神の一手   作:風梨

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約9500字



第7話

 

 

 ヒカルの自宅。

 いつものように碁盤を挟んでヒカルと向き合って、終局を迎えた盤面を見ながらあかりが悔しげな声を漏らした。

 

「──ありません……」

 

「ここでちょっと踏み込みが甘かったよな。オレの厚みを恐れての一手だと思うけど、それならこっちに効かせてる一手を伸ばした方がよかった。ここにお前の黒があると、オレはどうしても少し固い打ち方になるから、それを狙いつつ、石を伸ばしていくべきだったな。あるいは、さっき踏み込みが甘いとこをキビシク攻めていくべきで、理由は……、ってあかり。聞いてんのか?」

 

「うん、うん。聞いてるよ、聞いてる。……ううん、ごめん。やっぱり集中してなかった……。ちょっとだけ聞いてもいい?」

 

「いいけど、どした?」

 

 集中しようとして、集中出来ていない。

 あかりはそんな自分を叱咤するように顔を『パンパン』と叩いて、ヒカルに真剣な表情で聞いてきた。

 

「次の週から、ヒカルってば1組なんでしょ?」

 

「ああ、そう言われてるけど」

 

「……私、まだ2組で。最初の連敗からは抜け出せたけど、白星もチョコチョコしかないじゃない? 勝てるようになったって思ったら、また負けが増えたり……。成長してるのかなって少し不安なの。ヒカルから見てどう思う?」

 

 ソレを聞いて佐為は少し悩ましい表情をした。

 ──少し、ヒカルに甘えすぎていますね。

 真剣勝負の場で、この甘えは致命的に成り得る。その懸念が拭えなかった。

 

 けれど、あかりは真剣な表情だった。

 改善するために何かないかを探している瞳。

 ヒカルは甘えとは思わなかったようで、佐為に確認するように聞いた。

 

(佐為。あれだよな?)

 

『……はい、アレですね。今日の対局で確信しました』

 

 佐為にも確認が取れたので、ヒカルも佇まいを少し正して言葉を続けた。

 

「お前って、ほぼ毎日オレと打ってるよな」

 

「う、うん」

 

「囲碁部に顔出すこともあるけど、最近はもっぱらオレとばっか打ってる。お前の実力は伸びてる。けど、僅差で勝ち切れないのは、オレとばっか打ってるからだ」

 

「ええっと、でも、強い人と打てば打つほど強くなれるでしょ?」

 

「打ち方にもよるんだよ。──お前、オレの一手が恐いだろ」

 

「えっ」

 

「ここに打ったら、こう来るかもしれない。そういう危機予測は大事さ。けど、恐がってちゃ打てない手もある。前のお前なら、その、指で石逃がすみたいに突拍子もないことも果敢にやってきたけどさ。院生になって周りのレベルが上がったのもあるか? まぁそれに合わせてお前も強くなって、そういう果敢な手の恐さが見えるようになってきてるんだよ」

 

「うっ、あれは、忘れてくれると嬉しい、かも……?」

 

「忘れられっかよ。伊角さんなんか、それは個性的だねって苦笑いしてたぜ。和谷は食いかけの唐揚げ落とすくらい呆然としてたけど。あの、嘘だろ、って顔。あれは傑作だった」

 

『くっく』と忍び笑いを溢すヒカル。

 恥ずかしさのあまり耳まで真っ赤に染めながらあかりが悲鳴を上げた。

 

「ヒカル!? もう話しちゃったの!?」

 

「話を戻すとだ。お前がやるべきことはハッキリしてる。見極めてギリギリまで攻めるんだ。お前は強くなってる。その上で果敢さを取り戻せよ、お前ならやれるだろ」

 

「……うん。やってみる!」

 

「よし! もう一局打つぞ」

 

「はい!!」

 

『わぁい♡対局対局♡』

 

