神の一手   作:風梨

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約4500字



第4話

 

 

(この一手も、この一手も)

 

 ヒカルが棋院の全国子供囲碁大会で怒られて、あかりと帰宅している最中のこと。

 つい先日、ヒカルに完膚なきまでに敗北した少年──塔矢アキラは、今日もまたこれまでに何度も並べている前回の棋譜を並べ直していた。

 

(まるで指導碁だ。……彼は、小学6年生だと言っていた。ボクと同い年……。これが彼の実力? いや、そんなハズがない。そんな子供いるワケがない。けれど、この対局がそれを否定する……。わからない。さっぱりわからない。……『本因坊秀策』か。彼はそう言っていたけど、まさか本当に……)

 

「アキラくん」

 

 思考の迷路に迷い込んだアキラを止めるように、碁会所の受付のお姉さんである市河が話しかけた。

 

「広瀬さんが指導碁をお願いしにみえてるんだけど、どうかな?」

「あ、ムリにとは」

 

 碁会所に入ってきた当初は指導碁をしてもらいたい意欲満々だった中年男性の広瀬だったが、真剣に、そして深刻そうに盤面を見つめるアキラの姿を見て、さすがに気を遣ってそう言った。

 

「……スミマセンが……」

 

 アキラは少し間を空けてそう答えた。

 それがよりアキラの内面の深刻さを市河に伝えた。

 

「アキラくん、あの子を待ってるの? 名前しかわからないから、ここで待つしかないものね」

「……」

 

 同意を示すかのような沈黙。

 それを見かねた市河は少し記憶を辿って、ある事を思い出してポンと手を叩いた。

 

「あ、そういえば! 私、あの子に帰り際、全国子供囲碁大会のチラシあげたんだわ」

「今日棋院でやってる?」

 

 アキラは間髪入れずに聞いた。

 少し驚きながらも市河は頷いた。

 

「え、ええ。さして興味もないようだったけど、もしかしたら見に行ってるかもしれないわ」

 

 アキラの思考は刹那だった。

 ガタンと椅子から立ち上がって、碁会所の出口に向かって行儀悪く駆け出した。

 普段から礼儀正しいアキラの、常なら考えられない行動に市河が思わず驚きの声を上げた。

 

「あ……アキラくん!?」

「市河さんお願い! ボクのいない間に彼が来たらひきとめておいて!」

 

 そう言い残して、アキラはあっという間に碁会所の扉を開けて出て行った。

 唖然としながらその姿を見送って、市河は思わずといった様子で言葉を漏らした。

 

「……変わったわねアキラくん……」

「そりゃあ変わりもしますよ。今までライバルらしいライバルなんかいなかったんだもの。……いやぁしかし、アキラくんと同い年でそんなに強い子供なんて、ほんとに先々が楽しみでしょうがありませんよ」

 

 アキラくんの変わった姿に、少しの寂しさと深刻な様子を見続けて不安を感じていた市河は、無責任に楽しんでいる広瀬の言葉にムッとして言った。

 

「……広瀬さんの伸び代はもうそんなにないようですからね!」

「あ、あはは。市河さんそう怒らないで」

 

 ツンと上向いた市川の機嫌を取るのはかなり難しい。

 焦りながら広瀬はできる限りのことをして、そして撃沈されるのだった。

 

 

 

 

 

「──ヒカル。ほんとごめんね」

「あー、ウン。あれは俺も悪いっていうか……まぁ気にすんなよ」

 

 困ったように気遣うヒカルは珍しい。

 そんなヒカルにこれ以上気に掛けさせるのは良くない。話題を変えるために少し気になっていたことを思い出す。

 ──会場で、ヒカルが周囲を見渡していたことだ。

 

「そういえばヒカル。会場で誰を探してたの?」

「……あー。まぁあれだよ」

 

 言うか言うまいか、少し悩んだヒカルだったが、先ほどの件で少しだけ負い目がある。

 それを清算するつもりでクチを開いた。

 

「塔矢アキラってやつが居てさ。そいつオレよりずっと才能あるんだ。そいつもオレと同じ小6だから、あそこに居ないかなーって探してたんだよ」

「……そっか」

 

 言いたくないことを言わせてしまった。

 話題転換を間違えたことを悟ってまた凹んだあかりの思考は。

 

