幕が上がる前に、両者は盤面を挟んで向かい合う。
張り詰めた空気を感じる。
ヒカルはそんな中で、どうするか、少しだけ迷っていた。
佐為は強い。
それは誰よりもヒカルが知るところだ。
これまでの経験を通じて、塔矢行洋に勝るとも劣らないと確信している。
それこそ半目差を競い合うほどの激戦になると、漠然とした感覚で理解できた。
だからこそ惜しい。
この戦いが逆コミという、大きすぎるハンデを塔矢行洋が背負わなければならない事実があまりにも惜しい。
プロとなってからも負けるつもりはない。
タイトル戦の予選から勝ち上がれば、二年後には互先で対局できるだろう。
だがもっと早くに実現できるのに、この状況を甘んじて受け入れるのか。
今日この日、この幽玄の間で対局が出来るというのに、それを逆コミというハンデを含んだ状況で打つのか。
せっかくの機会を逃しても良いのか。
ヒカルは迷いながらチラリと背後を仰ぎみた。
そこには真っ直ぐに好敵手を見据える、ヒカルの知る中で最強の棋士の姿があった。
覇気の溢れる表情で微笑む佐為の姿があった。
それを目にして、ヒカルは少し微笑んだ。
迷うまでもなかったな、と。
「名人。あの、少しお願いがあります」
「……何かね? 言ってみなさい」
「オレと、互先で打ってもらえませんか」
その一言は周囲の静寂に溶けた。
記録席に腰掛ける天野や、女流の棋士の発する『この子は何を言っているんだ』という静寂だった。
「それは、この場で、という意味か。それとも場を設けてほしい、という事かな」
「今です。今、この場所で、互先で打ってくれませんか」
「し、進藤くん!?」
ようやく事態を把握した天野が声を荒げたが、塔矢行洋はスッと手を上げて天野を下がらせた。
落ち着きを払った声音でヒカルの要望に応えた。
「──いいだろう」
「「先生!!?」」
「だが、他の者たちへの示しをつけるためにも、こうした記念戦でのルールを変えることは難しい。公式にはキミが逆コミを持った状態での棋譜として残るが、それで構わないね?」
「……ッ!! はい!」
天野がそれを聞いて思ったのは、卑怯にも確実に勝とうとしている、という思いだった。
囲碁は1目を争う戦いだ。地を広げるにも、相手の地を削るにも、リスクを冒して攻めなければ実現しない。
進藤ヒカルの実力は天野もよく知るところだ。あの塔矢アキラを相手に見せた、若獅子戦での対局は記憶に新しい。
そんな進藤ヒカルと塔矢行洋が、逆コミでぶつかり合えば十分にいい勝負になると思っている。
だからこそ今の提案は受け入れられない。名人が互先として打てば、名人は恐らく1目〜3目の有利を保った状態での終局を目指すだろう。そうなれば、例え名人が狙い通りの勝利を遂げたとしても、記録上では逆コミが加算されて進藤ヒカルの勝利として記録される。ヒカルの発言の意図を、なんとしても勝とうとしていると誤認した。
「キミねぇ!? 記録だけでも名人に勝ちたい気持ちはわかるが、そんな提案は失礼だよ!?」
「オレ、負ける気はないです。互先でも」
気迫の篭ったその一言に天野は黙った。
言葉にというよりも、進藤ヒカルから発せられる迫力に押されて口をつぐまざるを得なかった。
だがあまりにも常識を脱した提案だ。
それでもヒカルが意志を変えるつもりはないとみて、代わりに天野は塔矢行洋に向かって苦言を呈した。
「名人……。公式記録では、逆コミとして残りますよ? そこはどうしても変えられません」
「無論だとも。私は一向に構わない。……この少年と、進藤くんと本気の対局が出来るならば」
その程度安いものだと言わんばかりに塔矢行洋は表情を緩ませた。
「キミには以前迷惑を掛けてしまった。少し遅れてしまったが、その代わりとでも思ってほしい。キミに侮りの言葉を投げ、そして敗北を喫した事実を前には軽いだろうが、せめてもの償いだよ」
「ま、負けた? 名人が?」
「そ、そういえば噂で聞いたことが……。当時小学生の少年に名人が中押しで負けたとか、何とか」
天野と女流棋士の視線がヒカルに集中した。
その中で堂々と、ヒカルは縦に頷いた。
「オレ、前みたいに勝つ気しかないです」
