日本棋院囲碁研修センターという場所がある。
院生の寮、そして院生研修を目的として建てられた建造物ではあるが、今では寮の制度が廃止され、院生研修も日本棋院で執り行われているため、現在はプロ試験会場としてだけ利用されている。
そのため今の院生にとって馴染みのない場所だ。特に用事があるわけでもないから、プロ試験に臨む時しか訪れることはない。当然ながら外来の受験生も同様だ。
慣れない場所でプロ試験を受ける。
その緊張感が、普段は閑散としている日本棋院囲碁研修センターに満たされていた。
無事にプロ試験の予選を突破して、プロ試験会場に訪れていた和谷もその緊張感を齎している受験生の一人だった。ただしその会話は、以前参加しようとしてヤメた研究会の話だった。
「碁会所で勉強会かぁ。参加もそりゃあさ、考えたよ。オレだって参加してみたいっちゃみたいけど……」
和谷がボヤいている内容は、以前進藤ヒカルから誘われた研究会のことだった。伊角が不思議そうに首を傾げる。
「けど?」
「ただでさえオレの所属してる森下先生の研究会は塔矢一門を目の敵にしてるんだ。倒しにいくんならまだしも、塔矢がいるのに勉強しにいくって知られたらどうなることか……。オレの研究会よりそっちの方がいいってのか!? って言いながらシゴキ回されるって」
冗談めかして肩をすくめてみせる。そんな和谷の姿を見て伊角は笑う。
「ははは、それはそれでいいんじゃないか?」
「冗談よしてよ伊角さん。いくらなんでも先生を怒らせるのはゴメンだね。普段もおっかないけど、怒るともっとオッカナイんだぜ」
指を鬼のツノに見立ててそう言う和谷に伊角が声を上げて笑った。
程よい緊張感を保っている和谷たちではあるが、内心では心底から合格したいと願っている。プロ試験は一年に1回だけの挑戦だ。泣いても笑っても、合格者は参加人数28名中の3名のみ。
総当たり戦で火曜日と土曜日に対局が行われる、大凡1ヶ月以上時間を掛けてプロ棋士を決める試験を前に、ある者は不安を。ある者は期待を。ある者は平常心を抱きながら最難関の試験に挑戦する。
藤崎あかりはウズウズと。
奈瀬明日美は落ち着きを持って。
伊角慎一郎は深呼吸をする。
和谷義高はやる気を漲らせている。
越智康介は普段通りに。
本田敏則は手を擦り合わせて息を吐いた。
飯島良は緊張して顔色が悪い。
福井雄太はのほほんと。
門脇龍彦は扇子を握る。
椿俊郎は真剣な様子で指を組んでいる。
進藤ヒカルは正座して、目を閉じて座っていた。
(……ヒカル、時間のようです)
(ああ、わかった)
プロ試験初戦。
進藤ヒカルvs門脇龍彦。
その舞台の幕が上がろうとしていた。
門脇は目の前に座る少年を見る。
進藤ヒカル。その名前は、プロ試験の申し込みをした後で知った。3年ほど社会人として過ごしてきたこともあって、門脇は囲碁界の事情に精通していない。だがプロになるのは確定事項だ。多少の準備をしておこう、と始めた情報収集の過程で、真っ先に名前が挙がったのが、この進藤ヒカルだった。
本因坊のタイトル防衛に成功した桑原仁でも、タイトルに挑戦して惜しくも敗れた緒方精次でもない。
名人塔矢行洋でも、その息子塔矢アキラの鳴物入りの囲碁界入りでもない。倉田篤の快進撃でもなければ、タイトルホルダーである座間王座や一柳棋聖でもない。
一番最初に聞いた話題の中心が、この進藤ヒカルだった。
この若い棋士は並居る棋士を薙ぎ倒して、院生だというのに若獅子戦で優勝を果たした。
院生の優勝は史上初だ。それも鳴物入りで囲碁界入りした塔矢アキラを決勝で圧倒した上での優勝だ。ただの優勝とはわけが違うこともあるだろう。門脇の耳にすぐに入ってくるくらい、囲碁通の間ではこの話題で持ちきりだった。曰く、新しい時代がすぐそこまで来ている、と。
