神の一手   作:風梨

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約11000字


・修正点
修正前と流れは同じですが、一番大きな加筆を行いました。
書いていた話(棋院上層部の合否の話)を没にして、書いてなかった裏話的な受験シーンを新たに書き下ろしてます。



第6話

 

 

「──ヒカル、ヒカル! もう、着いたわよ」

「んぁ」

 

 車の運転席からの母親の呼び掛けに、ヒカルがぼんやりと目を開ければ、呆れたような母親が見えた。ヒカルのすぐ近くでは母親と同じように呆れ返っている佐為も見える。

 今日はなんの日だったか、と寝起きの頭でぼんやりと考えるヒカルに、佐為は憤懣やる方ないといった調子で腰に手を当てて頬を膨らませた。

 

『ヒカルってば、気を抜きすぎですよ。今日は絶対に受からなきゃいけない、院生試験の日なんですからねッ』

「ああ、そっか」

「まったく、この子ったら。──あかりちゃん、ほんとごめんなさいね」

「え! い、いえいえ、ぜんぜん大丈夫です!!」

 

 院生試験。

 それは日本棋院で執り行われる、保護者の同行も求められる試験だ。

 その事をあかりの両親と話し合って、紆余曲折を経て、ヒカルの母親である美智子が、二人の保護者として日本棋院に連れて来ていた。そうした事情もあってヒカルとあかりは今回の院生試験を同時受験することになっていた。

 

 その道中の車で寝てしまったと気付いてから、ヒカルの復帰は早かった。

 うーんと伸びをして、緊張でガチガチなあかりとは対照的な気の抜けた調子で続けた。

 

「そんな緊張すんなって。試験くらい楽勝だろ」

「……そりゃあ、ヒカルは受かるだろうけど……、私はわかんないもん」

「おいおい、お前を教えてんのは俺だぜ? それに、こないだ塔矢連れてきたとき、お前も打ったじゃん。あの塔矢が太鼓判押してんだから大丈夫だって」

「そ、そうだけど〜〜ッ」

 

 そうこう話しているうちに棋院の中に入る。

 エレベーターを上がって受付にまでくれば、試験申し込み書を渡してくれたメガネの恰幅のいい男の人が以前と同じように受付に立っていた。

 

「ああ、進藤くん、藤崎くんだね。今案内するよ」

 

 再びエレベーターに戻って6階にまで昇る。

 ──プロ棋士について少し勉強したヒカルはもう知ってる。

 この場所は、この日本棋院の6階は土日こそ院生が使っているが、普段はプロ棋士たちが対局に使っている部屋があることを。

 

(佐為。なんかいいな、ここ)

(ええ、いいですね)

 

 そんな部屋を、下駄箱付近から遠目に覗いて、ヒカルと佐為の二人は顔を見合わせて笑い合った。

 

 そんなヒカルを、あかりは見る余裕なんてなかった。

 下駄箱に靴を入れるのも、ガッチガチになった指先では難しい。指先の感覚がなさすぎて今自分が本当に靴を持っているのかどうかも怪しい。ゆっくり動かないと靴を落としてしまいそうだった。

 

 そんな二人の側を、一人の女の子が通り過ぎた。

 院生試験を受けに来た、ヒカルとあかりの二人組をチラリと視界に入れる。下駄箱に靴を入れ終えた二人組が、対局室を覗き込んで足を止めているのを見て首を傾げる。

 

(……二人同時に受験? 珍しいわねー)

 

 そんな二人組が何やら会話をしている。

 

「見ろよ、あかり。院生たちかな? 打ってるぜ」

「ほ、ほんとだね。塔矢くんも、プロ試験のときあそこで打ってたのかな……」

 

(塔矢!?)

 

 その名前が会話に出たことに驚いて、慌てて来た道を戻ってみたが、もう二人組は院生師範の篠田先生が待っている手合室に入って行ったようだった。もう影も形もない。でも、出てきた名前はとても忘れられない。

 

「……似た名前、とか?」

 

 自分で言っていて、ないないと思って苦笑いした。

 あの塔矢アキラの知り合いかもしれない、新しい受験者。新しい仲間でライバル。

 思わずゾクリとしてしまったのは、弱気からだろうか。

 

「……うん。しっかりしなきゃね」

 

 息を吐いて首を振ってから、茶髪の女の子──奈瀬明日美は廊下を進んだ。

 近い将来でヒカルやあかりと関わって行くかもしれない、まだそのことを知らない女の子だった。

 

