神の一手   作:風梨

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第15話

 

 

 今日も、あかりは行きつけの碁会所で碁を打っていた。

 ヒカルは居らず、碁会所の大人達に囲まれながら和気藹々と囲碁を楽しんでいた。

 そんな折にちょっとした話題が出た。

 

「──持碁、ですか?」

「そうそう。あかりちゃんもやってみたらどうだい? ──もちろん、ただ持碁にすればいいってもんじゃない。打つ速さが遅くなってはダメだよ。いつも通りの速さで打ちながら、目算し続けるんだ」

 

『持碁』

 置き碁はコミがないため引き分けがある。

 つまり、それが『持碁』である。

 

 それを意図的に作ってみたらどうか。

 囲碁サロン『道玄坂』のマスターからそんな提案をされて、あかりは不安そうに頬をかいた。

 

「う〜〜〜ん。出来るかなぁ」

「ははっ、誰でも初めてはあるさ。やってごらんよ、ここなら誰もキミのことを笑いやしない。もしそんな奴がいたら叩き出してやるからね」

「おいおいマスター、店主が客にそんなこと言っちまっていいのかい?」

 

 ニヤニヤとそんな軽口を言った客に、堂々と胸を張ってマスターが答えた。

 

「構わないとも! 何せ、あかりちゃんはボクの碁会所のアイドルなんだからね!」

 

 その一声に碁会所がドッと湧いた。

 

「ははは、違いねぇ」

「まったくだ。こんなむさ苦しいところによく来てくれるもんなぁ」

「華やかさが違うよ、華やかさが!」

「居るだけで空気が潤うよ、なぁみんな」

 

 うんうん、と碁会所にいる全員が強く頷いた。

 その数は普段の、あかりが通い始めるまでの5割増しだった。

 

「──まったく、いい年した大人が揃いも揃って何言ってんだか」

 

 ため息を吐きながらボヤいた店主の妻に、苦笑いしながら客の一人が続けた。

 

「マスターの奥さん、そう言わないでよ。みんなの孫みたいなもんさ」

「そうそう。で、肝心のワシらの実の孫は囲碁にちっとも興味を持っちゃくれないんだ」

「ははは、違いねぇ違いねぇ」

 

 そう言って一頻りみんなで笑った後で、あかりもそういうことなら、と持碁をやってみるべく碁盤に向き合う。

 打ちながら、マスターが世間話として話題を出した。

 

「そういえば、今日は進藤くんは来ないんだね?」

「あ、はい! ヒカルってば、最初はすごく心配して付いて来てくれたんですけど、もうここが大丈夫な場所だってわかったんだと思います。それで、今日はまた緒方さんと打ってるみたいです。──タイトルを惜しくも逃したって、緒方さんがすごく悔しがってて。それを見たヒカルがなんでかムキになって緒方さんにタイトル戦みたいに7番勝負挑んだりして……。それからずっとですね。たぶん、自分と良い碁を作った相手がタイトル戦で負けちゃって、それが嫌だったからだと思うんですけど。──う〜ん、自分で言ってて意味わかんないんですけど、そんな感じだと思います」

 

 その光景を思い出して苦笑いするあかりに、碁会所の者たちは感嘆の息を溢した。

 マスターが代表して口を開いた。

 

「いや、あの子は別格だったものね。そう言われても驚きはするが、どうしてか納得も出来るよ」

「ふふ、はい。ヒカルってば不思議なんです。それに、ヒカルは私の師匠だから」

 

 だから、負けるところが想像できないとでも言いたげに言葉を切って、そんなあかりにマスターはニコニコと笑顔を向けた。

 

「ほんとに、あかりちゃんは進藤くんのことを話す時は表情が明るいねぇ」

「そ、そうですか?」

 

 ポッと顔を赤らめた若い子を見て、目敏くマスターの奥さんが旦那に注意した。

 

「こらこら、若い子を揶揄うもんじゃないよ」

「わはは、女将さんの言うことに違いねぇや」

 

 そう言って和気藹々と話しながらも、あかりの手は淀みなく。

 ちょうど同じ頃に、塔矢アキラも持碁を成立させるべく、とあるイベントで奮闘して議員相手に4面持碁を達成していた。

 