 佐為の懸念は今は指摘されなかった。

 まだその時ではないからだ。

 今は伸び伸びと打たせて、実力を伸ばすべき時だった。

 

 その日は夜遅くまで対局を続けた。

 部屋の明かりがいつまで経っても消えずに、ついに自宅にあかりの母親から電話がかかってきてようやく解散した。

 終わる頃には脳を酷使しすぎて『ヘトヘト』になっていたあかりだったが、少しずつ、少しずつと手応えを掴み始めていた。

 

 

 

 

 

「──新初段シリーズ?」

 

「ああ。って知らねーの……?」

 

「うっ。いや、アハハ」

 

 呆れた顔で和谷が続けた。

 

「ったく。今日だよ、今日。『幽玄の間』であるんだ。お前のライバルと座間王座の新初段シリーズ。マジで知らねーの?」

 

「いやぁ、オレってば打つことしか興味ないからサー」

 

「ふーん。まぁ新人とトッププロが対局するイベントってワケだ。逆コミで新人が5目半貰って黒番を握る」

 

『ほー、面白そうですね』

 

「へぇ、それなら塔矢が勝つんじゃないか?」

 

「ああ、新人に花持たせる事もあるし、勝ったり負けたりって感じだよ。観戦もできるし、後で寄ってみるか?」

 

「お、いいじゃん。行く行く」

 

「対局室は、やめとくか。観戦だけで勘弁しろよな」

 

「ああ、サンキュー」

 

「ん。そんじゃ、ようこそ1組へ」

 

 和谷の背後には、今まで見えない仕切りで隔たれていた向こう側。

 1組のメンバーたちが続々と集まって対局の準備をしていた。

 

 その光景に新しいメンバーとの手合わせを想像して、ヒカルは強気な笑みを浮かべた。

 

 

 

「──ありません」

 

 奈瀬明日美が初戦だった。

 ついに来たかという気持ちで、簡単に負けるもんですか、と挑んだ対局は呆気なく奈瀬の敗北で終わってしまった。

 それでも意気は全く落としていなかった。

 

「ん〜〜〜!! ここ、さすがに入りすぎじゃないの!? 私、応手間違えた?」

 

「だなー。ココとココを、このタイミングで切ったのがマズイ。まぁそれがなくても、コウ争いに持っていく手もあるし、今回みたいに伸ばしていく手順もあるから、左辺に展開する前にこっちを守るべきだった」

 

「……うん。いや、そっかー、見落としてたなー。でもでも、ここで受けたのは上手かったと思うんだけど、進藤から見てどう?」

 

「ああ、奈瀬のそれは良い手だったよ。オレの狙いを読めてたよな」

 

「だよね!? ──って負けてるんだけどね〜」

 

「でも、楽しかったろ?」

 

 奈瀬は盤面を見ながら対局中を思い返す。

 そして、澄んだ微笑みを見せた。

 

「うん。楽しかった。──っあ〜、あかりちゃんは毎日進藤とこんな碁打ってるの?」

 

「まぁ基本毎日だよな。家近いし、学校終わりとかでも時間あるからさ」

 

「ナニソレ。めっっちゃ羨ましいんですけど……。ねぇねぇ、もう一人さ、可憐な美少女を参加させるつもりとか。あったりしない?」

 

 コソコソっと口元に筒のような掌を形作りながら冗談っぽく奈瀬がそう言って、ヒカルは軽く笑った。

 

「アハハ、まぁあかり次第だな。考えとくよ」

 

「うっ! 笑って流されると心にくるわね〜」

 

 苦笑いする奈瀬とそのまま検討に戻って、幾つかの手順を解説する。

 中押しで終わった事もあって、2局目までの時間がまだあるからだった。

 そんなこんなで話し込んでいると、周囲も集まってくる。

 

「……進藤って、マジで強いな……」

 

「本田、お前ビビったのか」

 

