『お父さん、ボク囲碁の才能あるかなあ』
それはとある日の親子の会話だった。
頬を染めた小さなおかっぱの子供が、自分の手を引く父親を見上げながらそう聞いていた。
『囲碁が強い才能か? ハハハ、それがお前にあるかどうか、私にはわからんが……。そんな才能なくっても、お前はもっとすごい才能をふたつも持っている』
『えぇ〜? そんなにすごいもの、ボク持ってるかなあ?』
恥ずかしげに、もじもじと上目遣いするおかっぱの子供に、父親は背を屈めて視線を合わせて優しげに微笑んだ。
『持っているとも。ひとつは誰よりも努力を惜しまない才能。もうひとつは限りなく囲碁を愛する才能だ』
言いながら、父親は子供の艶やかな黒髪をゆっくりと撫でる。
愛情をたっぷり乗せた掌から伝わる温もりと、ふたつの才能があると断言する力強い父親の言葉に、子供──幼い日の塔矢アキラは満面の笑みを浮かべた。
トロけるような幼い無垢な笑顔だった。
『えへへ、ボクお父さんみたいになる! いっぱいタイトル取ってお父さんに自慢するんだ!』
『ハハハ、それは私も負けていられないな』
遠い日の、思い出だった。
場面は戻る。
真っ暗な闇の中だった。
何かが聞こえているが、それはアキラの耳には入らない。
(お父さん……。ボクは今までお父さんのその言葉を誇りに、まっすぐ歩いてきた)
誰かが去っていく音が聞こえる。
しかしそれをアキラは意味ある音として認識できない。
(でも今、何か見えないカベがボクの前にあるんだ。見えない大きなカベが……)
暗雲の中だった。
アキラはその中で藻がいていた。
『最強の棋士』
彼が齎したカベは限りなく厚く険しかった。
「──でね、おかしいんだ。お母さんがね、オサカナ咥えたドラネコ追っかけてはだしで駆けてったのよ。……ってねえさっきから聞いてる? ……ヒカル?」
「……ん、ちょっとボーッとしてた」
つい先日のことだ。
子供囲碁大会の帰り道に出会った塔矢アキラに引っ張られてヒカルは対局した。
あかりには囲碁の内容なんてわからない。それでも、あの時の異常なまでの緊迫感はわかる。周りの大人が声を掛けられないくらいのことをヒカルはやってのけたのだ。
きっと隔絶とした差を見せつけていた。
ヒカルはあの時のことをまだ引きずってる。それを肯定するように、ヒカルはポツリと言った。
「なぁあかり、真剣って何なんだろうな」
「……塔矢くん?」
「うん。アイツ、きっとこれまですっげー努力してきたと思うんだ。それこそオレなんかに負けて、あんなにショック受けるくらいにさ」
凹んでるヒカルには言わないほうがいいかもしれない。
そう思った配慮はヒカルのウジウジした顔を見た瞬間に吹き飛んだ。
「オレなんかにって、思わない方がいいんじゃない?」
「……え?」
「だって、私だったら、私よりすごい人にそんな風に思って欲しくないよ。私に勝ったんならもっと堂々としてろ! って思う。でしょ? じゃなきゃリベンジしたくても出来ないよ」
それは盲点だった。思わず目を丸くしてしまうくらいに。
「……あー、そうか。そーだな、そーだよな〜〜〜」
そう言われてヒカルは自分の言動を思い返した。
自分を負かした相手に気遣われる。
それはすっごく屈辱的ではなかろうか。
屈辱、という言葉をヒカルは知らないのでニュアンスではあったがそれに近いイメージを持った。
「うん。お前の言う通りかも」
「でしょ?」
真剣に頷いたヒカルはニッカリと笑った。
いつも通りの活発な笑顔だった。
「わりー、先帰っといてくれ! オレ寄るとこ思い出した!」
「もう! 塔矢くんに迷惑かけちゃダメだからねー!」
「わかってるって! あかり!」
「なに?」
走り出した先で、少し立ち止まって振り返る。
