神の一手   作:風梨

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約4800字



第20話

 

 

 

 

 プロ試験とは長い期間での対局を行う。

 大凡2ヶ月間かけて戦う一世一代の大勝負の場である。

 

 忘れがちではあるが、参加者たちは相応の覚悟を持ってこの場に挑戦している。

 

 社会人であれば、仕事を辞める。あるいはそもそも定職に就かない者すら居る。

 その全てがプロ棋士になるためである。

 

 そんな中で、若い院生は比較的挑戦しやすいと言えるが、プロ棋士になりたいという一念は劣るモノではない。

 むしろ貴重な若い時間を消費しながらライバルと切磋琢磨し続ける事で、才能に触れてその道を諦めることすらある険しい道である。

 

 そんな厳しいライバル関係でありながら、仲間でもある二人の対局が、今終わった。

 

「……ありません」

 

「ありがとうございました」

 

 平静な表情で頭を下げて、白星を得たのは伊角だった。

 山場である一戦を制したことで安堵しながら、しかし、まだまだ先の続くプロ試験に備えて表情は緩まない。

 

 対面に座るのは、この対局で2敗となって二つ目の黒星を握る事となった越智だった。

 悔しげに拳を握っているが、敗着を理解しているからか、それ以上何も言う事はなく盤面の片づけに入っていた。

 

「……ふん、最近は調子がいいよね、伊角さん。けど、ボクだってまだ2敗さ。こんな場所で終わるつもりはないよ」

 

「ああ、そうだな。……越智、油断するなよ」

 

「? 何をさ」

 

「藤崎さんだよ。……彼女は、もうオレよりも強いかもしれない」

 

 怪訝そうに越智は表情を動かした。

 先日の対局で伊角が敗北していたなら、まだ理解できる。

 だが、伊角は先日の対局で藤崎に勝利している。

 だというのに、何故そのような事を言ったのか理解できず聞き返した。

 

「わからないね。前は伊角さんが勝ったんだろ? ……確かに、今日は負けたけどね。悪いけど、ボクと伊角さんに大きな差があるとも思わなかった。次はボクが勝つさ。藤崎にだって──」

 

「そんなレベルじゃない」

 

 越智の言葉を遮ってまで、伊角は静かに告げた。

 今の藤崎あかりがどれほどの高みに上っているのか。

 

 越智ならその実力は伊角もよく知るところだ。

 本気の越智と藤崎がぶつかれば、ある程度の力量は見えてくる。

 

「……確か越智と藤崎さんが当たるのは『第11戦目』だったか、楽しみにしてるよ」

 

 あの、側から見ても読めないほど実力を高めた藤崎の現在地が微かに見えてくる事を期待して。

 そしてライバルである越智に、油断などという要因で負けてほしくないという思いから、伊角はそう伝えていた。

 

 それを正確に察したわけではないだろうが、越智は鼻を鳴らしてそのまま席を離れた。

 悔しげに口元が歪んだままではあったが、伊角は自分の言葉が届いただろうと思うことにした。

 

 答えが出るのは、『第11戦目』。

 

 碁笥を碁盤の上に置きながら、伊角は予見するようにその身を震わせた。

 

 

 

 

 瞬く間に数日が流れて、『第11戦目』が始まる。

 あまりにも圧倒的な力量を見せつけた藤崎と、その猛威に晒されながらも怯むことなく応戦した越智の対局を経て。

 

 越智は藤崎に敗れる。これで越智と藤崎の黒星は双方共に3つとなった。

 

 さらに対局は進む。

 

『第20戦目』

 

『奈瀬vs進藤』

 

 ここまで無敗で19連勝と絶好調の成績で勝ち進む奈瀬と。

 

 同じく無敗。

 敗北の兆しが微塵も見えない進藤の対局が始まっていた。

 

 奈瀬は打ちながら思う。

 自分の強みを考える。

 

(──私の強みは理解してる。視野の広さを活かして、乱戦に持ち込む事。先手先手で入り方を変化させて、盤面全体のバランスを取って進める事)

 

 奈瀬の強みは落ち着いた視野であり、そこから生まれるバランス感覚だった。

 攻めと守りのバランスが絶妙に上手い特徴。

 

 深いヨミと型破りな一手を用いて攻めと荒らしに傾倒する藤崎とは異なる打ちまわしだった。

 同じ師匠から学んだとは思えないほど、二人の打ち方は対照的である。

 

 変幻自在の打ち方が可能なヒカル。

 いや、佐為だからこそ導けた結果ではあるが、奈瀬もその棋力をノビノビと伸ばし続けていた。

 

