神の一手   作:風梨

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約9600字



第8話

 

 

 塔矢アキラと座間王座の対局が終わって数日後のこと。

 棋院で対局を終えた和谷は対局室でだべっていた。

 話し相手は進藤ヒカル。

 院生になってから全局全勝の、名実ともに塔矢アキラのライバルと目されている奴だ。当初は塔矢アキラのライバルなんてありえない、と院生たちも疑問視していたが、その実力を遺憾無く発揮して今では疑う余地のない事実になっている。院生一組として長い和谷も、まだ一度も勝てていない。

 

 だがその強さは謎に包まれてる。

 進藤ヒカルに師匠はおらず、しかも囲碁を始めてまだ二年だという。

 その規格外の強さの秘訣は何なのか。知りたいと思いつつも、和谷はこれまで踏み込んだことはなかった。だが今日の和谷は聞くことが出来る。先日、和谷の参加している研究会の師匠から言われたのだ。見込みがある奴なら声を掛けてもいい、と。

 なので研究会に誘うまでの雑談の一つとして、大義名分を得た和谷は囲碁の勉強について話を切り出していた。

 

「──お前、碁の勉強とかさ、どうしてんの?」

「ん。勉強?」

 

『棋譜並べ』『詰碁』『インターネット碁』

 などなどを和谷は予想していたが、帰ってきたヒカルの反応はまさに『勉強?なんだそれ』だった。

 思わず和谷は表情を引き攣らせた。そうであってほしくない、という願望も些か以上に込めながら尋ねる。

 

「おいおい、まさか勉強してねーとか言うんじゃねーだろな」

「……あー、詰碁くらいかな」

 

 そう言って、ヒカルは誤魔化すように笑った。

 ヒカルからすれば、碁は佐為と一緒に強くなったという印象が強い。だから勉強か?と聞かれると、勉強じゃないよな?と首を傾げてしまうし、そもそも佐為のことを言うつもりはない。だから煮え切らない口調だったのだが、それは2年連続で院生試験に落ちている和谷からの誤解を招いた。

 

(進藤は、確かに強い。勉強なんざいらねーってのも、あながち嘘とは思えない……)

 

 それはある種の劣等感とも言えるだろう。塔矢アキラ。進藤ヒカル。次々と新しい才能が出てきて、あっという間に自分を追い抜いていく。それは一刻も早くプロ棋士になりたい和谷にとって、十分すぎるプレッシャーだった。

 

『火曜日に森下九段の研究会がある、お前も来ないか』

 和谷はヒカルにそう声をかけるつもりだった。だが努力せずにこの強さかと思えば和谷にも多少思うところがある。

 それ故の反発心で、和谷はヒカルを研究会に誘う事を考え直した。

 ──それが、自身の成長を遅らせることになるとは夢にも思わず。

 

「ん。ならまぁ関係ないか」

「何? なんかあったのか?」

「知らねーよ。ホラ、さっさと帰ろうぜ」

「……なんだよ、変なやつ」

 

 唐突に声を掛けてきて、挙句勝手に不機嫌になった和谷の背中を見送って少しの不満を漏らすヒカル。

 

 そんなヒカルの様子を近くで窺っていた人物がいた。

 ──奈瀬明日美だった。

 

 奈瀬は呆れた表情を浮かべながら、去り行く和谷を尻目に進藤の隣に立った。横目で見る進藤は子供っぽい表情で不満を示している。とてもプロ顔負けの実力を持っているようには見えない。だが間違いなく進藤は強い。対局を通して嫌というほどその実力を知っている奈瀬だが、今の会話を聞いていた身として呆れ顔を止められない。正直和谷が不憫だった。

 

「進藤ってば、ほんとに師匠いないんだね」

「悪いかよ」

「悪くはないけどね」

 

 奈瀬の呆れを含んだ声音にヒカルも少しだけムッとする。だがさらに言うはずだった文句は口に出す前に萎んでいった。よく考えれば、奈瀬が呆れるのも無理はないとヒカルも思ったからだった。

 独学と棋譜だけで囲碁は強くなれない。当たり前だ。同じように思った分だけ文句は萎んだ。そして和谷が機嫌を悪くした理由もようやく察して、気まずげに視線を泳がせた。

 

(そりゃあ、自分は必死にやってんのに、自分より上のやつに勉強してないって言われたらムカつくよな……)

 

 チラリと奈瀬を見る。呆れ顔を浮かべていたが、今はまだムカついてるようには見えない。でも言葉を間違えれば和谷のように怒るかもしれない。だからヒカルは少しだけ本当のことを話すことにした。

