神の一手   作:風梨

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約8800字



第9話

 

 

 若獅子戦。

 その歴史はまだ九年と新しい。

 今回が第9回目となる、20歳以下のプロ棋士と院生がトーナメント形式で戦うイベントである。

 若手の育成と新たな才能の発見を目的とされた今大会は当初から若手の棋士たちの盛り上がりを期待されており、運営側の狙い通りに若い棋士たちの間で大いにモチベーションとなって来た。

 

 そして今回に関しては重要な役割、目的があった。

 

 ──塔矢アキラが会場に入る。

 スーツを着こなし背筋を伸ばして真っ直ぐ歩いている姿は若輩ながら強者の風格があった。

『カツカツ』と革靴を鳴らす姿は堂に入っている。

 

 若獅子戦はスーツの着用が必須ではない。

 だというのに、タイトル戦に臨むかのような正装で会場に入った塔矢の姿は並々ならぬ意気込みを周囲に感じさせた。その若手の姿を見て、既に会場入りしていたプロ棋士の面々が囁き合う。

 

 若い棋士たちの目的は対局だけではない。毎年現れる新たなライバルの視察も兼ねている。

 プロの世界は弱肉強食。

 弱者が淘汰される中で、どれだけ頭角を現せるかに掛かっている。その枠で言えば、塔矢アキラの存在感はあまりにも眩しい。強力なライバルの出現に影響されて、会場の弛緩していた空気もだんだんと張り詰めていく。新たに交わされる会話の主題は塔矢アキラ一色に染まった。

 

「──塔矢アキラって、アイツか」

「ああ。まだ手合いは先だけど、今のうちに様子見しておきたいよな」

「3月の免状から大体4月には初手合い。アイツ、今のところ4戦全勝だっけか」

「可愛げなく、な」

「おまけに新初段シリーズでは、座間王座に勝ったって言うんだから、まさしく鳴り物入りだよ」

「……今のうちに実力を測っておきたいってのは、みんな同じだな」

 

 その意見に同意を示すように、集まった複数名の若手プロ棋士が顔を見合わせて苦笑いした。

 

 

 

 そんな会場の一角に院生たちも(たむろ)していた。

 思い思いの格好で、けれど、胸元には棋士の証である花飾りを付けている。

 ラフな普段着に花飾りをつけている進藤ヒカルも、当然この場に集まっていた。

 

「──なー、和谷。村上プロってどの人?」

「ん? ああ、あのスーツ着た人だよ、メガネ掛けてる長髪の」

「ああ、あの人か」

 

 視線を向けた先で和谷の言った特徴の男が談笑していた。

 

「進藤の初戦は村上プロだったか」

「そうそう。和谷は?」

「お前、予定表に書いてんだろーが」

 

 呆れ顔の和谷だった。

 けれど、面倒見の良い和谷はそのまま会話を続けた。

 

「中山さんだよ、二年前まで院生だった人だから、オレ面識あるんだ」

「へぇ、やっぱ院生長いと顔広くなるんだな」

「広くなっても、あんまり意味ねーけどな。プロになれなきゃさ」

「……ま、確かに。今日はがんばろーぜ」

「ああ。腕試しには持ってこいだ。まずは1回戦突破しねーとな。進藤もヘマすんなよ」

「するわけねーだろ。オレってば、決勝まで行くつもりなんだから」

 

 決勝。

 対戦表を見れば、それが塔矢アキラと対局するという意味だとすぐに理解できる。

 ライバルと打つという発言に嫌味はない。

 平然と言ってのけるヒカルになんとも言えない悔しさを感じるが、その悔しさはこれまでバネにしてきた。

 だから、和谷は激励も込めて『ワシャワシャ』と進藤の頭を撫でた。

 

「……こんのヤロー!!」

「あいたた!! いででで!」

「打倒塔矢アキラは任せた!!」

「わかった! わかったから手ぇ離せって! ──あーもう、髪めちゃくちゃになったじゃんか!」

「任せたぜ、1位。会場全員の度肝抜いてやれよ」

「……おう」

 

