神の一手   作:風梨

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約4200字



第22話

 

 

『塔矢行洋』vs『進藤ヒカル』

 

 緒方はその一報を心待ちにしていた。

 両者との対局経験がある緒方だからこそ、より一層その至高とも呼べる対戦カードに興奮が隠せない。

 意気揚々と車を走らせて、さっそくと言わんばかりに塔矢宅にお邪魔していた。

 

 そして。

 静寂の中に威厳すら漂う、和の一室の中で緒方と塔矢行洋は碁盤を前に向き合って、パチリパチリと硬質な音を鳴らして小気味良く打ち合っていた。

 

「──驚きましたよ。まさか先生から対局を申し込むなんて」

 

「ふふ、年甲斐もなく騒いでしまったかな。すまないが、囲碁に関しては遠慮する気持ちを未だ持ち得なくてね」

 

「若々しいご様子で安心しますよ、名人塔矢行洋は安泰ですか」

 

「……さて、それはどうだろうね。勝負は始まってみなければわからない。そうだろう、緒方くん」

 

「……はは。いや、その通りです」

 

「キミやアキラから時折棋譜を見せてもらっていたが……、実に面白い子が出てきたものだ。あの日、研究会に誘えなかった事が悔やまれるほどだった」

 

「……私も、同じ気持ちです」

 

「緒方くんはいいじゃないか、私なんて二年ぶりだよ」

 

「名人に嫉妬されるとは、私も随分といい立場を得たものですね」

 

「はは、嫉妬、嫉妬か。そうだな、そうかもしれないな。……久しく覚えていない感情だったせいか、忘れていたよ」

 

「対局を、楽しみにしています」

 

「ああ、期待してくれたまえ。彼とはもう何年もの付き合いに感じるほど、その棋譜を並べさせてもらったからね。実に良い刺激になった。……逆コミとはいえ、そう簡単に白星を譲るつもりはない」

 

 凄まじさすら感じる眼光を受けて、緒方は冷や汗を流しながら応手した。

 

「……本当に、楽しみですよ」

 

 その言葉は、嘘偽りのない緒方の本心だった。

 未だ緒方ですら、連戦に連戦を重ねても一勝も奪えていない『怪物』進藤ヒカル。

 緒方の感覚では、もはや読めない領域に棲んでいる者が二人。

 

 『塔矢行洋』。

 

 そして『進藤ヒカル』。

 

 この二人が紡ぎ出す対局に、プロ棋士として血が騒がない訳がなかった。

 

 

 

 

 

 風が冷たい日だった。

 あかりの家から帰る道すがら、コートを羽織ってヒカルは帰路を歩いていた。

 スニーカーが微かな靴の音を闇夜に響かせる。

 ザリザリと音を立てる、闇と同化しているように暗いアスファルトの道路がひたすらに続いている道を歩きながら、ヒカルは佐為の言葉を聞いていた。

 

『思ったよりもあかりが元気で安心しましたね。プロ試験に落ちてしまった事は残念ですが、けれど、あかりならきっと来年は受かりますよ!』

 

「──佐為」

 

『はい、ヒカル』

 

「お前、打てよ」

 

 長らく考えて出した結論であろうことは、自分を見つめる真摯なヒカルの視線から察することが出来た。

 その言葉が意味するのはたった一つだ。

 先日電話で知らされた、『塔矢行洋』との一局。

 その対局に関する言葉だと、佐為には理解できた。

 

 佐為の中に生まれたのは、動揺という気持ちが最初だった。

 次いで不安、その後に喜びが溢れてくる。

 

 動揺はいつものように『二人』で打つものだと思っていたから。

 喜びは、碁が打てる喜びだった。

 不安は──、佐為自身もイマイチわからず、まぁいいかと喜びの感情に従って表情を明るくさせた。

 

『い、いいんですか? その、いつもみたいに打たなくって』

 

「いーよ。まぁオレも一緒に打ちたいっちゃ、そりゃ打ちたいけどさ。お前、ずっと塔矢の親父と打ちたがってたもんな、譲ってやるよ」

 

 サッパリとした笑顔を向けるヒカルに、感極まってブワッと佐為が大粒の涙を滝のように流し始めた。

 

