総当たり戦での『最終戦』
その言葉の重みはトーナメントとは異なる。
当然である。
トーナメントであれば『最終戦』とは決勝戦。
絶対に負けられない戦いとなるが、総当たり戦であれば、『最終戦』の時点で既に敗退が決定付けられている者も残念ながら存在する。
そんな中にあって、極めて高い緊張感を持って視線を交す少女たちが居た。
──片や、肩より少し長い程度に茶髪を伸ばして、
落ち着きを払った様子で、始まりの時を待っていた。
──片や、濡れ羽のような嫋やかさを持つ黒髪を左右で括ってツインテールにしている少女。
黒々としながらも燦々とした光を含んだ瞳を前に向けて、膝の上の掌を真剣な表情で握り込んでいる。
奈瀬明日美と、藤崎あかりだった。
奈瀬は既にプロ試験合格を決めている。
この最終戦で勝たずとも、プロ棋士になる道が拓けている。
最終戦で勝ち星を落としたとしても、『成績』に限って言えば何の痛痒もない。
藤崎はこの最終戦に勝たねば望みが絶たれる。
逆に言えば、この最終戦を制すれば藤崎はプレーオフに進出して望みを繋げることが出来る。
あまりにも、あまりにも重い最終戦。
勝ち星を譲ってくれと懇願したくなるような場面。
相対する者は同情心から勝ち星を思わず譲ってしまいたくなるような、そんな場面。
しかし、対面する奈瀬は口をつぐみながら、今日この日まで考え続けて、その間一度もブレる事のなかった結論を胸に抱いていた。
プロ試験に挑む前から、語り合い、助け合い、競い合い、ライバルとしても仲間としても切磋琢磨した仲である藤崎あかりに対する思い。
──『浅い』関係であったなら、譲った未来もあったかもしれないが。
今日この場に座る奈瀬から。
負けても失うものはないはずの奈瀬明日美から、油断という文字はまるで辞書から消えてしまったかのようだった。
奈瀬がゆっくりと口を開いた。
「──あかりちゃん」
静かに、そして厳かさすら感じさせる声音で奈瀬が言葉を紡ぐ。
「手加減、しないからね」
迷いはない。それは嘘ではない。
だが。
奈瀬自身に葛藤があることを窺わせる言葉だった。
もし仮に『藤崎あかり』との関係が、縁の『薄い』友人であったのなら、奈瀬は悩みながら勝ち星をそれとなく譲ったかも知れない。
真剣勝負の場での勝ち星一つが、どれほどに重いのか、去年もプロ試験に臨んだ奈瀬もよく知るところだ。
それこそ比喩ではなく、人生や命を懸けるに足るほどの重みを持つことすらある。
そして既に必要のない勝ち星すら取りに行くなど、生半可な覚悟で出来ることではない。
場合によっては、相手に一生恨まれるかもしれないのだから。
『正史』で、進藤ヒカルがとある局面で極限まで迷ったように、いや。それ以上にただ一つの勝ち星が途方もなく重いのだ。
奈瀬は十分に勝ち星の重みを理解している。
それでも奈瀬は一切迷わなかった。
葛藤して内心でせめぎ合いながらも、心が出す結論は常に一つだけだった。
真に
手加減はあまりにも無粋とする、この道に骨を埋める者としての心構えから生まれる本音。
真剣に向き合う故に融通が利かない思いから生ずる覚悟は奈瀬に手加減を許さなかった。
──とはいえ、ソレを勝ち星を失えば敗退する本人を前にして伝えるのは非常に勇気の要る行動だった。
奈瀬の望みは本気でぶつかり合う事であるし、奈瀬のよく知る『藤崎あかり』は真剣勝負を望むはずと思っていても。
しかし、奈瀬がどれほど渇望して予測して考え抜いたとしても、人の心を読むことは出来ない。
目の前に座る唯一無二の友人が、勝ち星を譲ってほしいと微塵でも思っていたのなら、奈瀬の発言は友情に僅かな、けれど、決定的な亀裂を生じさせるに十分すぎる圧力を持っている。
