本日2話投稿の1話目
『塔矢行洋vs進藤ヒカル』
最高峰の戦いであってもルールは変わらない。
囲碁とは交互に打ち合い、地を競い合う戦いだ。
故に右上隅から始まったこの最高峰の対局も例に漏れず、互いに四隅を取るところから始まった。
左上に○。右上に●。
左下に●。右下に○。
対角線上に互いの石が配置される至ってスタンダードな配置だった。
そして、進藤ヒカルの第3手目。
──盤面が動いた。
戦いが待ちきれないとばかりに、左上隅にある白石に対してボウシ(中央方向から被せるような手)の一手をヒカルが放ったが、牽制も込めた一手は互いに睨み合うような距離感で数手を打ち合うに留まって、戦いには発展せずに双方ともに手を引いた。
この二人は実質の初戦と言ってもいい。
互いに棋譜を知っているが、盤面で向き合い、鎬を削り合うからこそ見えてくるモノがある。実践で得る情報量は桁が違う。
両者ともにその力量は最高峰。
故に見えるレベルもその水準である。
僅か三手の邂逅で、互いに互いの力量をほぼ正確に把握し合う。
そこで感じ取ったイメージは双方共に似通っていた。
つまり、好敵手であるという確信である。
塔矢行洋はその確信を胸に秘めながら独白を続けた。
(……棋譜から、彼のことは知っているつもりだった。しかし、やはり向かい合わねば見えないものもある。──特に、この気迫だ。まるで古豪と向き合ったかのような威圧感。弱冠14歳の少年が、これほどの迫力を滲ませるとは)
手を重ねながら、塔矢行洋の視線は正面を向いていた。
足を崩して胡座をかいている少年は真剣な眼差しで盤面を見据えている。
淀みのない手付きは風格すら感じさせる。小さな筈の身体が異様な程に大きく見える。
思わず少しだけ口角を上げた。
(相手にとって不足なし。だが、想像だけで相手を大きくしてしまうなど、私らしくもない。……それだけ、期待してしまっているのかもしれないな)
単に大きく見えているだけなのか。
それとも大きくあって欲しいという願望が反映されたが故なのか。
それを確かめるべく『最高の棋士』は勝負を仕掛ける。
塔矢行洋の握る白石が盤面に鋭く切り込んだ。
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左| ●
辺|
||
|
| ○←
| ●
| ●
|
─────────
ー左下隅ー ー下辺ー
『ヒカル』
(ああ、さすが塔矢の親父。良いとこ打ってくる)
思わず佐為とヒカルは手を止めた。
打ち込まれた場所は、左下隅。
それも、黒石が3つ連携し合って厚みがある場所に、ここしかないというタイミングで打ち込んできた。
『二人』のヨミでも、この先は未知数。
手順があまりにも多いため、終局図を予想することは不可能だ。
それでもある程度の予想は付けられる。
(左辺に侵入するつもりか、下辺に圧力を掛けながら活路を探るつもりか……)
『序盤によくある一手ですね。二者択一の選択を相手に委ねる手ですが、かの者ならどちらでも構わないと考えているでしょう』
(んだな、オレたちもよくやるもん)
入り込んだ場所が良い。
この位置なら地合いを作れる余地がありながら、二辺に圧力も掛けられる。
とはいえ、注目すべきはここからだ。
この後の複雑な手順を
どのように対処するか、迷うところだったが。
無言で意思疎通した二人は上辺を守るため塞ぎに掛かる。
当然その後には下辺に攻め入るべく白石が伸びてくる。
その対処をつつがなく行いつつ、左下隅は黒石と白石が交錯し合う。
||
左| ●
辺|
|| ●
|
| ○●←
| ○● ●
| ●●○○
