神の一手   作:風梨

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約3900字



第17話

 

 

 プロ試験第2戦目。

 序盤も序盤から、知る人ぞ知る、注目の戦いが始まろうとしていた。

 

 黒番:伊角慎一郎

 

 白番:門脇龍彦

 

 両者は盤面を挟んで向き合っていた。

 

 

「門脇、さんですよね。お名前は存じ上げてます。学生本因坊を取られた、とか」

 

 伊角が、静かにそう切り出した。

 少しの緊張感と興味を含んだ声音に門脇が恥ずかしそうに笑った。

 

「ははは、いや、まぁ。──そういう伊角くんこそ、院生順位2位なんだって? 立派なもんじゃないか。胸を借りる気持ちで挑ませてもらうよ」

 

 確かに以前学生本因坊は取ったが、今思えば昔の話だ。

 あの『進藤ヒカル』のことを思えば、過去に目を向けたいとは思わなかった。

 ただ前に進み、プロになることを目指したい。

 門脇は先日の一戦を経てから、今はそう考えていた。

 

 伊角はそんな門脇の様子を見て、油断できない相手だと気を引き締め直した。

 内面を掴ませない飄々とした門脇の姿が、伊角の瞳には映っていた。

 

(……明日は進藤だ。ここで負ければ序盤で黒星を二つ貰うことになると考えた方が良い。長い試験を思えば、それは避けたい。……負けられない)

 

 伊角は内心で状況を整理して、一息を吸って吐いた。

 開始のブザーがなった。

 

「お願いします」

 

「お願いします」

 

 生真面目な『お願いします』と、軽い調子の『お願いします』が応酬された。

 黒番は伊角。

 碁笥に手を差し込んで、果敢に挑んでいった。

 

(調子は悪くない。……今日ここで勝つ! 黒番を握ったなら、序盤から有利を取って一気に攻めるべきだ)

 

(どうしたもんかね、あの『進藤ヒカル』を一番に置けば、二番手に甘んじるのは、むしろ当然だろう。この伊角って子も相当に打つのか? ……序盤は慎重に打つか)

 

 両者ともにざっくりとした展望を抱いて臨む。

 

 戦いはまだ始まったばかり。

 この対局も、そして長いプロ試験も、どちらも。

 

 

 

 序盤に有利を作った伊角は安定した打ち方を目指す。

 一歩引いたように打ち回す門脇に少し不気味さを感じていたが、それでも序盤に作った有利を崩すのは難しい。

 そう思い一息をついた。

 

(よし、ここまで良い形で進められた。これなら一勝は固い。……いや、油断しちゃダメだ。集中するんだ。相手はあの門脇なんだ)

 

 一息をついた伊角とは裏腹に、門脇は扇子の失せた両腕を組んで盤面を見つめていた。

 

(強い。この子も思ってた通り相当に打つ。だが、やはり『進藤ヒカル』に比べれば温すぎる。……まぁ当然か。あのレベルを覚悟してた、って言えば嘘になるが、この子は敵わない相手じゃないな。さてっと、様子見は終わりだな、巻き返すとするかね)

 

 初戦の敗北。

 それは門脇の囲碁に対する姿勢を大きく変化させる効果を生んでいた。

 どこか気持ち半分であったプロになりたいという気持ち。

 それが、あの一戦を経ることで確固たる目標。

 揺るぎない夢に変わった。

 

 もう一度、あの子と打つために。

 

 今の門脇にはそれしか見えておらず。

 それはプロ試験の重圧を物ともしないメンタルに変化していた。

 

 加えて言えば、そのメンタルは『挑戦』という、非常にパフォーマンスを発揮しやすい状態に門脇を導いた。

 塔矢アキラ状態、と言えば分かりやすいだろうか。

 

 漠然としたイメージしか持っていなかった者が、唐突に目標を得た瞬間に化ける。

 勝負事の世界ではよくある事例である。

 

 門脇は、このプロ試験を経験として化けようとしていた。

 

 序盤の有利を維持したい伊角と、それを崩さんとする門脇の攻防。

 狼煙が上がったのは左下隅からだった。

 

 黒石が守る陣地に、白石がポンと打ち込まれる。

 冷静に対処する伊角だったが、調子良く打ち込まれる白石に、つい手拍子で受けていく。

 

 そして。

 

(……こ、これは。しまった、左下と見せかけて、下辺を取るつもりだったのか……!? 3子に気を取られて、下辺が疎かになった……!?)