 そう言いながらも、和谷に勝負を諦めるつもりは微塵もない。

 まずは一勝。

 その思いで対局に臨む。

 プロとの対局は自分の現在地を測る良い機会だ。研究会ではない真剣勝負だからこそ見えてくるものがある。

 和谷はプロになるという目標を全く曇らせずに、目の前の対局に集中していた。

 

 そんな和谷の近くでは、女子二人が予定表を開きながら顔を突き合わせていた。

 

「──あかりちゃんの相手は、冴木四段ね」

「よ、四段……!? やっぱり表記ミスじゃなかったんだ……」

「ウン。そりゃそうでしょ」

 

 項垂れるあかりに対して、苦笑いする奈瀬がそのまま続ける。

 

「たぶん、この中では一番段位が高いかも?」

「嘘ぉ〜!?」

「何驚いてるの。いつも進藤とか塔矢くんと打ってるんだから、こんなことで怯んでちゃダメよ。 良い、あかりちゃん。まず気持ちで負けちゃダメだからね? ──食らいつくの。いつもみたいにね」

「……うん。段位に怯んでちゃプロになんか成れっこないよね」

 

胸の前で拳を握ったあかりに、奈瀬も力強く拳を向けた。

 

「そうそう。四段くらい倒しちゃえ!」

「うん! 明日美ちゃんの相手は田島二段だよね。──明日美ちゃんもファイト!!」

 

 そう言ってあかりは両手を胸の前で握りしめた。いつもの調子を取り戻したあかりの姿に、奈瀬も少し安心して強気に笑みを浮かべた。

 

「まかせなさい! 進藤研究会の成果を見せないとね。これに勝てば、2回戦で塔矢くんと当たるからそれも楽しみ。やってやるわよ」

「私は冴木四段に勝てればヒカルだね。……ヒカルなら勝つもん、ヒカルと対局するために頑張る!」

 

 進藤研究会の女子2名が意気を高めて対局に臨む。

 あかりは初めての公式戦に舞い上がっており、少し気合が入りすぎているようにも見える。

 奈瀬は逆に非常に落ち着いていた。

 今までにないほど穏やかな気持ちで、対局を待つ自分を客観視出来ている。

 

 そんな奈瀬の耳に、あまり聞きたくない類の声が入ってきた。

 発生源を見れば真柴が嫌味ったらしい仕草で院生組に近づいて来ていた。

 

「──どーも、伊角さん。今日はよろしくぅ」

「……ああ、よろしく」

「プロはいいですよぉ。院生の時のあのイヤな切羽詰まったカンジがなくなって伸び伸び打てますから。さっさと伊角さんもこっち側来てくださいよ。──じゃ」

 

 悠々と背を向けて去っていく真柴の背中に、伊角は何も言わない。

 去年の試験で自分はプロになれなかった。

 そんな自分が何を言っても負け惜しみにしかならないと理解しているからだった。

 

 しかし、そんなことは周囲には伝わらず。

 真っ先に和谷が頭を抱えながら吠えた。

 

「あああ!! ムカツク〜〜!!」

「ほんとイヤよねー。プロになったからって威張っちゃって。──伊角くん、勝ってよね」

 

 奈瀬が便乗して伊角に発破を掛ける。

 その一声を契機に、院生たちから『ギン』と音が鳴りそうなほど集中する視線に少しばかり驚き、伊角が硬い表情のまま答えた。

 

「……ぜ、全力を尽くします」

 

 和谷がブスッとしながら言う。

 

「イマイチ迫力に欠ける……」

 

 本田がドウドウと和谷を抑えるように両手を向けながら言った。

 

「まーまー。対局が始まればってやつさ」

 

 越智が関係ないとばかりに平然と言った。

 

「人のことより自分のことだよ。ボクはプロに勝つからね」

 

 奈瀬が少し呆れ気味で言う。

 

「まー、そうなんだけどね。……不思議と負ける気しないのよねー」

 

 奈瀬の最後の一言は誰にも聞かれずに空に溶けた。

 自信というには力みがない。

 言うなれば自然体の言葉だった。

 

 その出来事を契機にしてか、若獅子戦が始まりを告げる。

 各々が席につき、対局前の準備時間に入る。

 そこでも真柴の軽口は止まらなかった。

 