|
─────────
ー左下隅ー ー下辺ー
中々見られない石の形を形成しつつ、互いの石は分岐した。
左辺に近い白石二つは孤立しているが、そこから『白番』は一間に飛んで左辺の黒石に付ける。
黒は白石を殺すために動けば左辺に嫌な形で侵入される。
それを嫌って
その後も中央に伸びる姿勢を見せた後に、再び左下隅に入り込む動きを見せる白石。
攻守のバランスの良い碁で塔矢行洋は盤面を進めていく。
左辺を守りながらも、下辺に侵入されない打ちまわしで容易に荒らさせず、地合いを守る。
それでも幾らかは削られるが、戦況は拮抗していた。
そのまま幾つかの手を左下隅で応手を繰り返し、そして盤面が展開する。
隙を見て置いてあった右上隅の『白石』が脈動を始める。
それを見て位置の関係上として、このまま上辺を維持することは難しいと判断。
ー上辺ー ー右上隅ー
────────────
|
○ |
● |
○● |
○ |
○● |
○● |
●← |
縦に伸ばす石を追いかける基準は人によって異なるが、塔矢行洋はある程度の白の厚みを形成した後に上辺を強めるべく手を変えた。
上辺星付近に布石を打ち、これによって白は左上隅、上辺星、右下角と地合いを作るための三角形を形成する。
入り込むなら、今しかない。
荒らしとはタイミングが肝要である。
即座に咎める一手を白陣地に打ち込み、乱戦が始まった。
ー上辺ー ー右上隅ー
────────────
|
○ ●← ○ |
○ ● |
○● |
○ |
○● |
○● |
● |
入り込んできた黒石の逃げ場を無くすように、塔矢行洋はさらにボウシで黒石に被せる。
これで黒石が生きる道は乱戦しかなくなるが、これを望んでいたと言わんばかりに
複雑な石の絡み合いに、もはや余人が入り込む余地がない。
ー上辺ー ー右上隅ー
────────────
● ●○ |
○ ○○● ●→●○ |
○● ●○ ● |
○○ ○● |
○ |
○● |
○● |
● |
コウ争いと呼ばれる戦いがある。
(『コウ』とは→●のように互いに『当たり』になっており次の手で取ることができるが、ルール上取られてすぐの石は取り返すことが出来ない。そのために生まれる一種の膠着状態)
互先の一局では石一つが戦況を左右する。しかし、地合いもそれ以上に重要である。
そのため石は取りたいが、それ以上に打たれてはマズい場所を探して重箱の隅を突くように牽制して、石を取られては取り返す、という根気のいる勝負の事である。
そして、コウにはもう一つ意味がある。
それがコウ弾きと呼ばれる戦略であり、通常であれば殺されかねない石もこの形に持ち込めば生き残る事ができる。
が、今回の形はそれとも異なる。
死路が幾重にも見えるほど危険な状態になりながら、それでも生きている。
常人には理解不能な鬩ぎ合いを行って、ギリギリのところでバランスを取っている状態。
──死線を見切って打つような碁である。
踏み込み、相手の懐に飛び込んだヒカルの頬を塔矢行洋の刀が撫でる。
薄皮一枚を切り裂かれながらも止まらず、ヒカルは刀を振るうが、塔矢行洋は足を入れ替えて決死の攻撃を避ける。
しかし踏み込んだヒカルが立つ場所は死地だ。
気を整えて正眼に構える塔矢行洋の連撃が襲い掛かり、しかし覚悟していたヒカルはその全ての致命傷をすんでのところで避け切る。
が、それすら見越した塔矢行洋の会心の一撃が見舞われる。
甲高い、刀が奏でる快音が鳴り響いた。
鍔が競り合っている。
刀身ではなく、鍔で斬り合うような至近距離で向かい合っている。
両者ともに不敵な笑みを浮かべ合い、尚も激しく斬り合い続ける。