門脇は開いていた扇子を『パチリ』と閉じる。
「──キミ、若獅子戦で大暴れしたんだって? 調べてビックリしたよ、院生がプロを差し置いて優勝するなんてさ、大金星だろ?」
子供がそんなに騒がれれば天狗になってもおかしくない。
こう言われれば自信満々に鼻の下でも擦るだろう、と考えて適当なおべんちゃらで様子を伺ったつもりだった。だが反応は薄かった。盤面を静かに見据えたまま、進藤ヒカルは軽く言った。
「大したことじゃないよ。本因坊のタイトル取った訳でもないし」
なんの気負いもなく平然と言ってのけた。
続いて門脇を見る。あまりにも澄んだ瞳だった。
「いいの? そんなに気を抜いてて。オレ、プロ試験は手加減しないぜ。真剣勝負なんだ、それが礼儀ってもんだろ?」
射抜かれた門脇は固唾を飲む。
コイツが見ているのは盤面だけだ。そう直感した。若獅子戦の優勝を話題に出されても、カケラも喜んだ素振りを見せなかったのは、なんてことはない。もう過ぎたことだからだ。棋譜を思い返すくらいのことはするんだろうが、それよりも先へ。コイツは一局でも多く打つことばかりを考えている。
試験開始の合図を告げるブザーがなった。
当初以上の緊張感を扇子と共に握って、門脇が目前の少年に頭を下げた。
「……お願いします」
「お願いします」
黒を握ったのは門脇だった。
挑むような気持ちで、盤面を見据えて第一手目を放つ。
(若獅子戦優勝の棋譜は見た。……あの塔矢アキラ相手に中押しで圧倒。トンデモない強さだったが、打ってみなくちゃわからんだろう?)
敵う訳がないなどと思えば呑まれる。
門脇は意図的に強気な言葉を想いながら、真剣な表情で盤面に向き合う。
(実際のところを見せてもらおーじゃないの。天才少年棋士の実力って奴をさ)
軽口とは裏腹に表情は険しく真剣。
緊張感から一筋の汗すら垂らしながら、門脇は全力で仕掛けた。
門脇は囲碁から長く離れていた。
約3年のブランクは彼自身認めるところだ。囲碁の腕は比較的落ちにくいと言われているが、それでも勝負感は鈍っている。自覚している門脇は当然、そのブランクを埋めるべく行動に移す。
通い慣れた碁会所に顔を出す事や、ネット碁にも多少の時間を割いた。
仕事はプロ試験のために既に辞めていたため、囲碁に費やす時間は十分に取る事ができた。
その中で十分すぎるほどの錆を落とした。学生本因坊を取った頃と変わらない棋力に戻すことは容易かった。
これなら問題なくプロになれる。そんな見積もりがあった。
そして驕りではなかった。
第三者から見ても、十分プロで通用するだけの力量を備えていた。
事実プロ試験の予選は3勝をストレートで決めて本戦に駒を進めた。
そして今日、本戦の初日。進藤ヒカルとの対局。
彼は、自分よりも遥か先を歩く存在に。
──もてあそばれた。
冷や汗が止まらない。
なんだこれは、と。
全神経と細胞が震えるが、いま出来ることは、言える言葉はただ一つしかない。
「……負けました」
頭を俯かせ、喘ぐような声を漏らせば、対面から満足そうな声が返ってくる。
「ありがとうございました」
見上げれば、自分よりも遥かに年下の少年が白石を片付けている。遥かな先を歩いている、眩しいほどの輝きを放つ憧れが。
『天才』
いや、そんな言葉すら生温い。
『尊敬』と不自然な形容で呼ぶのが相応しいほどの、圧倒的な実力差が隔たっている。
思わず『ブルリ』と震えた。
(なんだよ、おい。こんな怪物が、プロには待ってるのかよ)
学生本因坊を取って、社会人を経験して。
プロになってやるのもいいか、などと軽く考えていた少し前の自分が脳裏に過ぎる。
