「──けど、阿古田さんには笑ったなー。昨日と違って、そういう系統でくるとは思わなかったもん」
『もう。それで囲碁教室から追い出されちゃったんですから、反省してくださいね、ヒカル』
爺ちゃん家で佐為が打った日からから数日。
話していた通りに囲碁教室に足を運んだヒカルたちだったが、少しのアクシデント──主にヒカルの好奇心が原因だが──に見舞われて囲碁教室を追い出されてしまっていた。
「駅前の碁会所って、ここか」
目の前に聳えるビル。
そのビルの中程に囲碁サロンと書かれた看板が下がっている。
振り返らなくても、それを見た佐為のパァッと輝いた顔が簡単に想像できた。
『わくわくしますね、ヒカル!』
「あーそう、よかったよかった。まぁ適度に遊んで帰ろーぜ」
『はい♡』
そんな嬉しいもんかな、と思いつつも、ここまで喜んでもらえるんなら悪い気はしない。
カツンカツンとビルを登りながらこの碁会所の事を教えてもらった時の出来事を思い出す。
──爺ちゃんに買ってもらった碁盤は通販なのですぐには届かない。
だが佐為は打ちたいと言い続ける。なのでヒカルは自宅のマグネット盤を使って何回か打ってやることにした。
最初はまだいい。ヒカルだって囲碁を覚えてそれなりに経ってる。佐為の強さも理解できるし勉強になることもあった。けど、ヒカルはお小遣いのために打ってるだけだ。毎日毎日四六時中、囲碁囲碁言い続ける佐為と打ち続けるのは勘弁して欲しいというのが正直な気持ちだった。
だからって爺ちゃんと打ちまくる訳にもいかない。
こないだは誤魔化したが、何度も打ち続ければさすがに爺ちゃんでも疑問を抱くだろう事は少し事情に疎いヒカルにもわかる。
なのでヒカルが諦めてしぶしぶ佐為と打てば、もちろん佐為は喜び勇んで指導碁やら手加減やら色々と楽しめるように工夫してくれるのだが、それでもヒカルがやる気を保つのも十数局が限界。いや、そんなに付き合っただけでも褒めて欲しい。囲碁は嫌いじゃないが嫌いになりそうだった。
だから色々考えた末に以前話題に出していたこともあって囲碁教室に行ったのである。
ヒカルがサボってても囲碁の話が流れてれば多少は静かになるだろうという打算もあったが。
なのに、初日からついつい性根が疼いて弱い者イジメの阿古田さんのカツラを見抜いて笑いを掻っ攫ってしまい。
囲碁教室の先生から怒られて
その時に一緒にいたおばちゃんから教えてもらったのだ。
教室には入れなさそうだから、それなら代わりにここならどうかしら、と。
その場所がいま登っているビルの中ほどにある駅前の碁会所。
──囲碁サロンだった。
敷居を跨げばそこは別世界だった。
パチパチと石を打つ打音が響いている。静けさの中に緊迫感があった。
思わずドキリとして足を止めたヒカルの後ろで、佐為は恍惚とした吐息を溢した。
『はぁ〜〜、良いですね。この雰囲気、たまりません……』
(──お前な……、ちったぁ俺のことも考えろって)
ヒカルが気後れしてしまう、そんな別世界の入り口には女の人がいた。受付嬢なのかもしれないと、ぼんやりそんなことを思う。
うちの母親より若そうだが小学生のヒカルじゃ女性の年齢はいまいち読めなかった。
「──あら、こんにちは。……どうぞ?」
頷いて、中途半端に跨いでいた敷居を過ぎて入り口の戸口を後ろ手に閉める。
パシャンと閉まる音に受付の人がにっこりと頷いて笑った。
「名前書いて下さいね。ここは初めて?」
「あ〜〜〜ウン。ここもなにもウチの爺ちゃんとばっか打ってたから、碁会所がまるっきり初めて……、ここなら誰でも碁が打てるの?」
「打てるわよ。棋力はどれくらい? あ、ここね」
「ありがと。棋力? よくわかんねーや。あ、でも、色々賞取ってる爺ちゃんには勝ったぜ」
「あらそう。じゃあ、君って結構強いの?」
面白そうに、そう言われてヒカルの脳裏を過ったのは佐為の言葉だった。
──本因坊秀策という名で棋譜が残っているはずです、と。
ヒカルもその名前は聞いたことがある、それくらいの有名人だった。
だからつい答えてしまった。
「──本因坊秀策くらいかな」
「ふふ、それは相当強いわね」
(まァ、そういう反応になるよなー。俺だって信じらんねーもん。幽霊だぜ、幽霊)
微笑ましげに笑っている受付のお姉さんを尻目に碁会所を見渡す。
想像していた通りだった。タバコの煙こそないが爺さんばっかり詰めている。その雰囲気は完全に大人の空間だ。そんな場所だからだろう。一人だけポツネンと座っている子供が一際目立っていた。