まさしく死闘。
踊るように、しかし確実に相手の命脈を削るべく心血を注ぐ真剣勝負がそこにはある。
そして塔矢行洋が新たな一手を仕掛ける。
左辺に位置する黒地。
そこに放り込む一手だった。
コウダテ(コウを取るために牽制する一手)として放り込まれた手ではあるが、『二人』の思考は手拍子で受けるのではない方向に飛躍した。
お互い阿吽の呼吸で理解する。
二人の心が一つになる。
お互いの打ちたい手を理解して、語らずとも、ヒカルの碁の中には佐為が。佐為の碁の中にはヒカルがいる。
言葉など無粋であるとばかりに以心伝心する二人の思考は直結している。
もはやどちらが思い付いた発想であるのかも判らない程に溶け合っているけれど、そこに不快感はない。透き通った思考がひたすらに最善を追求していた。
『……ヒカル』
(ああ、『左辺を捨てる』)
あまりにも大胆な戦略だった。
ほぼ確定地と言って良い30目ほどの地を捨てる判断。
しかし『二人』のヨミではその方が勝率が高くなった。
手数は僅かに70手目。
その時点で、脳裏に終局図のパターンがほとんど浮かび上がっていた。
盤面で言えば序盤を脱して中盤に差し掛かった辺りである。
尋常ではない思考の飛躍だった。
『ここを捨てれば、かの者は取るために必ず隙が生まれるでしょう。それを突けば、確実に有利を取れる。……しかし、ヨミ誤れば奈落への一本道』
例えるならそれは、奈落に架かる一本のロープの上を進むが如き難題。加えて相手はただの打ち手ではない。最高の棋士である塔矢行洋である。
勇気を通り越して無謀であるほどの挑戦に、ヒカルと佐為は挑まんとしていた。
(見えちまったら、試さずには居られない。──それが、『神の一手』に近づく唯一の道だろ?)
それでもなお、ヒカルと佐為は笑みを浮かべている。
挑戦出来る事が何と心躍ることか。
無謀に近い挑戦ではある、しかし。
打ち手は『最強の棋士』
佐為はゾッとするほど妖艶な笑みを浮かべていた。
『ええ、私たちなら、この細い光明すら辿れるでしょう。行きましょう、ヒカル』
(ああ。行こう、佐為)
もっと、もっと先へ。
遥かな先に見える一手を目指すため、二人は歩みを止めるつもりは毛頭なかった。
──ヒカルの才能は成長を続けていた。
塔矢アキラとの中学囲碁大会での一局から始まり、『sai』としての対局。
『sai』として、再びの塔矢アキラと対局。
若獅子戦でのプロたちとの真剣勝負。
緒方との心躍る対局。
プロを目指す卵たちから受ける挑戦心溢れる対局。
そして今日この日の塔矢行洋との一戦。
全てが大いなる糧となった。
それはヒカルのみならず、佐為にも大きな影響を与える。
現代の定石を学び得て、最善の一手を追求する日々。
虎次郎に勝るとも劣らない才能ある若人が、進んで自らに打たせてくれる幸福を噛み締める日々。
弟子を持って育てる日々。
共に打つようになって、どんどんと成長するヒカル。
互いに強い影響を与え合う。
『本来』の二人の関係であったのなら。
佐為のあらゆる累積はヒカルに『吸収』される運命にあった。
次代に繋ぐため、神が与えた己の使命が『ヒカルに遺す事』だと気がつき、佐為は己の天命を知った故に消えた。
だが運命のイタズラか、そうなってしまう余地は消えた。
ヒカルは『吸収』しながらも、それだけに止まらず佐為にも与える道を選んだ。
与えるだけであった『藤原佐為』という人物に、ヒカルは受け取るだけでなくあらゆるモノを還元した。
さながら『二人』の間で尽きぬ水が回るように。
与えては与えられ、いつしか循環する流れが出来上がっていた。
