「──雨が降ってるのに、無理矢理連れて行くなんて」
「……いや、まァそうなんだけど。……なんか真剣じゃん。それってさっきの大会みたいで、ちょっと断れないや。わりーあかり。先帰ってもいいぜ」
「……帰らないよ。ヒカルを一人で置いていけないもん」
ビルの中を進みながら、ヒカルとあかりは話していた。
少しの涙声を溢したあかりだったが、仕方がない部分があった。
内部の装いこそ明るいが、見るからに大人が入っていくような雰囲気に飲まれてヒカルよりもあかりの方が緊張していた。
それは碁会所の中に入るとより顕著になった。
明るい室内は見渡す限り大人ばっかり。
そんな空間に尻込みするあかりを他所に、アキラとヒカルはどんどんと奥に入って行く。
「アキラくん!」
「奥の空いてるところ借りるね」
市河との会話も最小限に、アキラは対局が待ちきれないように奥へ奥へと進んでいく。
ヒカルもそれに続こうと思ったが、ふと背後を見ればあかりが少し怯えた表情で立ち竦んでいた。
「……しゃーねーなー」
初めてきた時は自分も少しびびった。
つい1週間前の事を思い出して、ヒカルは自然にあかりの手を握って中に引き入れた。
『お〜』と市河が口元に手を当てながら声を上げたが、ヒカルは反応せずにあかりと手を繋いだままアキラを追いかけて奥に進んだ。
あかりの顔は雨に濡れたのとは違う意味で真っ赤だった。
イレギュラーの登場で碁会所が騒然とした。
「おい」「あの子……」
「そうだあの時の」「後ろの子は彼女か?」
「かーっ最近の子供が進んでるねぇ」
「よしなよ、可哀想だろう」
「あ……あの子か!」
「アキラくんに勝ったっていう?」
「そうそう! あの子だ!」
ゾロゾロと大人たちが付いてくる。
さすがにヒカルもちょっと慌てた。
ギャラリーを背負うとは思っても見なかったのだ。
「え……ちょっと……」
「どうぞ座って」
ヒカルを見ながら、周囲を歯牙にもかけずにアキラは座るように勧める。
微塵も譲らなさそうな様子にため息を吐いた。
「あかり、ちょっと待ってろよ。対局すっから」
「あ、う、うん。ごめんね」
「? ああ、いいよ。たぶんお金取られないと思うし……。まぁその時はその時だな」
席料を払えるお金を持ってきてないのだろう、とヒカルは思った。
あかりとしては手を引っ張ってもらって足手まといになった事に対してだったが、少し鈍感なヒカルは気が付かなかった。
そしてヒカルの意識はもう『塔矢アキラ』に向けられていた。
(にしてもコイツ……。全然まわりを意識してないっつーか、平気でギャラリーしょってるっつーか。ただの子供じゃないんだよな)
『ええ。将来有望な子供ですね』
真っ直ぐにアキラを見つめる佐為には、ヒカルの不安は伝わっていないようだった。
(……そーゆー事じゃないんだけど、まぁいっか。頼んだぜ、佐為。……オレじゃコイツには勝てないからさ)
『もちろんですヒカル! 私に任せてください! 私がいくらでも打ちますよ!』
勝てないから。
佐為にはそう言ったが、勝ち負けなんてヒカルはそんなに気にしない。
だから、その気持ちを正確に言うなら『塔矢の期待に応えられない』になる。
無意識に、ヒカルはその言葉を避けた。
『さて、どうしたものか。このすがすがしい目をした将来有望な子供……。しかし、今、私にキバを剥いている。紙一重の差でこの子のキバをひらりと躱し、よしよしと頭を撫でてやるのが良いか、それとも。──この子なら、もしや挑戦を仕掛けてくるやもしれない。……そうなれば面白いですね』
佐為がワクワクとしている間にも、ヒカルとアキラの間で対局までの道筋が進んでいく。
「互先でいいよね、ボクが握ろう」
「ああ、いいぜ」
結果はヒカルの黒番。
「念の為言っておくけど、コミは五目半で」
「わかってるって」
ヒカルは佐為と最初に打った時にコミの事も教えている。佐為も今更驚くようなこともなくメラッと闘志を燃やした。
『黒を持ったら負けたことがありませんよ私は!!』
(そりゃ昔はコミがなかったからな……。頼むぜ、佐為)
『ええ、任せてください!』
一呼吸を置いて、ヒカルとアキラは視線を合わせた。
『お願いします』
お互いの声が反響して再びの対局が始まった。
『右上スミ小目』
佐為の言われるがままに、ヒカルは人差し指と中指に黒石を挟んで鋭く置いた。
パシッと乾いた音が鳴る。
静寂の一間。
思考が巡る沈黙は痛いほどに静かだった。
アキラは初手に時間をかけた。
前回の棋譜を思い返していたからだった。
アキラの狙いは一つ。
妙に古い定石。
(進藤ヒカルは『本因坊秀策』を名乗るだけあって、妙に古い定石を打つ……。『秀策のコスミ』もそうだ。あの手は現代とはルールの違うコミのない時代だから好手とされた──。そこに彼を突き崩すスキがある──)
アキラの脳裏では前回の棋譜が次々に盤面を切り替えて並べられ続けていた。
ヒカルからその古い定石を自らに最も有利な形で引き出すために、アキラは丁寧に思考する。