 

「……師匠ってか、秀策だもんな、俺の場合。後はここで打ってるのが一番勉強になるよ。色々試せるし」

「げっ。色々試してる上に全勝なの……? やっぱ、あんたオカシイって」

「……確かに、そうかも?」

 

 言われて気がついたが、確かにそうだ。

 そんな気持ちで背後を見上げれば、佐為が必死に弁明していた。

 

(あ、新しい戦術を試すことは悪いことではありませんッ!実力がある相手に試すからこそ価値がありますし、何よりそれを恐れていては新しい手が生まれることもありません!それに、私は決して手を抜いた訳ではなく、囲碁に真剣に向き合うからこその戦術を考え出し、それを試したのです!断じていびることが目的などではありません!)

 

ヒカルも本気で佐為を疑ったわけではなかった。言われた事をそのまま言う。

 

「──だから、真剣に打った結果だよ。色々試せるとか言って悪かった」

「ううん、アタシこそごめん。嫌なこと言ったわね……。話は変わるんだけどさ」

「別にいいよ。なに?」

「ちょっとこっち来て」

 

 進藤の袖を引っ張って部屋の隅に移動して左右を見渡して、誰も聞いていない事を確認した上で奈瀬は覚悟を決めた。

 気持ちを整えた真剣な表情の奈瀬が、ヒカルのことを真っ直ぐに見つめた。

 

「進藤の研究会に混ぜて欲しいの」

 

 自分の研究会。

 そう言われて思い当たるものは一つだけだ。

 

「……っていうと、あかりとの?」

 

「うん。あかりちゃんにも許可は貰ったわ。だけど、あかりちゃんから進藤に話して貰うのも違うじゃない? だから、まずアタシから進藤に話そうと思って。──もちろん、無理にとは言わない。図々しいお願いだとも思ってる。でも、強くなりたい。だから無理を承知でお願いします。鍛えてください」

 

 正座しながら両手を付いて、深々と頭を下げる奈瀬の様子にヒカルは驚くというよりも困惑した。いきなり同級生──ではないが、それに近い相手から土下座されて平然として居られるほど、ヒカルの精神は卓越していない。

 

「な、奈瀬?」

「いきなりでごめん。でも、本気だから」

 

 顔だけ上げて、ヒカルを見据える奈瀬はこれ以上ないくらい真剣だった。思わず視線を逸らす。

 真正面から真剣に頼まれる事に、ヒカルはどうにも弱かった。

『佐為』然り『塔矢』然り『あかり』然りである。

 考えている風に視線は明後日の方向に向けたまま、背後に話しかけた。

 

(……佐為。どーする?)

『良い機会だと私は思います。私たちと打つのも悪くはありませんが、実力を等しくした高め合える相手は得難いものです。あかりのためを思うなら、私は賛成です』

 

 佐為の言葉をヒカルは腕組みをしながら聞いていた。

 

(……やっぱ、そーだよな)

『はい。囲碁とは、二人で作り上げるものですから』

 

 ヒカルは唸る。

 事あかりに関して言えば、もっと言えば弟子の育成に関して当然ながらヒカルは全く経験がない。

 だから佐為の意見を全面的に受け入れるべきだ。

 

 だがそれとは別にヒカル個人の気持ちがある。

 それは、まだ言葉にもできない淡い何かだった。あまりにも儚くてヒカル自身でもその正体を掴みかねていた。

 

『……ヒカル? どうかしましたか?』

(いや、なんかこう……)

 

 しかし奈瀬の真剣さを受け止めた上で拒絶するほどの拒否感ではない。

 それに佐為の勧めもあるから断るのはそれはそれでしっくり来ない。悩みながら再び視線を前に戻せば、変わらずに真剣な眼差しの奈瀬が居て、言葉は自然とヒカルの口から滑り出た。

 

「……わかった。けど、手加減しねーからな」

「……うん!!」

 

 奈瀬が顔を綻ばせた。

 眩しいくらいに輝いた笑みを見て、ヒカルも釣られて仕方なく笑った。

『そこまで喜ばれるなら、まぁ悪くないか』と思って。

 

 

 

 

「──ほら、上がれよ」

 

 ヒカルの声掛けに、奈瀬はおずおずと玄関口をくぐった。

 

「お、お邪魔します」

「自分の家だと思って寛いで大丈夫だからね、奈瀬ちゃん!」

「うん、ありがと。あと明日美でいいからね?」

「わかった!明日美ちゃんって呼ぶね!」

 