しかも、ヒカルと同じくらいの年齢に見える。
それで思わずヒカルは声を上げた。
「あ! なんだ。子供いるじゃん!」
「え……ボク?」
育ちの良さそうな、今まで見たことないくらい落ち着いた雰囲気を出してる少年だった。
だから一瞬気後れする──なんて、ヒカルはそんな殊勝な性格じゃなかった。こんな碁会所に子供がいると思ってもみなかったが、居るならめちゃくちゃ嬉しい。爺さんと打つしかないと半ば諦めてた分だけ嬉しさもマシマシだった。こういうのを嬉しい誤算というのだろうか。
「あいつと打てる?」
「あ、うーん。あの子は……」
「対局相手さがしてるの? いいよ、ボク打つよ」
「あらそう? じゃあ、アキラくん。この子、本因坊秀策みたいに強いっていうから、頑張ってね?」
市川のお茶目な発言におかっぱの少年は目を丸くして、その後に頬を綻ばせた。
「……秀策? ふふっそうなんだ。──奥へ行こうか。ボクは塔矢アキラ」
「オレは進藤ヒカル。6年生だ」
「あっボクも6年だよ」
奥に続こうとするヒカルの背中に慌てた受付のお姉さんの声が掛かった。
「君ちょっと待った! お金がまだよ」
「ええ!? お金いるの?」
「もちろん! 子供は五百円!」
ビシッと手のひらを向けて五百円! と示す受付のお姉さんにアキラが仕方なさそうに笑った。
「彼、ここ初めてなんでしょ。市河さん今日はサービスしてあげてよ」
「ヤ〜〜〜ン♡アキラくんがそう言うなら……」
「ど、どーも」
「ありがとう」
にこやかに笑みを浮かべて礼を言ったアキラの姿に、ヒカルは若干気後れした。
助かった、とは思いつつも別の感想もあったから。
(真面目な顔して、意外と軟派なやつ?)
『対局♡対局♡』
ヒカルがちょっと気後れしているのに、肝心の佐為はヒカルのちょっとした感想なんて耳にも入っていない様子で小躍りしている。
年齢で考えれば、どう考えてもヒカルの方が年下なのに、囲碁しか見えていない佐為を前にすると、なんだかヒカルは自分の方が年上にでもなったような心持ちだった。
だから、だろうか。
普段のヒカルなら憤慨してヘソを曲げそうだというのに、あんまりに囲碁しか見えていない佐為を前にすると、不思議と苦笑いが溢れたのだった。
「──さっき言ってた本因坊秀策って、どれくらい本気なの?」
お互いが席についた後。
少しだけ冗談めかして塔矢アキラはそう言った。
碁会所は静かであることもあるし、彼──進藤は声量を全く落としていなかったから、アキラにも声が届いていた。たぶん碁会所中に聞こえていただろう。アキラはこの子がどういうつもりで秀策の名前を出したのかに興味があった。
「ん? ああ、本気っていうか、まぁオレは本因坊秀策の生まれ変わりみたいなもんだから。さ、打とうぜ!」
思っていた返事とは違って少し困惑してしまう。
──生まれ変わり? ……ちょっと変わった子なのかな。
そう思いながらも打つことに否はない。
アキラも笑って頷いた。
「いいよ。じゃあ、置き石はなしでいいよね?」
ちょっとした冗談というか、意趣返しのつもりでそう言うと堂々と頷かれてしまった。
「当たり前だろ? いらねえよハンデなんか。おまえとオレ同い年じゃん」
「え? うん……、まァそうだね」
同い年。
──改めて言われるとそうなんだけど。
そう思いながら少し照れるアキラに周囲の大人たちが囃し立てた。
「『塔矢アキラ』に置き石なし? とんでもないボウズだな……。おっと秀策先生だったか」
そんな声も、ヒカルには聞こえていた。
けどムッとしながらも何も言わない。普段のヒカルなら言い返したが今日は少し勝手が違っていた。
お小遣いのためとはいえヒカルはもう1年以上も碁を打ち続けている。
継続は力であり、そして活発なヒカルがそれだけ長く続けられていたという事は、少なからずその魅力に気がついていたからだ。
だからヒカルも少し楽しみだった。
自分と同い年のアキラが佐為──
そっちが気になって、外野の声なんてもうヒカルの耳には入らない。
盤面を挟んで向き合っている塔矢は、先ほどまでの柔和な笑みを消して真剣な表情を向けてきている。
その迫力に思わずヒカルの喉が鳴った。
──なぜだろうか。ただの小学生が佐為に勝てるわけがない。なのに眼差しに怯んでしまうヒカルがいた。
(佐為。なんか、塔矢って結構強いのかも。それでも指導碁行けるか?)