 本田に声を掛けたのは飯島だった。

 七三にした髪型にメガネをかける姿は神経質な印象を与える。

 頬を掻きながら、言い訳するように本田が答えた。

 

「まぁ、気後れはするよ。あの塔矢のライバルだぜ。オレなんて塔矢の雰囲気にのまれちゃって、前回の試験で完敗だったよ」

 

「バカ言うなよ」

 

 そこで会話に入って来たのは和谷だった。

 盤面を見ながら、少しの汗を流しつつも強気の笑みを浮かべていた。

 

「上に行こうと思ったら、才能より努力より、とにかく強い人に1局でも多く打ってもらう事! これが一番なんだよ。プロになるんなら、こんなとこで足踏みするわけにゃいかねーよ。頼れるもんは何でも頼ってやる。──進藤、今日の二局目はオレだぜ。手加減なんかしたら許さねーからな」

 

「……ああ。胸を借りるぜ、先輩」

 

「コイツ、言いやがって!」

 

「あいたたた! ぎぶぎぶ!」

 

 軽いプロレスごっこを始めた二人を見ながら、飯島は拳を握っていた。

 

(……1局でも多く打ってもらう事? バカ言え、それで自信を失ったら元も子もないだろ。そんなに強いんなら、さっさと外来受験でもしてプロになれば良い。なんだって院生なんかになったんだ、コイツは。……オレは、好きになれない)

 

 ヒカルを認める者がいる一方で、認められない者もいる。

 各々が若い反応をする中で、『進藤ヒカル』という起爆剤をどのように扱うか。

 その一点が問われる流れが出来つつあった。

 

 その実力に真っ向から立ち向かう者。

 打てることに喜びを見出す者。

 悔しさを胸に奮起する者。

 才能の差を知って膝を折る者。

 碁の内容ではなく、ソレ以外の粗を探してしまう者。

 

 

『院生』がプロ棋士となれる確率は大凡5%であると言われる。

 つまり、95%は夢破れて一般社会に戻る。

 非常に狭き門が、プロ試験だ。

 

 そして、その他の職業と違って『碁打ち』は潰しが効かない。

 故にこそ、こう言われる。

 

 諦めるなら、早いほうがいい、と。

 その道の苦渋を知る者ほど口々にそう助言する。

 

 これしか道がない、という限られた者。

 あるいは桁外れの才能を持つ者にしか成れない職業。

 それが芸能職である。

 

 若い時間の全てを懸けてもプロ棋士に成れる者は極僅か。

 一体誰が、そんな可能性の低い夢を追いかけろと無責任に言えるだろうか。

 夢を追いかけた結果として、一人の若人の人生が潰れるかもしれないと言うのに。

 

 夢は追いかけなければ叶わない。

 若いうちは夢を追い掛けろ。

 

 そのような耳触りの良いスローガンは毒にも薬にもなる。

 

 奮起できる内はまだいい。

 しかし、それに縋るようになっては引き時を見誤る。

 

『進藤ヒカル』という劇薬は、プロを目指す『院生』たちにとって毒でもあり、薬でもあった。

 このキッカケを活かせるか否かは本人次第。

 それもまた、才能なのかもしれない。

 

 

 

 

「──会話だってさ、塔矢くん」

 

 棋院の玄関前で、若い棋士とトッププロの会話が始まっていた。

 他でもない『塔矢アキラ』と『座間王座』だった。

 

「今日は精一杯戦わせていただきます。よろしくお願いします」

 

「ああ。こちらこそよろしく」

 

 塔矢名人の息子。

 鳴り物入りの新初段。

 そういう評価が気に障らないか、と聞かれれば多少は引っ掛かる部分がある。

 だが、そうした思いとは別に、仕事は仕事だ。

 この注目度の高いイベントでこの新初段をペシャンコにする訳にも行かない。

 大人しく手を抜いてやるつもりで、多少の慢心から出た言葉を告げた。

 