 バランスの良さとは安定感と同義である。

 奈瀬がここまで順調に勝ち進んできたのもある意味当然の帰結だった。

 

 しかし、それは成長出来る機会を逃したという意味でもある。

 そんな奈瀬は今回のプロ試験期間中において初めての、そして最大級の壁に挑みかかっていた。

 

(進藤は強い。でも、強すぎる自覚があるからか、悔しいけど私たちに『全力』は出してこない。……でもね。だからって、一歩二歩を出し抜くなんてツマラナイ打ち方はしないわ。進藤がまだ油断してる内に仕掛けてやるんだから。……全体のバランスを見極めて。ローリスクハイリターンの盤面を探す。そして、あえて隙を作って進藤を誘い込む。私の得意な戦場にね。──乗ってくるでしょ? こういうの、進藤が好きだって知ってるんだから)

 

 奈瀬が誘い込みを掛けた一手に、当然のように進藤は気がついた。

 そして、微笑みすら浮かべながらその誘いを受ける。

 

 入り込む進藤の白石を、奈瀬が防ぎ切れるかという盤面。

 もし防ぎ切る事ができれば、薄くした分を攻めに回した数々の手が生きて有利を保ったまま中盤に入る事ができる。

 しかし、もし潰されれば挽回が困難な展開。

 それでも、奈瀬は意気を高めながら挑んでいった。

 

 周りが成長している事は察していた。

 その中で、自分だけが安定感を保ってはいるものの、劇的な変化は訪れずにプロ試験終盤にまで進んでしまっている事を理解していた。

 

(……今年こそ、私は絶対にプロになる。そして、進藤に追いつく! 負けっぱなしで居られるもんですか!)

 

 淡い恋心。

 進藤ヒカルに対して抱いていないか、と言われれば、奈瀬は否定できないだろう。

 

 そうなのだ。今更ではあるが、奈瀬は進藤ヒカルに対して少なからず好意を持っている。

 夏休み中に、藤崎あかりを心配して碁会所に同行した話を聞いた時も実はドキリとしていた。

 

 けれど、聞かなくては不安という気持ちがあって、必要以上に藤崎あかりを揶揄いながら話を聞く流れになってしまったのは、少し反省しなければいけない所だったが。

 

 それはさておいて、奈瀬は少なからず、いや。

 明確に言葉にはしていないものの、キュンとしたことが多々ある。

 

 例えば、指導してくれている時の横顔であるとか。

 例えば、輝くような一手を放った指先を見た時であるとか。

 例えば、モリモリとお寿司を食べている時であるとか。

 例えば、物凄く真剣な表情で、とある高段位者と対局した時であるとか。

 例えば、と挙げればキリがない。

 

 その気持ちを指し示す言葉は理解しているが、けれど、奈瀬は決して言葉にはしなかった。

 藤崎あかりに対する罪悪感もあったが、何よりもプロ試験に挑む緊張感の中において、たった一つでも雑念が混じれば途端にバランスが崩れて目も当てられない状態に自分がなってしまう姿が容易に想像できたからだった。

 

 この歳になるまで囲碁一筋だった奈瀬である。

 器用に立ち回れる自信は皆無だ。

 いや、むしろ狼狽して空回りする自信しかないし、認めてしまえば自分がブレてしまう。

 二つのことに全力が出せるほど、奈瀬は自分のことを器用だとは思っていなかった。

 

 それが強さになる可能性も重々承知しているが、不安定さを呼び起こす事にも成りかねないから。

 

 全てはプロになってから。

 そう、覚悟を決めていた。

 

 表に出すだけが『恋』ではないのだから。

 

 

 覚悟というモノは心身に多大な影響を与える。

 区切りを自ら作ることで、いわば誓約のような形で作用する。

 覚悟の力と呼ばれるものである。

 それは逆境においてこそ強く現れる。

 

 例えそれが、世間から浮ついたモノだと言われる類だとしても、奈瀬がそれを覚悟と確信できるのなら強い効力を発揮する。

 

 目標であり想い人。

 奇しくもライバルである藤崎あかりと同様の条件を満たして、奈瀬もまた覚醒の兆しを見せ始めていた。

 

 

 盤面の激しい攻防を経て、奈瀬は打ち込まれた右下隅の防衛に成功する。

 それはあの進藤ヒカルに対して中盤に入る前の時点で10目以上の有利を作るという、値千金の結果に他ならないが、しかし不敗を誓っているヒカルが挽回に向かって『僅かに』本気を見せる事にもなった。

 

 結果としては奈瀬の2目半負け。

 しかし、奈瀬が自信をさらに漲らせるに足るだけの内容だった。

 

 