それほどに、勝ち星の一つが重いと奈瀬は知っている。
だが、それは杞憂だった。
奈瀬の言葉を受けた藤崎はまるで躊躇した様子も、動揺した様子も見せることなく、それが当然であると即座に頷いた。
「うん。──
そう、言い切った。
真っ直ぐな瞳に揺らぎは一切ない。
手加減も忖度も望まず、本気の真剣勝負を『最終戦』で望む、爛々とした輝きを含んだ瞳から発せられる視線が奈瀬を射抜いた。
思わず奈瀬は震える。
興奮から生じる武者震いだった。
口元を微かに歪めて、興奮から来るブルリとした震えを拳を握り潰す事で抑える。
──
そう断ずるに些かの躊躇も必要ない。
高まり合う気迫が唸りを上げるような空間の中で、競い合い高め合う好敵手同士が、『最終戦』という大一番で激突する。
──失うものはない。
だが、それでもライバルのため、そして何より『明日に繋がる碁』のため、プロ棋士として生きていく誇りのため、己の全てを駆使して勝利を得んと落ち着きを払った姿勢の中に烈火の如き闘志を燃やす奈瀬。
──負ければ道を失う。
常に共に居た幼馴染と袂を分つ事となり、一年間という長きに渡って準備を強いられる敗退という結末が待ち受ける藤崎。
勝てば天国、負ければ地獄。
ここで勝てねば、秘めた想いすら遂げる事が困難になるかもしれないと思考に過ぎる藤崎の対局姿勢はまさしく不退転。
両者ともに動機、気迫は十分。
「「お願いします」」
激戦必定の『最終戦』の火蓋が切られた。
黒番:奈瀬明日美
白番:藤崎あかり
第一手目を握る奈瀬から対局は始まった。
互いに一手ずつを打ち合う、隅の星を取る定石に沿って展開する。
このまま盤面はゆったりと進むかと思われた。
──しかし、藤崎第3手目。
いきなり局面が動いた。
藤崎が、厳しく真剣な眼差しで右上隅に打ち込んだ。
そこは黒石の陣地内。
右上隅の星に付けている黒石に対して、左から白石をケイマで当てていく。
三線に打ち込まれた白石は『
奈瀬はその一手にも冷静さを崩さない。
入り込まれた白石をそのままに、上辺の地合いが大きいと見て、少し石を離して上辺を獲るため星に付けた。
藤崎は先ほど侵入した三線の地を確定させる手を打つかと思われたが、ここでさらに攻めた。
孤立する形となった右上隅にある奈瀬の黒石を囲うように、先ほど打ち込んだ白石からケイマを伸ばす。
右辺にまで侵入しようとする白石を、奈瀬も堪らず黒石で塞いだが、藤崎はさらに伸びて圧力を掛ける。
奈瀬はここでムキになって戦う選択肢もあったが、しばらく長考した後にあえて一歩譲る形で二線に下がった。右辺を厚くする構えだった。
無理に追いかけても有利は作れない。
藤崎は早々に見切りをつけて、左辺に展開する。
自陣の白を補強する藤崎の一手だったが、それを見て、次は奈瀬から仕掛けた。
やられたらやり返す。
そう言わんばかりの『右下隅』に深く深く入り込む一手。
先ほど藤崎が入り込んだのは三線であるが、上辺を睨むため左に寄っていた。
だが、今回の奈瀬の一手は違う。
同じく三線ではあるが、その中でも四隅にそれぞれ四つしかない『三々』と呼ばれる、地を作りやすいがあまりにも深く入り込むため、生きるか死ぬかの一手を藤崎の白石がある陣地内に放り込んだ。
つまり、隅を寄越せとカチコミを仕掛けたに等しい。
先ほどの藤崎の一手は攻めではあるものの、対処法に複数の手順があった。
だが、ここまで入り込まれたなら、手順は戦闘開始以外にない。
即座に対処しなければ地合いが大きく削られる事が必定の一手を打ち込まれたのだから、藤崎としても望むところだった。
そして、藤崎は少しの長考の後に応手を返す。
右下隅を起点に、激戦のゴングが鳴った。