『どうでしょうか、打ってみねばわかりませんが、出来る限りやってみましょう。……さあヒカル! 早く対局対局!!』
(あーはいはい、わかったよ)
ヒカルの不安なんて何のその。
こんな時でも囲碁のことしか見えていない佐為に、少し安心しつつ頷いた。
「じゃあ、塔矢。最初だし、先手の黒番貰うな」
「いいよ」
「よし。じゃあ」
「「お願いします」」
二人は揃って頭を下げた。
対局はすぐに始められた。黒番は進藤ヒカル。白番は塔矢アキラ。
コミは黒番の五目半。
パチパチと石が並べられてゆく。
互いに気負いもなく、打つのにも慣れている。
そんな二人の序盤はあっという間に駆け抜けて行き、アキラは対面に座る同い年の少年を見る。
(古い定石だ。最初は『本因坊秀策』の真似をしているだけかと思ったけど、揺さぶりにも動じない。意外と石の筋はしっかりしている。相当深く勉強してないとここまで打てない。……生まれ変わりって、伊達で言った訳じゃなかったのか)
少しだけヒカルの事を見直しながら、アキラは盤面を進めていく。
(……言うだけのことはある。この子、相当に強い。ボクの打ち込みにも動じないし……、いや。動じないどころか、軽やかに躱していく? 局面を、ずっと彼がリードしている……?)
そして、ヒカルからの一手。
置かれた黒石の位置を見て、アキラの総身に痺れるような驚きが走った。
(これは。これは最善の一手ではない。最強の一手でもない……。 ボクがどう対処するのか、どう打ってくるのか試している一手だ! ボクの力量を測っている!! 遥かな高みから……)
思わず視線を盤面からヒカルに向けた。
そこには不敵に笑みを浮かべる少年の姿があった。
「……塔矢の手番だぜ?」
ヒカルにもわかっていた。
佐為がどれほどの打ち方をしているのか理解していた。
初めから佐為の実力を知っていたヒカルは観察に専念していたから尚更だった。
だからこそ、ヒカルは笑っていた。
ここから塔矢がどうするのか。
自分ならこうする、と思いながらも、自分と同年代の塔矢ならどうするんだろうとワクワクしている自分を無意識に楽しみながら。
「……ボクの、負けだ」
アキラの、苦渋とも呼べる一声。
その瞬間に一室の空気が騒めいた。
「ま、負けたのかいアキラくん!?」
「7目半差で!?」
「そんなバカな!!」
ざわめく周囲とは裏腹に塔矢アキラは静かだった。
ショックを隠しきれない様子で口元を手で覆ってただ盤面を見つめている。
(7目半……、コミを入れれば2目差で僕の負け……、2目差? そんなレベルじゃない……)
圧倒的だった。終始主導権を握られ続けた。振り回されるように打ち続けるだけで精一杯だった。
対局の終わった今ならわかる。一刀両断できる実力差がありながら、手加減されていたということが──。
愕然としているアキラを他所に、そんな凄さを見せつけた佐為は興奮して袖をわちゃわちゃと振り回していた。
『ヒカル! どうでしたか、私の碁は! この子『も』非常に良い碁を打ちますね。未熟ながらも輝くような一手を放ってくるのです! 彼の一手に私自身が覚醒していくのを感じるほどでした! この子供。成長したら獅子に化けるか、龍に化けるか──楽しみな逸材ですね!』
(ふーん、そりゃよかったなっと)
佐為にそう投げやりに伝えて席を立った。
「わりー塔矢。今日はここまででいいか?」
「……え? あ、ああ、うん。もちろん」
「じゃーな」
「ま、待ってくれ! ……君は、君は何者なんだ?」
進めていた足を止めて振り返りながら言った。
「本因坊秀策──、そう言ったろ?」
ヒカルは少し寂しそうに笑って答えた。それは彼我の実力差を悟った笑みだった。少し上から目線でどの程度打てるのか見てやる、とそう思っていた
そんなヒカルに、この場で佐為だけが気がついていた。