 

 

 

 

「──まァ、もう少し力をつけてからおいでね」

「ありがとうございました」

 

 受験生の親御さんが、丁寧に頭を下げて去って行く背中を院生師範である篠田は見送る。

 落ちてしまったことがショックなのだろう。女の子は悔し涙が止まらない様子だった。

 篠田はそんな子をみて、応援するように優しい眼差しを向ける。

 

 囲碁は実力社会だ。

 院生の質を維持することももちろんだが、未熟な子が院生となってもあまり良いことはない。周りとの力量差に潰れてしまうことも多い。現実を知るには早い方が良いが、それでも早々に夢を壊してしまっては前途ある若者の未来はない。

 

 院生師範は、その辺りの機微を察する必要がある難しい立場だ。見込みがあると思っても、現時点の実力が不足しているのなら、あえて落とすことも多い。

 彼女を試験から落とすのも、今はまだ実力が足りていないだけ。

 この悔しさを糧にできるのなら、試験に落ちても伸びてくれるだろう。

 

(悔しさをバネに、ぜひ力をつけて欲しいですね)

 

「──篠田先生、最後の子がみえてます」

「ああ、ハイハイ。どうぞ、こちらへ。──二人同時とは、また珍しいですね」

 

 篠田は院生師範としてそれなりに長く勤めている。

 そんな経歴の中にも二人同時受験というのは記憶にないくらいだ。

 

「ええ、その、緒方先生の推薦もあったので……」

「そうですか、まあ、私は構いませんよ」

 

 話をしながら受験生の二人を室内に誘導する。先に席に着いてから、二人を座布団に促した。

 改めて視線を向ければ、男女が頭を下げていた。

 

「「よろしくお願いします」」

「はい、よろしく。──では、志願書と記譜を見せてください」

 

 まずは男の子の方から見てみることにする。

 ──進藤ヒカル。13歳。

 囲碁歴は二年。おじいちゃんに教わって囲碁を始めた。

 院生に興味を持ったのは一月ほど前に、塔矢アキラにプロ棋士になろうと誘われたから。

 

「塔矢アキラ!?」

「あ、はい。俺、なんか知らないけどアイツと会う機会多くって。持ってきた記譜もアイツと打った奴が多めです」

 

 言われてから、慌てて棋譜を見れば、塔矢アキラとの対局が2枚あった。

 内容は素晴らしいの一言だ。相手が塔矢アキラにも関わらず勝利している、というのもあったが何より内容が素晴らしい。

 鎬を削り合うような対局だ。

 

「1年くらい前にアイツと大会で打った棋譜と、最近打ったやつです。最後の一つは──」

 

 最後の棋譜。

 それを愕然としながら眺めて、右上に書いてある名前を見て思わず篠田は絶句した。なにせ──。

 

「塔矢の親父と打ったやつです。1年くらい前だけど」

 

 ──塔矢名人との一局だったからだ。

 もはや驚きを通り越して真偽を疑う話だ。

 だが、棋譜を見れば確かに名人だと唸らざるを得ない。これは確かに、篠田が知らない名人の棋譜だ。

 この時の進藤ヒカルの定石は妙に古いが、それにも関わらず、あの名人を中盤の展開で圧倒しているとは──。

 

「とんでもない話ですね……」

 

 興奮なのか、畏れなのか、自分でもよくわからない理由で激しくなった動悸を鎮めるためにも、もう一人の志願書と記譜に目を通した。

 ──幸いなことに、こちらの女の子は常識の範囲内のようだ。対局者には、ここにも塔矢アキラの名前があったが、内容はそれなりだ。さすがに進藤という子ほど隔絶した棋力は持っていないらしい。囲碁歴一年というのは驚きだが、思わずホッとした自分に少しの苦笑いが溢れる。気を取り直して咳払いをした。

 

「では、打ってみましょうか。進藤くんからで構わないかな」

「はい。──お願いします」

「お願いします」

 

 そう言った篠田の前で、進藤ヒカルは置き石も置かずに初手を打った。

 迷いがない様子でこちらの次手を待っている。……これも初めての経験だった。

 

「進藤くん、置き石はしないつもりかい?」

「え、置き石?」

 

