藤崎を相手に勝利を飾って伊角は勢いに乗っていた。
第6戦目、第7戦目を制して、三連勝となった伊角は小さくガッツポーズを握る。
明日の第8戦目に控える和谷との対局でも普段通りの力が発揮できるだろうと確信できた。
そして普段通りに打てば負けないと強い自信を漲らせる。
第7戦目は比較的スムーズに終わったため時間に余裕ができた。
ここで帰ってしまうのはあまりにも惜しい。
ライバル達の様子を観戦すれば何か得られるものがあるかもしれない。
伊角は油断なくそう考えて周囲を見渡せば注目の対局が目に入った。
しかしその二人の対局は今後のプロ試験を勝つため、という意味では伊角にとって確認する価値は低い。
だが抗えない引力に惹かれるように伊角はその一局の観戦を始めた。
『藤崎vs進藤』
先日伊角に敗れた藤崎が、進藤ヒカルに挑戦している碁だった。
丁寧に進んでいるようで、まだ展開は序盤を少し過ぎた辺りだった。
ここから変化が複雑になるだろう、と思った伊角の予想通りと言うべきか、黒番を握っている藤崎が先に仕掛けた。
進藤ヒカルを相手に守っていても勝てない。
そんな強い意志を感じる一手。
恐れはないのかと驚く伊角ではあったが、両者の対局は加速したように手数を増していく。
お互いによく打つ間柄であるからか、凄まじい読み合いの応酬だった。
伊角では一瞬意図の読めないと思った手が、応手によって何を意味していたかが理解できる。
まるで、高段位同士の対局を見ているかのような光景に背筋が震えた。
ままある事ではある。
当事者同士でしか見えない手筋というものは存在するためだ。
しかし伊角を心胆寒からしめたのは、院生の中でも上位に位置していると自負する自分が、先日勝利した相手に、その状態に陥ってしまった事だった。
アマチュアが、プロの解説がなければ盤面を理解できないのと同じ理由。
つまりレベルが高すぎて、内容が理解できない状況。
そんな有り得ない現実を前にして愕然とする伊角を置いて、盤面は次々に推移してゆく。
プロ試験本戦が始まってから、ヒカルとあかりは研究会を休止していた。
お互いがライバルである。
その認識で、距離を置いていた。
久しぶりの対局。
打ちたかったという思いもあれば、真剣勝負の場で向き合う恐怖もある。
そんな藤崎の思いは、実際にヒカルと向き合った事で霧散した。
緒方九段と対局した時に勝るとも劣らない気迫で向き合ってくるヒカルの姿に、全力で向かってくる想い人の姿に感化されるように、あかりはその意気を高めていった。
人生を懸ける大一番で、真剣勝負の場でぶつかり合う。剣が研がれて鋭さを増すように、激しい研磨は人を成長させる。
藤崎は、覚醒の兆しを見せていた。
食らいつくように、勝てると確信しているかのような怒涛の追い上げを、以前あかりは門脇相手に見せつけて迫った。
結果は敗北となってしまったが、それでもスヨンとの対局を経て持てる力の全部を出し切り勝利した経験。
打ち勝ったという自信があかりを強く強く支えていた。
それは門脇、伊角との敗北を経ても失われる事なくあかりの根底を支える一つの柱となっている。
自分の力を試したい。
もう一歩先に行ける。
もっと上へ。
ヒカルに届くまで歩みを止めない。
強い『思い』があった。
それは『想い』ではない。
藤崎あかりにとって、進藤ヒカルは目指す目標であると同時に『想い人』である。
自覚したのはいつだったか。
早熟な女の子らしく、小学生の頃には既に自覚していた。
長年連れ添ったその『想い』はあかりの一部と言っても過言では無い。
塔矢アキラとヒカルの一戦を目にしてから真剣に囲碁に向き合うようになったとはいえ、以前から持っている芯の部分まで変わったわけでは無い。
今は置いておく、と心の隅に大切に置いてあるだけだ。
プロ試験はそう簡単に挑めるほど容易いものではないから。
『想い』を一時忘れて真剣に挑む。
その判断は正しい。
もし仮にその恋心を主軸としたままであれば、あかりがここまでの実力を身につけるには至らなかっただろう。
恋の力は凄まじいが、真剣勝負の場においては雑念にも成りかねない、諸刃の刃だからである。
だが片隅に置いておいたその『想い』は無駄になっていない。
確固たる自分の『好き』を保持しているということは精神的な安定に繋がる。
自己肯定感が高まると言い換えても良いほど、藤崎あかりのメンタルに強く作用している。
そしてその『恋心』と『真剣勝負の目標』が合致した時、その感情は練磨された針にも似た鋭さを宿す。
無意識、意識の二つが相乗する。
片隅にあるはずのそれも、ここに来て類い稀な集中力の源泉へと変化してあかりに宿っていた。
(もっと! もっと厳しく攻められる。ここも、あそこも、幾つも手がある。どのタイミングで、どの一手を打つのが最も効果的? ……ううん、直感でいい。私は、今までの私の努力を信じる!)