流れは『縁』と『円』を強固にする。それは運命すら打ち砕く力となった。
奇跡とも必然とも呼べる二人の関係性は新たな怪物を生み出した。
無限の竜は尾を噛み合う。
際限なくどこまでも、果てなく高め合う竜の誕生だった。
当然のように塔矢行洋も異変に気がついた。
しかし何を狙っているか、さすがの塔矢行洋を以ってしても読めない。知る由もないがそれほど常軌を逸した戦略である。
左辺を取った塔矢行洋としては十分に有利と言っていい状況である筈なのに、意図が読めないため不気味な展開だった。
だが譲られた左辺を取らない選択肢はない。
釈然としない面持ちで警戒しつつ、シッカリと地合いを固めながら、塔矢行洋は盤面を進めてゆく。
(……今の展開であれば、常道ならば左辺を守る。だが、進藤くんはあえて守らず右上隅に数手を重ねた。……私が有利となった筈だ。だが、なんだこの漠然とした不安感は。足元が揺らいでいくような感覚。……これが目的か? いや、何かを狙っているのは間違いない)
そんなハッタリをかます人物ではない事は、これまでに得た棋譜と対面から伝わる圧力から重々把握している。
故にその思考は盤面を探る。
しかし、どう考えても左辺を取る方が大きい。
まるでその意図が読めなかった。
(……だからといって、打つ手を緩める訳にも行くまい)
より一層の警戒と覇気を漲らせて、塔矢行洋は打ち続ける。
そして、謎が解けたのは中盤の中頃だった。
中央に進出した黒石を追いかける中で、思わず手を止める。
(……こ、れは)
ゾワゾワとした衝撃が足元から這い上がってくる心地だった。
読めば読むほど、そうとしか思えない。
左辺から右下隅に向けて中央を横断するかのように黒石が伸びている。
それだけなら良い。
だが、結果として伸びた先にあるのは右下隅の地合いであり、黒石が繋がればここまでに作り上げた地合いが削り取られると理解した。
(……これを見越していたと考える方が自然。だが、それでもまだ私の方が有利。中央を潰されたが、それは進藤くんも同じ事だ。両者ともに地合いを中央で作るのは難しい。……まだ、何かあるというのか?)
確かに素晴らしいうち回しだ。だがそれだけである。未だ塔矢行洋の有利は揺らがない。
読みながら塔矢行洋は手を打ち続ける。
そして冷や汗を垂らした。
徐々に、徐々に全貌が明らかになっていく。
(右辺にも、左辺から伸びた黒石が邪魔をしてくるか。だが、私もタダでやられる訳にはいかん)
打ち続ける塔矢行洋の地合いをジワリジワリと黒石が削り取っていく。
右辺での乱戦は厳しく、ほとんどの地合いを残せない。
厳しい表情で見据えるが、まだ左上隅と左辺がまるまる白地として残っている。
そう思い、視線を向ければ。
左辺を捨てる判断。
その目的がようやく、ようやく明らかになった。
満を持して、
その一手を見た瞬間に塔矢行洋の直感が告げた。
妙手だ、と。
同時にこれまでの進藤ヒカルが打ち続けた布石を理解した。
(……左辺を捨てる事で、四方中央全てを荒らす……判断……?)
凄まじい脈動だった。
荒らしを意識して読めば、なるほどこの形を作りたかったのだと理解できる。
しかし、それを、30目の地合いを捨ててまで挑むかと言われれば到底理解出来る筈がない。
あまりにもリスクが高すぎる。
バランスを重視する塔矢行洋からすれば、攻めに特化しすぎていると首を横に降らざるを得ない危険な碁。
だが実際に自分は罠を仕掛けられ、気づく事もなくここまで打たされた。
そう、打たされたのだ。完全に術中にハマっている。
(なんという、ヨミだ。あの時点でここまでの局面が見えていた、と……?)