「ありがとな! お前が居てくれてよかった!」
「んなゅ!」
唐突に笑顔でそんなことを言われて、あかりはボンっと赤面した。
「……ちわーっす。塔矢いる? ……ぅぉ」
ガラガラと碁会所の扉を開きながらヒカルが入ってみれば、碁会所すべての視線が自分に一斉集中して思わずたじろいだ。
そんなヒカルに真っ先に反応したのは白いスーツを着た男性──緒方だった。
全国子供囲碁大会で見かけた少年であり、先日アキラを二度も倒した少年と外見的な特徴が一致していたこともあって塔矢行洋の研究会ではその少年の話題で持ちきりだった。
そんな渦中の人物が碁会所に入ってきたのを見て一目散にヒカルに駆け寄った。
「キミ!! やっぱりキミだ!!」
「おわっ!? な、なんだよ!?」
碁会所に入った途端に引っ張られてよろめいた。見ればメガネのスーツ男がぐいぐいと引っ張ってくる。
「塔矢名人! この子です! あの男の子で間違いありません!」
「あたた! オレ何も悪い事は……! あー、ちょっとしたかもしんないけど……」
全国子供囲碁大会での出来事を思い出して、ちょっと尻すぼみになったヒカルだったがその言葉も途切れた。
「……その子か、アキラに勝ったというのは」
塔矢行洋。
テレビを見た佐為が『神の一手に一番近い』とまで言った者が立っていた。
碁会所の者に指導をしていたのか、その手には碁石が挟まれている。区切りをつけるように、パチッと黒石を置きヒカルに視線を投げた。
行洋にヒカルを睨んだ意図はなかったが、それでもヒカルは睨まれたように感じて生唾を飲む。
「それも二度も、あのアキラに……」
佇まいを正して着物の袖に腕を差し込んだ行洋が盤前に静かに腰掛け、真剣な眼差しをヒカルに向けていた。
「キミの実力が知りたい。座りたまえ。……ここで対局するのは初めてではないだろう?」
「あ、いや……、オレは塔矢に、だと解りにくいか。アキラに会いにきてて……」
『ヒカルッ!!』
今までにない気迫を漲らせる声音に、周りの目も気にせずにヒカルは背後を見た。
佐為が真剣な表情を浮かべていた。
深い海を思わせる瞳から伝わってくる、限りないほど『打ちたい』という意欲と交わる。
『彼と打たせてください。『本因坊秀策』であった私に挑んできた数多の好敵手たち。この者の気迫はまさしく彼らと同じ! ヒカル!!』
目の前の行洋からの重圧。
背後からの佐為からの威圧染みた懇願。
その二つに挟まれて仕方なくヒカルは席に座った。
ザワザワと碁会所が騒がしくなる。名人塔矢行洋と、その息子を破った本因坊秀策を名乗る少年の対局。このカードに興味を惹かれない碁打ちなどこの場には居なかった。
「石を三つ置きなさい。アキラとはいつもそれで打っていた。……名人の私に石たった三つだ。わかるかね、それがアキラの実力だ」
言われるがままにヒカルは石を三つ置いた。
だが表情は険しかった。こんなことをしに来たのではないという思いが滲んでいた。
あかりに言われて、ヒカルは気づいたのだ。
あの対局の後にヒカルがすべきだったのは気遣いなんかじゃない。
佐為が打ったことなんて、そんなこと塔矢が知るわけない。
なら佐為が打った結果も自分のことだと受け止めて、代わりに喜んで見せるべきだった。
だって『本因坊秀策』の生まれ変わりだって言い始めたのはヒカルなんだから。
……秀策は、いや虎次郎は佐為の凄さに気がついたんだろう。
それこそ自分の一生を捧げてでも、佐為に打たせてあげるくらい腕前に惚れ込んでいたんだろう。
その気持ちはヒカルにも理解できる。
佐為の凄さを知るたびに段々とそんな気持ちになっているから尚更だ。
だから嘘みたいで本当は嫌だったけど、ヒカルはある意味覚悟を決めてここに来たのだ。