 

 そしてあかりも。

 

「──う〜〜〜ん! ──やった! これで4面全部持碁ですよね!?」

「お、おぉ。これは、凄いな……」

「ああ、これは本物だよ」

「ちっちゃくても、院生なんだなぁ。こりゃたまげたわ」

 

 碁会所の者たちが唸りあげるほどの出来で、あかりは持碁を4面同時に成立させた。

 それはあかりが十二分以上に実力を身につけていることに他ならず、碁会所での団体戦の経験は劇的なまでに実力を伸ばしていた。

 何よりも、その記憶に刻まれている中学団体戦の時の『運命の一戦』を呼び起こしたからかもしれない。

 褒められる話題の中心で、あかりは嬉しそうに笑っていた。

 

 

 

 アスファルトの照り返しが眩しい真夏日。

 再び駅前に集合した3名の内の一人。

 奈瀬が、今日はかなりラフな文字Tシャツに厚地の短パンを履いて、ストローを刺したオシャレドリンクを美味しそうに吸い上げていた。

 飲みながら、奈瀬の横であかりが今日までの出来事を楽しそうに語って、奈瀬は頷きながら相槌を返した。

 

「──へえ、持碁? そんなことやってたんだ。いーなー、アタシもやりにいこーかなぁ」

「でしょ、楽しかったから、明日美ちゃんもやってみようよ」

 

 キャップ帽を被って、ジーンズ生地の短パンに黒とピンクのTシャツという、少年っぽさのあるファッションのあかりが満面の笑みを浮かべた。

 そんな二人の会話に、ゆったりとした口調で伊角が口を挟んだ。

 

「うん、それも面白そうだけどさ。──二人とも、今日はここに行ってみないか?」

「ん? どこどこ?」

 

 奈瀬が興味津々で伊角の手元の小さなメモ紙を覗き込んだ。

 

「いや、前に碁会所を巡ってたんだけどね。その時に強い人と打ちたかったらここにいけってメモを貰ったんだ」

「へえ、そんな場所があるんだ」

「うん。オレ、昨日までこのメモのこと忘れててさ」

 

 恥ずかしそうに頬をかいた伊角に、奈瀬が同意を示す様に頷いて苦笑いした。

 

「あはは、あるある。ポケットから出てきて気がつくのよね〜」

 

 盛り上がっている会話にあかりがテンションを上げて便乗した。

 

「面白そう! 伊角さん、そこに行こ! 私、この夏休みですっごく強くなったと思うの。だから、強い人と対局できるなら大歓迎だよ!」

「わかったわかった、ここに行こう」

「あかりちゃんたっての希望だもんね〜」

 

 この中で一番幼いあかりの仕草や行動は年相応。

 高校生の奈瀬と18手前の伊角から見れば子供っぽく見える。

 純真に瞳を輝かせているあかりを見て、奈瀬と伊角は顔を合わせて軽い調子で笑いあった。

 

 

「──あそこだね」

「あっ、ちょっと待って! 私、飲み物買ってくる! 二人は何かいる?」

「いや、オレはいいよ」

「私も大丈夫かな〜、ホラ、駅前でもう買っちゃったから」

「そっか?」

 

 二人を待たせているので、少し急ぎながらあかりはコンビニに飛び込んで飲み物を探す。

 

 目についたのは『C.C.Lemon』

 

 ヒカルっぽいから好きだった。

 手に取ってレジを通して購入して、さあ行くぞとドアから出る、その時。

 一人の少年の肩がお菓子に当たって床に落ちたのを見た。

 

 少し迷って、けれど放置するのも気が咎めて声を掛ける。

 

「ねえ! お菓子落ちたよー!」

 

 けれど、あかりの声は届かない。

 絶対に聞こえている距離なのに、少年は振り向きもせずに奥に入って行こうとしていて。

 むっとしながら駆け寄ってお菓子を元に戻して、そのまま少年の肩を掴んだ。

 

「ねえってば! 落としたら戻さないとダメなんだよ!」

 

 肩を掴まれてようやく振り返った少年。

 けれど不機嫌そうに顔を歪めて手を叩いて振り払われた。

 