 純粋に疑問を持ったような言い方だった。……いや、これは篠田の失言だった。

 普段なら微笑ましいのだが、彼の棋譜を見た篠田にそんな余力はない。

 結果だけ見れば、名人ですら、置き碁では彼の本当の実力を引き出せなかった。なのに篠田が彼に石を置かせるなど、それはもはや傲慢と言っても良い。それでも篠田がそう発言してしまったのは、まさか試験手合で石を置かないとは思ってもおらず、つい言葉が口をついてしまったからだった。事情があるとはいえ、未熟を恥じて僅かに赤面した。

 

「……いや、そうだね。置き石はなしで打とう」

 

 院生受験の試験手合。

 まさかこの場所で、本気で掛からねばならない相手と打つことになるとは。

 ──これまでの常識が覆るような、そんな衝撃だった。

 

(もし、もしも塔矢アキラが院生になろうとしていれば、こんな緊張感だったのかもしれませんね)

 

 訪れなかった未来を想像するように、篠田は目の前の進藤ヒカルの姿に、塔矢アキラを重ねていた。

 院生師範として、導くべき子供を前に無様なところは見せられない。子どもたちの未来を伸ばす者として、篠田は力強く応手を返した。

 

 

 

 藤崎あかりは、目の前の光景が信じられなかった。

 ヒカルは強い。そんなことはわかっていた。あの塔矢くんが必死になって追いかけるほどの実力を持っているのだから。

 

 大会でも、自宅に遊びに来た時もそうだった。

 互先で打っている塔矢くんはヒカルに一度も勝つことが出来なかった。

『プロ棋士合格を決めた塔矢アキラ』が、ヒカルに一度も勝てないのだ。

 

 だからヒカルの実力は現役プロ棋士たちを前にしても見劣りするものじゃない。

 頭ではわかっていたつもりだった。

 

(でも、まさか。──篠田先生って、七段だよね)

 

 七段。

 それは末席とはいえ、高段者と呼ばれる者の立ち位置だ。

 木曜日は高段者たちだけの手合いがあって、そこに参加できる基準が最低七段。

 リーグ戦の予選などでだけ、低段者がこの曜日に訪れることもあるがそれ以外では縁がない。そんな場所に普段から身を置いているのが七段以上だ。

 

 そんな七段が、いま、あかりの目の前で翻弄されていた。

 

(すごい。篠田先生、そんな狙いがあったなんて。……決して弱くなんてない。なのに、私がそれに気づいたときには、ヒカルはもう対処し終えてる……。篠田先生が、必死に応戦してる……?)

 

 盤面は次々に移り変わる。

 ヒカルはそれを楽しそうに捌いて行く。

 果敢に攻めては、まるで綱渡りのような道を、信じられないくらい正確に、一手も誤らずに進んでいく。ゾッとするほどの読みだった。

 

 ヒカルの棋力を篠田先生が甘く見積もっていたとは思えない。

 あの3つの棋譜をみた後に油断なんてできる訳がない。

 それでも篠田先生はヒカルに及んでいない。

 

(ヒカルは篠田先生を……)

 

 ──確実に、上回っている。

 ただの中学生。それも2年前に囲碁を始めたばかりの、囲碁部に通っていた少年がプロ棋士の高段者を倒す。

 それがどれほど荒唐無稽な話であるのか、プロ試験を受けるにあたって色々と勉強したあかりにはよくわかっていた。

 

 このヒカルが、あかりのライバルで、そして師匠なのだ。

 恐ろしいような、嬉しいような、不思議な感覚が身を包むのを感じながら、あかりは終局までをヒカルの側で見守るのだった。

 

 

 

「──ありません」

「ありがとうございました」

 

 頭を下げたのは篠田だった。

 表情は半ば引き攣って、掌にはじっとりと汗が滲んでいた。だがその感情を色を明示するなら、喜色だった。

 ハンカチを取り出して拭いつつ改めて目の前の少年を見る。

 

 ──対局中にヒカルから感じた、古豪が如き威圧感は霧散していた。

 機嫌良さそうに石を片付けている姿は対局に勝って喜んでいる、至って普通のどこにでもいそうな、ただの子供だった。

 

 そのことに末恐ろしさを感じる。

 この年齢で、これほどの強さを持っている。目の当たりにした事実に、篠田は半ば興奮状態だった。

 

 塔矢アキラよりも強い子供が院生になろうとしている。

 喜ばしいことだ。うまくいけば院生全体のレベルが引き上がる。

 