『──ヒカル! 急にどうしたんです? もう一局くらい打っても良かったのでは……』
「いーの。ちょっと疲れたんだよ、慣れないところ行ったし」
『そ、そうでしたね。ついヒカルのことを考慮せず……、すみません、ヒカル』
嘘だった。
慣れない環境でも一局で疲れるほどヤワじゃない。
理由は何となくわかっていた。
「なァ佐為。アイツ、めちゃくちゃ強かったな」
『そうですね、今までに凄まじいほどの鍛錬を積んだはずです。そして彼自身にも鍛錬に応えるだけの才能があった。並みの打ち手ではありませんでした』
瞳を輝かせて語る佐為を見ていられず、ヒカルは視線を逸らした。
「……そーだな。あーあ、世の中すげー奴ばっか」
『ヒカルも凄いですよ』
「へいへい」
何気ない風を装いながらヒカルは歩く。
──佐為を信じていないわけではないが、凄いという言葉を、素直に受け止められるほどヒカルも純粋じゃない。
けれど、あの佐為に凄いと言われて少し嬉しかった。
それでも塔矢と比べて自分はという思いは拭えない。掛けてきた時間を思えば当然かもしれない。それでもその事実を受け入れるには、ヒカルはまだまだ子供だった。
そんなヒカルを見てか、佐為はゆっくりと話しかける。
『ヒカルのおかげですね』
「なにが?」
足を止めて振り返ったヒカルに、佐為は少し寂しそうに微笑んだ。
『この数日でよくわかりました。今の時代では、大人も子供も囲碁を打つことはとても珍しい。……悲しいことですが、それが事実です』
「まァ……そうだな」
否定する言葉も思いつかず、ヒカルは肯定しづらい気持ちを抱えたまま頷いた。
『そんな中で、囲碁を知っているヒカルに出会えたのはまるで奇跡です。囲碁なんて、まるで知らない人に憑いてしまっても不思議ではありませんから』
ヒカルが囲碁を打っていたのは偶然だ。
佐為と出会った蔵に行ったのも、碁盤が目的じゃなかった。
『ヒカルに出会えてよかった。まだ出会って数日ですが、私は心からそう感じていますよ』
佐為とヒカルは心の深いところで繋がっている。
だから混じりっ気のない本当の言葉だと理屈ではないところでわかる。それが少し気恥ずかしくて、でも心地が良かった。
塔矢に抱いていた悔しさがなくなった訳ではないし、感じた衝撃は今でも変わらない。
それでも、混じり気のない言葉を向けられて何も感じないほどヒカルは鈍感じゃなかった。
「……あ、っそ」
佐為の言葉に、不思議とほんの少し胸が軽くなった。
照れて押し黙って歩き始めたヒカルと佐為の間には沈黙がある。
でも二人の心は繋がっている。それはヒカルの今の気持ちが佐為にも伝わっているということだ。
背後から暖かい視線を感じてヒカルは振り返る。
そこでは佐為が想像通りの表情をしていたのでビシッと指先を突きつけてやる。
「あー! 佐為! これからもいっぱい打たせてやる! ……だから、社会のテストな!」
『──はい! って、ぇ!? ズルはいけませんよ! ヒカル!』
「いーんだよ!」
ヒカルの頬に少しだけ赤みが差していたが、きっと冬風のせいだろう。
ワイワイと佐為と話しながらヒカルは帰路に着いた。
塔矢アキラとの邂逅。
出会ったのは、佐為と塔矢アキラの実力を見抜けるほど囲碁を理解しているヒカルだった。
その変化はより大きな変化を産み、物語は形を変えてゆく。
小さな変化。
だが確かな変化だった。
川底の変哲もない石が、大きな流れを変えてしまうことがあるように、微々たる変化は大きなウネリへと変わっていく。
物語の行き着く先は、まだ誰にもわからない。
『そういえばヒカル。帰り際に貰っていたものって、なんなんですか?』
「ん。あー、なんかのチラシだったけど……」
ゴソゴソとポケットを探って出てきたのは、無理やり押し込んだせいでくしゃくしゃになった、子供囲碁大会のチラシだった。