石同士が激しくぶつかり合う。
奈瀬の狙いとしては、右上隅にある、先ほど二線に下がった黒石に繋げるか、下辺に侵入した黒石に『二眼(囲めば石が取れるルールであるため、目が二つあれば石を殺せない)』を作れば良い。
侵入された側の藤崎としてはそのどちらも防ぎたい。
お互いに譲らない激しい攻防が繰り広げられた。
結果として、藤崎は下辺への直接的な侵入を防いだ上に、右上隅との合流も抑え込んだ。
完勝である。
しかし、それでも藤崎は侵入してきた黒石を殺し切る事が出来ない。
奈瀬の黒石は周りを白石に囲まれながら、ジワリジワリと命脈を落としかねない盤面ではあるが、奈瀬の巧みな打ち回しで生き残っていた。
碁とは石が繋がっていない場所にも打ち込むことが出来る。
流れは遮断されたが、抵抗の術が消えた訳ではない。
奈瀬はここまでは予想通りとでも言うかのように『右下隅に侵入させた黒石』の『左を埋める白石』を挟み込むため『下辺の隙間』にポンポンと奈瀬が二手、三手を放り込んだ。
藤崎は流れを遮断することを優先したためそれらの黒石の台頭を許した。
一進一退の攻防が続く。
そこまで手を尽くしても右下隅から始まった戦いは終わる気配を見せず、右辺を埋めて、中央にまで石が流れてゆく。
右下隅にある黒石が流動して下辺に地を作るために動き始める。
それを藤崎が防ぎながら、主戦場は徐々に左に流れる。
盤面を評価するなら、白番の藤崎が優勢。
とはいえ、油断できない局面が続く。
藤崎が勝利を狙うように、対面の奈瀬も未だ気力衰える事なく貪欲に勝利を求めて打ち続ける。
左辺から上辺に展開が変化して、互いに再び黒石と白石がぶつかり合う攻防を繰り広げる。
重なる手数が増えるたびに複雑な石の流れが生じる。
それらに的確に対処しながら、一手一手と勝利を目指して両者が打ち続ける。
奈瀬が『左辺の白』に対してヨセていく局面。
思わず手拍子でウケた藤崎の一手から、優勢に揺らぎが生まれた。
その失着とも呼べない僅かな差を生む一手から徐々に変化が生まれる。
揺らぎを逃すまいと打ち込まれた奈瀬の一手。
連続して紡がれる奈瀬の一手が、ヒシヒシとした圧力を伴って盤面を覆い始める。
藤崎も負けてはいない。
応手を繰り返す手は間断なく、的確に返している。
しかしそれでも、奈瀬は一歩だけ上を行った。
そして。
複雑化する盤面では、たったの一手。
ただ一度の好手が行く末を左右する事がままある。
非常に、非常に複雑な盤面だった。
プロ棋士ですら正確な応手が難しいほど複雑化した展開の中で。
──奈瀬は的確に急所を突いた。
藤崎の手が止まる。
衝撃を受けたように一瞬身体を震わせて、盤面を読み進めるにつれてジットリと嫌な汗が背中を伝った。
地合いを制するには『ここしかない』という一手だった。
プロとして生きる覚悟を決めた奈瀬の渾身の一手に藤崎の優勢は崩されて、奈瀬に盤面が傾いてゆく展開が読めた。
しかし、まだその差は数目あるかないか。
十分に挽回可能ではあるが、優勢を崩された衝撃は大きい。
落ち着くために一息を漏らして、藤崎はより強い気迫を漲らせて白石を盤面に打ち込み続けるが。
藤崎の未来に暗雲が立ち込めようとしていた。
──負けられない。
藤崎あかりは負けられない。
塔矢アキラ。進藤ヒカル。奈瀬明日美。
共に勉強をした仲である者たちが続々とプロへの道に進んだのを見て、焦燥を感じていた。
序盤の負けがなければ、と脳裏に過ぎったこともある。
長い試験中だ。どうしてもその類の思考は増えてしまう。
それでも藤崎は勝ち続けた。
負ければプロに手が届かない。
崖っぷちでそれでも気力を振り絞って勝ち続けた。
それは大きな自信にもなったが、同時に色濃い疲労を蓄積することにもなった。