「私の王座というタイトルにビビることはないよ。プロになったらみな一緒だ。気後れすれば絶対に勝てやしない。同じ初段だと思ってどーんと向かって来なさい」

 

 トッププロから声を掛けられれば、ましてや気遣う言葉を掛けられれば、新初段の大半は表情を綻ばせる。

 負けてやるから、せめてそのくらいの可愛げのある表情は見せろ、といった無言の圧力ではあったが、塔矢アキラは気づかなかったのか。

 あるいは意図的なものだったのか。

 

「そのつもりです」

 

 整った顔立ちの上に微笑を浮かべながらそう答えた。

 塔矢の内面はただ一言に尽きる。

『挑戦』

 それだけである。

 今現在の自分がトッププロに対してどの程度戦うことが出来るのか。

 

 進藤ヒカルが院生になったことは既に知っている。

 ならば、リアルタイムで自らの対局が見られる可能性も重々承知していた。

 

(……進藤。キミはまだプロではないが、ここでボクが良い結果を残せば、よりキミの強さが浮き彫りになる。……いや、何よりキミに見せたい。この世界で戦っていくボクの覚悟を、キミに)

 

(……そのつもりだと? ナマイキなツラで言いやがる。……予定変更だ、全力で叩き潰す。可愛げのない坊主に灸でも据えてやる)

 

『座間王座』vs『塔矢アキラ』の一戦が『幽玄の間』にて始まった。

 

 

 

 場面は院生たちの対局室にまで移る。

 ちょうど和谷とヒカルの対局は中盤に差し掛かっていた。

 

 思い悩むように和谷は顎に手を当てて考え込んでいる。

 そして、碁笥に手を差し込んで一手を放つ。

 

 対してヒカルに気負いはない。

 予期していた、と言わんばかりに即座に応手を返す。

 的確な対処に和谷が再び唸った。

 

(……やっぱ、進藤のヤツめちゃくちゃにつええ……。マジでコイツが『sai』なんじゃねーかってくらいだ。けど、今は対局に集中しねーと。あんだけの事言った後でポカして負けるのだけは勘弁だぜ)

 

 和谷は丁寧な碁を心掛けた。

 内容は終始押され気味だが、それでも立ち向かう意思は捨てない。

 棋力の差を盤面から感じつつも、実力を引き出されるがままにしっかりと打った。

 

(くっ、ギリギリで食らいついてるけど、それももう限界か……? 手加減なしとは言ったけど、それでもオレの応手を引き出してくるのはさすがってとこか。全力のオレを正面から受け止めて戦うっつー意志を感じる……)

 

 重ねる一手一手は次第に重くなってゆく。

 堂々とした打ち方で受け止められる。

 まるで大地に根ざした巨木と押し相撲をしている気分だった。

 

 そして、満を持したヒカルから一手が放り込まれる。

 和谷の数少ない隙を突いた一手は、急所を抉る。

 対処のために受け手を重ねるが、状況の改善の見込みがない。

 これ以上の対局は結果が目に見えている。

 和谷は悔しながらに口を開いた。

 

「……負けました」

 

「ありがとうございました」

 

 ヒカルがペコリを頭を下げて、盤面の片付けに入る前に和谷に聞いた。

 

「さ! 塔矢の見に行こうぜ、検討するんなら付き合うけど」

 

「進藤、いっこ聞かせてくれ」

 

 真剣な瞳で、和谷はヒカルを見ていた。

 悔しさを滲ませる様子はもうない。

 ただ聞きたいことがあった。

 

「な、なんだよ。急に改まってさ。……いいけど、ナニ?」

 

「去年の夏休み。インターネットにすげー強いやつが居たんだ。色々噂はあったけど、結局正体は不明のまま。──なぁ進藤。『sai』って、お前なのか?」

 

「……」

 

 その質問にヒカルは口をつぐんだ。

 塔矢に言われたのだ。

 プロになるまでは『sai』のことは黙っていたほうがいい、と。

 