虎次郎もやっていたことだから、と言い訳しながらではあるが、佐為は自分にしか見えないから代わりになってやろうと思って塔矢アキラに会いに来たのだ。
『強いだろオレ』って言いたかったのだ。
それをこの塔矢の親父は邪魔してくる。
だから少しだけヒカルはムカついていた。
名人、へぇなんか凄そう。
そう思うくらいの知識しかヒカルにはない。
名人というタイトルに座る者がどれくらい凄いのかあまり理解していない。
そんなヒカルは佐為にとんでもないオーダーをした。
(佐為。本気で打てよ。中押しするくらい、本気でやってくれ)
普段の佐為がその要望を受け入れる事は基本的にはない。
弱者には配慮するが、強者には全身全霊で挑むのが佐為の打ち方だからだ。
打ち始める前から勝ち方のオーダーを受け入れる場合は、相手が囲碁を悪用していたり、悪いことに使っていたり、そういう場合のみだ。
それでも佐為は頷きを返した。
それは、あかりとの先ほどのやりとりを佐為が聞いていて、ヒカルが自分のために、そして塔矢アキラのために動いていたのを知っているからこそ。佐為は今回ばかりは自分の打ち方を飲み込んだ。
塔矢行洋と打つにあたって全力で囲碁を楽しむ打ち方ではなく、圧倒的な棋力を誇示する方法を選択した。
『……やるからには、勝ちますよ。黒を持った私は負けたことがありませんからね!! 普段は相手にあまりにも失礼なので絶対に言いませんが、ヒカルたっての希望です。置き石を最大限に活かして、やってやろうじゃありませんか!』
(頼んだ!)
『いきますよ、ヒカル!』
ヒカルが意志を示して、佐為がそれに応えて。
ヒカルの準備が出来たのと同時に行洋が一手目を打った。
バチッと鋭い音が鳴る。
ヒカルのことを確かめるために、実力を見極めるために。塔矢行洋は普段アキラと打っている時以上の気迫を漲らせて打っていた。
自慢の息子だった。
その息子の心を折りかけるほどの子供。
そんな存在を確かめるために、行洋は置石こそ許したが臨む気持ちはタイトル戦にも引けを取らない。
普段から囲碁に関しては嘘をつけない性格であることも手を抜かない理由の一つだが、そこには息子に対する確かな愛情があった。
『五の三。カカリ』
すぐさま2手目を行洋が返す。
『3の三 ツケ』
佐為の返答を受けても行洋の手に澱みはない。
すぐさま応手を返す。
「アキラには2歳から碁を教えた。私とは毎朝一局打っている。既に腕はプロ並みだ。アマの大会には出さん」
『4の四 星』
行洋が語るのは息子アキラのことだった。
ヒカルが打ち負かした相手がどれほどの実力を持っているのか、客観的な意見を伝えるための言葉だった。
「アイツが子供の大会に出たら、まだ伸びる子の芽を摘むことになる。それほどにアキラは別格なのだ」
『3の二 サガリ』
日本で最強の小学生。
行洋自身言葉にせずとも確信していた。
今までは。
「だからこそ、そんなアキラに勝った子供がいるなどと、私には信じられん」
そこでまで告げて行洋は言葉を切った。
変わらず真剣な眼差しでヒカルを見続ける。
「だから、私に見せてくれ。キミの実力を」
「お望み通り、本気で打ってやる」
ヒカルの乱暴な一言に、周囲で様子を見ていた緒方が物言いたげにしたが、対局中であるためにグッと言葉を堪えた。
対局中に声を掛ける行為、外野が口を挟む行為は明確なマナー違反だ。
相手を精神的に動揺させようとしている、と指摘されても何も反論ができない。それ故に緒方は沈黙を保った。
これで下手クソだったら承知しないぞ、と視線での圧力は掛け続けながら。
しかし、ヒカルはそんな視線を感じてもいなかった。
盤面にだけ意識が注がれている。
(佐為。次は?)