 不機嫌そうにゴメンなさい、と言われるくらいは想像していたが、手を振り払われるなんて思っても見なかった。

 だから、ついあかりは固まってしまって呆然と少年の背中を見送った。そんなあかりが中々出てこないことを心配して、奈瀬がコンビニまで入ってくる。

 

「──ちょっと、あかりちゃんー? 何してるの? 外で伊角さん溶けちゃうわよ」

「え、あ、うん! ゴメン!」

「ん? ……何かあったの?」

「ううん! 何でもない! 行こ、明日美ちゃん」

「そっか?」

 

 奈瀬が左手の人差し指を頬に当てながら首を少しだけ傾げる。

 そんな疑問符を浮かべながらも、それ以上の追求はせずにあかりの後を追った。

 

 

 

 碁会所の中に入ると、今までのお店とは少しだけ雰囲気が違っていることに伊角は気がついた。

 何故だろうと思い、見渡せばすぐにわかった。

 

 店内のお客さんの多くが日本人ではない。

 

 その光景を見て伊角はメモを貰った時の言葉を思い返す。

 

(強えのと打ちてえんだろ、って言ってたな。ナルホド、これは確かにワンランク上だな)

 

 顎に手を当てて頷いた伊角。

 その後ろに続く二人も、今までとは少し違う雰囲気を感じ取って二の足を踏んでいた。

 入ってきたお客の妙な様子を見て、受付の男性が言った。

 

「どうしたんだい? 突っ立ってないで、どうぞ」

「あ。は、はい! すみません!」

 

 伊角が慌ててそう答えて、その背後で再びドアが開く音が聞こえた。

 思わず振り向けば、そこには少年が立っていた。

 少年の姿を見て、あかりが指を差しながら大声を上げた。

 

「あー! さっきの!!」

 

 あかりを無視した、つい先ほどコンビニでお菓子を落とした少年だった。

 

「さっきの? 『秀英(スヨン)、何かあったのか?』」

『別に何も。お店でいきなりボクに掴みかかってきたんだ、ソイツ。変な奴だよ』

「『そうか』──あの子がどうかしましたか?」

 

 韓国語での会話を終えて、あかりに向かって問いかける。

 それを見れば事情が理解できて、あかりはなんでもないと示すためにも手をワタワタと振った。

 

「あ、いいえ! 何でもないです!」

 

 話している言葉が、日本語じゃない。

 そりゃあ、自分の知らない言葉で話しかけられながら肩を掴まれれば機嫌を悪くする、と思うし、お菓子を落としたことも気が付かなかっただけだと理解できて、けれど、あの時にムッとしたのは事実なのであかりは曖昧に苦笑いした。

 

『ホント、変な奴』

秀英(スヨン)

『はいはい。でも、日本で碁会所に来る子供を初めて見たよ。日本の囲碁なんてもう終わりだと思ってたのに、意外とそうでもないのか?』

『ははは、そりゃちゃんと居るよ。この碁会所は少し特殊だしね。そうだ、秀英(スヨン)。打ってあげたらどうかな?』

『ん〜〜、まぁ石を置かせれば暇つぶしくらいにはなるかな』

 

 退屈そうな表情を浮かべながら、けれど『ニヤリ』と笑った秀英(スヨン)に打つ気があると判断した受付の男が伊角たちに話しかけた。

 

「どうだろう、君たち。彼と打ってみないか? 彼は洪秀英(ホン・スヨン)。歳は12歳。私の甥っ子でちょっと日本に遊びにきてるんだ」

 

 12歳。そう聞いて不思議そうにあかりが問いかけた。

 

「えっと、私よりも2つも年下ですよ?」

「ははは、年齢は関係ないよ。彼は韓国でプロを目指してるんだからね」

 

 韓国でプロを目指している。

 その言葉を聞いて、奈瀬と伊角が表情を驚愕一色に変えて口々に言葉を発した。

 

「えっ! 韓国でって、研究生ってこと!? 韓国の院生じゃない!」

「お、オレたちも院生なんです!」

 

 二人の驚きのこもった声を聞いて、受付の男性も目を見開いた。

 