 ──だがそこで篠田はふと嫌な予感を覚えた。

 プロの卵である子供たちならば、彼を、進藤ヒカルを乗り越えるべき壁と捉える子は伸びるだろう。もしも付いていけずに棋士を諦めてしまうのならば、碁打ちが職の潰しが効かない以上は、それもまた早い方がいいのだから。

 だが周囲の大人たちはどう考えるだろうか。諦めてしまった子供達は、その親たちはどう思うだろうか。それを思うと篠田は冷や水を浴びたような気分になった。

 

 先ほど不合格とした受験生の女の子を思い出す。

 彼女は実力不足から他の院生たちに着いてこれないと考えて不合格とした。

 

 それは相対的なもので、現在の院生という比較対象が存在する実力不足だ。

 極論を言えば、彼女が不合格なのは院生との『実力差が開きすぎていた』からだ。

 

 そして進藤ヒカル。

 この子は、不合格の少女とは逆の方向に振り切れている。あまりに強すぎるのだ。

 篠田としては不合格になどしたくはない。

 だが子供たちの才能を守り育てることを信条とする者の中には、そんな劇物にも似た実力者を院生として受け入れることに抵抗がある者も少なくないだろう。

 

 以前棋院では、塔矢アキラが院生となるのなら受け入れるのか、という議題が出たことがある。

 結果として周囲の反応は賛否で二分されていた。彼は院生にならなかったためそれ以上の話は進められなかったが、やはり実力がありすぎるという懸念が噴出したのだ。

 そんな事情を、それを、目の前の少年にどう説明すれば良いのか。

 

 そう思い悩んだのは一瞬だった。一緒に受験しに来た藤崎あかりに、自慢げに鼻を擦っている少年の姿を見て篠田は表情を綻ばせる。

 ……大人の事情など、子供である彼に知らせる必要はない。彼にはのびのびと打ってほしい。

 

「──いいでしょう。来月から来なさい」

「よしっ」

 

 嬉しそうにガッツポーズを見せるその姿は、篠田にはただの子供にしか見えなかった。

 そんな子供が、あれほどの実力を持っている。素晴らしいことだ。彼がその才能を腐らせるようなことがあってはならないと、改めて篠田は強く感じた。

 そして次に篠田が視線を向けたのは、緊張でガチガチに固まっている同時受験の少女だった。微笑ましい気持ちになりながら、篠田は改めて審査するべく、少女と盤面で向き合うのだった。

 

 

 

 

「──はぁ? 試験受けに来たやつが、先生より強いって? しかも塔矢アキラのライバルぅ? ……ソイツなんで院生になるんだ?」

「いや、オレもそう思うけど、本当なんだって。受付の人が言ってたもん」

「ねえねえ、それって今日から来る新しい子のことでしょ? 何でも二人いて、二人一緒に試験受けて二人とも合格したらしいよ」

「聞いたことねえよ、同時受験なんてさ」

「だろ。けどさ、一人がそれだけ強いなら、もう一人も相当強いんじゃないか?」

「うっわ、ここに来てまたライバル増えるのか……」

「しかも、二人ね。私たちもウカウカしてられないわ」

「でさ。これ噂なんだけど。あんまりに強すぎるからって院生にするかどうかで揉めたって……」

「なにそれ? 嘘でしょ?」

「でも火のないところにって言うし、本当だったら凄いよね」

「じゃあ、院生にはせずにプロにするって話?」

「ううん、プロ試験以外に特例は設けられないから、制限を設けるとか何とか……」

「……制限?」

「うん。何でも本気出しちゃダメって──あ」

 

 話し合う院生たちの視線が一点に集中した。

 エレベーターから降りてきた、二人の男女。あかりとヒカルだった。

 まさに自分達の話題が噂になっている、と察してしまって二人とも顔を少し赤らめながら靴を脱いでそそくさと対局場に移動した。

 あかりが『ひーん』と言いたげな表情で弱音を吐いた。

 

「ひ、ヒカル。なんか凄い噂になってるよ!? 私そんなに強くないのに!」

「お、落ち着けって。打つだけだろ? いつもと変わんねーよ!」

 

 くすりと笑った佐為が呟いた。

 

『そういうヒカルも緊張してません? 声が少し上擦ってますよ』

「ぐっ!!」

 

