神の一手   作:風梨

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第7話

 

 

 

 藤崎あかりは目の前の碁盤を睨みつけていた。

 自陣の模様は芳しくなかった。形勢判断と比例するように、眉間に険しい皺を寄せながら考える。

 ヒカルは盤上で的確に急所を突いてくる。あかりは必死で抵抗していたが、厳しい攻め手の連続によって、もはや勝負の行方は明白だった。これ以上手数を増やしても無意味な延命にしかならない。あかりはそれを理解する。

 それは見切りが出来るほどにあかりが成長した証でもあるが、悔しさに拳を握りしめる。あかりがプロ棋士を志している以上、それはあくまでも通過点にすぎないから。

 

「ありません……」

 

 だから溢した言葉には悔しさが滲む。

 ため息を堪えるために、あかりは奥歯を噛み締めて、それでも終局を迎えれば次は検討だ。失敗は成功の元と捉えて、トッププロ並みの実力者(ヒカル)と打っているせっかくの機会を生かさなければいけない。あかりのために時間を作ってもらっている以上は落ち込んでいる暇なんてない。なんとか頭を働かせて、ヒカルの言葉に耳を傾ける。

 

「ここでちょっと踏み込みが甘かったよな。オレの厚みを恐れての一手だと思うけど、それならこっちに効かせてる一手を伸ばした方がよかった。ここにお前の黒があると、オレはどうしても少し固い打ち方になるから、それを狙いつつ、石を伸ばしていくべきだったな。あるいは、さっき踏み込みが甘いとこをキビシク攻めていくべきで、理由は……」

 

 意識を切り替えたつもりだった。それでも集中しきれていない。

 気付けばあかりの思考は支離滅裂に、ああしたらよかった、こうしたらよかったと後悔一色になっていて──。

 

「──あかり。聞いてんのか?」

 

 そう言ったヒカルの顔が思ったよりも近くに来ていた。

 

「うっ……ごめん」

「お前なぁ」

 

 ちょっと呆れて見せて、でもすぐに仕方なさそうにヒカルは笑った。

 

「ま、根も詰めすぎてたし、そろそろ休憩するか。母さんに、なんか食いもん貰ってくる」

 

 その言葉は紛れも無い優しさだった。

 暖かいヒカルの優しさに、席を立とうとしたヒカルに思わず言っていた。

 

「……ちょっとだけ聞いていい?」

「いいけど」

 

 集中しようとして、それでも集中出来ていない。

 不甲斐ない自分を責めるつもりであかりは両手を膝の上で握った。思い出すのは院生の成績表だった。ヒカルは、院生になってから白星しか得ていないのだ。それはつまり──。

 

「次の週から、ヒカルってば1組なんでしょ?」

「ああ、そう言われてるけど」

「……私、まだ2組で。最初の連敗からは抜け出せたけど、白星もチョコチョコしかないじゃない? 勝てるようになったって思ったら、また負けが増えたり……。本当に、成長してるのかなって。ヒカルから見てどう思う?」

 

 あかりの疑問。素朴というには些か込み入っている問題だった。

 それを聞いたヒカルは少し考え込んで、けれどその背後にいる幽霊──佐為は少し悩ましい表情をした。

 

(少し、ヒカルに甘えすぎていますね)

 

 真剣勝負の場で、この甘えは致命傷に成り得る。その懸念が拭えなかった。

 

 けれど、あかりは真剣だった。

 改善するために何かないか探している瞳。

 ヒカルは甘えとは思わなかったようで、佐為に確認するように視線を上げた。

 

(佐為。あれだよな?)

『……はい、アレですね。今日の対局で確信しました』

 

 佐為にも確認が取れたので、ヒカルも佇まいを少し正した。

 

「お前って、ほぼ毎日オレと打ってるよな」

「うん」

「囲碁部に顔出すこともあるけど、最近はもっぱらオレとばっか打ってる。だからお前の実力は伸びてるよ。それはオレが保証する。けど、2組で僅差で勝ち切れないのは、オレとばっか打ってるからだ」

「ええっと、でも、強い人と打てば打つほど強くなれるでしょ? 逆じゃないの?」

「打ち方にもよるんだよ。──お前、オレの一手が恐いだろ」

「えっ」

 

 言い当てられた事に、あかりは思わずドキリとしてしまった。

 ヒカルはにやりと笑う。

 