「き、キミねぇ!? いくら何でも名人に対して失礼すぎるよ!!」
「いや、構わない。彼にはそれを言うだけの権利も、実力もある。……キミたちには、彼の発言はタイトル戦での舌戦とでも思ってくれればいい。私の発言に関してもね。リップサービスと言ったかな」
「いや、先生。確かに進藤くんは実績もありますが、タイトル戦って、新初段相手に何を仰るのか……」
静かに、塔矢行洋は続けた。
「私はこうも思うのだよ。彼がこういう言葉を使うのも、必要だからではなかろうか、とね。万が一にも私が全力を出さない、などという可能性を排除しようとする意志を感じる。……安心したまえ、進藤くん。キミとの対局を願ってから、いや。キミとの敗戦を経てから、一度たりとも私はキミを侮ったことなどない。──名人として、全力で打たせてもらおう」
塔矢行洋。
五冠を誇る、日本が産んだ世界にも通用する最高位の碁打ちである。
そんな彼が新初段に対して、一切容赦しないという宣言を行う。
それがどれほどの異常事態であるのか、理解できない者はこの場には居ない。
舞台は進められる。
対局は既定路線である。
誰が何を言おうが、この対局は行われる。
進藤ヒカルは──いや。
藤原佐為は、ヒカルの背に立ちながら只ならぬ気配を漂わせる。
この時代において、自らに迫り得る者との、待ちに待った対局。
それも当初の逆コミではなく、互先での本気での勝負。その事実に昂らない訳がない。
『ヒカル。あなたに深く、深く感謝します。これまでもですが、今日ここに至れたのはあなたが共に居てくれたからこそ。本当にありがとうございます』
(そういうのは、勝ってからでもいいんじゃないか? ……魅せてくれよ、佐為)
『ええ、必ずや。ご期待に応えてみせましょう』
そこでふと、佐為は違和感を感じた。
ヒカルを上位に置くことに否はない。恩を考えれば足りないほどだ。
そこではなく、もっと根本的な部分での違和感。
まるで何かが足りないと感じるような不思議な心地。
ふと塔矢行洋から視線を外して、ヒカルに視線を下ろした。
そこに座る、未だ年若い愛おしさすら感じる少年の姿を視界に収めて。
ああ、そうか、と佐為は微笑みを浮かべた。
不足していたものがわかった。
以前に感じた『不安』の正体も理解できた。
『……ふふ、いえ。違いますね。共に行きましょう、ヒカル』
(……佐為?)
『──私だけで打っても良いというヒカルの提案はとても嬉しく思いました。それは本心です。しかし、それでは物足りなくなってしまったようです。幾つもの対局を経て、私とヒカルは共に進んできました。成長を、糧を、目標を共有してきました』
再び佐為は目の前の碁盤を見据えた。
その先に腰掛ける好敵手の姿も見える。
素晴らしい一局が待ち受けているだろう。
心躍る戦いがそこにはあるだろう。
自分一人だけで打つ選択肢も、ある。
けれど。
何よりも碁が大好きな佐為だったが、ほんの少しだけ、現世で過ごす中で変化していた。
ヒカルと共に生きる中で、僅かばかりの変化を迎えていた。
囲碁が好きだ。その気持ちに微塵も偽りはない。
それは今までと変わらないけれど、少し、その中に少しだけ新しい存在が加わっていた。
進藤ヒカル。
目の前の一局も良い。心が惹かれる気持ちに嘘はつけない。
けれど、灯に惹かれながらも佐為は足を止めて振り返る。
ヒカルと共に生きたい。
共に『神の一手』を、目指したい。
確信的なその想いを抱いてしまったからには、無視する事など出来るはずがなかった。
囲碁も大好きだが、ヒカルのこともまた、大好きだから。
これがあらゆる意味での最善手。
『……既に私とヒカルは一心同体。表裏一体とも呼べる間柄ですから、どちらかが欠けては辿り着けないでしょう。──共に行きましょう、ヒカル』
神の一手を求める、その道を共に。
言葉にはならぬ思いを胸に秘めて、ヒカルに思いが伝播した。
驚きながらも、ヒカルは嬉しげに頷いて黒石を握る。
何の不安もない全能感がヒカルの全身を柔らかく包み込んでいた。
佐為が示すように、ヒカルが思うように最善の一手は追求される。
カチリと互いの歯車が噛み合い──
『『右上スミ 小目』』
二人の