連日に渡る気の抜けない対局が、2ヶ月間も続いたのだ。
未だ中学生であることを加味すれば、むしろその間に集中力を切らさなかった事こそ賞賛に値する。
藤崎は強い気持ち、勝ちたい気持ちだけで、ここまで打ってきた。
優勢を保っている内はまだ良かった。
碁の内容に集中することができた。
だが、優勢を崩されてしまえば、気力だけで保っていた集中力も徐々に減退する。
それでも気力を振り絞って、精神的にギリギリの状態で何とか食らいつき続けるが、見えてきたのは無情にも『敗北』の二文字だった。
その二文字が見えた瞬間。
恐ろしい程に冷たい風が心の
それまでの気持ちが急激に冷めてゆく心地。
あまりの冷たさに思考が叫んだ。
身体が感応して、食いしばった奥歯が嫌な音を立てた。
息が張り詰める。
呼吸は荒くなって、手先は僅かに震える。
落ち着こうと無理に吸い込んだ空気が痛かった。
重圧。
それが、ここにきて藤崎に襲い掛かっていた。
恐ろしい。負けたくない。置いていかれたくない。
全て投げ出したくなるほどの重圧が襲い掛かる。
心の壁を引き剥がされて、芯にある柔らかい部分をジクジクと苛む。
心中察するに余りあるほど、手を止めた藤崎の顔色は悪かった。
そんな藤崎の様子に気がつき、グッと息を呑んだ奈瀬が、その姿を見て初めてブレる。
迷いなど既に無い筈の心に再び葛藤が生まれる。
互いを良く知る両者だからこそ生まれる心の綱引きに、声を掛けられる者など誰もいない。
それは伊角も同様だった。
観戦しながら、痛いほどに両者の気持ちが理解できる中で沈黙を守るしかない。
藤崎のあまりの強さに圧倒されて、次に藤崎と戦うかもしれないと、そんな事ばかり考えていた先ほどまでの自分。
自分を恥じるように伊角は顔を伏せる。
ギリギリの精神状態で、ここまでの対局を作り上げた藤崎に対する尊敬に近い感情。
このまま負けてくれれば、と一瞬だけ過ぎってしまう弱すぎる己の思考。
盤外から対局を見つめる伊角にも、この『最終戦』はプロ棋士になるための資質を問おうとしていた。
(逃げちゃダメ……。ここで逃げたら。ここで逃げたら、ダメ。絶対に戻ってこれなくなる……)
そう、理解しながら。
それでも藤崎は次の一手が打てなかった。
心とは非常に難しい。
理性とは異なって、良い悪いで判別できる類のものではない。
様々な要因が重なって藤崎の心を追い詰める。
その重圧はあまりにも多くのモノを心から引き剥がしていった。
そして。
藤崎の芯にある大切な一つに触れた。
心の奥底に取っておいた、淡い恋心に。
──水滴が水面を揺らすように、ジワリと熱が戻ってきた。
暖かな気持ちが香るように心中に溢れた。
(違う……。逃げたいんじゃない)
藤崎自身にもよくわからない。
何故気がついたのかもわからない。
けれど、自覚した瞬間に恐れが淡い雪のように溶けて消えていた。
(私が怖いのは、囲碁と、そしてヒカルに向き合えなくなる事なんだ)
藤崎は恐れていた。
この対局に敗北して、プロになれない事が怖いのだと思っていた。
けれど、そうじゃない。
本質が見えていなかった。
一番怖いのは、これから続く人生の中で、指針を失ってしまう事だ。
『進藤ヒカル』という想い人を追いかけられなくなってしまう事。
そして、囲碁と向き合えなくなってしまう事。
プロ試験の『最終戦』で、藤崎が思い描いたのはプロになれないという恐れではなかった。
藤崎が恐れていたのは、もっと根本的な部分。
囲碁に真剣になっているのは間違いない。
プロになりたい気持ちも本当だ。
けれど。
やっぱり、自分の本質はそこにあるのだなあと気がついて、藤崎はこれまでの震えや恐れが嘘のような、柔らかな微笑みを浮かべた。