「ここに打ったら、こう来るかもしれない。そういう危機予測は大事さ。けど、恐がってちゃ打てない手もある。前のお前なら、その、指で石逃がすみたいに突拍子もないことも果敢にやってきたけどさ。院生になって周りのレベルが上がったのもあるか? まぁそれに合わせてお前も強くなって、そういう果敢な手の恐さが見えるようになってきてるんだよ」

「うっ、あれは、忘れてくれると嬉しい、かも……?」

「忘れられっかよ。伊角さんなんか、それは個性的だねって苦笑いしてたぜ。和谷は食いかけの唐揚げ落とすくらい呆然としてたけど。あの、嘘だろ、って顔。あれは傑作だった」

 

 くっくっく、と忍び笑いを溢すヒカルに、恥ずかしさのあまり猛烈に顔が熱くなる。言った、言ったの!?あれを!?伊角くんたちに!?

 

「話を戻すとだ。お前がやるべきことはハッキリしてる。見極めてギリギリまで攻めるんだ。お前は強くなってる。その上で果敢さを取り戻せよ、お前ならやれるだろ」

 

 打って変わってヒカルは真剣な表情だった。

 そんな期待の言葉を向けられれば、頷く他ない。自分を信じてやってみる。そう思って頷いた。顔は、まだ熱いけど。

 

「……うん。やってみる」

「よし! もう一局打つぞ」

「はい!!」

『わぁい♡対局対局♡』

 

 佐為の懸念は指摘されなかった。

 まだその時ではないからだ。

 今は伸び伸びと打たせて、実力を伸ばすべき時だった。

 

 その日は夜遅くまで対局を続けた。

 部屋の明かりがいつまで経っても消えずに、ついに自宅にあかりの母親から電話がかかってきてようやく解散した。

 終わる頃には脳を酷使しすぎて『ヘトヘト』になっていたあかりだったが、少しずつ、少しずつ。確かな手応えを掴み始めていた。

 

 

 

 

 

「──新初段シリーズ?」

「ああ。って知らねーの……?」

「うっ。いや、アハハ」

 

 場所は棋院の、院生たちが普段碁を打っている座敷だった。

 呑気な笑い声をあげているヒカルに、和谷は呆れていた。

 

「ったく。今日だよ、今日。『幽玄の間』であるんだ。お前のライバルと座間王座の新初段シリーズ。マジで知らねーの?」

「いやぁ、オレってば打つことしか興味ないからサー」

「そーかよ。まぁ新人とトッププロが対局するイベントってワケだ。逆コミで新人が5目半貰って黒番を握る」

『ほー、面白そうですね』

 

 佐為が興味津々と言った調子で会話に入ってきて、ヒカルも同調して頷いた。

 

「へぇ、それなら塔矢が勝つんじゃないか?」

「ああ、新人に花持たせる事もあるし、勝ったり負けたりって感じだよ。観戦もできるし、後で寄ってみるか?」

「お、いいじゃん。行く行く」

「対局室は、やめとくか。観戦だけで勘弁しろよな」

「ああ、サンキュー」

「ん。──そんじゃ、ようこそ1組へ」

 

 和谷の背後には、今まで見えない仕切りで隔たれていた向こう側。

 1組のメンバーたちが続々と集まって対局の準備をしていた。

 

 その光景に新しいメンバーとの手合わせを想像して、ヒカルは強気な笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 1組に上がった進藤ヒカルの最初の対局相手は、奈瀬明日美だった。

 

 ついに来た、と。

 奈瀬の胸中にはそんな張り詰めた気持ちがあった。

 

 あの塔矢アキラのライバルという話は知ってる。

 藤崎さんとは数少ない女子ということもあってすぐ仲良くなったから、詳しい話も聞いている。二組にいた時から、対局も注目してきた。確かに強い。それも今更だけどわかってる。

 

 それでも、奈瀬だって、院生一組として努力し続けてきた自負がある。囲碁が好きで、一生を囲碁に捧げたいと思うからこそ、まだこの場に座ってる。

 簡単に負けるもんですか、と挑んだ対局だった。だが呆気なく奈瀬の敗北で終わってしまった。

 驚くほど簡単に、もうどうしようもないくらいに完膚無きまでに叩き潰された。なにせ()()()を打たれたのだから。

 そのことに悔しさはある。──でも、また後輩に追い抜かれたと噛み締める唇は、そこにはなかった。

 

「ん〜〜〜!! ここ、さすがに入りすぎじゃないの!? アタシが応手間違えた?」

「だなー。ココとココを、このタイミングで切ったのがマズイ。まぁそれがなくても、コウ争いに持っていく手もあるし、今回みたいに伸ばしていく手順もあるから、左辺に展開する前にこっちを守るべきだった」