『緒方さんが言っていたけど、キミは話題になりすぎた。プロになれば棋院が対応してくれるけど、今のキミには無理だ。だから、今は黙っていたほうがいい。取材とか特集とか、指導碁の依頼とか、そんなの御免だろう? ……ボクも、結構悩まされたからね』

 そう言って『はにかんだ』塔矢の言葉を思えば、ここで認めてしまうのは拙い気がした。

 

 だが、ヒカルは和谷のことを友人だと思っている。

 嘘を吐くのは嫌だったから、沈黙という回答になってしまった。

 

「……いや、悪い。忘れてくれ」

 

 和谷はそう言って苦笑いしながら質問を取り下げた。

 ヒカルの表情から全てを読み取った訳ではないが、言えない事情があるんだろう、と察することは出来た。

 

「お前は強い! オレが知ってればいいのは、それだけだよな。さ! 塔矢アキラの碁を見にいこーぜ」

 

「あ、ああ! ……わりー、和谷」

 

「気にすんなよ。遠慮なしに聞いたのはオレの方なんだし。……また打ってくれよ。お前の碁、オレは好きだぜ」

 

 そんな和谷の言葉を聞いてヒカルは嬉しげに、けれど少し恥ずかしそうに笑った。

 

 

 

 

「──失礼します。あ、真柴さん」

 

「おう、和谷か。……そっちは誰?」

 

「ど、ども」

 

 少し居心地悪そうにヒカルが挨拶したのを見て、和谷が代わりに紹介を始めた。

 

「進藤ヒカル。前期で院生になった奴で、今のとこ全勝で1組入った奴っす」

 

 院生になってから全勝。

 中々聞くことのない戦績に真柴が若干怯みながら初対面の挨拶をした。

 

「そ、そう。よろしく」

 

「ども」

 

「『ども』じゃねーだろ! よろしくお願いしますだろが!」

 

「よ、よろしくお願いします」

 

「ウン。よろしく」

 

 室内には『週間碁』の記者である天野と真柴、芦原(あしわら)、伊角、奈瀬が既に集まっていた。

 

「あ。伊角さんと……え。奈瀬も来てたのか」

 

「ああ、俺たちの方が早く終わったからな。奈瀬はオレが誘ったんだ」

 

「何よ、和谷。私が居たら悪いわけ?」

 

「い、いや。そんなことないって。けど、奈瀬ってこういう場所に居るイメージないじゃん」

 

「んー、そう言われれば、そうかもね」

 

 奈瀬がここに居るのは伊角に誘われた事だけが理由ではなかった。

『進藤ヒカル』のライバルだという、『塔矢アキラ』に興味があった。

 

 強いというのは知っている。

 前期プロ試験で対局したこともある。

 だから、今更見る必要もないかもしれないが、『進藤ヒカル』と対局した記憶に新しく、奈瀬の感覚では進藤の方が強かった。

 

 プロ入りを決めた塔矢アキラよりも、院生の進藤ヒカルの方が強い。

 そんな事があるのか、という思いがあった。

 もしかしたら自分の感覚が間違っているのか。

 

 だから、気になった。

 改めて塔矢アキラという棋士の実力を確かめるためにこの場所に来ていた。

 黙り込んだ奈瀬の様子に和谷が首を傾げた。

 

「まぁいいや。今ってどんな感じですか?」

 

「ホラ、初手から並べてあげるよ」

 

「あ、白は僕がやりますよ」

 

「頼むよ、芦原くん」

 

 天野と芦原が並べる棋譜に見入る二人を置いて、会話が続けられた。

 

「塔矢アキラは注目度が高いですね。──けど、ボクがいま一番気になっているのは、進藤くん。キミなんだけどね」

 

 芦原がそう言い、棋譜を並べながら視線をヒカルに向けた。

 

「お、オレ? ──ですか?」

 