「進藤……進藤ヒカル!!」

 

 突然の大声に遮られた。

 黒髪の少年がヒカルの名前を呼んでいた。

 あかりに見覚えはないので同じ学校の子ではない。誰だろう、と首を傾げた後に答えは横から出た。

 

「塔矢……?」

 

 つい今しがた話題にしていた少年の名前だった。

 驚いて、あかりはその塔矢と呼ばれた少年を改めて見てみる。

 ヒカルとは正反対の、落ち着いた顔立ちの少年。

 あの自信家のヒカルが自分より才能があるとまで言った相手だと思えば、確かにそれっぽく見えた。

 

「なんでこんなとこに。どーしたんだよ」

「あ……いや……」

 

 何か言いたくない事情があるのか、まごつくアキラにもヒカルは怯まない。

 ガンガン距離を詰めた後に、いつも通りに好奇心の赴くままに問いかけた。

 

「囲碁大会には出なかったのか?」

 

 その質問にも塔矢は答えない。

 困ったように視線を動かして、あかりと視線がぶつかった。

 ここは助け舟を出すべきだろうと思ってニコリと笑った。

 

「はじめまして、だよね? 私は藤崎あかり!」

「あ、塔矢アキラです。急にお邪魔してすみません」

「それはぜんぜん良いんだけど、ヒカルに用があったんじゃないの?」

「そう、ですね。いや、どうなんだろう。ボクも理由があってきた訳じゃなくって……」

 

 そう言って「変ですよね」と塔矢は苦笑いした。そこに、無視されて少し不機嫌になったヒカルが割り込んだ。

 

「──で!! 囲碁大会には、出てないのかよ」

「あ、ああ。うん、出てないよ。進藤くんは?」

「俺? 俺も出てない。──コイツが囲碁大会見てみたいって言うからさ。それで来たってワケ」

「うん。ちょっとアクシデントもあったけど……」

「アクシデント?」

「えっと、その……」

「あー、その話はいいじゃん。こんな道の真ん中で話すことでもないし」

 

 行こうぜ、と前を行くヒカルに続いて、あかりと塔矢も付いていった。

 少しの沈黙があって、あかりが横を見てみると身の置き場がなさそうな塔矢アキラがいた。何か話題は、と思えばちょうどいいものがあった。

 

「──えっと、塔矢くんはヒカルと対局したの?」

 

 沈黙が続きそうな気配を感じたので、とりあえず話題を出してみる。

 それに待ってましたと言わんばかりにアキラが強く頷いた。

 

「あ、ああ! そう、そうなんだ。ちょうど1週間前の日曜日かな? ボクの居る碁会所に進藤が来て、それで初めて打ったんだ」

 

 その時のことを思い出したのか、ヒカルがまた少しばかり不機嫌になった。

 あかりはその様子に話題を間違えた、と内心で焦りながらもニコニコ笑って続けた。

 

「そ、そうなんだ。それでヒカルが負けちゃったんだよね。……でも」

 

 フォローの言葉を続けようとしたあかりを、アキラが怪訝な表情で遮った。

 

「え? いや、負けたのはボクだよ。……完敗だった。──進藤がそう言ったのか?」

 

 アキラはヒカルのことを見た。

 信じられない、と怪訝な表情を隠せない様子だった。

 

「言ってねーよ! ……コイツがちょっと勘違いしただけだって。いいだろ、いこーぜ」

 

 勝ったのに不機嫌。

 なんて、事情を知らないあかりに察せる訳もなく、あかりはヒカルが塔矢アキラに負けたから不機嫌なのだと、言いたくなかったのだと思っていた。才能の差を感じたと言っていたのだから尚更だ。

 だからあかりも驚いた。これ以上その話題を続けたくないと示すようなヒカルの行動に慌てて着いて行った。

 

「あ! 待ってよ、ヒカル」

「ま、待ってくれ進藤!」

 

 アキラは思わずヒカルの肩を掴んで止めた。

 それに今度はヒカルが怪訝な表情を浮かべてアキラを見る。

 

「な、なんだよ。お前スッゲー怖いぞ」

「あ、いや。ごめん……。だが、何故だ? 何故彼女はそんな勘違いをしたんだ? あの対局は指導碁だった……。ボクとキミとの間には隔絶とした実力差があるだろう? なのに、何故?」

 

