあるでしょう? まぁ私はあまり詳しくないので、何をしていたのかよくわからなかったんですが、ハハハ」

 

 市川が感心したように頷いた。

 

「へぇあの子がそんなところに? やっぱり若い子は機械に強いのねぇ」

「ホントですね、私なんてサッパリで。何か熱心にやってましたよ」

 

 インターネット。

 パソコン。

 そう聞いて、居てもたっても居られずアキラは問い詰めた。

 

「──場所は!?」

 

 進藤は明らかに強くなっている。

 自分との接戦が理由なのか、あるいはネット碁を始めた事に理由があるのか。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 会って言いたいことがあるアキラは思わず広瀬に場所を聞いていた。

 

 

 アキラは理解したのだ。

 

 進藤が、彼がもしもプロにならなかったら。

 それはもう、囲碁に対する冒涜であると理解したのだ。

 プロを志すなんて並大抵の覚悟じゃ足りない。本来なら人に強制するものではない。

 そんなことアキラもわかってる。わかっているのだ。

 だが、それでも、それでも誘い続けなければならないとアキラは思った。

 

 身勝手な理由だとわかってる。

 それでも誘い続けなければならない。使命感にも似た思いでアキラは覚悟を決めていた。

 

 広瀬から聞いた場所に向かうため、電車に揺られながらアキラは強い想いを胸に拳を握りしめる。

 

(進藤。やはり、キミはプロになるべきだ! 一刻も早く! こっちに来い、進藤!!)

 

 広瀬が教えてくれたインターネット喫茶に辿り着いた。

 透明なガラスの向こう側には進藤らしき人物の背中が見える。

 それを目にした途端に、ドアを開けて塔矢は走った。

 

 そして肩に手をかけて振り向かせる。

 

 ──驚いて、目を丸くした進藤の表情。

 画面には『sai』の名前と対局中の盤面が映っている。

 『sai』は進藤ヒカル。

 間違いないとは思っていたが、それが確定した瞬間だった。

 

 驚きを浮かべていたヒカルの表情が、段々と怒りに染まっていくのを見てアキラは慌てて手を離した。

 

「だぁああ! 塔矢、お前な! いつもイキナリすぎるぞ!? せめて声くらい先に掛けろよ! ビックリするだろ!」

 

 そう指摘されて、その通りだ、と思ったながらアキラは誤魔化すように笑う。

 

「あ、いや、つい。ごめん……」

「ったく、ちょっと待ってろよ、終わらせっから」

 

 そう言って画面に向き直ったヒカルは再び対局に戻った。

 アキラはその対局をヒカルの左側に立って眺める。

 

 ──対戦相手もそこそこの強さだった。

 プロほどではない。

 しかし、アマの中では上位に位置する強さだろう。

 

 対してヒカルはプロの最上位クラスの実力者だ。ネット碁では基本的に置き石はしないから、本気で打てばあっという間に中押しだろう。

 なのに碁が続いているということは、進藤が手加減して打っている。あるいは指導碁を心がけているからに他ならない。

 

 まるでプロがアマに対して打っているようだ。盤面を見て思わずそう思い、アキラは苦笑いした。

 アキラにも同じことは出来る。

 出来るが、指導碁をするためにわざわざインターネット喫茶に来るか、と言われれば遠慮したい。

 

 プロの指導碁はもちろん有料だ。

 その最たる理由はプロとはいえ常に勉強し続けなければライバルとの距離が開いていくばかりだからだ。

 向上心がある者ほど実力向上に充てるために時間はどんどん貴重になっていく。

 

 だからこそ、自分の時間は勉強に充てたいと考えているアキラからすれば、ネット上で見ず知らずの人に無料で指導碁を打っている姿は人が良すぎると言い切れる光景だった。

 

 しばらくの時間を掛けてヒカルは打ち終えた。

 ヨセまでしっかりと行うという念の入れようにアキラは笑ってしまった。

 笑われても、ヒカルは『なんだよ』と恥ずかしそうにするだけで打つ手は変えない。

 

 それを見て改めて思う。

 