 輝くような笑顔にまったく陰はない。

 いつも通り、ううん。いつもより嬉しそうな姿だった。

 

「なんでお前がゆーんだよ! ここオレん家な!」

「えへへ、でも嬉しいな。まさか明日美ちゃんと一緒に勉強できるとは思わなかったもん」

 

 吠えた進藤にも構わず、心底嬉しそうにあかりは顔を綻ばせている。奈瀬も少し安堵して微笑んだ。

 

「ごめんね、あかりちゃん。無理にお願いしちゃってさ」

「ぜんぜん! 私、ほんとに嬉しいもん」

 

 あかりは終始ニコニコしていた。

 心境としては、囲碁部での楽しい思い出が蘇っていた。

 短い間ではあったが、女子三人で囲碁部の団体戦に出た情景は楽しい記憶として色褪せずにあかりの中に残っている。

 

「頼んだアタシが言うのもなんだけど、本当に、その、参加しても良かったの? あかりちゃんも、進藤も嫌じゃなかった?」

「ぜんぜん! むしろ嬉しいもん! 一緒に強くなろうね、明日美ちゃん!」

「まぁ一人くらいなら大丈夫だろ。多面打ち出来るし」

 

 普段通りに含みなく答える2人の様子から隔意は感じられなかった。改めて奈瀬はほっと一息をついた。

 

 そんな奈瀬を尻目にヒカルは階段を上る。自室に入れば、2つの碁盤が目に入る。

 一つは足付きだが、もう一つは小さなマグネット盤だ。佐為を見上げる。

 

(問題ない、よな。佐為)

『ええ、問題ありませんよ。以前言ったように、あかりには高め合える相手が必要ですし、それに多面打ちは大歓迎です。──しかし、碁盤がアレでは少しやり辛いかもしれませんね……。すごく小さなマグネット盤ですし。今日は仕方がありませんが、追々場所を変えた方がいいかもしれません』

(……確かに。まぁとりあえず打とうぜ)

『ですね。さァ今日は私たちもとことん打ちますよ〜〜!!』

(へいへい)

 

 部屋に入って碁盤と碁石を用意する。

 奈瀬は少し遠慮していたが、純度100%の善意が(ほとばし)るあかりの笑顔に絆されて、時間が経つにつれて楽しそうに顔を綻ばせることも増えていった。

 そのまま時間を忘れるくらい、その日はたっぷりと多面打ちと検討を行って過ごす。

 

 そんな最中だった。

 奈瀬が悔しそうに口を開く。

 

「──う〜〜ん。ここ、うまく処理できなかったなぁ。下を押さえてくると思ったんだけど、上を切られちゃって、そこで完全に隅に押し込められちゃったよね」

「だな。奈瀬の狙いは明白だったから、その手を打つならココに、先に打っとくべきだな。ここで効かせてたらオレも容易に切る選択肢が出てこない。ちょっと覚悟のいる一手になる」

「そこかぁ、気づかなかった。あー、悔しい!」

「まだ初日だしな。徐々に慣れていけよ。で、あかりだけど、この手はケイマじゃなく、ツケの一択だろ」

「でも、ここからこう打っていけば……」

「そんな手はない。ここでツケてこう打っていくのが凄くデカいんだ」

「そっかぁ。じゃあここは?」

「……その手を打つなら、その前のここで、ハネておくべきだな。これでオレがここに打つしかないから、次の手で左辺を覗ける。一手分有利になる」

「むむむ、ナルホド」

 

 顎に手を当てて、さながらどこかの教授のように唸り始めたあかりを置いて、佐為は感心したようにヒカルに話しかけた。

 

『しかし、ヒカルも言語化が上手くなりましたね、私の狙いもちゃんと読んでいる。素晴らしい成長です』

(こーいうの向いてんのかもな。観戦者でもあるけど、打ってる当事者でもあるから、相手が何しようとしてるのかも凄く良く見えるんだ。佐為が打とうとする手はある意味これしかないっていう最善手だから、わかりやすいよ。まァこれは指導碁だから、少し勝手が違うけど)

 

 事もなげに言っているが、それは凄い事だった。

 佐為の手が読める、と言う事は佐為に近しい実力がある事と同義である。

 もちろん完璧ではないが、それでも十分にすごい事だった。

 