 佐為の言う通りヒカルは少し緊張していた。

 何せ棋院からの依頼を断ってまで、きちんと打つことに拘ったからだ。篠田先生はのびのびと打ってほしいとだけ言っていたが、別の、顔しか知らない人からの依頼を思い起こしながらヒカルは頷いた。

 

『けど、意外でしたね。ヒカルってば、てっきり依頼を受けてオレが打つ! とか言うと思ったのですが』

(やんねーよ、そんなこと。打つのは楽しいけどさ、佐為の見てる方がもっと楽しいもんな)

『……ひ、ヒカル……!! そんなに私の碁を買ってくれて──』

(それに負けまくったら恥ずいだろ。あかりになんて言われるかわかんねーもん)

『……ええ、そうでしたね。ヒカルはまだまだ子供……。私、失念してました』

(なんだよ)

『いーえ、何でも。私は未来ある若人と好きなだけ打てる訳ですから、文句など出ようはずもありません。……はぁ早く打ちたいものですね』

(もうすぐ打てるって)

 

 佐為と話しているうちに、あかりも少し落ち着いたらしい。

 少し表情が固いがそれでも笑顔を浮かべられるくらいにはなっていた。

 

「じゃ、じゃあ。ヒカル、また後でね」

「おう、トイレの場所は確認しとけよ」

「も、もぉ!! ヒカルのばか!!」

 

 顔を真っ赤にしたあかりを見送る。

 ヒカルの冗談なんて無視してもいいのに、廊下に出てちょっとだけ確認していた。

 素直である。

 

『ヒカル……。女性に対してあの物言いは如何なものでしょう。緊張を解す目的とは言え、少し言い過ぎでは?』

(いーんだよ、実力出せない方がカワイソウだろ)

『それは……そうですが。可哀想なあかり』

 

 しんみりとした瞳で廊下の先を見据える佐為がふと振り返って鋭い視線を向けた。

 そこには続々と入室してくる院生の姿がある。彼らに感化されて佐為も研ぎ澄まされた気配を纏いつつあった。

 

『──ヒカル、本当に私が打っていいんですか?』

(いいって言ってんじゃん)

『……院生のレベルに棋力を合わせて、その上で勝率を8割以下で抑えるように。それだけの指示ですが、本当に守らなくていいんですね?』

(いいよ。だって、負けるのは好きじゃない)

『……ですね。私も好きではありません。──ですが! もちろん、若人の芽を摘むのは本意ではありません。そこは私たちが全力を尽くして、皆を引き上げるとしましょう!! ね、ヒカル!』

(ほどほどにしてやろーぜ……)

 

 毎日毎日、嫌と言うほど佐為と打っているヒカルは普段の数倍気合いの入っている佐為の姿を見て苦笑いした。

 こりゃあ、えらいことになりそうだ、と。

 

 

 

 

「──あ、ありがとうございました」

 

 院生2組で5位。

 院生の中ではそこそこと呼べるウデを持った少女である内田は、プロとの指導碁を終えた後のように深々と頭を下げた。

 

 自分の実力をまるっきり全部引き出せたとき特有の、胸の芯に残る、熱いけれど爽快感のある疲労が心地良かった。

 

 その心地良さとは別に、気持ちが高揚して頬は僅かに赤らんでいる。

 打ち初めて定石の段階でもう理解できた。

 あ、この人は格が違う、と。

 

 定石なんて知っていれば誰でも打てるもの。

 だから、内田が感じたそれは錯覚に過ぎないが、その後の戦いと死活、オオヨセから終局までを迎えて、その直感は間違っていないと確信出来た。

 

 だから理解できる。

 あえて力量を内田の少し上で抑えて、導くように一手一手の反応を引き出してくれているのが。

 内田の数段上の実力がなければ不可能な芸当。

 アマチュアがプロに指導碁を打って貰って喜ぶのと同じように、隔絶した実力差は悔しさよりも感嘆を生んだ。

 同年代で、ここまでの碁を打てる人がいるんだ、と純粋な驚きと尊敬があった。 

 

 だから『負けました』ではなく『ありがとうございました』という言葉が口を突いた。

 それを眺めていた周りの女子たちが『キャイキャイ』と口々に話題にする。

 終局までを丁寧に打ったために、その間に終局していた大勢が集まって来ていた。

 

「す、すごいね。進藤くんって」

「うん。内田さんがあんなに気持ちよく打ってるの久しぶりに見たかも……」

「いーなー。私も打ってもらいたいー」

「……顔も、悪くないよね」

「あ、コラ。そーゆーのなしでしょ。ここは囲碁するための場所なんだから」

「あはは、ごめんごめん」

 