「院生!? ほぉこれは驚いた! 君たちも院生だったなんて! いい巡り合わせかもしれないね!」

『オジサン? 何? そんなに盛り上がってどうしたの?』

『ああ、秀英(スヨン)。この人たちは、自分達が院生だと言っている。日本での研究生のことだよ。秀英(スヨン)と同じように日本でプロを目指している子供達らしい』

『……ふーん』

 

 韓国の院生。

 そう聞いて、あかりは納得したように頷いた。

 伊角さんはこの場所のことを『強い人と打ちたいなら』と言われて教えてもらったと言っていた。

 

「あ、そっか。だから強い人たちがいるって事なんだね」

「ああ、そういうことだろう」

『誰からでもいいよ。どうせ誰でも同じだし』

 

 秀英(スヨン)の言葉は解らずとも、雰囲気で伝わるものはある。

 つい先ほどの確執があるあかりが真っ先に反応した。

 

「私が打ちます! 韓国は確かに強いけど、あなたが強いと決まった訳じゃないもん。強いって言うなら、私に勝ってからにしてよ」

秀英(スヨン)。あの子はこう言ってる。韓国は確かに強いが、秀英(スヨン)の実力はまだ分かっていない。偉そうにするなら私に勝ってからにしろ、とね』

『ハン! いいよ、身の程ってやつを教えてやるさ』

 

 そう言ってバカにしたように笑う秀英(スヨン)を、あかりは睨んだ。

 

 対面に座って向き合う二人。

 握りは秀英(スヨン)の黒番。あかりの白番。

 コミは5目半。

 

 双方共に意気込みは十分。

 秀英(スヨン)からの第一手を受けて、あかりは鋭く碁笥から盤面に一手を放った。

 

 序盤は軽やかに進んでいった。

 パチパチと応手を繰り返す手は双方共に澱みがない。

 秀英(スヨン)は対面に座るあかりをチラリと見る。

 

(……コイツ。一手一手に気が抜けない。女だからって侮る気はなかったけど、予想外に強い)

 

 応手を続けながら、秀英(スヨン)はあかりのことを考えていた。

 日本の研究生。

 確か院生と言ったか。

 

 所詮は韓国の後塵を配している日本のセミプロ。

 大したことはないと対局してみればどうだ。

 想像よりもずっと迫ってくる。

 

(もしかしたら……)

 

 それ以上は思考を止めた。

 もしかしたら『負けるかもしれない』なんて。

 一瞬でもそんな思考が(よぎ)ってしまったことが許せない。

 

 秀英(スヨン)はぐっと口元に力を込めた。

 

 韓国では順位を落として、負けが続いている。

 勝ち方を忘れてしまったと、こんな碁打ちたくないと諦めることが多くなっていた。

 だからと言ってこんな異国の地の、しかも母国よりも劣っていると考えていた日本という国の少女に負けるのだけは御免だった。

 

(負けない。負けるもんか。ボクは洪秀英(ホン・スヨン)だぞ!)

 

 弱気を叱咤する。

 挑発するような強気な言葉に変える。

 それは秀英(スヨン)が自分の心の弱さを自覚する第一歩だった。

 

 秀英(スヨン)は手を止めた。

 自分を追い込むために、秀英(スヨン)は口を開いた。

 

『……こんなところで負けたらボクも終わりだ。もしボクが負けるようなら、お前の名前を覚えてやるよ』

 

 翻訳されて、あかりにもその言葉が伝わる。

 油断なく表情を緩めずに打っていたあかりの口元が僅かに弧を描き、表情の中に挑戦者の如く嬉色を滲ませた。

 

「うん。私の名前。覚えてもらうからね。韓国に帰っても覚えてもらえるくらいに」

 

 あかりには珍しいほどに強気な言葉を続けて、盤面に応手を打ち込んだ。

 

 

 

 応手が続く。

 その最中に、海王中学の教師である(ユン)も碁会所に訪れる。

 碁会所の中がいつもと違うことにはすぐに気がついて、人だかりの中心を見れば。

 

 ──見覚えのある少女が座っているではないか。

 

 彼はあかりの事を微かに覚えていた。

 故の驚きが総身に巡った。

 つい周りの知人に向かって韓国語で問いかける。

 

『あ、あの。彼女はどうしてここに?』

『ん? ああ、(ユン)さんじゃないか。いや、日本の院生だという女の子と、秀英(スヨン)くんが打ってるんだよ、互先でね。日韓の研究生対決だな』

(あの子は、確か以前の中学囲碁大会で日高に負けていた筈だ……。それが、もう日本の院生だと!? そこから、この短期間でここまでウデを上げたのか!)