「──えー? 院生のギャラリーこんなにつくの? 力入っちゃうなー。だって、伊角さんは院生でボクはプロだから、カンタンにやられたらカッコ悪いですもんね。その分伊角さんは気楽かな? 負けても言い訳できますから。でも、伊角さんはギャラリーのこと気にしちゃうかな?」

「……お願いします」

 

 それ以上の対話は盤面で。

 そう言わんばかりに伊角は真柴を真っ直ぐに見つめた。

 睨んでいるのではなく、ただ真っ直ぐな瞳。

 

 そんな眼差しを向けられれば、意地の悪い真柴といえど口を閉じざるを得ない。

 少し居心地悪そうに座り直して真柴も答えた。

 

「お願いします」

 

 先番は院生である伊角。

 碁笥に手を差し込んで、第一手を盤面に向けて放った。

 相手はプロになった、去年の競争相手。

 だが、伊角は真柴に負けているとは思わなかった。

 迷いのない一手が放たれた。院生対元院生のプロという注目の対局は堂々とした伊角の一手から始まった。

 

 

 

 伊角が真柴との対局を開始した一方で、和谷も旧知の中であるプロ棋士の中山と対面していた。

 人の良さそうな『ニコニコ』とした笑みを浮かべる中山が、仲良さそうに和谷に話しかけていた。

 

「──おー、和谷。久しぶりじゃん、元気してたか? 調子どうよ」

「中山さん、久しぶりです。元気っちゃ元気ですけど、これから対局する相手にソレ聞きます?」

「ははは、悪い悪い。今日は和谷もライバルだもんな。──よし、気を取り直して。お願いします」

「お願いします」

 

 和谷と中山の対局が始まる。

 伸び伸びとした様子を見せるプロと、少し固さのある院生。

 若獅子戦ではよく見られる光景がそこにはあった。

 

 しかし、和谷も意気込みは十分。

 悔しさをバネに今日まで実力を伸ばしてきた和谷の第一手が盤面に放たれた。

 今の自分とプロの距離感を確かめるために、一歩でも少しでもプロに近づくための一手だった。

 

 

 

 同時刻に越智も対局を開始した。

 しかし、そこに弾んだ会話はない。

 

「……お願いします」

 

 越智は口数少なくそれだけを言って、碁笥から黒石を取り出して打った。

 気負っているのか、気負っていないのか。周りから見てもよくわからない。

『ムスッ』と口を結んで、淡々と『ビシバシ』と碁を打つ姿は普段通りだった。

 

「お願いします」

 

 対面するプロ棋士もそれ以上は気にせず、応じるままに対局に入る。

 全ては盤面で決着がつく。

 勝敗以外は不要。

 院生とプロの対局というよりも、どちらかと言えばプロとプロの対局のような雰囲気で対局は進んでいく。

 

 内面を覗けば、越智に気負いはなかった。

 気合は入っているが、それは自分の実力を周囲に示したいという欲求から来るものだ。

 気持ちが盤面に悪影響を及ぼすことはなく、越智は中学一年生という若さにして、既に真剣勝負における気持ちの向け方を身に付けていた。

 

 淡々と、十二分に自分の実力を安定して引き出す力。

 その点において越智は伊角にはないモノを既に持っている。

 若年の棋士はプロ相手にも怯むことなく、一手一手を積み重ねていった。

 

 

 

 

 緊張で空気が張り詰める。

 背筋を伸ばしながら、一手一手を丁寧に積み重ねる。

 碁盤を挟んで対面に腰掛ける双方の手が盤面の上で交錯する。

 

 乱れのない手と、僅かな動揺の滲む手。

 それは即ち、形勢とイコールだった。

 

 乱れのない手は女性らしい柔らかさを持っている。

 僅かな動揺の滲む手は若い男性らしい無骨さがあった。

 

 ──柔らかな手の持ち主である奈瀬は、プロ棋士相手に優勢を保って終盤に突入していた。

 

(……うん。落ち着いて打てる。ヨセは進藤と嫌ってほど打ったんだから、普段通りに打てば間違えない。……大丈夫、終局まで見えてる)