 囲碁に集中しているときは外野の声は聞こえない。

 けれど終局してしまえば聞こえる。

 そのため顔を赤らめたヒカルがそそくさと盤面を片付けて立ち上がった。

 

「お、オレ次行くから」

「う、うん。また打ってね」

「──ああ、いい碁だった。また打とうぜ」

 

 笑ってそう言ったヒカルに、内田はコクコクと何度も頷いた。

 そんなヒカルの姿を遠巻きに見ていたあかりが頬をぷっくら膨らませていた。

 

 

 第二局。

 

「……。ありません……」

 

 ヒカルと同年代の少年が、顔を伏せながら投了を告げた。

 盤面はまだオオヨセが残っている。

 形勢はまだ五分五分であるので投了の判断はあまりにも早計。

 しかし相手が投了するなら勝者は受け入れるのがルールだ。

 少し動揺しながらもヒカルは頭を下げた。

 

「あ、ああ。ありがとうございました」

「……ありがとうございました」

 

 少年はそう言い残してお昼のために席を立った。

 盤面には石がそのまま残っている。

 少し釈然としない気持ちで相手の石までヒカルが片付けていると、別の少年から声がかかった。

 ツンツンとした頭に勝気な表情を浮かべている少年だった。

 

「──アイツ、負けそうになると不貞腐れるんだよな。もうちょっと粘れば上にいけるってのに、勿体無い奴。さ、メシだメシ。片付けちまおう」

「ああ、サンキュー。そりゃ勿体無いよ。打てるだけで十分だろーにさ」

「あはは、なんだオマエ。爺さんみてーなこと言うじゃん。──オレ、和谷って言うんだ。進藤って呼んでいいか?」

「いいよ。って、和谷は、1組だろ? 2組のオレのとこ来てていいのか?」

 

 ヒカルのセリフに、和谷はにやりと笑った。

 

「お、きちんとライバルのチェックはしてるってわけか。そういう奴は嫌いじゃないぜ。けど、別に1組と2組で分ける必要もないだろ? それに、オマエならすぐ上がってきそうだし。メシは決まってんのか?」

「あー、どーしよっかな」

 

 あかりが一緒に行くだろ、とそう思って視線を巡らせれば、茶髪の女の子と楽しそうに会話しながら玄関口に消えていくところだった。

 ピクピクと眉間を引き攣らせて端的に答えた。

 

「……行く」

「そうこなくっちゃ。──おーい、伊角さーん。メシいこーよ」

「おお? 一緒行くか。けど、奢らないぞ?」

「そんなの期待してないって!」

「ははは、ならいいぞ」

「ったく。進藤、オマエなに食う? 弁当でいいか?」

「あ、うん。コンビニで買うつもりだけど」

「じゃ、決まりだ。──色々話聞かせろよ」

 

 大魚が釣れたとばかりに、和谷が自信満々にニヤリと笑みを浮かべた。

 

 

 

 コンビニで買った弁当の入ったビニール袋を片手に下げながら、和谷は驚きの声を上げた。

 

「──はぁ!? 囲碁歴二年ってマジなのか!!?」

「ウン。じーちゃんにお小遣い貰うために覚えてさ。そっから一年くらい後かな? そん時に塔矢と打って。いやー、びっくりしたぜ。同年代ってこんなつえーんだって思ったもん」

「そこまでオマエを育てたって、おまえのじーちゃん何者だよ……。てゆーか、同年代の基準をそこに持っていくなぁああ……!! ──塔矢は、あんちくしょうは例外!!」

 

 ビシッとヒカルを指差す和谷に笑って答えた。

 

「あはは、わかってるよ。アイツがすげー奴ってことくらいさ。──あと、別にじーちゃんは強くないぜ。オレの師匠は秀策だから」

 

『生まれ変わり』って奴か。

 そう聞こうとも思ったがまだ出会って1日目だ。いきなりぶっ込むのも違う。

 一息入れて和谷は好奇心を押し殺した。

 

「……秀策ねぇ。棋譜でも並べたのか?」

「まー、そんな感じかな」

「ふーん。……ま、オマエの強さは1組に上がってくれば嫌でも分かるか。その時を楽しみにしてるぜ」

 