3分ほどの思考を掛けてアキラは1手目を打った。
パチリパチリと盤面が進む。
そしてターニングポイントとなる局面を迎える。
『次の一手。ここでコスむのはやや緩いかもしれない。するとハサミの方がアシが速いか……』
そこまで思考して、佐為は対面のアキラの表情を見た。
戦意滾らせる瞳を。
『……私のコスむ手を待っているのか?』
来い、と言いたげなアキラの視線。
眼差しを受けて佐為は薄く笑った。
『ならば、それもよかろう』
佐為はあえて最善の一手の追求を脇に置いた。
先達として受けてたつべく、あえて相手の土俵に立った。
『15の十六。コスミ』
佐為はヒカルにそう告げた。
ヒカルが鋭く碁石を盤面に打ち込む。
場の雰囲気からヒカルも理解した。
その上でアキラがどう打ってくるのか、佐為と同じようにヒカルも楽しみで仕方がなかった。
『さァ来るがよい!』
真剣に、けれどどこか楽しさを滲ませる佐為の表情はアキラには見えない。
しかし、その一手を待っていたと言わんばかりにアキラが表情を一変させる。
鋭く睨む眼光で盤面を見ながら、少しの緊張感を持って白石を挟んで『最強の棋士』に挑みかかった。
『ヒカル、いきますよ!』
今度はどんな碁を見せてくれるのか。
期待感すら持ちながらヒカルは佐為の示す一手を打ち据えた。
雨が降り続いていた。
時間はまだ30分と経過していない。
僅か20分と少し。
それだけの時間で既に大勢は決した。
──アキラの完敗だった。
アキラは読みが正確であるため先が見えすぎる。
往生際悪く、相手のミスを望んで挑み続ける事は出来る。
しかし、既に結果が見えてしまっているアキラにこれ以上打つ事は出来なかった。
何度検討しても結果は変わらない。
数十回以上にも及ぶ脳裏での検討を経て、自らの敗北が揺るぎない事を察したアキラは顔を俯けたままに、息も絶え絶えに、言葉を溢した。
「……ありません……」
ヒカルも対局を観察していた。
対局中の佐為の様子を感じ取って、途中で話し掛ける事はしなかったがそれでも戦況は理解していた。
(……佐為。理由はオレにもわかるし、そうするしかなかったのも理解できるけど、もう少しうまくやれなかったのか?)
『……すみません。一太刀で、首と胴を切り離すしかなかった。頭を撫でる余裕など、この子は与えてくれませんでした』
(まァ、そうだよな。……やっぱ、コイツすげーよ。佐為にここまで言わせるんだからさ)
改めて畏敬の念を込めてヒカルはアキラを見た。
初めての対局では嫉妬した。
自分にはない実力を持っていて、佐為にも認められるアキラにたぶん嫉妬してた。
ヒカルは今になって自分をそう思い返した。
何故なら、今のヒカルはアキラを認めることができたから。
あの佐為に手加減を捨てさせるなんて。
そんな事は自分には出来ない。
戦況と自分の実力を理解しているヒカルにはそれが良くわかった。
コイツはすごいやつだ、と素直にアキラのことを認めることができた。
それを自分が言っても何の慰めにもならない事はヒカルにだって判ってる。でも言わずに居れなかった。
それがヒカルの性分だから。
「塔矢、お前すげーよ。お前の真剣さって、お前の実力って怖いくらいだぜ。一手毎にお前の気迫がぶつかってきてさ、正直震えたもん。大会のあいつらもすごかったけど、特にお前なんて……」
そこまで言ってようやくヒカルは気がついた。
自分の言葉が、届いていないと。
俯いて、言葉を聞く余裕すらない様子のアキラを見てヒカルは悲しげに目を伏せた。
(聞いちゃいないんだ……。『オレの』言葉なんか……)
ヒカルはアキラのことを認めた。
すごい奴だと思った。
それこそ嫉妬を忘れるくらいに。
だけど当人であるアキラはヒカルの言葉なんて聞いていなかった。
そう思ってヒカルも目を伏せた。
しかしそれはヒカルの勘違いだ。
アキラの認識ではヒカルが打ったと思っている。
だから、ヒカルの声が届かなかったのはあまりのショックでアキラが心を閉ざしてしまったからに過ぎない。
自分と同い年なのに、圧倒的とも呼べるほどに隔たるカベを感じてアキラが絶望に近い想いを抱いてしまったからに他ならない。
「……オレ帰るよ。じゃあな。……行こうぜ、あかり。付き合わせて悪かった」
「その、もういいの? 塔矢くん……」
気遣わしげにアキラを見やるあかりに向かって、寂しげにヒカルは笑った。
こんな時なのに、その表情はあかりがドキッとするくらい大人っぽくて切ない色を含んでいた。
「いいんだ、行こう」
二度の邂逅を経て、ヒカルとアキラ、双方共に大きな変化を齎した。
この経緯が与える影響は計り知れず。
一つの運命が決まるキッカケと言っても過言ではなかった。
運命が定まるのはまだ少し先。
だが、それほど遠くない未来の事だった。
『4人』の運命が交差する、とある一局。
本人たちの思惑がどうであれ、その素晴らしい一幕を経て大きな転換期を迎える。
だが、そこに至るのはまだ少し先。
半年以上も先にある一幕である。