 

 進藤ヒカル。

 彼のことはよく覚えている。

 塔矢アキラを下した一戦は今でも記憶に新しい。

 紛れもない名局だった。

 

 そんな彼と同じ部に所属していた少女が、ここまでのウデを身に付けたとは。

 

(……一人の天才によって新しい芽が生まれようとしているのかもしれないな。彼女を見ていると、そんな予感を感じさせる)

 

 進藤ヒカルという少年が齎す影響は一体どこまで広がってゆくのだろうかと、少し先の未来を想像して。

 尹は対局を観戦しながら、日本という国が強敵となる未来を想像して冷や汗を垂らした。

 

 

 あかりは意気を保ったまま打ち続けていた。

 瞳は爛々と輝いて、思考は目まぐるしく回る。

 

(──このままだと私の形勢が悪い。だけど、厚みは十分に作れてる。何か一つ。何か一つでもキッカケがあれば引っ繰り返せる……!)

 

 あかりのヨミが盤面を巡る。

 4面を『持碁』としたほどの正確無比なヨミ。

 そして持ち味である型破りな一手の発想力。

 

 か細い針の穴のような可能性。

 けれど、あかりらしいその一手を見逃さなかった。

 

(ここ!!)

 

 ともすれば無謀なタイミング。

 間隙を縫うような、絶妙なタイミングであかりの一手は今まで争っていた左下隅から外れて、右下隅に打ち込まれた。

 

 周囲がどよめいた。

 対面に座る秀英(スヨン)も厳しい表情を見せる。

 

 左下隅の戦いが激化するに従って厚みが増していた。

 下辺に石が増えた結果として、右下隅に絶妙な一手を打つ下地が生まれていた。

 あかりの打った手は、そのタイミングを逃さない妙手。ここしかないというタイミングで強烈な楔となって盤面に打ち込まれた。

 

 

 ──その一手は思いつかなかった。

 秀英(スヨン)はあかりから放たれた予想外の一手を見ながら歯噛みした。

 

 しかし、打たれてみれば確かに有効な一手。

 

 下手を打てば右下隅が死ぬ。

 苦渋の決断で地を削られながらも秀英(スヨン)は守りに入る。

 応手を間違えなければ死なない。

 だが、この一手でさらに厚みを増した右辺の白が脈動を始めて中央に羽を伸ばしてゆく。

 

 それを、守りに入った秀英(スヨン)はただ見ているしか出来ない。

 下手に右辺に一手を差し込もうとしても、右下隅が危険だから手を抜けない。

 

 形勢が徐々に徐々に、白有利に傾いていく。

 右辺の戦いは秀英(スヨン)の不利から始まる。

 そう判断しながらも、秀英(スヨン)は諦めずヨセの手を緩めない。

 どれほどの好手を放っても囲碁は地で勝ったものが勝者。

 

(まだだ!! まだ、勝負はわからない!)

 

 秀英(スヨン)は意気をさらに増して盤面に挑み掛かった。

 お互いにヨセを誤らなければまだまだ勝敗は分からない。

 細かい、相当細かい碁が続けられる。

 

 

 

 伊角はその対局を見ながら、驚きの表情を浮かべていた。

 口元を手で覆って、可能な限り表情が周囲には見えないようにはしていたが、驚愕が強かった。

 

(藤崎さん……。ここまで、打てる子だったのか。もしこれがプロ試験でも打てるなら、オレも危うい。──いや、何を弱気になってる)

 

 かぶりを振って伊角は視線を碁盤に向けた。

 盤面はあかりのたった一つの妙手をキッカケにして、一気に形勢を覆そうとしていた。

 

(オレだって、渾身の一局の一つや二つある。この一局だけで判断するのは早計だ。……だが、今までの藤崎さんとは一線を画す強さなのも確かだ)

 