「……うん。いや、そっかー、見落としてたなー。でも、ここで受けたのは上手かったと思うんだけど、進藤から見てどう?」

「ああ、奈瀬のそれは良い手だったよ。オレの狙いを読めてたよな」

「だよね!? ──って負けてるんだけどね〜」

「でも、楽しかったろ?」

 

 ニカっと笑った進藤がそう言った。

 奈瀬は目を丸くして、改めて盤面に視線を下ろして対局を思い返す。全力を出し切って、それでも負けてしまった対局を。

 悔しさはある、当然だ、負けるのが好きな人なんていない。

 院生として打ち続ける中で、結果が出ない苦しい時だってある。奈瀬は若い。学校の友達のように、16歳の少女らしく遊びたい時だってある。全部が全部、上手く言ってるなんて口が裂けても言えない。どっちかと言えば、苦しいことの方が多い。

 

 それでもやっぱり囲碁が好き。

 どうしようもないほど囲碁から離れられない、自分自身の(さが)を確信して、奈瀬はふんわりと微笑みを見せた。

 

「うん、楽しかった。……あかりちゃんは、進藤と毎日こんな碁打ってるの?」

「まぁ基本毎日だよな。家近いし、学校終わりとかでも結構時間あるからさ」

「ナニソレ。めっっちゃ羨ましいんですけど……。ねぇ、もう一人さ、可憐な美少女を参加させるつもりとか。あったりしない?」

 

 コソコソっと口元に筒のような掌を形作りながら、半ば以上に冗談めかした奈瀬に、ヒカルは軽く笑った。

 

「まぁあかり次第だな。考えとくよ」

 

 ヒカルの、あからさまな社交辞令に苦笑いして奈瀬はそのまま検討に戻った。幾つかの手順をヒカルに解説してもらう。

 中押しで終わった事もあって、2局目までの時間が残っているからだった。

 そうして話し込んでいると、周囲も気になって集まってくる。そんな中に、本田もいた。真面目な顔立ちに、緊張を色濃く滲ませながら、思わずといった調子で呟いた。

 

「……進藤って、マジで強いな……」

「本田、お前、ビビったのか」

 

 慄いている本田に声を掛けたのは飯島だった。

 七三にした髪型にメガネをかける姿は神経質な印象を与える。そんな飯島をチラリと見た後に、本田も少しバツが悪くなって頬を掻いた。

 

「まぁ、気後れはするよ。だって、あの塔矢のライバルだぜ。オレなんて塔矢の雰囲気にのまれちゃって、前回の試験で完敗だったし」

「バカ言うなよ」

 

 会話に割って入ったのは和谷だった。

 盤面を見ながら、少しの汗を流しつつも強気の笑みを浮かべていた。

 

「上に行こうと思ったら、才能より努力より、とにかく強い人に1局でも多く打ってもらう事! これが一番なんだよ。プロになるんなら、こんなとこで足踏みするわけにゃいかねーんだ。頼れるもんは何でも頼ってやる。──進藤、今日の二局目はオレだぜ。手加減なんかしたら許さねーからな」

「……ああ。胸を借りるぜ、先輩!」

「コイツ、言いやがって!」

「あいたたた! ぎぶぎぶ!」

 

 軽いプロレスごっこを始めた二人を見ながら、飯島は拳を握っていた。

 

(……1局でも多く打ってもらう事? バカ言え、それで自信を失ったら元も子もないだろ。そんなに強いんなら、さっさと外来受験でも受けてプロになれば良い。なんだって院生なんかになったんだ、コイツは。……オレは、好きになれない)

 

 ヒカルを認める者がいる一方で、認められない者もいる。

 各々が若い反応を示す中で、『進藤ヒカル』という劇物をどのように扱うか。

 その一点が問われる流れが出来つつあった。

 

 その実力に真っ向から立ち向かう者。

 打てることに喜びを見出す者。

 悔しさを胸に奮起する者。

 才能の差を知って膝を折る者。

 碁の内容ではなく、ソレ以外の粗を探してしまう者。

 多種多様、まさに人様々だった。

 

 ──プロ棋士の卵とも呼ばれる院生が、実際にプロ棋士となる確率は大凡5%であると言われる。プロ棋士の卵である彼ら彼女らですら、成れる者は1割に満たない。可能性はたったのそれだけしかないのだ。