『……それが、とてもすごい事なのですよ、ヒカル。今のあなたなら私ほどではないとはいえ、1組でも十二分に……。いえ、同じ結果(全勝)を残せるでしょうね』

(一人で打つ気はないって。オレは佐為と一緒に打ってる方が楽しいんだ)

『……はい♡』

 

 何気ないヒカルの一言。

 それが何よりも嬉しくて佐為は胸が温かくなる。

 (ほころ)んだ顔を誤魔化すように佐為が声を上げた。

 

『さァもう一局! ……と言いたい所ですが、時間が大分遅くなってしまいましたね。あかりはともかく、奈瀬はここから少し遠いのでしょう?』

 

 佐為の一言に『ハッ』と時計を見ればかなり危うい時間だった。

 慌ててヒカルが奈瀬に話しかけた。

 

「奈瀬って電車で帰るのか?!」

「え、うん。さすがに徒歩だとキビシイ距離だから、電車かなー。明日は日曜日だから棋院に行くけどね」

「ヤベッもう9時だぞ?! 改札まで送ってくから支度しねーと!」

「ええ! も、もうそんな時間? ヤバっ電話、電話借りていい!?」

「わ、私も一緒に行くよ!!」

 

『ドタバタ』と支度をして、慌てながらヒカルの母親に『お邪魔しました』と挨拶して、『あらあらまぁまぁ』と可愛い女の子がさらに増えたことに驚くヒカル母を置いて、駅に向かう道すがらヒカルたちは連れ立って歩きながら話をしていた。

 

「──ああ、奈瀬んちそこなんだ。なら駅近(えきちか)の碁会所とか行った方がいいかな、けど、金掛かるんだよなー」

「そうなんだよねー。あっ棋院で場所借りるとか……」

「さすがに無理だろ」

「あはは、うん。難しいね。先生たちが研究会している場所とは別に、棋院に一般の人が打つ場所もあるけど、そこでアタシたちが研究会したら常識ないって思われちゃうと思う。というか、先生に呼び出しされちゃうかなー」

「だよなー。……あっ塔矢んとこなら、タダにしてもらえるかも。あそこなら駅前だし、オレんちよりいいだろ、碁盤もあるし。……アイツも誘ったらくるかな」

 

 ヒカルが思いついたように呟いて、あかりが追従した。

 

「塔矢くん……、元気にしてるかな。海王の時以来だよね?」

「あー、ウン。そうだな」

「ヒカル何か隠してる? わかるんだからね、付き合い長いんだから」

「別に隠してねーよ。ただ、あの後打つ機会があったってだけさ」

「あっそうなんだ。勝ったの?」

「勝ったよ。──うん、思いつきだったけど意外とありかも。今度行ってみるか」

 

 頷きを繰り返すヒカルに、焦ったように奈瀬が両手を突き出した。

 あまりにも平然と勝ったという進藤はおかしい。

 

「ちょ、ちょっと待って!? 塔矢って、あの塔矢アキラのことだよね!? 平然と言ってるけど相手は4月からプロなんだけど……?」

「ああ、奈瀬には話してなかったっけ? 俺とアイツ、けっこう仲良いんだよ。アイツも忙しくなるだろうけど、碁会所で場所借りるくらいはいけるんじゃねーかな」

 

 違うそうじゃない。と言いそうな自分を抑えるのに少し苦労した。

 

「あ、うん。そうなんだ。って、そうじゃなくって。まあそういう意味もあるんだけど……、そんな簡単に勝ってるわけ?」

「ん?今んとこ4戦全勝。……いや、こないだの含めたら10戦全勝か。まぁオレの全勝ち。碁会所行けばアイツも打ちたがるだろーけど、碁盤なら山ほどあるだろうし。塔矢含めての3面打ちくらいなら大丈夫だろ。あと奈瀬とあかりもアイツに打ってもらえよ。塔矢も一応は現役のプロになるんだし」

『はい♡その気になれば6面でも7面でもやってみせましょう! ……あぁ、また塔矢と対局が出来るのですね。ヒカル、素晴らしい思いつきですっ!』

 

「……えっと。……ええ?」

 

 愕然と、引き攣った表情を見せるしかない。

 プロ相手に多面打ち。

 自分達と打ちながら、さらに塔矢アキラと打つという意味不明な発言。それでも負ける気なんて微塵もないであろう強気発言。進藤が言ったのでなければ、鼻で笑っただろう。

 

 塔矢アキラなんて、奈瀬からすれば既に雲の上の存在だ。

 ましてや相手は先日、あの『座間王座』に逆コミありとは言え勝利した鳴り物入りの新初段でもある。

 それをまるで子供扱いするヒカルの様子に、自分は本当にトンデモない人に師事したのかもしれないと今更ながらに思う奈瀬だった。

 