 伊角は変化する盤面をしっかりと確認しながら、プロ試験に向けて思考を練り上げていた。

 

(彼女は、進藤から指導を受けてここまで伸びた。信じ難いが、まだ囲碁を初めて1年半ほどだという。……試験中に伸びることも、あるかもしれない)

 

 伊角の思考が、よくない方向に流れようとしていた。

 だが、それに歯止めを掛けるように、秀英(スヨン)の力強い一手が盤面を鳴らした。まだわからない。まだ負けていない。そう声高に主張するような一手だった。

 

 ──伊角は、そんな果敢に挑む少年の姿に自分を重ねた。

 怖がるのではなく、前へ前へと突き進むような気持ちが伝わってくる一手。

 食い入るように、伊角は秀英(スヨン)の対局姿勢に見入った。

 

 ──奈瀬も、ライバルの成長を目の当たりにする。

 共に成長し続けてきたライバルの姿を。

 マグレだとは思わない。

 奈瀬はヒカルの次にあかりを一番近くで見てきた。

 だからわかる。この対局を経てあかりが急激に成長を遂げたのだということを。

 ライバルが急成長した姿を目の当たりにして、奈瀬は、ともすれば獰猛にも見える力強い笑みを浮かべていた。

 

(そうこなくっちゃ。アタシだってキッカケは掴んでる。後は、本番での勝負。……負けないからね、あかりちゃん)

 

 プロ試験では激突は必定。

 自覚しつつある進藤への仄かな想いも含めて、奈瀬は二重の意味でのライバルである、あかりのことを強く強く見つめていた。

 

 

 

 その後も、あかりと秀英(スヨン)はお互いに一歩も譲らない。

 あかりが良いキリで突き放すかと思えば、秀英(スヨン)はツケでうまくヨセてカバーする。

 一進一退の熱戦と呼べる様相を呈した対局にも、しかし終わりはある。

 

 ヨセを終えて整地に入った。

 数えること数分。

 

 

 ──結果は、白番勝利。

 1目半の差で藤崎あかりの頭上に白星が輝いた。

 

 秀英(スヨン)はその結果を前にして大粒の涙を溢した。

 

 結果を認められないのではなかった。

 全力を出し切った。その上で敗れたのが悔しかった。

 

 負けるかもしれない、そんな思いが過ぎった事もあった。

 だけど、盤面が進むにつれてそんな心配は消え去って、絶対に勝つんだ、という気持ちだけで打っていた。

 強気な発言で自分を奮い立たせて、脇目も振らずに全力で勝ちに拘った。

 

 本気で打った。

 久しくない事だった。

 

 秀英(スヨン)は思う。

 こんなに悔しい対局はここずっとなかったと。

 投げやりな碁ばかり打って、初めてクラスを落としたくらいで不貞腐れた。

 

 こんなの自分の碁じゃないとムシャクシャしながらイライラして楽しい碁にまで当たり散らした。

 どうでもいいとすら言い訳して逃げた。

 

 そんな自分が本気で打った。

 打てた。

 勝てるはずだった。

 本気を出せば負けるなんてありえない。

 そう思っていた。

 

 だけど、この女の子は、日本の院生は互角に渡り合ってきた。

 韓国で上位にいる自分に、互角だった。

 涙を拭う事もせず、ボタボタと垂らしながら秀英(スヨン)はライバル心を顕にした。

 

(そう! 互角さ!! 負けなんか認めるもんか! ボクはまた日本に来る! お前と勝負しに今度はプロになって!!)

 

『お前の名前! 名前を教えろ! ……覚えてやる!!』

 

 秀英(スヨン)は韓国語でそう言った。

 伝わるはずはない。

 だが一局を終えたばかりだからか、あかりには言葉の意味がなんとなく理解できた。

 

 真っ直ぐに相手の瞳を見ながら答える。言語の壁を超えて繋がった心を乗せて、成長を遂げた者が放つ特有の、自信の光を瞳に宿しながら。

 

「──藤崎あかり。私の名前は、藤崎あかり!」

「……ふじさき。あかり……」

 

 胸に刻み込むように、しっかりと秀英(スヨン)はその名を日本語で口にした。

 

 そしてついに、プロ試験本番が始まる。

 

 

 





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