信じ難い事実。
しかし、目の前の盤面がそれを否応なく証明している。
ここからの巻き返しが果たして可能であるか、塔矢行洋の脳裏は目まぐるしい程に思考を続ける。
手を止めて冷や汗を流す塔矢行洋を、脇で見る女流棋士と天野は不思議そうに首を傾げていた。
「──何かに気がついたか」
「……何か、ですか」
「ふぉっふぉっ、さァて、当事者にしか見えないモノがあるのが真剣勝負。観戦者の立場では、このワシにもわからん。……が、あの小僧が捨てた左辺の地合いはあまりにも不可解。何かカラクリがあると見るが、どうかね? 緒方くん」
鼻を鳴らしながら、緒方は指を組んだ。
「奴は、進藤は無駄な事をする奴じゃありませんよ」
「ふぉっふぉっ、であれば。そのカラクリに名人が気がついたと考えるのが自然。……さて、ワシらも頭を捻ろうか」
「……ええ、それが良いでしょうね」
気がつけなかった自分に苛立つようにそう述べる緒方に、再び可笑しげに笑う桑原の姿。
そんなトッププロの姿を見ながら、その隅で新人プロたちがここまでの流れをお浚いしていた。
奈瀬が考え込むように唇を指で押さえて言った。
「──じゃあさ、進藤が左辺を捨てて中央を取ろうとしてて、それを名人が防いで、進藤大ピンチって流れじゃないって事?」
奈瀬の質問は的を射ているように思える。
だが、それでは説明が付かないと塔矢アキラは首を振る。
「わからない。だけど、あの進藤がわざわざ左辺を捨ててまで挑んだ事が、中央を取る程度の些事だとはどうしても思えないんだ」
「それは、そりゃあ私もそう思うけど、相手は塔矢名人だし。さすがの進藤も苦戦してるんじゃない?」
「……それはないよ。ボクが思うに、進藤と父さんは互角だ。苦戦というよりも接戦になる筈だった。なのに、盤面は父さんの有利一色だ。それもポカなんかじゃなくワザとそうしたようにすら感じる。絶対に、絶対に何かあるんだ」
固く信じるようにそう告げた塔矢アキラの姿に、伊角と奈瀬は顔を見合わせて頷き合った。
「だよね、よしっ! 絶対に私たちの力で気づいてやるんだから!」
「ああ、俺も協力する。……右上隅を安定させようとしているとか、どうだろう? 左辺を捨ててからまず打ったのはここだったろ?」
「それはボクも考えましたが、あまりにも複雑に絡み合いすぎていますから、あの数手で安定するとは思えません。断点(石と石を切る事ができる点。急所に成り得る)があまりにも多すぎますから」
観戦する天野たちも、トッププロたちも、若い棋士たちも、誰も気がつけない。
理解し苦悩するのは名人塔矢行洋のみ。
あまりにも高度すぎる戦略。
それは『捨てた左辺から伸びる逃げた黒石』が、盤面全てを支配する尋常ではない打ちまわしだった。
囲碁とは地合いを競うゲームである。
基本的に必要となるのは目と呼ばれる地であり、これを競い合う。
これを作らせないように打つのが荒らしと呼ばれる行為である。
丁寧にそれとない打ち方で誤魔化す。狙いは中央にあると見せかける。コウ争いを仕掛けて、四隅をバラバラに攻めても不自然でない形を作り上げる。
その結果として塔矢行洋は致命一歩手前になるまで、違和感を覚えながらもこの戦略に気が付くことが出来なかった。
圧倒的なヨミ。
それに付随する大胆な発想力。発想を現実と成す理不尽な程の棋力。
机上の空論とでも呼べる発想を、今ここに
残る白の地合いは右下隅と左上隅。
その両隅は黒石に両断の王手を掛けられていた。
目に見える形になるまでは、さらに数十手を重ねる必要がある。
だが塔矢行洋には既にその盤面が見えている。厳しげに顔を絞らせ、腕を組みながら、真剣な眼差しで活路を探し続ける。
結論としては、左上隅のみならばまだ守ることができる。
左辺を重視した考え方から厚みを増していたことが不幸中の幸いと言えた。
