「──すぅはぁー……。よしっ!」
日本棋院。
いつもの場所、いつもの時間帯。
だけど雰囲気は全く違う。
訪れる外来の人たち。緊張して固まった院生たちの表情。
張り詰めたような空気感が、棋院の中に広がっていた。
そんな中で、藤崎あかりも空気に飲まれないよう気合を入れていた。
今日はプロ試験の予選。
その初日だった。
普段は見慣れない大人たちが続々と集まっており、普段の対局室とは異なった雰囲気を出している。
モジャモジャの髭の男や、神経質そうな大人の男性。仕事の出来そうな雰囲気の女性など、様々な人たちが、普段は院生たちがお昼ご飯などを食べる時に使う一室に集まっていた。
(う〜! 緊張する! でも、ここで普段通りの実力を出せなきゃ、プロなんて夢のまた夢だよね。……よしっ! がんばれ、私! ファイト!)
仲の良い奈瀬と幼馴染のヒカルも今日はいない。
二人とも院生順位8位以内に入っているから、予選を免除されているのだ。
だからこそ二人と一緒に勉強していた自分が予選で落ちるわけにはいかない。
あかりは不安げに『ぎゅっ』と両手を握り締めた。
そんなあかりの背後から声が掛かった。
「あっ、藤崎さん。オハヨ〜」
「ひゃい! ……フクくん?」
後ろから声を掛けられて身体を跳ねさせたあかりだったが、振り向いた先に居たのは顔馴染みのフクだった。
その後ろにもう一人。
「お、藤崎はもう来てたか。どうだ? 外来も来るって、普段と違って緊張するだろ」
言いながら『ニシシ』と笑っている和谷だった。
惜しくも院生順位9位で、予選免除にならなかったとボヤいていたのを思い出した。
あかりは最近成績を伸ばして順位を1組7位まで上げていたが、3ヶ月の平均で言えば10位。和谷の一つ下だ。
だからということもあって、和谷のことは少しライバル視していた。
順位で考えても、実力で考えても、この中で一番警戒すべきなのはこの少年。和谷なのだから。
和谷は最近調子を落としているとはいえ油断できる相手じゃない。でもそれとは別にプロ棋士を目指す仲間でもある。あかりは表情を輝かせて笑った。
「あっ二人ともおはよう! もう、ほんとに和谷くんの言う通りで、私めちゃくちゃ緊張しちゃってるもん。二人がいてくれて良かった〜」
「あのな、オレは予選免除で次行きたかったんだって言ったろ」
「まァまァ、和谷くんそう言わないで。和谷くんも初めての時は緊張したでしょ? 仲間だよ仲間、みんなで緊張すれば怖くないよー」
「おいフク。オレは別に緊張なんかしてないし、初めての時もそうだよ。普段通り打てば良いんだ、それだけで勝てる。むしろここで勝てなきゃ次はないんだぜ。本戦に行けば、上位八人が待ってるんだからな」
厳しい意見だが、その通りだ。
ここで勝てなければ次はない。
あかりも表情を改めて頷いた。
「……うん! 和谷くんの言う通りだね! 私、がんばるよ!」
「ウンウン、その意気だよ藤崎さん。ボクもがんばろーっと」
「ね! 一緒に頑張ろうね、フクくん!」
そう言って両手を繋いで軽く踊るように手をブラブラさせる二人。
「うん。和谷くんも、ほら」
「んな部屋のど真ん中で手なんか繋げるかって!」
年頃の少年である和谷にとって、友達と手を取り合って輪になるなんてあまりにも恥ずかしい。
困って焦ったように言う和谷に、あかりとフクの二人は顔を見合わせて不思議そうに首を傾げた。
「──椿くん」
「はぁい」
組み合わせの抽選。
そのためのクジ引きが始まっていた。
中央には対局のための席が用意されているので、部屋の端に寄って列になって並び、呼ばれた者がクジを引きに行くスタイルだった。
そんな中で一際大きな返事をしてクジを引きに行く髭の大男の姿を、あかりはドキドキしながら見守っていた。
(び、びっくりしたぁ〜! そんなに大声出さなくってもいいのに)
少しだけそんな不満を抱きながら、順番を待つこと数十分。
あかりの対局相手はその髭の大男に決まってあかりは顔を引き攣らせていた。
(しょ、初戦がこの人!? ……ううん、この人が強ければいずれは戦った相手だもん。ここで怯んでちゃダメ、ヒカルに追いつくなんて出来っこない。……まずは白星を掴む! 今日はそれだけを考えていれば良いの! よしっ!)