 

 

 

 

 

 

「──なるほど。そう打つのか」

「ああ、そこでツグよりも、右上隅を覗いた方がデカい。後々の布石になるだろ? けど、塔矢ならこっちでノビるのもありかもな」

「そ、そこをこの局面でノビるのか? ……なるほど。確かに応手が難しい、か。白の応手としては、黒を分断すれば白を繋げることになり、逆も然り、だね。うん、進藤と打つのは勉強になる」

「ただノビる手は黒のど真ん中から伸ばす一手だからな、読み違えれば死ぬ。……一回試しでここから打ってみるか」

「ああ、是非やってみたい」

「こう来たら、こう行くだろ」

「ならこうだろうな。そしてこういう形になって」

 

 そのまま着々と手数を重ねる。

 さらに数手を積み上げてアキラが思わず唸った。

 

「……なるほど。ここで黒の地をこれほど荒らせるのは大きい。しかも白も生きる、か。進藤、キミはあのノビる手の時点でここまで見えているのか……?」

「ああ。それ以外にも幾つか手はあるけど、ある程度は見えてるよ」

「……やっぱり、キミは凄い。ボクも負けていられないな。もっともっと強くなってみせる」

「お前の碁はその『力強さ』が持ち味だから、オレも打ってて楽しいよ」

「そ、そうかな? キミにそう言われると嬉しいな……」

 

 少し頬を赤らめる年相応の子供らしい、言ってしまえば可愛らしい年下の男の子っぽい様子(塔矢は奈瀬の年下)を見て、奈瀬はあんぐりと開いた口が閉じられなかった。

 

 プロ確実。

 幼少からそう言われてきた天才少年棋士が、そのさらに上をいく天才少年棋士に褒められて高揚している。

『もう意味わからん』と言いたくなるような状況。

 

 しかも、奈瀬はその塔矢アキラにプロ試験ではボコボコにやられたのだ。

 それも踏まえれば、目の前に広がるのは信じがたい光景だった。

 

 そこにあかりが嬉々とした様子でヒカルに話しかけた。ポニーテールに結んだ髪がまるで犬の尻尾のように揺れていた。

 

「ヒカル、ヒカル。私はどうかな? この一手凄く良くなかった?」

「おお、その手はオレもいいと思ったんだ。面白いよ。ただ惜しいんだよ、その後にこう続いただろ? ここはこうじゃなくってこう行った方がデカい。で、こう展開させていけば、ホラ。これで左辺の地は確定したようなもんだろ」

「ああ〜〜〜!! 見逃してた……」

「けど、あかりもこの数週間で相当伸びたよ」

「え、えへへ。そ、そうかなぁ?」

「マジマジ。やっぱ環境を変えるっていいな。改めてになるけど、塔矢、ありがとな」

「ああ、いいんだ。お礼なら市河さんに言ってよ。無理を聞いてもらったからね。それにボクも凄く勉強になっているし、刺激になってるから、むしろボクからお礼を言わせて欲しいくらいだよ」

「そ、そうか? まぁ今度の『若獅子戦』じゃ負けねーけどな」

「それは、もちろんボクだって。キミと公式戦で当たれる事を嬉しく思うよ」

「お前、相変わらず自信家だな。オレ以外の奴に負ける気がないって聞こえるじゃん」

「負ける気はないよ。もちろん、進藤にもね」

 

 自身あり気に微笑む塔矢に、ヒカルもニヤリと笑って応えた。

 

「……言ったなコイツ」

「何度でも言うさ。キミはボクのライバルだ」

 

 真剣な瞳で睨み合う、いや。高め合う二人の姿を見て、奈瀬は負けてられないと拳を握る。

 そして自分と同じく意気を高めているあかりを見て思わず提案した。

 

「……あかりちゃん、1局どうかな?」

「うん。私も打ちたい」

 

 二人の天才少年棋士に感化されるように、二人の少女も真剣さを増して囲碁に取り組んでいく。

『パチパチ』と碁石が奏でる旋律は青くも美しい棋譜を作りながら、青空に(ほど)けていった。

 

 

 そして若獅子戦を目前に控えた最終成績が出た。

 進藤ヒカル。藤崎あかり。奈瀬明日美。

 3名ともが1組16位以内に入る。

 進藤ヒカル1組1位。奈瀬明日美1組8位。藤崎あかり1組16位。

 