『はい。10の十六 星』
ヒカルは一手を打ち据えてパシィッと今日一番の快音を響かせた。
石から指を離して、ヒカルは自らの希望を伝えた。
「もしオレが勝ったら、一個だけ言うこと聞いてよ」
「……いいだろう。だが、子供が私に勝てると思っているとは、少々驚きだ。そこまでの大言を吐くのなら相応の実力を見せてもらいたい」
侮る様子はない。
ただ純然たる疑問として述べているに過ぎない。
だが、子供は敏感だ。
その言葉に含まれている多少の見下しとも呼べない微かな残滓もヒカルは受け取ってしまった。
例えそれがヒカルの実力を引き出すためにあえて取っている立場だったとしても、そんなものは関係ない。
(……佐為。マジで頼んだぞ)
『ヒカル、そろそろ私も全力で集中します。……大丈夫です、言ったでしょう。黒を持ったら』
(負けたことはない。……だよな!)
『はい! さァどんどんいきますよ! ──10の十七 ノビ』
パシッと音を鳴らして、ヒカルの次なる一手が放たれた。
重なる一手一手に重みが増していく。
作り出される棋譜は美しい。
……確かに佐為の定石は古い。
だが、その読みと打ち筋は現代の棋士に劣るものではない。
互先ではまだ敵わない相手であっても今回は置石が3つもある。それは最初から30目以上を相手に献上している事に他ならない。
それ故に、結果など語るべくもなかった。
「──ここまで、か。ありません」
そう言い、行洋がヒカルに向けて頭を下げた。
一つの礼儀としての行いだった。
まさかの、名人塔矢行洋の敗北。
しかも置石があるとはいえ前代未聞の中押しである。つまり少なくとも置き石二つ以上──下手をすれば
小学生が、名人塔矢行洋に比肩するかもしれない。あまりの事態に場は騒然とした。
「そんな! 置石があるとはいえ、あの名人が小学生に!?」
「だ、だが、アキラくんも同じ置石なんだろう? あの子はそのアキラくんに勝ってたんだから、何もおかしくないだろう……」
「違うって! 置石はあくまでハンデだろ? なら、アキラくんでも3子じゃ名人といい勝負になる程度ってことだ! それを中押しって……」
「い、いや。たまたまかもしれないだろう」
「バカな! あの名人だぞ!? たまたまで勝てるもんか!」
騒然と喧しい周囲とは裏腹に、周囲で行洋を除き唯一のプロである緒方は一筋の汗を流した。
(……ありえない。小学生の強さではないぞ、これは。オレは夢でも見ているのか? 下手をすれば、オレでも彼に『
しかも彼の定石は古い。
もし最新の定石を彼が学べば、どれほど伸び代があるのか末恐ろしさすら感じる。
それこそ緒方を一瞬で超えて行きかねない。
目眩を覚えるような事実に緒方は思わずメガネを外して目頭を押さえた。
「……キミを疑ったことを、心から謝罪しよう。申し訳なかった」
塔矢行洋の、投了とは異なる、謝罪の意味の込められた深々としたお辞儀にヒカルは慌てて手を振って気にしていないと示した。
「あー、いや。オレも、なんか勝手に盛り上がって、ごめんなさい……」
勝ったもののヒカルは小さくなっていた。
なにせこのおっさん、めちゃくちゃ強い。なんだこれってくらい強い。そんな相手に佐為の実力を振り翳して中押しをオーダーする自分に羞恥心を覚えて縮こまっていた。
「聞かせてほしい。その年で、どうやってこれほどの実力を身につけたのか。正直にいえば、私はキミを疑っていた。アキラが敗北したと聞いても信じられない気持ちだったが……、だがこうして目の当たりにすれば納得せざるを得ない。信じがたいほどに、キミは強い。アキラが負けるのも納得の行く強さだ。だからこそ、私はキミの実力の秘訣が知りたい。どこかの門下生なのかね?」