 つまり、その内の95%は夢破れて一般社会に戻る。

 そんな狭き門を潜り抜けた者がプロ棋士だ。

 

 そして、その他の職業と違って『碁打ち』は潰しが効かない。諦めた先には、これまでの努力や軌跡がほとんど何の役にも立たない、新しい真っ白な人生が広がっている。現代の学歴社会の中で、貴重な子供時代の全てを芸能に費やして、尚も報われない子供達の末路はあまりにも悲惨だった。故にこそ言われる。

 

 諦めるなら早いほうがいい、と。

 その道の苦渋を知る者ほど口々にそう助言する。

 

 これしか道がない、という一般社会から外れざるを得ない限られた者。

 あるいは桁外れの才能を持つ者にしか成れない職業。

 それが芸能職である。

 

 若い時間の全てを捧げてもプロ棋士に成れる者は極僅か。

 一体誰が、そんな可能性の低い夢を追いかけろと言えるだろうか。

 夢を追いかけた先で、一人の子供の人生が潰れるかもしれないと言うのに。

 

 夢は追いかけなければ叶わない。

 若いうちは夢を追い掛けろ。

 

 そのような耳触りの良いスローガンは毒にも薬にもなる。

 

 奮起できる内はまだいい。

 しかし、それに縋るようになっては引き時を見誤る。

 

 進藤ヒカルという劇薬はプロを目指す院生たちにとって毒でもあり、薬でもあった。単純に考えれば、プロ棋士のトップレベルが常日頃から打ってくれる環境に身を置くという事が、どれほど恵まれた機会であるかなど言うまでもない事だ。だが先入観は早々に捨てきれない。人は利だけでなく感情で動くから。

 

 チャンスと捉えるか。苦境と捉えるか。はたまた別の選択肢か。自らの感情を昇華出来るのか。

 このキッカケを活かせるか否かは本人次第。

 それもまた、才能なのかもしれない。

 

 

 

 

 

「──会話だってさ、塔矢くん」

 

 棋院の玄関前で、若い棋士とトッププロの会話が始まっていた。

 他でもない『塔矢アキラ』と『座間王座』だった。

 

「今日は精一杯戦わせていただきます。よろしくお願いします」

「ああ。こちらこそ、よろしく」

 

 座間は横目で、秘蔵っ子を眺めながら思う。

 ──塔矢名人の息子。

 ──鳴り物入りの新初段。

 ──以前からプロ並みと噂された待望の新人。

 ──プロ試験を全勝で突破した、将来性のある若人。

 

 そういう評価が気に障らないか、と聞かれれば多少は引っ掛かる部分があると答えるだろう。

 だがそうした思いとは別に、仕事は仕事だ。

 実力の伴わない、いわゆる広告を打ち出すための戦略にも、座間は理解がある方だ。むろん理解があるだけで、気に入らないとは思うが、この注目度の高いイベントでこの新初段をペシャンコにする訳にも行かない。それが大人の対応というものだろう。

 大人しく手を抜いてやるつもりで、多少の慢心から出た言葉を告げた。

 

「私の王座というタイトルにビビることはないよ。プロになったらみな一緒だ。気後れすれば絶対に勝てやしない。同じ初段だと思ってどーんと向かって来なさい」

 

 トッププロから声を掛けられれば、ましてや気遣う言葉を掛けられれば、新初段の大半は表情を綻ばせる。

 負けてやるから、せめてそのくらい可愛げのある表情は見せろ、といった無言の圧力ではあったが、塔矢アキラは気づかなかったのか、あるいは意図的なものだったのか。

 

「そのつもりです」

 

 整った顔立ちに微笑を浮かべてそう答えた。

 

 

 

 塔矢アキラの内面はただ一言に尽きる。

 ──挑戦。

 ただそれだけである。

 いまの自分が、トッププロに対してどの程度戦うことが出来るのか、知りたかった。相手は現王座のタイトル保持者。試金石と言うには些か相手が重すぎる。だがいずれ確かめねばならないことだ。それなら早いほうがいい。少しでも彼に近づくために、アキラはそう考えていた。

 

 彼──進藤ヒカルが院生になったことは既に知っている。

 ならばリアルタイムで自らの対局が見られる可能性も重々承知していた。遥か高みに座すライバルに、塔矢アキラの意思と実力を示す絶好の機会だった。

 

(……進藤。キミはまだプロではないが、その実力はトッププロにも引けを取らないと、僕はそう考えている。いや、確信してる。だからこそ……何よりキミに見せたい。この世界で戦っていくボクの覚悟を、キミに)