別に敗北など恐れる必要はない。
だって。
あのヒカルが。
(私の好きな人が、これくらいのことで置いていく訳ないもん)
次は頑張れよ、と言いながら、また手を引いてくれる姿があまりにも容易く想像できて。
想いは途切れないと確信出来て。
いや、もし仮にそうでなくても。
──また全力で追いかければ良いだけだから。
あの日見た色褪せない記憶が、『塔矢アキラ』と『進藤ヒカル』の煌めくような対局が、その脳裏には繰り返し映し出されている。
藤崎あかりは、ここにきて、ようやく本当の意味で『覚醒』した。
今までの動揺した様子から、打って変わって鋭い一手を藤崎が放った。
だが、盤面はもう終盤。
ヨセに入る直前である。
ここからの巻き返しは、仮に『
藤崎はそのことを理解していた。
澄んだ思考を取り戻した藤崎には終局までの一本筋が見えていた。
それでも打った。
もう少し、ほんの少しだけ早く動揺を鎮めていれば勝てたかもしれない。
そう思いながらも一手に淀みなかった。
打ちながら思う。
ああ、やっぱり好きだなあ、と。
その敗北を見据える瞳を、涙で潤ませながら。
奈瀬は応手する。
己の勝ちが揺るがないと確信している奈瀬も、藤崎の切り替わった様子に合わせて一手を積み重ねた。
ブレてしまった奈瀬ではあるが、それでも。
それでも真剣に打つことが藤崎のため、そして『明日に続く碁』になると思って、涙を堪えて険しい表情で打ち続けた。
終局を迎える。
その差はたったの半目。
ほんの僅か、ほんの少しの差で、奈瀬明日美が白星を掴んだ。
けれど、奈瀬の表情に喜びはなかった。
勝敗が決して。
整地をしながら、対面の藤崎が泣いていたから。
「……奈瀬ちゃん、ありがとう」
「ううん、ううん。私の方こそ……ッ」
「うん、大事な対局だから。──ありがとう」
泣きながら、藤崎は笑っていた。
負けても道は失われないと理解している。
でも、それはそれとして、やっぱり負けるのは悔しい。プロになれなかったのは悔しい。
清々しい気持ちがあるのと同時に、やっぱり悔しい。
これまでの努力もあって、目前で逃したプロ棋士の道を思って。
それ以上に、自分でも何故だかわからない涙が次から次に溢れてきた。
奈瀬も、そんな藤崎の様子を見てから、気がつけばもう目も当てられないくらいの大号泣をしていた。
それでも『ごめんね』とは言わずに『ありがとう』と言い合う少女たちの姿だった。
その『ありがとう』は『打ってくれてありがとう』でもあり、色々な意味を含んだ『ありがとう』だった。
「──藤崎さん」
泣きながら向き合う二人が落ち着いた頃を見計らって、伊角は声をかけた。
奈瀬に向けていた泣き顔がこちらを向いて、涙の跡の残る表情が痛々しかった。
胸が詰まるような思いで伊角は思わず言葉を切ってしまったが、藤崎は悲しそうに表情を綻ばせた。
「ごめんね、伊角さん。……再戦の約束守れなかった」
その一言に伊角は思わず自責の念に駆られた。
違う、違うんだ、と。
そう胸の内で激しく吐き捨てた。
藤崎が敗北したのを見て、一瞬でも戦わなくて済んだことに安堵してしまった自分がいた。
信じられない気持ちだった。
再戦を誓った相手が敗れて、それを一瞬でも喜んでしまった自分が、あまりにも無様で情けなかった。
自分に藤崎に謝ってもらうような資格はないと、激しい自己嫌悪が心中を覆った。
しかし、自責の念を引き出したのが藤崎の言葉だったように、その言葉を吹き飛ばしたのもまた藤崎の言葉だった。
「──伊角さんはプロ試験、合格してね。私の分まで、プロの世界で暴れてきて」
一筋の涙を流しながら。