『ひ、ひ、ヒカルぅぅぅぅ!! わ、私は、私は幸せ者ですぅぅぅ!!』

 

「おいおい、大袈裟な奴だなー。……勝てよ、佐為。逆コミなんてないくらいのつもりで、勝てよ」

 

『ぐすっ、はい……! それはもう、私はいつだって全力で打ちますよ……!!』

 

 今からメラメラと燃えるような闘志を燃やし始めた佐為に、ヒカルは苦笑しながらも足取り軽く帰路に着いた。

 これでいいんだと、そう思い込みながら。

 

 

 

 

「──えっと、一番手は進藤? しかも、相手は塔矢名人って……、進藤ってば、塔矢一家に好かれ過ぎでしょ」

 

「ははは、まぁその気持ちはオレたちにも理解出来るだろ?」

 

「うー、まぁそうなんだけどさー。なーんか釈然としないのよねー」

 

 奈瀬と伊角は日本棋院に顔を出していた。

 幽玄の間で行われる、『塔矢行洋vs進藤ヒカル』の一戦を控え室で観戦するためだった。

 

「伊角さんは、桑原本因坊とだったよね」

 

「奈瀬は一柳棋聖だろ?」

 

「そう! 今回の新初段シリーズは豪華よね、みんなタイトルホルダーが相手してくれるんだもの、滅多にないよね? こんなことって」

 

「それだけ、期待されてるのかもな。……こないだの週刊碁見たろ?」

 

「新しい時代って奴? 見たわよ、ちょっと恥ずかしかったケド」

 

 少し頬を染めながら髪を弄る奈瀬に伊角が笑った。

 

「はは、まぁ奈瀬はそうなるか。なんたって『女流の超新星』だもんな」

 

「あーもー! 思い出さないようにしてたのに! 私って、去年の今頃はウダツあがらないで唸ってたって言うのに、そんな急に持ち上げられたら恥ずかしいのなんのって……」

 

「けど、実力は本物だ。……それは、プロ試験で奈瀬と戦った全員が認めてるよ」

 

「ん、ありがと。──でも、それとこれとは話が別なのー!!」

 

 そんなことを言い合いながら二人が控え室の扉を開ければ、そこではバチバチに火花を散らせる『緒方九段』と飄々とした『桑原本因坊』が座っていた。

 

 

 

 

「──どれ、最近は随分と調子がイイみたいじゃの、緒方くん。敗戦の苦味はイイ経験になったかね? あの倉田くんにも勝つとは大したもんじゃないか」

 

「お陰様で、とお答えしたいところですが、少し違いまして。本因坊のご期待には添えなさそうですね」

 

「ほほぉ! もっといい経験を積んだか、それは上々。まぁ、それでもまだまだ若いもんには負けられんが。──緒方くんの好調にはこの小僧が関係していると見たが……、その表情を見るに正解か。ふぉっふぉっ」

 

「相変わらずの察しの良さですね」

 

『妖怪ジジイ』という副音声が聞こえてきそうな声音で緒方が答えれば、また楽しそうに桑原が笑った。

 

「ふぉっふぉっ、わしのシックスセンスも捨てたもんじゃなかろう? ……まぁ今一番気になるのは、あの小僧だが」

 

 それまでとは打って変わって、真剣な眼差しでここではないどこか。

 恐らくは幽玄の間を思い描いているであろう視線を感じて、緒方はタバコを取り出しながら頷いた。

 

「……同感ですね」

 

「これ、緒方くん。そんなアメしゃぶってどうする。こっちにしたまえ」

 

「結構」

 

「ふぉっふぉっ」

 

 

 

 そんな会話を尻目に奈瀬と伊角は既に入室していて、トップ棋士の二人が居る事に驚きながら隅に移動してコソコソと話し合っていた。

 

「……やっぱり、進藤って只者じゃないわね、普通あの二人が観にくる!? 緒方九段は別としてだけどさ」

 

「まぁ進藤が只者じゃないっていうのは以前からわかっていたことだが、緒方九段はやっぱり進藤に注目してるんだな」

 

「そりゃそうよ! だって……」

 

 そこで奈瀬が言葉を区切ったのは、言うな、という無言の圧力を背後の緒方から感じたからだった。

 咄嗟の機転で思いついた記憶を口走った。

 