「あー、何というか、『本因坊秀策』が師匠、かな」
周囲がどよめいた。
それが本当なら、独学で名人に迫るほどの実力を身につけたことになるからだ。そんなことは常識で考えればあり得ない。
本来なら言葉を疑うところだが、塔矢行洋はヒカルの言葉に嘘が含まれていないことを読みとった。
なにせ。
「……確かにキミの定石は、言って終えば古い」
『はうっ!』
ヒカルの後ろから心臓を抑えるような衣擦れ音と声がした。
「骨董品と言っていいほどだ。いまだにこの定石を使っている者は相当な物好きだろう」
『ひぅ!』
心臓を掻きむしるような声がした。
「時代に取り残されていると言ってもいい。信じがたいほどだ」
『ふぐぅ!! ──ぇ、えぇ、そうでしょうとも……。何せ140年も待ってましたからね……!! けど、何もそこまで言わなくてもいいじゃないですかぁ!?』
涙目で訴える佐為の言葉が聞こえるのはヒカルだけだ。
あー、と同情するような目でヒカルは行洋の言葉を聞き続ける。
「だから、どうだろうか。もし決まった師匠が居ないというのなら、私の研究会に参加してみないかね? もちろん、無理にではない。だが、きっとキミにとっても実りある日々が提供できる筈だ。……どうだろうか?」
再び場は騒然とした。
見込みのある院生ならまだ理解が及ぶ。
しかしヒカルは小学生で、緒方が調べた限り院生ですらない。
その事を、この場の者達は緒方と行洋の会話を聞いていた事で大半が知っていた。
だからこそ驚きの波は強く大きく広がった。
「名人の研究会に!? 一般の小学生がか!?」
「い、いや。不可能では、ないだろう?」
「そりゃあ研究会と言っても謂わば個人的な集まりをそう呼んでいるに過ぎないんだから、可能だろうが……」
「それでも普通は呼ばないだろう!?」
「普通じゃないからだろう? あの名人に3子というハンデがあるとはいえ、中押しでの勝利だぞ? 例外にするには十分すぎるだろ」
「い、いや、だからって小学生だぞ?」
その研究会の一員である緒方は行洋に真っ先に話しかけた。
「先生。確かに彼は強い、それは紛れもない事実です。しかし小学生を、しかもこんな形で彼を参加させては、いらぬ憶測を産むと思いますが……」
「憶測? それが、何か囲碁に影響があるとでも言うのかね?」
鋭い眼光。
本人としてはただ見ているだけと、緒方は経験上知ってはいるが、それでも思わず怯みかけてしまう。
それでも気持ちを新たに言葉を続ける。
「いえ、囲碁には関係しません。しかし、先生に対する悪評には繋がります。前代未聞ですよ、色々な意味で、です」
院生ではない小学生に、名人が中押しで負けた事。
そのキッカケは息子が破れたと知ってからという事。
その小学生を研究会に誘う事。
なるほど、あまりにも荒唐無稽だが、それだけを切り取れば名人が息子の仇を打とうとして、あえなく返り討ちにあってしまい、研究会に誘うことで証拠隠滅を
妄想に近いこんな話は普通なら失笑を誘うだろうが、今回ばかりはそうも言っていられない。なにせ名人の敗北は事実なのだから。
ましてや人の噂とはそういう荒唐無稽なものが好まれる。火のないところに煙は立たない。今回は名人が小学生に敗北などという大火が炊かれているのだから尚更だ。似たような噂が流れるだろう。
だが例え余人に嘲笑されようとも、そんなことは囲碁を打つ事と関係がない。
ヒカルを研究会に迎える行為は断行すべき、非常に高い価値がある行動だと行洋は思った。
「置き碁であろうと、私の敗北は事実だ。隠すような事ではないな」
「いえ、それはもちろんそうなんですが……」
「無論、緒方くん。キミがどうしても嫌というのであれば、私も無理強いはしたくない。キミも研究会の一員なのだからね」