「あはは、敬語なんていらないよ。うん、そう。キミだよ。アキラくんを負かしまくったんだって? 彼、研究会ですごく悔しがってたよ」

 

「あー、ウチに来た時の対局かな? 5、6局打ったもん」

 

「──で、その全部にキミが勝ったと。ぜひボクもキミと手合わせしてみたいね」

 

「あー、機会があれば」

 

「ははは、そうだね」

 

「おいおい、芦原くん。進藤ヒカルってあの、進藤ヒカルかい?」

 

「天野さん。はい、たぶんその進藤ヒカルですよ、彼」

 

「そーか。いや、緒方先生と塔矢名人に釘を刺されていてね。プロになるまでは、と。……キミがプロになるのを楽しみに待っているよ」

 

「あ、はい。……どもです」

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。緒方先生と塔矢名人って、彼何者なんです? ボク、名前を聞いたことすらないんですケド」

 

「真柴くんが知らないのも無理はないよ。前回の国際アマチュア大会で知られるようになった名前だし、まだ彼が中学生って事もあって良識的に名前を広めるのは、という判断だったからね。ボクらのような編集者か、相当な事情通じゃないとまだ知らない名前だよ。──ま、一年後には彼が新初段シリーズに出ている事が確実視される程の逸材、とだけ今は言っておこうかな」

 

「……確実視、ですか」

 

 畏れが混じったような視線で真柴がヒカルを見る。

 奈瀬も伊角も、まさかそこまで評価されていたとは思っておらず、驚きの表情でヒカルを見ていた。

 そんな流れを断ち切るように、芦原が口を開いた。

 

「えっと、ボクから始めた話ですけど、今は塔矢アキラでしょう? ホラ、座間先生必死ですよ。二段バネです」

 

「……おぉ。たかが新初段相手に王座の打ち方じゃないね。たしかに必死だ。だけど、座間先生らしくないね。あの人こういった記念対局みたいなのは手を抜くのに」

 

「ははは、座間先生に嫌われたかな? アキラくん」

 

「黒の塔矢くんがよく打っているよ。これには座間先生も本腰を入れるだろうね」

 

「ええ、逆コミのハンデがある白が勝とうと思ったら、とても手はゆるめられませんよ。今頃、扇子の先をかじってるかも」

 

「ああ! 真剣になった時の座間先生のクセ! いいね、よし! ちょっと見てくるよ」

 

 

 そこから『座間王座』と『塔矢アキラ』の戦いは熱戦という雰囲気を帯びてくる。

 塔矢アキラは勝ちに拘るか、さらに強手を放つかの選択を迫られる。

 

 このまま守り切れば勝てる。

 だが、本当にそれで良いのか。

 進藤ヒカルに追いつこうと言うのなら、果たしてここで守るのが正解なのか。

 

(……ボクは、前に進まなければいけない。目前の勝利よりも、一歩先に進むための糧が欲しい。……挑戦させて頂きます、座間王座)

 

 アキラの選択はさらに攻めるというモノだった。

 それは逆コミというハンデを捨てて、それ以上の勝利を目指すという事に他ならない。

 自陣のスキを塞ぐのではなく、より果敢に攻める。

 

 アキラは幾つもの対局を経た。

 強くなろうと思えば、より強い者に打ってもらうのが一番である。

 つまり、今のアキラの実力は『本来』よりも洗練されていた。

 

 恐れを勇気に変えて突き進む意志の力。

 心が折れる場面でなおも前に踏み出した覚悟の力。

 それは紙一重の差を潜り抜ける勝負強さとなって、盤面に現れる。

 

『本来』ならば、スキを突かれる塔矢アキラであった。

 軍配(ぐんばい)が上がるのは座間王座だった。

 

 しかし、塔矢アキラにスキは生まれない。

 ここぞという盤面では手堅く打ってゆく。

 