 それが意味するのは、3名ともが若獅子戦に参戦するという事だった。

 若き芽が現役プロに勝つために牙を研ぐ。

 迎え撃つ塔矢アキラも、追いかけてくる2名(藤崎あかり、奈瀬明日美)追っている1名(進藤ヒカル)に影響を受けながら、来たるべき時に備える。

 

 

 激突は5月。

 もう間も無くのことではあるが、それよりも少し前。

 今より少しだけ時は巡って3月の出来事。

 

 塔矢アキラの免状授与を少し先に控えて、とある一室では少し先にある5月の若獅子戦の話題で盛り上がっていた。

 緒方が少し記憶を探りながら問いかける。

 

「……芦原くんは去年の若獅子戦に出ていたかな?」

「出てますよっ! ──倉田ですよ、倉田。優勝したのも倉田。その倉田に負けたせいで2回戦負けですよ……」

 

 芦原が情けない顔で天井を仰ぎながら言った言葉に、微笑んだ塔矢行洋が軽口を言った。

 

「そりゃあ緒方くんの記憶に残らんのも無理はない」

「先生! そう言わないでくださいよ〜」

「去年の記憶はトンとなくてね、悪いね芦原」

「ぜったい悪いと思ってませんよね、緒方さん」

「ハハハ」

「ほらぁ! 笑って誤魔化してる!」

「──それはそうとして」

 

 区切りをつけるように緒方がそう言い、そのまま面白げに塔矢行洋に向けて視線を投げた。

 

「今年の若獅子戦。注目はやはり例の子ですか。──本当の実力が見られる瞬間を、恐れながらも楽しみにしている。そんな自分を自覚していますよ、先生」

 

『sai』としての実力は見た。

 ネット上の彼が進藤ヒカルである確信はある。だが確定ではない。

 故に『本当』のことがわかるのは若獅子戦である。

 緒方の物言いに塔矢行洋も微笑みを返す。

 

「……キミもか、緒方くん。私も非常に興味深いと思っているよ。この腰は少し重いが、現場で見定めたいと思うほどにね。名人位というものは良いことばかりではないと、こういう時はつくづくそう思うよ」

「ご冗談を。先生以外がその位に相応しいとは思えませんよ。まぁ今は、ですが」

 

 まるで奪ってみせると宣言するかのような言い方に、緒方の横で芦原が表情を慌てさせるが、言われた張本人である塔矢行洋は薄らと楽しげに微笑んでいる。

 

「キミの名人位への挑戦を楽しみに待っていよう。話は戻るが、残念ながら私はスケジュールが空かない。非常に勿体なく思うが、現場には足を運べそうもない。代わりに見てきてくれるかね、緒方くん」

「もちろんですよ、先生」

「──それには及びませんよ、お父さん」

 

 そこに、飲み物を盆に用意した塔矢アキラが障子を開けて入ってきた。

 相変わらずの力強い視線で宣言する。

 

「彼はボクと決勝で当たります。直接対決した者の意見を、お伝えできますよ」

「ふん、それは確かにオレじゃ無理だな。なら、オレは一介の観戦者に徹させて貰おうか。……彼との対局を楽しみにしているよ、アキラくん」

「はい。公式戦での彼とは、ボクも初めて当たりますから。楽しみです」

 

 楽しみと言いながら、その表情に笑みなどはない。

 真剣に研ぎ澄まされた刃を思わせる様子に、緒方は肩を竦めた。

 

「──やれやれ、今からそんな調子で身体が保つのか心配になるね。少しは肩の力を抜いたらどうだい」

「あ、いえ。そ、それもそうですね」

 

 途端に真剣な気配を霧散させてオロオロする塔矢アキラの様子に、緒方は心底面白げに微笑んだ。

 

(あのアキラくんが、こうまで表情を変えるか。──本当に楽しみだよ、進藤。ケツは持ってやるから、存分にプロ相手に暴れると良い)

 

 タバコを吹かせたい心地だったが、室内で吸うわけにもいかない。

 一声を掛けて外に出て、廊下から縁側に向かって煙を吹かせる。

 

 タバコの煙が青空に向かって伸びてゆく。

 紫煙を肺に潜らせながらも緒方の意気は収まらない。

 塔矢アキラ。進藤ヒカル。

 日本の囲碁界に新しい時代が訪れようとしている。

 その事実が衆目に晒される刻限が、今か今かと近づいてくる足音を実感して、緒方は思わず口角が上がるのをヤメられなかった。

 

 

 

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