(……そのつもりだと? ナマイキなツラで言いやがる。……予定変更だ、全力で叩き潰す。可愛げのない坊主に灸でも据えてやる)

 

『座間王座』vs『塔矢アキラ』の一戦が、幽玄の間にて始まった。

 

 

 

 場面は院生たちの対局室にまで移る。

 ちょうど和谷とヒカルの対局は中盤に差し掛かっていた。

 

 思い悩むように和谷は顎に手を当てて考え込んでいる。

 そして碁笥に手を差し込んで一手を放つ。

 

 対してヒカルは気負わない。

 予期していた、と言わんばかりに即座に応手を返す。

 的確な対処に和谷が再び唸った。

 

(……やっぱ、コイツめちゃくちゃにつええ……。マジで進藤が『sai』なんじゃねーかってくらいだ。……けど、今は対局に集中しねーと。あんだけ言った後に、ポカして負けるのだけは勘弁だぜ)

 

 和谷は丁寧な碁を心掛けた。

 内容は終始押され気味だが、それでも立ち向かう意思は捨てない。

 棋力の差を盤面から感じつつも、実力を引き出されるがままにしっかりと打った。

 

(くっ、ギリギリで食らいついてるけど、それも限界か……? 手加減なしで打てとは言ったけど、それでもオレの応手を引き出すことはやめねえってことかよ。全力のオレを正面から受け止めて戦ってやるってか。そんな感じだぜ)

 

 重ねる一手一手は次第に重くなってゆく。

 堂々とした打ち方で受け止められる。

 まるで大地に根ざした巨木と押し相撲をしている気分だった。

 

 そして、満を持したヒカルから一手が放り込まれる。

 和谷の数少ない隙を突いた一手は急所を抉る。

 対処のために受け手を重ねるが、改善の見込みがない。

 これ以上の対局は結果が目に見えている。和谷は悔しながらに口を開いた。

 

「……負けました」

「ありがとうございました。さ! 塔矢を見に行こうぜ」

 

 ヒカルがペコリを頭を下げて、盤面を片付けようとして一瞬止まった。どこか考え込む和谷の様子に気づいたからだった。

 

「検討するんなら付き合うけど」

「進藤、いっこ聞かせてくれ」

 

 真剣な瞳で、和谷はヒカルを見ていた。

 悔しさを滲ませる様子はもうない。

 ただ聞きたいことがあった。

 

「な、なんだよ。急に改まってさ。……いいけど、ナニ?」

「去年の夏休み。インターネットにすげー強いやつが居たんだ。色々噂はあったけど、結局正体は不明のまま。──なぁ進藤。『sai』って、お前なのか?」

「……」

 

 その質問にヒカルは口をつぐんだ。これまでのヒカルなら、ああ、そうだけど。と無警戒に答えていただろう。

 だが今のヒカルは口を閉じる分別があった。

 塔矢を自宅に誘った時に言われたのだ。

 プロになるまでは『sai』のことは黙っていたほうがいい、と。

 

『緒方さんが言っていたけど、キミは話題になりすぎた。プロになれば棋院が対応してくれるけど、今のキミは無理だ。だから、今は黙っていたほうがいい。取材とか特集とか、指導碁の依頼とか、そんなの御免だろう? ……ボクも、結構悩まされたからね』

 そう言ってはにかんだ塔矢の言葉を思えば、ここで認めてしまうのは拙い気がした。

 

 だが、ヒカルは和谷のことを友人だと思っている。

 嘘を吐くのは嫌だから、沈黙という回答になってしまった。

 

「……いや、悪い。忘れてくれ」

 

 和谷は苦笑いしながら質問を取り下げた。

 ヒカルの表情から全てを読み取った訳ではないが、言えない事情があるんだろう、と察することは出来た。

 

「お前は強い! オレが知ってればいいのは、それだけだよな。さ! 塔矢アキラの碁を見にいこーぜ」

「あ、ああ! ……わりー、和谷」

「気にすんなよ。遠慮なしに聞いたのはオレの方なんだし。……また打ってくれよ。お前の碁、オレは好きだぜ」

 

 そんな和谷の言葉を聞いてヒカルは嬉しげに、けれど少し恥ずかしそうに笑った。

 

 

 

 

 

 幽玄の間に備えられたカメラの映像は遠隔で見る事ができる。ただどこからでも、という訳ではない。少し先の未来ならネット配信されているかもしれないが、この時代ではまだそんな需要は生まれていなかった。