『塔矢アキラ』にスキは生じない。

 そう判断した『座間王座』がこのまま終局に向かうなどあり得ない選択肢。

 これまでに作り上げた厚みを活かすべく、敗北を回避するための強手を放り込む。

 

 ほぼ終盤。

 これを凌げば塔矢アキラの勝利となる。

 互いにその認識がある故に最後の戦いは熾烈を極めた。

 

 そして、終局を迎える。

 

 結果。

 塔矢アキラの2目半での勝利。

 投了をしなかったのはせめてもの王座の意地か。

 

 しかし、逆コミを含めての勝利である故に塔矢アキラに満足した様子はない。

 それ以上の勝利を狙ってなおギリギリにまで迫られた、むしろ課題の残る1局。

 タイトルホルダーの意地を見せつけられた1局となった。

 敗北した座間王座が重々しく口を開いた。

 

「……塔矢アキラ、か。ふん、今日のところはオレの負けか」

 

「ありがとうございました」

 

「ナマイキ言うだけの実力は見せつけた訳だ。……改めて言おうか。──プロになれば、みな一線。さっさと最前線に上がってくるんだな」

 

「──はい。そのつもりです」

 

「くっく。なんでぇ日本の囲碁界も面白くなってきやがったじゃねーか」

 

 座間王座が、塔矢アキラを認めた。

 その光景に『幽玄の間』に座る一同は驚きの表情を見せる。

 鳴り物入りの新初段が、『王座』に勝利したという報は瞬く間に世間に広まった。

 

 新しい時代はすぐそこにまで来ている。

 誰もが期待するその流れの中で、続々と新しい光たちが芽を出してゆく。

 

 

 奈瀬明日美も、その中の一人だった。

 

(守れば勝てた場面で、それでも攻める……。逆コミありだけど、それでも本気の『王座』相手に勝つなんて。進藤はこんな相手のライバルなの?)

 

 思わず進藤を見れば、瞳を輝かせながら未だに盤面に見入っていた。

 あんなに凄い対局を見た後。

 ライバルに差を付けられたと凹んでもおかしくないのに、進藤はただただ嬉しそうだった。

 

(進藤。あんたは驚いてすらないんだね。進藤の中で、塔矢アキラならこれくらい打ててもおかしくないんだ。だから、そんな相手のライバルって言われても、堂々としていられる。……それが、進藤の実力)

 

 それに対して、同じ院生である自分はどうだろうか。

 1組には居るものの、結果は奮わない。

 弱くはないが、かといって1組の上位8位に入る事も出来ない。

 

 奈瀬も研究会に参加しているが、伸びは緩やかだった。

 もう高校一年生。

 院生の間にプロになるなら残りはたったの3回しか機会がない。

 いや、大学受験に切り替える事も有り得るなら、実質残りは1回か2回。

 

 可能なら、今年受かってプロ入りを決めたい。

 誰もが思うその願望を奈瀬も持っていた。

 

(そういえば、和谷が今朝言ってたっけ。『頼れるもんは何でも』……って。その気持ち大事かもね)

 

 自分の立場を再認識して、残り時間を考えて。

 今の自分の実力でプロに成れるのか考えて。

 

 奈瀬は一つ行動を起こす事を決めた。

 断られるかもしれない。

 それでも、何もしないよりはマシだから。

 

(あかりちゃんに相談しなきゃね。進藤も、あかりちゃん次第って言ってたし)

 

 幸いと言って良いのか、奈瀬はあかりと仲が良かった。

 ただお願いをすると言うことは、二人っきりの空間にお邪魔してしまう、という事になるのだが。

 奈瀬はぐっと拳を握った。

 

(──や、やってやろうじゃないの、女は度胸よ度胸!)

 

 すぐ側で奈瀬がそんな決意を秘めているとも知らず、ヒカルは呑気にアキラの棋譜を眺めて目を輝かせていた。

 

 






次回29日更新は夕方になりそうです。
ストックなくなってしまいました。

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