(とんだ勘違いやろーだな、オレは。甘ちゃんすぎだろ)
そう思うと笑えてくる。
手を握れば、反発するように返ってくる扇子の感触。
それを見れば、購入するときに売店で夢想した『プロになって圧勝する自分の姿』という、今思えば苦笑いせざるを得ない記憶が蘇ってくる。
眺めていた進藤ヒカルが立ち去ろうと畳に手を着いたのを見て、つい声をかけた。
無意識のうちだった。
あまり意味はなく、咄嗟に。
「おい。お前、本当に院生なのか……?」
「え? うん、院生。外来じゃねーって」
違う、実はプロが何かの間違いで紛れ込んだんじゃねーかって事だ、と言いたかったが、苦笑いで誤魔化した。
言おうとしたが、あり得ないと自分でも思ったからだった。
もう少し会話を続けたかったが、思い当たる事がない。
それでふと手元にある、今の自分には荷が重すぎる扇子が目に入った。
──何故か脳裏に、扇子を持っている『誰か』の姿が浮かんだ。古い着物を着た誰かの姿は、顔が見えない。ただ不思議と目の前の少年とダブって見えた。
「──コレ、やるよ、お前に」
「……え?扇子ぅ?」
怪訝そうな顔を見せる進藤ヒカルに、無理やり押し付けた。
「オレに勝ったご褒美だよ、ほれ、受け取れって」
「い、いらねーって! これおじさんのだろ」
「お、おじさ……。いいから受け取れ」
おじさん呼びにショックを受けたが、逆に火がついてそのまま押し付けた。
戸惑ってこちらを見てくる少年の手には扇子がある。何故だか妙にシックリくる。
「お前が持ってる方がさ。オレが持ってるより似合うんだよ。受け取れ」
「は、はぁ。まぁ、そこまで言うんなら、貰ってもいいけどさ……」
そう言いながら、少し満更でもなさそうに扇子を触って左右の羽を両手で摘んでバサッと広げる。かなりダサい広げ方をする進藤ヒカルに思わず笑った。
「ちげーよ。貸してみろ」
扇子を奪って、勢いを付けて片手でバサッと広げてやれば、『おおー』と少年らしい驚きの声が返ってきて気を良くした。
すぐに扇子を返した。
「やってみろよ」
「こ、こうかな?」
思い切りが良い性格なのか、一発でバサリと成功させた進藤ヒカルに笑って頷いてやる。
「いいねぇ、似合うじゃねーの」
「へ、へへ。そうかな?」
はにかんで、嬉しそうに笑う姿は年相応に見えた。
碁から感じた、悠久の年月を感じさせる様ではない。
だから、つい。
変なことを聞いてしまった。
「──お前、碁を始めてどのくらいになる?」
バサリ、と再び扇子を仰いで、進藤ヒカルは堂々と微笑みを浮かべた。
「千年」
その瞬間。
時が止まったようにすら感じた。
それが自然で、当たり前であるかのように、門脇には聞こえた。
時代の風を感じるような、この瞬間だけタイムスリップしたような、そんな不思議な無重力感が身体を覆った。
「気に入ったぜ、これ。おじさんありがとな!」
進藤ヒカルはそう言って嬉しげに笑って去っていった。
座ったまま、しばらく呆然と後ろ姿が消えていった廊下を眺めた。
「千年って。お前、何歳だよ」
そう思わず吹き出しながら、けれど、何故か嘘だとは思えなかった。
素晴らしい碁だった。
千年って話が本当だと信じてしまいそうになるくらいに。
「……ふっ世の中すげー奴がいるもんだな」
ボヤキながら、門脇は盤面に残ったままだった黒石を片づけ始めた。
「ああ、くそ。あと一年早く鍛えてりゃーな」
ジャラジャラと碁石を片付けながらまたボヤいて碁笥の蓋を閉める。
その胸に生まれた想いを、逃さないように。
「本気で、本気でプロ目指して。オレもプロになって、アイツとまた打ちてぇなあ……」
悔しげに苦笑いを浮かべて。
けれど、どこか晴れ晴れと門脇は笑った。