 そんな限りある部屋の一つが棋院の事務室で、そこには既に真柴という男が座っていた。椅子に座って肘を突きながら対局を眺めていた。

 

「──失礼します。あ、真柴さん」

「おう、和谷か」

 

 入ってきたのは和谷という後輩だった。といっても真柴は去年プロになったばかりの新米。和谷と院生時代に面識があるのも当然だった。

 

「……そっちは誰?」

 

 そんな和谷の後ろには、見たことのない少年が着いてきていた。こんな場所まで入って来れるのだから院生だとは思うのだが、真柴は見たことがない。今年から院生になったやつだろうか。

 

「ど、ども」

 

 少し居心地悪そうに挨拶する少年を見てか、和谷が代わりに紹介を始めた。

 

「コイツは進藤ヒカル。前期で院生になった奴で、今のとこ全勝で1組入った奴っす」

 

 院生になってから全勝。

 中々聞くことのない戦績に真柴が怯んだ。

 

「そ、そう。よろしく」

「ども」

「『ども』じゃねーだろ! よろしくお願いしますだろが!」

「よ、よろしくお願いします」

「ウン。よろしく……」

 

 無理やり頭を下げられた進藤ヒカルの、覚束ない敬語に真柴は文句も言えず頷くほかなかった。

 室内には、真柴の他にも『週間碁』の記者である天野と、塔矢名人の研究会に参加している(塔矢アキラの歳の離れた友人でもある)芦原(あしわら)、そしてヒカルたちと同じく院生である、伊角、奈瀬が既に集まっていた。

 それに気づいて和谷が驚きの声を上げる。

 

「あ。伊角さんと……え。奈瀬も来てたのか」

「ああ、俺たちの方が早く終わったからな。奈瀬はオレが誘ったんだ」

「何よ、和谷。アタシが居たら悪いわけ?」

 

 少し険のある顔で睨まれて和谷は首を振った。

 

「い、いや。そんなことないって。けど、奈瀬ってこういう場所に居るイメージないじゃん」

「んー、そう言われれば、そうかもね」

 

 奈瀬がここに居るのは伊角に誘われた事だけが理由ではなかった。

 進藤ヒカルのライバルだという『塔矢アキラ』に興味があったからだった。

 

 もちろん塔矢アキラが強いことは知ってる。

 前期プロ試験で対局したこともあるから、実力だって身をもって体感してる。

 だから本来なら今更見る必要もない。だけど進藤ヒカルと対局して気が変わった。その時に感じた疑問を解消するために、この場に来ていた。

 ──塔矢アキラよりも、進藤の方が強い。そう感じた奈瀬の感覚が誤りなのか、それとも正しいのか。確かめるためこの場に来ていた。

 

 だけど奈瀬は首を傾げてしまう。

 プロ入りを決めた塔矢アキラよりも、院生の進藤ヒカルの方が強い。そんな事があるのか、という疑問があった。

 聞けば進藤ヒカルは囲碁を始めて2年というではないか。

 もしかしたら自分の感覚が間違っているのか。

 

 だから気になった。

 改めて塔矢アキラという棋士の実力を、自分の目で確かめるために、奈瀬は今日この場所に来ていた。

 黙り込んだ奈瀬に和谷が首を傾げた。

 

「まぁいいや。今ってどんな感じですか?」

「ホラ、初手から並べてあげるよ」

 

 注目度の高い一戦を前に機嫌の良い天野がそう言って、芦原も手を挙げる。

 

「あ、白は僕がやりますよ」

「頼むよ、芦原くん」

 

 天野と芦原が並べる棋譜に見入るヒカルと和谷の二人を横目に、芦原が会話を引き継いだ。

 

「さすがの塔矢アキラは注目度が高いですね。──けど、ボクがいま一番気になっているのは、進藤くん。キミなんだけどね」

 

 芦原がそう言い、棋譜を並べながら視線をヒカルに向けた。

 

「お、オレ? ──ですか?」

「あはは、敬語なんていらないよ。うん、そう。キミだよ。アキラくんを負かしまくったんだって? 彼、名人の研究会ですごく悔しがってたよ」

「あー、ウチに来た時の対局かな? あの日だけで5、6局打ったもん」

「で、その全部にキミが勝ったと。ぜひボクもキミと手合わせしてみたいね」

「あー、機会があれば」

「ははは、そうだね」

「──おいおい、芦原くん。進藤ヒカルってあの、進藤ヒカルかい?」

 