 

 気負いのない自然体だった。

 普段から進藤や塔矢という数段上の力量を持つ相手と本気でぶつかり合っているからか、あるいは生来のモノか。奈瀬のこういった場面での度胸は並外れていた。

 ゆっくりと打ちながら、奈瀬は自分の成長を身をもって実感していた。

 

(すごく打ちやすい。去年までとは全然違うのが、自分でもわかる。和谷の言う通りね、1局でも多く強い人に打ってもらうのが大事。……まさか、こんなにすぐ強くなれるなんて思ってなかったけど)

 

 そう思いながらも奈瀬の手つきは穏やかだった。

 柔らかな所作で一手を積み重ねている。

 

 メンタルコントロール。

 プロでも難しいとされるその技術を、奈瀬は身に付けつつあった。

 

 恥を承知で行動に移した事。

 それが正しいと思って行動した事。

 結果が明確にプラスとなって現れた事。

 何より格上ばかりの環境に適応しようとがむしゃらに頑張って棋力が向上した事。

 

 そして今現在。今までは苦戦必定だったプロとの対局を終始有利に進めたことで、これまでの経験が急速に自信に変わっていった。

 

 奈瀬は棋風の根幹となる自信を身に付け、副産物としてメンタルコントロールを手に入れ始めていた。

 まだ未熟ではあるが、キッカケを得れば後は磨くだけ。

 このチャンスを物にするべく一層気合を入れながら、けれど所作は穏やかなままに打ち続けた。

 

 奈瀬が揺らぐことはないと判断したのだろう。

 対面に座る田島プロは頭を下げた。

 投了の宣言である。

 

「──ありません」

「ありがとうございました」

 

 項を垂れるプロ棋士を目前にしながらも、奈瀬が喜色を滲ませることはない。

 自分でも驚くほどに落ち着いていた。精神的な余裕があった。

 ここまで出来るんだ、プロ相手に勝てるんだ、と新たに得た経験が奈瀬をさらに成長させた。

 

 奈瀬は今まで、本当にプロになれるのかという不安と共に打ってきた。

 稀に打てる『良い碁』に縋っているだけじゃないか。プロになる夢を諦められないだけじゃないか。その一局はたまたまでしかないんじゃないか。

 そう思ったことも一度や二度じゃない。精神的な揺らぎは奈瀬の成長を明確に阻害していた。

 

 そして上には上がいると奈瀬は知っている。

 院生の中だって、伊角さんや和谷、越智、本田、飯島。これだけの壁がある。

 

 プロも含めればもっとだ。

 塔矢アキラ、進藤ヒカル。

 自分より年下なのに、圧倒的な強さを持つ天才も目にしてきた。

 下の世代からどんどん出てくる超新星に怯えていた事実は否定出来ない。

 表面上は明るく振る舞っていても、奈瀬の精神はギリギリだった。

 

 若い今しか出来ないからと言い訳をして、カラオケやボウリングでストレスを発散しても、累積する不安とプロを諦めなければならない恐怖は消えてはくれないから。

 

 

 そんな日々が変わったのは、進藤に師事を仰いでからだった。

 縋る先を得た、というような甘えた理由ではない。

 圧倒的な強さで奈瀬を引っ張り上げて『本気』で強くするため厳しく攻め立ててくる進藤ヒカル。

 進藤ヒカルから得た発想を試すように、様々な手管を重厚な経験値を駆使して放ってくる塔矢アキラ。そして日々成長を続けて迫ってくる藤崎あかり。

 

 そんな二人の天才と、そして実力の近しいライバル(藤崎あかり)と向き合う過酷な日々は、奈瀬に先々の不安や恐怖を考える余裕を与えなかった。日々食らいつく事だけに必死の奈瀬に囲碁以外を考える余裕はなかった。

 

 稀に打てる『良い碁』とは、奈瀬の100%を出せた時である。

 つまり、元々それだけの実力は持っていたのだ。

 蓄積した知識と経験が噛み合いさえすれば、驚異的な成長を遂げる下地は出来上がっていた。

 