「あ、いえ。嫌というわけではありませんが……」
歯切れの悪さは何も行洋を攻めている訳ではなかった。
ただあまりにも話の展開が急すぎて、緒方ですらついていけていないだけだ。それでも塔矢行洋は止まらない。
「では、こうしよう。進藤ヒカルくん……だったね。しばらく時間をくれないか。研究会のメンバー全員に承諾を得よう。そして、棋院にも正確な事情を公表してもらおう。それならば、緒方くんも心配せずに済むだろう」
「そ、そこまでしますか先生!? あなたの敗北が、それもこんな形での敗北が周知されるのですよ!?」
「するとも。彼には迷惑を掛けた。これが罪滅ぼしになるのであれば、私に躊躇はない。……進藤くん、どうする? キミが嫌がるのなら、今言った話は全て白紙に戻そう。これはキミを買っている私の意見であると同時に、キミを疑ってしまった私の罪滅ぼしでもあるのだからね」
そう言って研究会とはどういうものか、滔々と言葉を続ける。
色々と話されたが、端的に言えば囲碁尽くしの生活を送れる、という事らしい。ヒカルは目まぐるしい展開に目を白黒させながらも、提案に対してはもう結論を決めていた。
「あー、ウン。たぶん凄い話だとは思うんだけど……、断らせてもらおっかな、なんて思ってたり……」
「なっ!? お前はこの話を断るのか!?」
──あんたはどっちの立場なんだよ。
さっきまで強硬に反対していた筈の緒方の、信じられないと言わんばかりの表情にヒカルはげんなりした。
同時に佐為が叫んだ。
『ヒカル!? 話を聞く限り! 研究会とは、囲碁の研究会ですよね!? いきますよね!? いかない!? ありえませんよヒカル!! この者と今のような碁ではなく楽しい碁が打てるのですよ!? いえ、今の碁も最善を追求するのは楽しかったですが!! ですがそれとこれとは話が別──』
「──だぁああ! もう! うっさいなー! オレの勝手だろ!?」
ついヒカルが堪えきれずにそう言ってしまって、文脈的に緒方に向けて言い放った様になってしまった。
目を丸くする緒方にちょっぴり悪いと思いながら、いいキッカケだとヒカルはランドセルを掴んで肩に掛けて出口に向かって足を向けた。
「じゃあそういうことで! さよならーっ!」
場の静寂を縫うように、スタコラと持ち前の軽やかな動きでヒカルは外に出て帰路に着いた。
自宅に到着して、ようやく一息付けるとベットに横になれば、フヨフヨと浮いた佐為が真上から話しかけてきた。
『ヒカルぅ、ほんとに研究会に行くつもりがないんですか?』
「ない! そんなとこ行ったら四六時中囲碁漬けじゃんか! そんなのオレはノーセンキュー!」
元々はお小遣いのために始めた囲碁だ。
さっきは、ノリで佐為のために、とか思っていたが、まるっきり拘束されるなら話は別だ。
ヒカルはまだ小学生だ。当然遊びたい盛りだった。
塔矢行洋も、緒方も、塔矢アキラを基準にしてしまっていたものだから、ヒカルもきっとそうだと無意識に考えてしまったことが最大の敗因だろう。囲碁尽くしよりも、出前食べ放題の贅沢尽くしの方が心惹かれたに違いない。
「そりゃお前はいいけどさ、オレは、まぁ確かに少し興味あるけど、そんなとこまで行くほどじゃねーよ。だって、お前打てないし喋れないじゃん。全部オレが代わりにやるんだぜ? 流石にそれは勘弁だって」
『……うぅそうでした……。ヒカルにそこまで迷惑は掛けられませんね……』
シクシクと部屋の隅に移動して泣き始めた佐為の姿にうっとうしいと思いながらも、けど、代わりに研究会に行くとも言えず。
しばらくした後に、いつまでも泣き続ける佐為にヒカルがしょうがなく佐為を対局に誘って機嫌を回復させたのだった。