だがそれでも5目以上は削り取られる。
中央で地合いを稼ぐ事は出来ない。
完全に黒石と白石がぶつかり合って、硬直状態となっている。
これを殺す事は不可能。
左下隅に黒地はあるが、そこは既に荒らしを仕掛けて防がれてしまっている。
ここからさらに大きく削るのは不可能だ。
二つあったコウも既に解消されている。そこから有利を持ってくる事も難しい。
ならば残る選択肢は『右上隅』にある黒地を中盤の今から荒らしに入るしかない。『左辺を捨てたと同時に進藤ヒカルが数手を重ねた黒地』を白地を削られるのと同等に削るしかない。
あまりにも不利な遅すぎる選択だが、それしか活路がなかった。
圧倒的な優勢はもはや見る影もない。
塔矢行洋の目には足りぬ地合いが見えている。
不足しているのは二目半という小さな数字。
しかし、それが途方もなく遠い。
あまりにも、遠い。
だが厳しい戦いに身を投じてこそ、『神の一手』に近づくと塔矢行洋が誰よりもそれをよく知っている。
座るのは『五冠』の棋士ではなかった。
『挑戦者』塔矢行洋が燃えるような闘志を宿して最後の最後まで足掻いてみせると言わんばかりに力強い一手を盤面に放った。
熾烈な戦いだった。
手に汗握るような攻めを、あの塔矢行洋が見せている。
観戦する者たち全員が驚く中で、その理由を探って、数十手後にようやく理解する。
それほどの戦略を仕掛けた進藤ヒカルに慄くと共に、抗い続ける塔矢行洋の姿に自らを重ねる。
しかし
荒らしと地合いのバランスが絶妙だった。塔矢行洋が渾身の一手を打てば、それを跳ね返すように同等の一手を返答する。
詰めては離され、詰めては離される苦しい展開。
それでも塔矢行洋は諦めない。
完全にヨセに入るまで決して諦める事なく打ち続けた。
そして記念戦であるからか、敗北を悟っても塔矢行洋は打ち続ける。
その敗北を胸に刻むように一手一手を丁寧に重ねた。
『塔矢行洋vs進藤ヒカル』
その軍配は『進藤ヒカル』に上がった。
互先としては半目の勝利。
逆コミとしては11目差を付けての勝利だった。
あまりにも遠い『二目半』を限界にまで詰め寄ったその勇姿は知る人ぞ知る名局として残る事となる。
時は流れて、紙面に載せられるのは先日の新初段シリーズの結末だった。
数多の碁打ち達がそれを見て仰天して、棋譜はないのかと探し求める。
週間碁に載せられた棋譜を見て、誰もが驚愕の表情を浮かべた。
『──『五冠』塔矢行洋、大差で新初段シリーズ敗れる。囲碁の塔矢行洋名人(十段・天元・王座・碁聖)に進藤ヒカル新初段(暫定)が挑戦していた新初段シリーズは1月10日午前九時半から、日本棋院・幽玄の間で打たれ、同日午後十三時二十四分、292手までで進藤が11目(逆コミ5目半)の差で勝利した。『五冠』が新初段に敗れるという前代未聞の一件ではあるものの、逆コミであることを配慮すれば『五冠』が新初段に花を持たせたとも──』
そしてさらに時は流れて4月。
免状を授与されて『最強の初段』が誕生する。
誰もが感じる時代の流れを背負い牽引する者として、その名は碁界を賑わせる。
既にプロとなった者も、そしてまだプロではない少年少女たちも。
若き才能達が芽吹いてゆく。
それを待ち受けるのは老練な『本因坊』か。
タイトルを虎視眈々と狙う『九段』か。
塔矢門下に負けるものかと気炎を吐く『九段』か。
直感で碁を打つぽっちゃりとした『六段』か。
お喋りで陽気な『棋聖』か。
はたまた敗北を身に刻んで、大火の如き闘志を宿した『五冠』か。
あるいは島国の外に目を向けるのか。
そんな大人たちも、子供たちも。
囲碁に携わる者たちは否応なくその名を知ることになるだろう。
現代に蘇った『最強の棋士』の名と共に。
『本因坊秀策』の生まれ変わりを名乗る少年。
『神の一手』に、最も近いその者の名は。
──『