気合を入れ直したあかりに動揺の色はない。
手番はあかりの白。
意気揚々と黒の一手を待つが相手は一向に打ってこない。
ふと気になって盤面から視線を上げれば、髭の大男が立ち上がって部屋から出ていくところだった。
(え、えぇええ!!? 一手も打たずに席立っちゃったよこの人!? い、いいの? それでいいの!? ……大人の考える事ってわかんないよ〜〜!!)
待ちぼうけて席に座る事30分後。
戻ってきた髭の大男がようやく最初に一手を打った頃には、当初は極めて良い状態だったあかりの集中力も
「──よぉ、飯一緒に行くか? 嬢ちゃん」
「いっ!? い、いえ!! 結構です!!」
「そうか? まぁ勝手だけどよ。オレはさっそく一勝貰えそうで気分がいいから奢ってやろうと思ったのに。まぁいいか」
『よっこいせ』とまるで勝利が決まったかのように立ち上がって去っていく髭の大男の姿に、悔しいながらあかりは何も言い返せなかった。
形勢は悪い。
あかりの持ち味を何も活かせないまま序盤が終わってしまった。
自分の実力の2割すら出せているかどうか怪しい盤面を見返して、あかりは焦燥に駆られて両拳を膝の上で握り締めた。
お昼休みが明けて再開。
気を新たに打ち続けるが、序盤の負けを引きずって思うように打てない。
苦しい。
緊張での苦しさもあるが、何より盤上で石が息をしづらい。
打ちにくさを引き摺って必死に打つが差は縮まらない。
そして焦りから応手を誤る。
普段なら攻めている箇所で躊躇が生まれる。
あかりのリズムは完全に崩れてしまい、何とか手を探すうちに盤面を目算すればもう挽回が難しいところにまで進んでしまった。
──悔しさに奥歯を噛んだ。
「……ありません」
「ありがとうございました。まぁまだ初戦だ、初戦。こっから勝てば良いんだよ。ま、最初は勝ちたかっただろうが、相手が悪かったな」
悔しい。悔しい。悔しい。
それだけの想いが胸の内を巡っていた。
涙だけは見せないように、ぐっと堪える。
まだ終わっていない。
戦いは始まったばかり。
プロ予選は5回戦中3回勝てば良い。
まだまだこれからなのだからと、そう気持ちを奮い立たせた。
そう思い翌日を迎えて、対局相手は──
「──最近は勝ったり負けたり、だよな。今日ばっかりは勝ちを譲らねーから、覚悟しろよ藤崎」
強気な笑みを盤面を挟んだ向こう側で浮かべているのは和谷だった。
この予選での最大の難関である和谷と、このタイミングでの対局。
事前のクジ引きでわかっていたこととはいえ、どうしてもタイミングが悪いと言いたくなる。
昨日の敗北を引きずったままのあかりの一局は思うようにはいかない。
あかりが得意とする型破りな一手で差を詰めようとするも、読みを誤って入り込みすぎてしまい、入り込んだ石が分断されて狙った効果を発揮できない。右上隅の和谷の地を荒らすために、他の隅が多少おろそかになっている。
そこに楔のように打ち込まれた和谷の一手。
応手を続けるが防ぎきれず、自らの地も良いように荒らされてしまった。
他で挽回しようにも和谷の実力はよく知っている。
手堅く打たれれば正着の誤りは考えられない。
……詰みだ。
「……ありませんっ」
顔を伏せるあかりは涙を流さない。
けれど、悔しくて噛み締める唇からは僅かに血が流れていた。
これで2敗。
もうあかりに後はなくなった。
『本来』のヒカルには佐為が居た。
フクと対局するという幸運にも恵まれた。
だが、あかりには佐為は居ない。
明日の対局者は外来の者。
暗雲が立ち込めようとしていた。
棋院でのプロ試験の予選結果はホームページで確認することができる。
パソコンがあれば操作手順はそれほど難しくない。
だが慣れていないヒカルには少し難しかった。
『だから、棋院に行こうと言ったではありませんか! ヒカルも院生なのですから、少しお願いすれば教えてくれるはずです! それに、他の参加者に聞くと言う方法だって……』
(あーもう! うるさいなー! いいだろ、どこで確認したってさ!)