つまり、全身全霊である。
勝負事において直感を信じられるか否かは、非常に重要な点である。
現在囲碁界にその名を轟かせた倉田プロなどはその直感冴え渡る内の一人だろう。反射的に正解を導き出す能力は万能ではない。だが一手に割かれるリソースを極端に節約することができる。その分だけ他の思考に回すことができる。
あかりはここに来て、その片鱗を発露していた。
その全身全霊の『あかりの碁』を正面から受け止めながら、『二人』の師匠は微笑んでいた。
(佐為。すげーな、オレちょっと感動してる)
(本当ですね。弟子の成長というのは、本当に喜ばしく心が震えるほど尊い光景です。あかりのためならば、ここで一つ黒星を握ってもよいと、一瞬ですが、そんな不躾な考えが過ぎってしまうほどに)
(冗談。思ってもねーこと言うなよ、佐為)
(すみません、つい。……そんな感慨に耽ってしまいたくなるほど、素晴らしい碁です、と言いたかったんです)
(オレは決めてんだ。絶対に誰にも負けないって)
以前ヒカルは心に誓った。
『不敗の心得』
今まで破ってきた棋士全てを背負って、ヒカルはこの場で打っている。
相手があかりといえど、そしてこの大一番といえども、仮に自分に敗北することであかりがプロに成れなくなるとしても誓いは破らない。
あくまでも心得だ。
半目差を競い合う事になるであろう、塔矢行洋相手に全勝を狙えると確信している訳ではない。
ただこれまで敗者となった棋士たちに恥じぬ碁を打つ。それだけを考えている。
だから、この場でのヒカルの選択は。
(……佐為、行こうぜ)
(ええ、もちろんです)
意図的に抑えていたリミッターを『僅かに』外すことだった。
怒涛とも言える展開を経て、二人の対局は終局に向かった。
結果としては進藤ヒカルの2目半勝ち。
しかし、内容は凄まじいの一言だった。
見ている伊角も、片時も目の離せない一手の応酬。
冷や汗を流しながらその光景を目にしていた。
(強い……。強すぎる……。これが、藤崎さんだって? こないだとは別人のようじゃないか)
伊角は内心でそう呟いた。
この対局以前の藤崎なら、苦戦は免れないが十分に勝機はあった。
だがもし今の藤崎ともう一度打てと言われたら。
伊角の脳裏に浮かんだのは、敗北するイメージだった。
それほどの対局だった。
藤崎あかりがキッカケを掴んだ事。
真剣勝負の場での経験値。
そして、同格よりも僅かに上の実力を対局中ですら更新しながら演じる事ができる進藤ヒカルの極めて高い技量。
その三つが合わさって、トンデモない成長を遂げている。
伊角はその事実を認めて心から思った。
また一人の新しい怪物が生まれた、と。
『第8戦目』では重要な対局が行われた。
『門脇vs越智』
ここまで奈瀬にしか敗北していない越智と、進藤にしか敗北していない門脇。
一敗の両者が対決する。
越智は、的確に要所を締めていた。
以前は地に拘るきらいがあったが、進藤ヒカルに執拗に攻められて以降から変更を余儀なくされて、一時期は調子を崩していたが、プロ試験開始までに調整を間に合わせていた。
越智は弱くない。
むしろプロ試験に参加している候補者たちの中では明確な上位に位置する。
進藤ヒカルに影響されて実力も伸ばしている。
門脇は強敵だった。
だが一進一退の攻防を繰り広げて、勝ちを拾ったのは越智だった。
際どい勝利でも白星に違いはない。
僅かな安堵の息を漏らしながら越智は明日の戦いへ。
伊角との対局に向かうのだった。
『第8戦目』
伊角vs和谷。
白星は伊角の頭上に輝いた。
伊角は勝利した帰り道の途中で考え込んでいた。
昨日の『第7戦目』での藤崎あかりのトンデモない成長を目にして愕然とした思いはある。
だがそれで調子を崩すほど柔では無い。
伊角がメンタルを崩しやすい理由は責任感が強すぎるからだ。
だから自分を責めてしまってリズムを崩してしまう。
伊角はメンタルに課題があるが、他人の成長を僻んでメンタルを崩すほど負の面に感情は動かない。
だが衝撃的だったのは事実。
今日は普段通り打てた事にホッと一息を漏らすも今後の展望を考えていた。
(藤崎さんは3敗(門脇●伊角●進藤●)。本田も3敗(藤崎●和谷●越智●)。和谷は3敗(奈瀬●門脇●伊角●)。福井は2敗(越智●飯島●)、飯島も2敗(奈瀬●本田●)、門脇さんも2敗(進藤●越智●)。越智は1敗(奈瀬●)。奈瀬は無敗。進藤も無敗。──そして、オレは2敗(門脇●進藤●)だったな)
伊角が残りの対局で白星を落としかねないのは後3局。
明日の越智。
第25戦目の奈瀬。
第26戦目の本田。
対戦表を思い返して、今回のプロ試験の黒星を換算すれば、ある程度が見えてくる。
(たぶんだが、このまま進めば、黒星3つが合格ギリギリのライン……。オレはまだ1敗は出来るが、それでも気が抜けないな……。だが、勝ってみせるさ)
まずは目の前の白星を掴む。
その思いで、伊角は前を向いて歩き出した。