 進藤と塔矢という天才達と本気でぶつかり合う事で、奈瀬という原石はようやく磨かれた。曇った原石から脱却して、透き通った宝石となった。

 

 視界を遮っていたモヤは消えている。余裕は安定を齎し、安定は広い視野を与える。

 広い視野は奈瀬に落ち着きを与えた。

 

 いまの奈瀬が見据えるのは少しだけ先。

 第二戦目に対局する、塔矢アキラの事。

 奈瀬は改めて気合を入れながら、穏やかなままに瞳の奥を滾らせた。

 

 

 

 

 盤面は移る。

 少しだけ時間が巻き戻って、進藤ヒカルが公式戦で始めてその実力の一端を開示した瞬間だった。

 その姿を遠目で見ていた天野は、その光景を思わずカメラのフレーム越しに見ていた。

 

 進藤ヒカルと、盤面を挟んで対面する村上は(おのの)くように(うめ)いた。

 膝の上で握る両拳はあまりにも硬く握られている。

 緊張による硬直だった。

 

(……これが、院生だって? 冗談だろ……?)

 

 村上の頬に冷や汗が垂れる。

 それにも関わらず、盤面から視線を動かせない。

 上着は既に脱いで机に掛けていた。

 それでもじっとりと嫌な汗が背中を伝うのを感じる。

 

(進藤、ヒカル。こんな、こんな奴が出てくるのか……。塔矢アキラといい、この世代はどうなってる!?)

 

 必死に最善手を模索して、固まった手を解しながら応手を返すが、早碁の如くすぐさま打ち返される。

 ノータイムでの応手に動揺するほど柔ではない、と言いたい村上だったが、圧倒される盤面も相乗して動揺が隠しきれない。

 事あるごとに身体を解すような動作が増える。

 集中できていない証拠だったが、しかし。

 

(集中……? いや。これは、そんな事でどうこう出来るレベルじゃない……!! 軽く見積もっても高段者クラスの実力だぞ!?)

 

 圧倒的。

 まさしくその言葉が相応しい。

 こちらが考える間に、応手を考えているのだろうとは思う。

 だが、だからといって普通は即座に返せる物ではない。

 完全に村上の手を読み切っていなければ到底不可能な芸当だからだ。

 

(このオレが、プロのオレが、院生相手に良いように転がされてる……!? ──くそッ、諦められるか! まだ、まだ終わってない!!)

 

 粘りに粘る盤上の戦いが繰り広げられた。

 それは完全にプロと院生の立場が逆転している盤面である。

 何とか粘って隙を待つプロと、堂々と応手を返す院生。

 

 常ならば逆である光景がそこにはあった。

 

 ヒカルの表情に変化はない。

 目指すのは決勝戦。

 早く塔矢と戦いたいという気持ちの乗った碁だった。

 それは、相手である村上プロを押し潰すような碁を盤面で見せつける結果となった。

 

 ヒカルにつられて、村上も打つ手がどうしても早くなる。

 それでも、ミスらしいミスはない。

 仮にもプロである意地だった。

 しかし形勢も良くならず、そのまま押し潰されて終局。

 

「……ありません」

 

 肩を落とす村上プロの言葉が発せられたのは、僅か20分弱での中押し宣言だった。

 あまりに早すぎる終局。

 村上は『ガラガラ』と自分の中の自信が音を立てて崩れるのを感じる。

 若獅子戦の初戦に院生相手に敗北なんて、あまりにも恥ずかしすぎる、と。

 

「ありがとうございました」

 

 だが村上が恥じる必要は全くない。

 ヒカルのそれは、普段の院生としての対局姿勢ではないのだから。

 

 プロ棋士と戦う。

 その意識で臨んだ対局はヒカルが普段掛けている無意識下でのリミッターを外していた。

 つまり仮に対局者が塔矢行洋であったとしても、全力で臨む必要がある状態の『進藤ヒカル』と打ったのだから、恥じる必要は全くない。

 村上も追々その事実を知ることになるだろう、負けたのは自分だけではなかった、という安堵の念と共に。

 

 

 

 

 