佐為と言い合いながら、ヒカルはインターネット喫茶に来ていた。
確認したいのはあかりの試験経過だ。
しかし、パソコンに不慣れすぎて中々確認することが難しかった。
何度も何度もリトライしてようやく目的のページを見つけた時にはもう夕方になっていた。
(……お! あったあった、これだこれ)
『結果はどうでしたか!?』
(うわっ、押すなよ、今見てるから……って、コレ)
そこには藤崎あかり2敗の文字がある。
もう後がない状況。
ヒカルと佐為は顔を見合わせて、あわあわと慌てて席を立った。
場所は碁会所だった。
いつも、ヒカルや明日美、塔矢と一緒に勉強会をしている碁会所。
その奥の隅で、たった一人で石も並べずに座り込んでいるあかりの姿があった。
意気消沈している姿は痛々しい。とてもではないが話しかけられない。碁会所の大人たちが心配そうに眺めるが声は掛けられなかった。
そこに、一人の少女がやってきた。
彼女もあかりが二連敗して後がないことを知っていた。
「──やっほ。差し入れ」
「……あ。明日美ちゃん」
少女は奈瀬明日美だった。差し入れとして持ってきたC.Cレモンのペットボトルを、机に置いた。
「そーだよ、奈瀬明日美だよってね。……暗い顔してるね、もう諦めちゃった?」
「そんなこと!」
言われた言葉は受け入れられなかった。反射的に顔を上げて奈瀬を見る。
そこには真剣な瞳であかりを見据える奈瀬の姿があって、いまの自分がそう見られてもおかしくないと気がついた。悔しさが心に滲む。
「……そんなことない。でも。もう一回も負けられない。負けたら、負けたらヒカルに置いていかれちゃう……」
「うん、置いていかれちゃうね」
それでも、あかりは拳を握りしめるしかない。奈瀬は事実を言っているだけだ。でも何も言い返せない。結果を出せていないのはあかりの方なのだから。
「……あかりちゃんは、そうやって俯いてれば満足? 進藤が助けに来てくれるの、待ってるの?」
予想もしていなかった、厳しい言葉。
顔を上げたあかりが見たのは真剣な表情の明日美だった。
「あかりちゃんには感謝してるの。1組の中でそこそこの位置しかキープできなかったアタシが、あかりちゃんに無理言って進藤の勉強会に参加させてもらってから、もう上位8位にも入れてる。自分でもすごく伸びたって思うし、今すごく調子がいい。プロになってやるって気持ちも十分にある。だから、絶対に今回のプロ試験でプロになる。そう、思ってる。……これはね、進藤のおかげでもあるけど、あかりちゃんが許してくれたから、今のアタシがあるの」
首を振った。あかりの助力なんて何もない。
「そんなこと、ないよ。明日美ちゃんががんばったからで……」
「もちろん、すごく頑張ったわ。進藤も塔矢も指導碁でも厳しい手を打ってくるし、クソーって思った事だって一度や二度じゃない。でもね、頑張り続けられたのは、あかりちゃんのおかげなの。あなたが凄く頑張ってるのを間近で知って、頑張らなきゃって思った。だから言うの。──あかりちゃんはこんなところで立ち止まるつもりなの? 俯いて、メソメソして、進藤が助けに来てくれるの待ってるだけでいいの? あかりちゃんは、そんな中途半端な気持ちでプロになりたいの?」
あかりは立ち上がる。奈瀬も同時に立ち上がった。
「違う。……違う!! 私だって、本気でプロになりたい! 明日美ちゃんにだって、ヒカルにだって負けない!!」
「なら、俯いてないで! 今やるべきことがあるでしょ!?」
二人は睨み合った。
啀み合いではない。
お互いに真剣さを滲ませて、本気でのぶつかり合いだった。
用意したのは同時。
碁笥の蓋を開けて握る。
並べられた石で先番が決まって、心の中を曝け出すようにあかりが気炎を吐いた。
「負けないからね!」
「こっちのセリフだから!」
それ以上の言葉は要らない。
二人が碁盤を挟んで向き合って、真剣さをそのままに口を開いた。
「「お願いします!!」」
あかりの黒番。
気持ちの入った良い一手が盤面に放たれた。
「……あら、進藤くん。見ていかないの?」
「うん、いいや。オレってば今行ったら邪魔者じゃん」
二人が向き合って、気持ちの入った良い一局を作り上げているのを尻目にヒカルは安心したように笑って碁会所から出て行った。
あの様子なら絶対に本戦に来る、とそう確信して。
そんなヒカルの様子を見て、市川は頬に手を当てて微笑んだ。
「う〜ん、青春ねぇ〜」
「あはは、市河さんもお年寄りみたいなこと言うんだね」
「広瀬さん!?」
「はいぃ! すみません! すみません!」
そして3戦目で初めての勝利を収めた後に、改めて抽選を行なっての対局。
あかりは三連勝を飾って本戦へと駒を進めた。
この経験は得難いものだった。
あかりにとって初めての逆境。
それをヒカルに頼らず、奈瀬という友人の力を借りてとはいえ対等な相手と向き合って乗り越えた経験。
一段また一段と、あかりは一歩ずつ着実に強くなっていた。
そして予選が終わった後。
ほんの少しだけ時は過ぎて、プロ試験前の1ヶ月の準備期間である夏休みの最中。
──『伊角』は想像もしていなかった環境に身をおいて必死に食らいついていた。