「だって、回らないお寿司奢るくらいだもんねぇ!」

 

「……オレ、それ知らないんだけど」

 

 少し寂しそうにした伊角が居たが、被害はそれだけに収まって、二人のトップ棋士は会話を続けた。

 

 

 

 

「……キミや名人が気にかけているところを見るに、やはり只者ではないな、あの小僧」

 

「……どこかで会ったことがお有りで?」

 

「いんや。若獅子戦で優勝した院生がいると、チラッと見た時に只ならぬ気配を……。そう、背筋がゾクゾクとするほどのモノを感じて、な」

 

「ふっ、そうですか」

 

「おや、緒方くんは随分と詳しそうじゃないか。自慢ついでに、あの小僧の事をこの老骨に教えてくれんかね。ん?」

 

「……始まれば、嫌でもわかりますよ。私と名人が注目する理由がね」

 

「ふぉっふぉっ、それもそうか」

 

 そんな会話の節目で新しい人物が顔を見せた。

 この場にいるのに最もふさわしいと言えそうな人物。

 塔矢アキラだった。

 

「え、っと。緒方さんに、桑原先生?」

 

「あ、塔矢くん。こっち来て、ホラホラ」

 

「奈瀬さん。こんにちは」

 

 落ち着いた様子で挨拶するアキラに、桑原が興味深そうに問い掛けた。

 

「キミは確か、名人の息子だったかな?」

 

「はい。桑原先生、はじめまして。塔矢アキラと言います」

 

 礼儀正しくお辞儀したアキラに桑原が続けた。

 

「キミは確か、若獅子戦で小僧とやり合った……んだったかな? ふぉっふぉっ、ライバルの視察というわけか、感心感心。緒方くんもこれくらいの熱心さがあれば、わしから本因坊を奪えたかもしれんの」

 

「随分と話を蒸し返しますね」

 

「おや、気に障ったかね?」

 

「とんでもありませんよ、『本因坊』」

 

「ふぉっふぉっ、これこれ、年寄りを興奮させるもんでないわ。つい、イジらしくて『笑って』しもうた」

 

「ははは」

 

「ふぉっふぉっ」

 

 まるで狐と狸の化かし合いを見るかのような光景に、さすがにアキラも少し困って表情を苦笑いに変えていた。

 

 

 

 

「──進藤くん」

 

「……はい」

 

 

 幽玄の間に移動する最中の会話だった。

 廊下を通って、一室に入る前の軽い会話。

 塔矢行洋は落ち着いた声音で、長らく待った邂逅を経ていつもより少し軽くなった口で言葉を続けた。

 

「私が言えた義理ではないかもしれないが、キミは二年前から随分と成長したようだ。……今日の一戦は、実は私からキミを指名させてもらったんだよ」

 

「……!」

 

「アキラと緒方くんが世話になっているようだね。……あの子には良い刺激になっただろう。緒方くんも、最近の調子を見るにアキラと同じだろうね。果たして私がどうなるのか、少し興味があるが。──何より、キミの力を知りたい」

 

 幽玄の間の前に辿り着いた。

 澄んだ風が身体を吹きつける。

 場の雰囲気が、神聖さすら感じさせる威厳に満ち溢れている。

 

 真剣勝負の場。

 本来ならば、重要なタイトル戦などでしか使用が許されない一室。

 

 そんな厳かな雰囲気の只中でそう告げた塔矢行洋は、返事を待たずに碁盤の前へと足を進めた。

 

 ──さァ今すぐに打とう。

 

 そんな言葉にならない意志がヒカルの身体を打った。

 ブルリと武者震いが身体を通過して指先までを温めた。

 

 (うずたか)く積み上げられた歴史。

 その最前列に加わる心地で、ヒカルは対面に腰掛けた。

 

 盤を挟んで向かいには塔矢行洋が座っている。

 鋭い眼光が正対するヒカルを見据えている。倒すべき強者として、見据えている。

 

 ようやく。

 待ちに待った最高位の戦いの幕が上がろうとしていた。

 

 

 






予定では、あと2話か、3話で完結します。
もうしばらくお付き合いくださいませ。

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