 奈瀬がヒカルと出会うまでに続けた努力。

 それは決して奈瀬自身を裏切らない。

 

 若獅子戦で得た自信を糧に大きく成長を遂げた奈瀬であったが、プロ試験本番の場において19連勝を決めた事。

 そして、この大一番の場で進藤ヒカルに対して一矢報いた事。

 

 大きな自信を得て、奈瀬も飛躍的な実力の向上を見せる。

 さらには翌日の『第21戦目』に行なわれた本田との対局では『正史』同様に、いや。それ以上の渾身の一局を披露した。

 

 プロになってもやっていける。

 確固たる自信を得て、奈瀬はさらなる対局に臨む。

 

『第24戦目』の門脇との一局。

 一切の危うげを見せない安定した打ちまわしで奈瀬が勝利を飾る。

 これで門脇は進藤●越智●奈瀬●の3敗となった。

 

 そして『第25戦目』。

 

『奈瀬vs伊角』の一戦。

 

 奈瀬が勝利すればプロになることが決定する対局に伊角は臨む。

 伊角は序盤に2連敗を喫してからこの日まで21連勝で進んできた。

 後たったの3戦勝てばプロが決定する。

 

 奈瀬は強敵ではあるが、勝てない相手ではない。

 そう、思っていたが。

 

 盤面では、その予想を覆すほどの差を付けられる。

 

 バランスの取り方が上手かった。

 伊角が攻めればやんわりと手を咎めてくる。

 打った一手を活かすために手数を使えば、打てば打つほどに緩やかに奈瀬が有利になる。

 まるで川の流れのように違和感のない展開であったが、奈瀬の誘導する流れが良くないと思いつつも脱却出来ずに添えば、いつの間にか伊角が不利な盤面が作り上げられていた。

 

 それを見て挽回すべく手を変えて、局面を変えて挑むが、それすらも予想の範疇であると言うかのように的確な対処をされる。

 必死に応戦して活路を探し続ける内に終局。

 

 白番:伊角の5目半負けという結果となった。

 

 圧倒的に打ち負かされたのではない。

 だが、攻略の取っ掛かりを掴むことすら出来なかった。

 伊角が連想した奈瀬のイメージは、鉄壁。

 壁自体はさほど高くはないものの、まるで掴み所のない鉄の壁だった。

 

 悔しさを感じながら、これで伊角も3敗(門脇●進藤●奈瀬●)となる。

 残るプロ試験は2戦。

 

 越智は4敗(奈瀬●伊角●藤崎●進藤●)。

 門脇は3敗(進藤●越智●奈瀬●)。

 藤崎は3敗(門脇●伊角●進藤●)。

 

 進藤と奈瀬は既にプロ試験合格を決めている。

 つまり、残りひと枠を掛けた戦いが始まる。

 

 最後に残った対局は

 

『第26戦目:本田vs伊角』

 

 そして。

 

『第27戦目:奈瀬vs藤崎』

 

 伊角が『第26戦目』で敗北しなければ。

 そして藤崎が奈瀬を破れば、3敗の三人でのプレーオフ。

 

 奈瀬は既に合格を決めている。

 伊角の予想では、ライバルであるが仲の良い二人の関係を考えると、藤崎に花を持たせる可能性は高い。しかしその予想は悲観的な推測に基づくものだ。普段なら考えもしなかったであろうその予測を伊角がしてしまっているのは、偏に伊角の弱い部分が出てしまったと言える。

 加えて、進藤ヒカルとの対局を経た藤崎あかりは別人のように強くなっている。

 

 再戦の予感を感じながら、この大一番で最後の最後まで結果がわからないというプレッシャーを背負いながら、伊角は『第26戦目』に本田との対局に臨み勝利。

 強い安堵を胸に抱きながら最終戦へと駒を進める。

 

 藤崎あかりの再戦を脳裏で予想しながら、果たして自分が彼女に勝てるのかと不安を抱きながら、伊角は最終戦に臨む。

 

 

 そして。

 既に敗退が決定している外来の杉下から『第27戦目』での白星を得て、伊角は急いで注目の対局を観戦するために移動する。

 

 多くの人が集まっていた。

 けれど、伊角が最終戦に勝利した事を知って、自ずと道が開いて観戦が出来る位置に付く事ができた。

 

『藤崎vs奈瀬』

 

 そこでは、忖度などが微塵も見えない、本気と本気の、全力と全力の、大激戦が繰り広げられていた。

 己の信念と磨き上げてきた実力を、大一番でぶつけ合う両者の姿があった。

 

 盤面は未だ序盤。

 

 伊角が観戦する前で。

 藤崎あかりが、渾身の一手を盤面に叩き込んだ。

 

 


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