伊角は非常に緊張した面持ちで、今日の対局に臨んでいた。
余裕のない張り詰めた雰囲気で対局場に入れば、同じように少し緊張した面持ちの藤崎あかりと視線が交わった。
『第5戦目』
『伊角vs藤崎』
ここまで2勝2敗の戦績の伊角にとって重要な一局だった。
先日の進藤ヒカルとの対局の後、4戦目は勝ち星を拾って、連敗は2で止めた伊角だったが序盤時点で黒星を二つ握っている。
ここで敗北を喫すれば、3敗。
始まったばかりのプロ試験がかなり厳しい戦いとなってしまう。
そのため緊張感を持っていた。
藤崎は3勝1敗ではあるが、ここで敗れることがあれば序盤から2敗を背負う事になる。
加えて、『第7戦目』には進藤ヒカルが控えている状態。
つまり、現時点では黒星は一つだが、伊角、進藤と敗北すれば、黒星は3つ。
到底許容できるボーダーを超えてしまう。
序盤から黒星3つを抱えるのは何としても避けたい場面。
だというのに、昨日、門脇に僅か半目足らず敗北した記憶はまだ新しい。
怒涛の追い上げを行ってもギリギリでたったの半目が届かなかった悔しさは簡単には忘れられない。
深呼吸をする。心を落ち着けるように。
昨日の敗北を引きずらずにいつもの自分通りに打つことが出来るのか。
藤崎あかりも、メンタルを問われる局面となっていた。
視線の交わりは一瞬だった。
両者ともなく視線を逸らして、あかりは対局場に入ってゆき、伊角もそれに続いた。
続々と他の候補者たちも席に着いていく中で、二人は向き合っていた。
真剣な面持ちの中に僅かな警戒すら滲ませて、伊角は口を開いた。
「……良い碁にしよう」
それだけの言葉だったが、藤崎にはそれで十分だった。
何かに気がついたようにハッとした表情をして、その後に笑顔を浮かべて頷いた。
「うん。──いい碁にしようね、伊角さん」
その内面は藤崎しか知る由がないが、非常にシンプルだった。
藤崎の心に残る最近の対局と言えば、
真剣にぶつかり合わなければ生まれなかった碁を思い出して、初心に返った藤崎は意気を上げた。
それを見て伊角はより緊張してしまう。
伊角の脳裏に浮かんでいるのも、やはり先日の
藤崎あかりの打ち回しに『ここまで打てる子だったのか』と驚愕した思いはまだ色褪せていない。
だが、同時に思い出す。
藤崎あかりの好手にも、負けじと反撃を繰り返した
その類い稀な『負けん気』を思い出して胸に秘める。
伊角は思い出すために閉じていた瞼を開いた。
未だ緊張はあるが、もう怯んではいない。
弱気になってはいけない。そう考えるまでもなく、気持ちを持ち直していた。
両者ともに同じ対局の記憶を思い返して、非常に盤面に集中できる状態となった。
メンタルでは互角。
ならば、後は実力の問題だった。
力強い瞳の奥に闘志を宿して、雑念を振り払うように伊角は第一手目を盤面に放った。
非常に難しい戦いとなった。
黒番は伊角。
先日、黒番を握って序盤に有利を作ったにも関わらず、門脇にひっくり返された記憶は新しい。
それでも伊角は集中して打っていた。
一手の鋭さも、サエも、普段通りの伊角だった。
対しての藤崎もその実力を遺憾無く発揮している。
しかし、未だ実力という部分では伊角に劣っている。
囲碁を覚えてようやく一年半。
囲碁部の大会や、若獅子戦などに参加した経験はあるが、プロ試験のプレッシャーを背負いながら打つのは初めての経験。
それを考えれば脅威的な程によく打てているが、やはり伊角の方が上手だった。
そして優勢を維持しながら、盤面を進めていく伊角に油断はなかった。
一旦のお昼休憩を挟む。
双方共に席を立って、伊角は休憩室で指を組んで考え込んでいた。
その脳裏はこれからの盤面の予想図が目まぐるしく浮かび上がっている。
藤崎あかりと、
伊角すら予想しなかった一手から劣勢をひっくり返したあの驚き。
マグレと考えるのはあまりにも相手を過小評価している事になるだろう。
あれは、狙っていなければ到底不可能な一手だと、伊角は思っている。