 アキラがここまで食い下がるのは、そこにヒカルの秘密が隠されているのではないか、と無意識に思ったからだった。

 普段ならここまで必死な様子をアキラが見せるのは考えられない。

 

 けれど、ヒカルもあかりもそんな事情は知らない。

 ただただ、必死な塔矢アキラに驚いていた。

 

「なんでって、オレが知るかよ。……あー! もう! 何が不満なんだよ! オレに負けたのがそんなに悔しいのか!?」

「ヒ、ヒカル!?」

 

 乱暴なヒカルの言葉に、あかりが悲鳴に近い声を上げた。

 けど、ヒカルにも事情があった。

 

 あかりに聞けよ、そう続けよう思っていたヒカルだったが、もしそれを言えば、自分が才能云々といった話が出てきてしまう。

 それを嫌ってヒカルはつい喧嘩を売るような言葉を言ってしまっていた。

 

「キミに負けたのが悔しい……。そうだ、確かにその通りだ。……手を見せてくれ」

「いっ!?」

 

 喧嘩を売るような言葉を言ってしまったと少し後悔しながら、アキラが怒るだろう、と半ばヒカルは覚悟していた。

 なのに、その喧嘩を売った相手に手を掴まれてヒカルは動揺を隠しきれない。

 

「な、なんだよ! いきなり手なんか握って!」

 

 ヒカルがバッと手を振り払えば、呆然としたアキラが目に入った。

 あかりは二人の剣呑とした雰囲気にオロオロと視線を彷徨わせるしかできない。佐為はあかり以上にオロオロして右往左往していた。──ヒカルにしか見えないが。

 アキラは先ほど見た手を、進藤の爪のことを考えて唖然とする。

 

(特にツメが磨り減っているわけではない。碁石にいつも触れている手とは到底思えない)

 

 小さなマグネット盤の碁石では、アキラの基準で判別する事は出来ない。

 とはいえ致命的な誤解ではなかった。ヒカルがお小遣い稼ぎ程度にしか打っていなかったのは事実だ。ヒカルの実力を身をもって知ったアキラからすれば信じられない結果だった。

 

 アキラの基準とはプロの基準だ。

 忍耐・努力・辛酸・苦渋。

 果ては絶望まで乗り越えて、なおその高みに届かなかった者達の基準だ。

 

 そんな者達を容易く上回る者の手には到底思えない。

 信じられない。

 あんな対局を、そんな者が行えるなんて信じたくない。

 それは努力の否定だから。

 数多の棋士たちが命すら削りながら努力していたことを知っているから。

 性根が善であるアキラは、それに憤った。

 

 その憤りには物心付いた時から努力し続けてきた自分も含まれる。

 

 悔しい。

 悔しい。

 そうだ、あの時負けたのは油断していたせいだ。

 

 同い年だと思って侮り焦り、ボクが自滅していったんだ。

 

『オレに負けたのがそんなに悔しいのか!?』

 そうヒカルに指摘された言葉がアキラの心に突き刺さっていた。

 アキラは強く強く、握り拳を作った。

 

「今から一局打たないか」

 

 それは鋭い一声だった。

 聞いていた者がハッとするような声音だった。

 

「キミに負けたのが悔しい。その通りだ。だけど、ボクにもプライドがある。物心ついた時から、ずっと囲碁に接し続けてきた。キミがもし『本因坊秀策』を名乗るなら、こんなところでボクに負けては話になるまい。逃げるなよ、今から打とう!」

 

 右手を差し出し、断られるなど微塵も思っていない澄んだ瞳。

 それを正面から受けてヒカルは思わず一歩引いた。

 

(……佐為)

 

 伺うように背後を見れば、真剣な眼差しで扇子を握る白い袴の『最強の棋士』が居る。

 

『いいでしょう』

 

 雨が降り始めた。

 引っ張られてアキラに引き連れられるヒカルに続いてあかりも追い縋る。

 あかりとヒカルが何かを言っているがアキラの耳には入らなかった。

 この後の対局に、全神経が集中していた。

 

(ボクとて神の一手を極めようという志に生きるのならば、こんなところで負けるわけにはいかない!)

 

 初めてのライバルを得たアキラは無我夢中で足を進めた。

 向かうのはヒカルと初めて対局した場所。

 碁会所だった。

 

 

 

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