 

 楔のようにポンポンと打ち込まれた三つの白石が、左下にはあった。

 それを活かす流れを予想した伊角だったが、その予想が覆されて下辺を大きく割かれてしまう。

 

(ま、まずい。何とか傷を抑えないと)

 

 後手後手に回ってしまう伊角を翻弄するように打ち続ける門脇。

 そこから徐々に大勢を崩されて、下辺だけであった損傷は中央、右上隅にまで及んだ。

 一手分の有利は非常に大きい。

 交互に打つ関係で、先手が有利なのもそのためだ。

 

 伊角は負けられないという焦りから下辺に手を重ねすぎた。

 敗因を述べるなら、その一点に尽きるだろう。

 

 大勢は決した。

 

 

「……ありません」

 

「ありがとうございました」

 

 項垂れる伊角と、飄々とした門脇が対照的な対局は幕を閉じる。

 

 

 

 プロ試験第3戦目が始まった。

 

 既に対局室に入って、腰掛けている奈瀬に、近づいてきた和谷が声をかけた。

 今日の、対局者同士の会話だった。

 

 プロ試験第3戦目:奈瀬vs和谷。

 

 

「──最近調子良いみたいだな」

 

「うん。和谷にも勝つつもりだから、油断しないでね」

 

「お、おう。……ほんと、奈瀬変わったな」

 

「そう?」

 

「なんつーか、大人びたってゆーか……。いや、なんでもない」

 

 それっきり和谷は黙って盤面に集中した。

 初戦と2戦目を順当に勝利した和谷ではあるが、まだプロ試験は序盤である。

 白星を掴むためにも、奈瀬の言う通り油断は出来ない。

 言葉を重ねて動揺する訳にもいかないし、何より相手を動揺させるつもりもない。

 これ以上の言葉はそうなりかねないと思ったから、黙った。

 

 奈瀬も和谷の沈黙の意味を察して口を閉じる。

 プロ試験。

 それは純粋に実力を競う為に、白星を奪い合う総当たり戦である。

 奈瀬も、盤外戦を否定する訳ではないが、出来るなら実力でプロ棋士の資格を勝ち取りたいと思っていたから。

 開始のブザーは間を空けずに鳴った。

 不本意な沈黙が続かなかった事に両者とも安堵しながら、気持ちを切り替える。

 目の前に立ちはだかるライバルを、両の(まなこ)で見据えた。

 

「「お願いします」」

 

 裂帛(れっぱく)する意志がぶつかる対局が始まった。

 

 

 黒番は奈瀬だった。

 脳裏に描いている展望はやはり序盤先行だった。

 着実な一手を積み重ねて確定地(地になると確定した場所)を作ってゆく。

 

 和谷はじっくりと臨む。

 序盤は仕掛けず、石を交互に打ち合って地を作り合う応酬。

 

 しかし、奈瀬が黒番で地を重視する打ち方である以上は、和谷から仕掛けるしかない。

 奈瀬の打ち回しから、地を優先する対局に臨んでいる事を察した和谷は覚悟を持って黒石が集まる隅に打ち込んでいく。

 

 右辺の星2つを取った黒番の奈瀬に、挑んでいく。

 星の近辺にある黒石に対してケイマから三線に入った右上隅の白石を、奈瀬は順当に陣地へ侵入されないよう塞いでいく。

 

 和谷が仕掛ける攻防は決着が付かない。

 双方ともに大きな仕掛けを行うこともなく、手数が消費されてゆく。

 