 そこに口を挟んだのは、記者の天野だった。日本棋院の出版部に所属する天野にとっても『進藤ヒカル』の名前は非常にホットな話題だった。

 

「天野さん。はい、たぶんその進藤ヒカルですよ、彼」

「そーかそーか」

 

 うんうんと頷きを返して、爛々と目を輝かせる天野に、ヒカルは若干腰が引けている。自分が不躾な視線を投げている事に気がついて、天野が誤魔化すように笑った。

 

「……はは、いや、すまない、ついね。ほら、緒方先生と塔矢名人に釘を刺されたんだよ。プロになるまでは、と。……キミがプロになるのを楽しみに待っているよ。あ、ちなみに私は日本棋院の出版部の者でね、怪しい者じゃないから安心してほしい」

「あ、はい。……どもです」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。緒方先生と塔矢名人から釘を刺されるって、彼は何者なんです? ボク、名前を聞いたことすら今日が初めてなんですケド」

 

 慌てて会話を割った真柴にも、天野は気を悪くする事はなかった。君の気持ちが理解できると言わんばかりに頷く。

 

「真柴くんが知らないのも無理はないよ。前回の国際アマチュア大会で知られるようになった名前だし、まだ彼がアマの中学生って事もあって良識的に名前を広めるのは、という判断だったからね。ボクのような記者か、あるいは相当な事情通じゃないとまだ知らない名前だよ。──ま、一年後には彼が新初段シリーズに出ている事が確実視されてる程の逸材、とだけ今は言っておこうかな」

「……確実視、ですか」

 

 畏れが混じったような視線で真柴がヒカルを見る。

 奈瀬も伊角も和谷も、まさかそこまで評価されていたとは思っておらず、驚きの表情でヒカルを見ていた。

 そんな流れを断ち切るように、芦原が口を開いた。

 

「えっと、ボクから始めた話ですけど、今は塔矢アキラでしょう? ホラ、座間先生必死ですよ。二段バネです」

「……おぉ。たかが新初段相手に王座の打ち方じゃないね。たしかに必死だ。それに、座間先生らしくもないね。あの人こういった記念対局みたいなのは手を抜くのに」

「ははは、座間先生に嫌われたかな? アキラくん」

「黒の塔矢くんがよく打っているよ。これには座間先生も本腰を入れるだろうね」

「ええ、逆コミのハンデがある白が勝とうと思ったら、とても手はゆるめられませんよ。今頃、扇子の先をかじってるかも」

「ああ! 真剣になった時の座間先生のクセ! いいね、よし! ちょっと見てくるよ」

 

 そこから『座間王座』と『塔矢アキラ』の戦いは熱戦という雰囲気を帯びてくる。

 次々に放たれる強手と、それに対する応手。重ねる手数の先に、塔矢アキラは選択を迫られた。

 

 ──勝ちに拘るか、あるいはリスクを負って強手を放つかの選択だった。

 

 このまま守り切れば勝てる。

 だが、本当にそれで良いのか。

 進藤ヒカルに追いつこうと言うのなら、果たして、ここで守るのが正解なのか。

 

(……ボクは、前に進まなければいけない。目前の勝利よりも、一歩先に進むための糧が欲しい。……挑戦させて頂きます、座間王座)

 

 アキラの選択はさらなる攻めだった。

 それは逆コミというハンデを捨てて、それ以上の勝利を──互先での勝利を目指すという事に他ならない。

 自陣のスキを塞ぐのではなく、より果敢に攻める。

 

 アキラは幾つもの対局を経た。

 強くなるためには、より強い者に打ってもらうのが一番である。その相手が、当人にとって刺激的であればあるほどに、時と場合によって経験値は倍増する。

 つまり、今のアキラの実力は『本来』よりも洗練されていた。

 

 恐れを勇気に変えて突き進む意志の力。

 心が折れる場面で尚も前に踏み出した覚悟の力。力量差を理解しながらも、前へ前へと突き進む意思の強さが。

 それは紙一重の差を潜り抜ける勝負強さとなって、盤面に現れる。

 

『本来』ならば、スキを突かれる塔矢アキラであった。

 軍配(ぐんばい)が上がるのは座間王座だった。

 

 しかし塔矢アキラにスキは生まれない。

 ここぞという盤面では手堅く打ってゆく。

 

 塔矢アキラにスキは生じない。

 そう判断した『座間王座』がこのまま終局に向かうなどあり得ない選択肢。

 これまでに作り上げた厚みを活かすべく、敗北を回避するための強手を放り込む。

 