 上から目線に笑って見せた和谷だったが、すぐ横から声をかけられる。伊角だった。

 年上の余裕を感じさせる、少しだけ冗談じみた口調で揶揄う。

 

「おいおい、和谷。そろそろオレも会話に入れてくれよ」

「あ。ごめん、伊角さん。オレばっか盛り上がっちゃって」

 

 バツが悪そうに頬を掻いた和谷を見て、伊角は苦笑いしながら首を振った。

 

「いいよ、気持ちはわかる。──なあ進藤。オレも聞きたかったんだけど、まぁ塔矢とのことなんだけどさ。どこで会ったんだ? そう簡単に会える奴じゃないだろ?」

「ええっと、そう。うちの近所に囲碁教室があって──」

 

 質問攻めにされるヒカルと一緒に、佐為も楽しげに笑っていた。

『そんなこともありましたねぇ』とヒカルと一緒に思い出しながら、自分も会話に混ざっているような心地で楽しんだ。

 囲碁で繋がっていれば、ヒカルと共に過ごした日々は他の者とも共有できる。

 そんな温かい日常の風景がそこにはあった。

 

 

 

 それから数週間が経った。

 院生が集まるのは毎週日曜日と第二土曜日。

 ヒカルの対戦記録には白星が12個並んでいた。対戦記録を見た和谷が大きな声を上げる。

 

「──うっひゃあ、マッシロだな。1組にもすぐ上がって来れそうじゃん」

「へへっ、和谷先輩に胸を借りる日も近いかもね」

「こんのヤロー。来たら叩きのめしてやるよ。──って言いてーけど、返り討ちに遭いそうなんだよなー。ねぇ伊角さん」

「おいおい、そこでオレに振るなよ。まぁ、和谷と同意見なんだけどさ」

「負けるな1組! 新参者の進藤に目に物見せてやる! ……くらいの意気込みでさー、ひとつ頼むよ伊角さん」

「それなら、オレよりも適任な奴がいるだろ? ──ほら、越智とかさ」

「院生順位1位がなに気弱なこと言ってんのさー」

 

 そんな会話をしていると、一人の神経質そうなメガネを掛けた少年がやってきた。

 

「ボクのこと呼んだ? ──ねぇハンコ押すから、そこ退いてくれるかな」

「あ、ごめん」

 

 素直に退いたヒカルに、ハンコを用意しながら越智が話しかけた。

 

「キミ、塔矢のライバルなんだってね」

「ウン。なんか、そういうことみたい」

「そういうことみたい? ふーん、なんだ。塔矢も嫌味な奴だったけど、キミも相当嫌なヤツだね。無自覚って一番タチが悪いらしいよ」

 

 それだけ言い放って、自分の名前の下に白のハンコを押して越智が去っていった。

 少し唖然としながらヒカルが聞いた。

 

「アイツ、誰?」

「越智。お前の3ヶ月前に入って来て、1組3位。ま! いっつもあんな調子なんだ、気にすんなよ。……まぁ塔矢が嫌味な奴ってのには同意するけどな!」

「あー、塔矢ってここだとそんな感じだったんだ?」

「ここっていうか、プロ試験で、だよ。全勝であっという間にプロになりやがったんだ。今までプロになる素振りも見せなかったくせにさ。──塔矢のライバルだったオマエなら、知ってるだろ?」

 

 軽い話題。

 そんな調子でヒカルに問いかけた和谷だったが内心は興味津々だった。

 

「あぁ。どうだったかな? そういや聞いたことないや。アイツと会うと打ってばっかだもんな。……こないだもオレん家で打ったんだけど、時間忘れるくらい打ってさ。気付いたら夜で慌てて塔矢に電話させて、迎えの車来るまで早碁打って。打ってばっかだよ、ほんと」

「そ、そうか」

 

 今まで名前しか知らなかった『進藤ヒカル』が塔矢アキラのライバルという話は本当だった。

 囲碁歴二年も、塔矢名人に勝った噂も本当。

 なら。

 進藤ヒカルが『sai』だという予想も当たりだろうか。

 

「なぁ進藤。お前──」

「席についてください。対局を始めますよ」

「あ、やべ! 和谷、オレ行くからな」

「お、おう」

 

『sai』って知ってるか。

 そう聞こうとした言葉は形になる前に溶けて消えた。

 進藤ヒカルの背中を名残惜しげに見つめた後、和谷はかぶりを振って自分の席に戻っていった。

 

 

 





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