 緒方は進藤ヒカルの第1局を余す事なく目にしていた。

 華麗な打ち回しも、ノータイムでの応手も素晴らしいものだった。

 

 だが、何よりも緒方が着目したのは一年前との決定的な違いであり、先日との類似点だった。

 

(……強い。やはり『sai』は進藤ヒカルだったか……。だが、これほどの実力を見せつけるとは。以前の碁会所で打った時とはまるで別人のようだ。定石は一新されて読みはより鋭く深くなっている。何より一手があまりにも厳しい。抉り込むような一手には見ているオレですら背筋が寒くなる……。村上二段には気の毒だが、役者が違いすぎるな。以前にも感じたが、改めて認めよう。このオレですら危うい。──くっく、冗談みたいな話だ。たかだか院生が、九段と同等か、それ以上の実力を持っているなんてな)

 

 緒方の思考は一旦そこで止まった。

 あるいは、と思った。

 

(進藤に対抗できるとすれば。……いや、あまりにも荒唐無稽だが『塔矢名人』だけか? ……なんてな)

 

 戦う前から敗北を認めるなど、有り得ない。

 緒方は眼前で行われる対局を見つめながら、より意気を新たにしていた。

 

(勝つさ、オレが。お前と対局できる日を楽しみに待っているよ、進藤。──が、今はお前の一手を楽しませてもらうとしよう)

 

 若獅子戦は合計5回戦。

 本日執り行われるのは途中の2回戦までである。準決勝や決勝などは後日執り行われる。

 緒方はたっぷりと進藤ヒカルの碁を目にした。

 それは同時に、緒方九段が院生の対局を熱心に見ているという客観的な事実も生み出した。

 

 事前にその名前を知っていた者も、今日までその名前を知らなかった者も、引き寄せられるように対局を目にする。

 そして対局を観戦する全ての者の記憶に刻まれることになる。

 第二局目にして、進藤ヒカルの名前が大きく知れ渡る。

 

 その対局相手は藤崎あかりか、はたまた冴木光二か。

 

 ──その結果が出る。

 

 

 

 

 

「──ありません……!」

 

 悔しさの滲んだ声で藤崎あかりが投了した。

 対面に座る、軽薄そうな風貌ながらも実は面倒見の良い人物である冴木が、対局内容を思い返して称賛を込めてあかりに話しかける。

 

「ありがとうございました。えっと、藤崎さん、だっけ。良い碁を打つね。何より思い切りが良い。見ていて気持ちがいいよ」

「あ、ありがとうございますっ」

「はは、そう固くならないでいいよ。プロって言っても、院生の君たちとそう年齢は変わらないんだし。囲碁歴は何年目?」

 

 年齢、という括りでの軽い会話のつもりだった。

 しかし藤崎から飛び出した年数は想像を絶した。

 

「えっと、まだ1年と少し、です」

「え?」

 

 冴木が固まる。

 碁笥に戻そうとしていた白石が手から零れ落ちてしまったため慌てて拾った。

 その年数は、ちょっと予想外すぎた。

 再び片付けの作業に戻りながら、驚きから捗らない手つきで白石を集めながら冴木が再度問いかけた。

 

「……もう一回聞いていいかな?」

「は、はい! 一年と数ヶ月です!」

 

 緊張しながらも真っ直ぐに冴木の目を見るこの少女は本当のことを言っている。

 それが確信できた。

 信じられないという思いもあったが、冴木はこの真っ直ぐな瞳を向けてくる少女が嘘をついているとは思わなかった。

 故に、冴木の胸には素直な感嘆の念が湧きあがった。

 

「……そりゃ凄い。キミ、倉田プロ並みだね。名前覚えとくよ」

「あ、ありがとうございますっ」

 

『ペコペコ』と冴木に頭を下げる姿はとても一年弱で院生上位にまで上り詰めた人物には見えないが、たった今行った対局が明確に『ソレ』を証明している。

 微笑みながら、森下九段門下生でもある冴木は内心での高揚があった。

 新しい時代が来ているのかもしれない、と。

 

 その回答をするかのように、第二戦目が始まる。

 冴木の対戦者は『進藤ヒカル』だった。

 

 

 





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