 奈瀬としてはこのまま横綱相撲で維持すれば徐々に勝ちが近づいてくる。

 和谷が追いかける形だった。

 

 白石が追撃するように放たれる。

 奈瀬は的確に、そして冷静に対処する。

 落ち着きを得た奈瀬に隙はなく、逆に和谷の薄くなった左辺に対しても仕掛けていった。

 

 和谷は黒の陣地を荒らすことが出来ず、自陣の損傷を塞ぐために手を重ねる。

『ジワリジワリ』と差が広がってゆき、凡戦と呼べる、ありふれた一局が出来上がった。

 

 しかしありふれているということは、それだけ有効な戦術が機能したという事。

 

 つまり、序盤先行という奈瀬の戦術がハマったと言えた。

 

 ヨセと整地を終えて、6目差で奈瀬が勝利を飾る。

 

 和谷は僅かに意気を落とすが、まだこれからだと自分を奮い立たせる。

 

 奈瀬は目論見通りに盤面が推移した事に満足感を抱いたが、まだ序盤である。

 この結果に慢心することは出来ない。

 気を引き締めて次戦に臨む。

 

 

 

 

 そして、本日残った注目の対局は一つ。

 

 プロ試験第3戦:伊角vs進藤。

 

 結果は語るまでもないほどの圧勝で進藤の勝利となる。

 若獅子戦を彷彿とさせるほどの進藤ヒカルに圧倒されて、何とか粘るも押し潰された結末が盤面にはあった。

 

 伊角は、緒方九段と進藤ヒカルの7番勝負を目にしたことがある。

 ヒカルの『本気』を見たことがある。

 若獅子戦も直接目にしている。

 そして、普段の『進藤ヒカル』も知っている。

 

 だからこそ、ヒカルのその真意にも気がついた。

 節々に見える、こう打てば良いと示すかのような一手が輝いて見えていた。

 

 佐為は、ヒカルは、若い芽を潰す事など本意ではないから。

 

 

 導かれるように打つ中で、悔しい思いもある。

 だが、今このプロ試験期間中は是が非でも力に変えなければならない。

 伊角は微かに見える光を必死に追いかけて進藤ヒカルに挑んでゆき、そして限界ギリギリまで打った。

 晴れ晴れとした言葉が伊角から出た。

 

「ありません」

 

「ありがとうございました」

 

 敗北したのに、それが気にならないほどの充実感。

 プロ試験期間中だというのに、こちらを気遣うようなヒカルの打ち方に思うところもあるが。

 だが、先日門脇との対局で敗北を喫していた伊角にとっては、冷静になる機会を得られるありがたい配慮だった。

 自然と感謝の言葉が口を突いた。

 

「進藤、ありがとう」

 

「……オレは真剣に打っただけだよ。伊角さんじゃなくたって、オレは真剣に打つぜ」

 

 視線を逸らして言う、照れ隠しのようなヒカルの台詞に、伊角はクスリと笑みを浮かべた。

 

 序盤にして黒星二つを背負う事になった伊角だったが、幸いにも意気は十分。

 巻き返しを狙うことも十分に可能な立ち位置にはまだ立っている。

 腐らずに打っていこうと決めて、その日を終えた。

 

 しかし、伊角が序盤3戦目終了時点で、黒星を二つ握った事実は変わらない。

 強者が揃い踏みする今回の試験では、一つの黒星が命取りになりかねない状況。

 まだ追い詰められてはいない。

 しかし、安心もしていられない。

 

 追い込まれた時にどうするか。

 プロ試験の序盤から、伊角はそのメンタルの真価を問われようとしていた。

 

 

 

 






対戦表を作っていたら時間がなくなりました・・・。
短くてゴメンなさい。

今後全対局(主要メンバー)を書くなら最低20〜最大56局分くらい書く必要があるのですが、さすがにキャパオーバーなのでダイジェスト多めになるかと思います。ざっくり飛ぶ事もあると思います。

それでも面白くできるよう試行錯誤していきますので、よろしくお願いします。

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