つまり、この先の展開でも仕掛けてくる可能性がある。
伊角はジッとこの先の盤面を考え続けていた。
少しでも勝率を上げるため真剣に。
そんな伊角に声を掛ける者がいた。
越智だった。
「──伊角さん、調子良さそうだね。藤崎も大変だ、序盤から好調の伊角さんと戦うなんてさ」
少し小馬鹿にしたように言う越智に、伊角は静かに答えた。
「いや、油断はできないよ。今だって藤崎さんとの一局が頭を離れない。……彼女は何をしてくるか、読めないからね。少しでも油断すれば食われるくらいの気持ちで臨んでるよ」
「……意外だな。伊角さんがそこまで評価してるなんて思ってなかったよ。所詮は進藤の腰巾着でしょ?」
怪訝そうに言った越智に、伊角は自身の考えを整理する意図も含めて口を開いた。
「オレは、予選と本戦の隙間の期間中に、進藤の研究会に参加したんだが、そこにはあの塔矢アキラも居たよ。もちろん、藤崎さんや奈瀬も。──お前も油断出来ないんじゃないか? 昨日はその奈瀬に負けたんだろ?」
「あ、あれは! ……ボクが、つい平静を欠いただけさ。今日は本田さんを相手に中押しで勝てそうだし、たまたまだよ」
「油断しない方がいい。……藤崎は、強いぞ」
実感が篭ったように告げる伊角の言葉に、越智もそれ以上の言葉は返せずに、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
お昼休憩が終わって尚も、藤崎は苦しい戦いを強いられる。
逆転を狙っている手はあるが、それがハマるか不安は拭えない。
伊角は鋭い手を放って、藤崎を引き離そうとする。
それに負けじと、差をつけられないように必死に追い縋る藤崎。
両者の実力が明確に盤面に出ながら進んでゆき、ついに藤崎から逆転を狙う一手が放たれた。
(ッ!! ……やはり、狙ってたか。藤崎さんの型破りな一手は常に警戒していたが、それでも気がつけなかった……。いや、それはいい。今は、どう対処していくかだ)
藤崎の一手は痛烈ではあるが、伊角はここまでに十分すぎる程に備えてきた。
冷静に、真剣に、一手一手を積み重ねてゆく。
脳裏に過ぎるのは、
怯まずに相手が好手を打つのなら、自分もそれに応じて打っていくだけだと言わんばかりに向かってゆく。
向かう合う両者は手に汗握る戦いを繰り広げて。
そして。
藤崎あかりが表情を見せないよう顔を伏せながら呟いた。
「……負けました」
「ありがとうございました」
──勝者は、伊角だった。
この激戦を制した意味は大きい。
内心で強く喜びの拳を握る。
しかし、ふと視線を上げれば藤崎の姿が。
悔しさからか、『フルフル』と震えている藤崎の姿に思うところはある。
声を掛けたい気持ちと、そんな資格はないと思う気持ち。
伊角は何とも言い難い気持ちになりながら、口をつぐんだ。
真剣勝負の、勝者と敗者。
プロ試験という一世一代の大一番で、今まで切磋琢磨してきたライバルたちと競争する厳しさ。
それをまざまざと感じさせる光景だった。
表情には出さないようにしながら、伊角が立ち上がる。
喜びも、哀れみも、どちらも藤崎を侮辱する事になると思っての、何も浮かべていない表情だった。
そんな伊角に、未だ座ったままの藤崎が声を発した。
か細いながら、気丈な芯のある声音だった
「……伊角さん、いい碁だったね」
「あ、ああ。……いい碁だった」
「うん、いい碁だった。──でも、次は負けないから」
はにかんで、藤崎が笑った。
少し赤い目尻には涙を堪えた痕が見えた。
グッと来る思いを隠しながら、伊角は真面目な表情で真剣に答えた。
「ああ、次に戦う時を楽しみにしてる」
勝者と敗者。
明確に立場が分かれながらも、ライバルたちは互いに影響を与えてゆく。
負けを糧に出来るかどうか。
それもまた、プロ試験で問われる真価の一つなのかもしれない。
伊角は、気丈に振る舞う藤崎の姿から、そんな真剣勝負の場での一面を学んだ気がした。