 ほぼ終盤。

 これを凌げば塔矢アキラの勝利となる。

 互いにその認識がある故に最後の戦いは熾烈を極めた。

 

 そして、終局を迎える。

 

 ──結果。

 塔矢アキラの大差での勝利。

 そして要となる互先と想定した場合の勝利についても、半目差の、塔矢アキラ薄氷の勝利だった。しかし通常の互先と同等に扱う事はできない。座間王座は逆コミを受け入れた上で勝つために打っていた。ハンデを覆すために相応のリスクを負っての結果だ。それでも、アキラの振るった切先が、座間王座の頬を掠める程度には肉薄していたのは確かだった。

 投了をしなかったのはせめてもの王座の意地か。

 

 塔矢アキラは、これが逆コミという状況だからこその勝利であると理解している。ゆえに満足した様子はない。

 有利な状況で、それ以上の勝利を狙って尚もギリギリにまで迫られた、むしろ課題の残る一局。

 タイトルホルダーの意地を見せつけられた一局となった。

 敗北した座間王座が重々しく口を開いた。

 

「……塔矢アキラ、か。ふん、今日のところはオレの負けか」

「ありがとうございました」

「ナマイキ言うだけの実力は見せつけた訳だ。……改めて言おうか。──プロになれば、みな一線。さっさと最前線に上がってくるんだな」

「はい。そのつもりです」

「くっく。なんでぇ日本の囲碁界も面白くなってきやがったじゃねーか」

 

 座間王座が、塔矢アキラを認めた。

 その光景に『幽玄の間』に座る一同は驚きの表情を見せる。

 鳴り物入りの新初段が、『王座』に勝利したという報は瞬く間に世間に広まった。

 

 新しい時代はすぐそこにまで来ている。

 誰もが期待するその流れの中で、続々と新しい光たちが芽を出してゆく。

 

 

 奈瀬明日美も、その中の一人だった。

 

(守れば勝てた場面で、それでも攻める……。逆コミの対局。だけど、それでも本気の『王座』相手に勝つなんて。進藤はこんな相手のライバルなの?)

 

 思わず進藤を見れば、瞳を輝かせながら未だに盤面に見入っていた。

 あんなに凄い対局を見た後なのに、ライバルに差を付けられたと凹んでもおかしくないのに、進藤はただただ嬉しそうだった。

 

(進藤は、驚いてすらないんだね。進藤の中で、塔矢アキラならこれくらい打ててもおかしくないんだ。だから、そんな相手のライバルって言われても、堂々としていられる。……それが、進藤の実力)

 

 それに対して、同じ院生である自分はどうだろうか。

 一組には居るものの、結果は奮わない。

 弱くないとは思う。かといって一組の上位8位に入る事も出来ていない。

 

 奈瀬も研究会に参加しているが、伸びは緩やかだった。

 もう高校一年生。

 院生の間にプロになるなら残りはたったの3回しか機会がない。

 いや、大学受験に切り替える事も考えるなら、実質残りは今年と来年の2回。

 

 可能なら今年受かってプロ入りを決めたい。そして将来の心配をせず囲碁にだけ打ち込みたい。

 誰もが思う、その願望を奈瀬も持っていた。

 

(そういえば、和谷が今朝言ってたっけ。『頼れるもんは何でも』……って。その気持ち、大事かもね)

 

 自分の立場を再認識して、残り時間を考えて。

 今の自分の実力でプロに成れるのか考えて。短い時間でも、悩んで悩んで悩み抜いて。

 

 奈瀬は一つ行動を起こす事を決めた。

 断られるかもしれない。

 それでも、何もしないよりはマシだから。

 

(あかりちゃんに相談しなきゃね。進藤も、あかりちゃん次第って言ってたし)

 

 幸いと言って良いのか、奈瀬はあかりと仲が良かった。

 ただ、そのお願いをすると言うことは、二人っきりの空間に文字通りのお邪魔をしてしまう、という事になるのだが。

 奈瀬は少しだけ頬を引き攣らせて、それでも『ぐっ』と拳を握った。

 

(──や、やってやろうじゃないの、女は度胸よ度胸!)

 

 すぐ側で奈瀬がそんな決意を固めているとも知らず、ヒカルは呑気にアキラの棋譜を眺めて目を輝かせていた。

 

 

 

 






次回29日更新は夕方になりそうです。
ストックなくなってしまいました。
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