 彼こそプロに相応しいと。

 実力も、アマに対する姿勢も、碁に対する姿勢も、その全てが基準を容易に上回っている。

 もし仮に彼がプロに相応しくないと言うならば、今棋院に所属しているプロの大半が資格を返上しなければならないだろう。

 

「──進藤」

「ん? あぁ、もう終わったからいいぜ。──おねーさん、ゴメン。ちょっと外出てくる」

 

 心配そうに進藤の様子を見に来ていたお姉さんに、進藤が軽くそう言った。

 

「え、ええ」

 

 お姉さんが頷くのを見るや否や、ヒカルはアキラを連れて外に出て向き合う。

 腕組みをして、少しばかり不機嫌な様子だった。

 いきなり肩を掴まれればそうなる、と自分の行動を反省するアキラに、ヒカルが疑問を投げかけた。

 

「──で、どうしたんだよ。なんか聞きたい事でもあんのか?」

 

 反省は後にしよう。

 アキラはそう思い今日来た目的を話すことにする。

 何度も言い続けてきた事ではあるが、それでも、彼にはプロになって欲しいから。

 

「進藤。キミはまだプロになるつもりはないのか?」

「いや? なるよ、プロ」

 

 進藤は平然と答えた。

 アキラは頷いた。

 

「ああ、そうだろうな。キミはまだ……ってプロになるのか!?」

「お、おう」

 

 アキラの圧にヒカルは少しビビっていた。

 だがそんなことは気にしてられない。

 いつまでもキミを待っている、と改めて言うつもりだったアキラは面食らった気分で叫んでいた。

 

「い、いつから!?」

 

 院生の申し込みは、今日した。だからついつい釣られて言った。

 

「きょ、今日から?」

「今日!? 何があったんだ!? ボクが誘っても頑なに頷かなかったのに!!」

「いいだろ別に!!」

「いいや、良くない! 聞かせろ、進藤! 聞かせてもらうまでボクはここから動かない!」

「そーかよ、じゃあオレは帰る!」

「まっ待て、進藤!」

「動かないんじゃなかったのかよ!」

「それは! キミが動くなら話は別だ!」

「あーもう! めんどくさいな!」

「なっ! 友人に対してその言い方はないだろう!?」

「あーほんともう! お前はオレのかーちゃんかよ! 人のプライベートに首突っ込んでくんな!」

「プライベート!? 待て、何があったんだ!?」

「うるさいなー! あっ、ねーちゃん。ゴメン、オレ帰る!」

「あらそう? お友達とは……、随分仲が良さげね」

「良くねーよ!」

「……進藤、それは、少し酷いんじゃないか……?」

「うっ! いや、その……」

「うふふ、ごめんなさいね。仲良しだと私は思うわよ? ──あと、もうすぐ夏休み終わるんだから、進藤くん、約束守ってね」

「ウン」

「よろしくね〜」

「進藤。約束って何だ?」

「お前には関係ねーの」

「あれもダメこれもダメと……、何ならいいんだ?」

「一局打ってやるよ、オレん家でいいか?」

「えっ! いや、それは、願ってもないが……」

 

 驚き、困惑。そして喜びの順番に表情を七変化させる塔矢に、しめしめとヒカルが笑った。

 

(くっくっく、コイツちょろいな)

『もうっ! ヒカルってば、悪い顔してますよっ』

(けど、お前も塔矢と打ちたいだろ?)

『それは、まぁ、そうですけど……』

(ならいいじゃん。オレは文句言われなくて嬉しい。塔矢は佐為と打てて嬉しい。佐為も塔矢と打てて嬉しい。だろ?)

『……今回だけですからねっ』

 

 怒ったふりをしながらも、喜色の浮かんだ表情までは隠せない。

 そんな佐為を見て忍び笑いを溢しながらヒカルは駆け出した。

 

「ホラ、行くぞ塔矢!」

「あっ、ああ。──今からか!?待て進藤!」

 

 二人の少年が仲良く連れ立って駆け出して。

 その背後では一人の幽霊がこれからの対局に想いを馳せて、機嫌良さげにスキップしていた。

 

 

 

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