それでも微笑んでそう言ってのけた藤崎あかりの姿に、伊角は胸を貫かれた。
この状況で相手を気遣えるその精神性は信じ難いほど大きな衝撃を伊角に与えた。
ライバルとの全力の勝負に敗れて、プロになる事が出来なかった直後。
そんな時、他ならぬ自分が藤崎のように振る舞える自信が欠片もないからこそ衝撃は大きかった。
戦わずに済んで良かったと一瞬でも考えた自分に対する自責の念。
プレーオフに勝てるかわからない不安。
あと一勝でプロになれるという浮つくような高揚感と期待感。
不安定だった多くの感情を抱えた伊角の心中は藤崎のたった一言が綺麗に押し流した。
切磋琢磨したライバルであり、共に歩んだ仲間でもある藤崎あかりの言葉を、真面目な伊角は真正面から受け止める。
受け止めざるを得ない。
それが『伊角慎一郎』だから。
目を伏せて、目頭を押さえながら伊角が頷いた。
「……ああ、オレは、藤崎さんの分まで打つよ。オレ自身の碁で、キミに恩を返す時が来るように」
道半ばで倒れた仲間の言葉を、バトンを引き継ぐようにしっかりと受け取った伊角は釣られて涙を流す。
僅かな一筋だった。
だが、その涙には様々な気持ちが含まれていた。
伊角の気持ちを阻害する、色々な感情が涙と共に流れていった。
後に残ったのは『プロになる』という強い気持ち。
メンタルさえ落ち着けば、伊角は類い稀なパフォーマンスを発揮する。
ようやく。
プレーオフを目前にして、伊角の実力を阻害する障害が全て消えた。
「──オレは、プロになる」
再戦を誓う日に、その時こそ堂々と再戦を喜べるように、固く固く心に誓った。
強くなったライバル達に負けないくらい、自分の碁も強くしてみせると。
顔を上げた伊角はそれまでとは別人のように精悍な顔つきになっていた。
プレーオフは『最終戦』が行われてすぐに実施された。
以前勝利を得た伊角が相手であることもあって門脇に緊張は少ない。
十全に実力を発揮したと言って良い。
それでも伊角はその上を行った。
実力は申し分のない伊角が全力を発揮すれば、一年間の修行を行っていない今の門脇では敵わない。
『第2戦目』とは別人のようなサエを見せた『伊角の碁』だった。
門脇は拳を握って、悔しながら血を吐くように敗北を宣言した。
「……ありません」
「ありがとうございました」
ここにプロ試験合格者三名が決定した。
『進藤ヒカル』:27戦27勝0敗(無敗)
『奈瀬明日美』:27戦26勝1敗(進藤●)
『伊角慎一郎』:28戦25勝3敗(門脇●進藤●奈瀬●)
そして、少しだけ時は巡る。
新年早々に『龍』が手ぐすねを引いて待っていた。
「──天野さん」
「ハイ?」
塔矢行洋。
言わずと知れた碁界最強の男が、鋭い真剣さすら滲ませて言葉を発した。
「新初段シリーズ、と言いましたか。例の対局は」
「え!? ──ええ! そうですが、もしや出て頂けるんですか!?」
期待に頬を高揚させて質問した天野に、塔矢行洋が厳かに頷きを返した。
その眼差しは今ここには居ない『一人の少年』を見据えている。
「その代わり相手を指名させてもらいたい。……彼と会うのは、もう二年ぶりになるか。この時をどれほど待ち侘びたことか」
ビリビリとした気迫すら伝わってきそうな双眸に、天野は生唾を飲んだ。
伝えられた対局相手に、天野はあの噂は本当だったのか、と仰天することになるが、それはまた別の話。
新年早々からビッグニュースが碁界に流れた。
口々に噂するのは、その『一人の少年』の実力を知って新しい時代を感じさせる予感に胸を弾ませる大人たち。
『塔矢行洋』vs『進藤ヒカル』
若獅子戦で名を売った少年棋士が『龍』に挑まんと、ついにその牙を衆目の場に晒す瞬間が近づいていた。
活動報告にて。