『──学園祭にあかりと行くなんて。ヒカル、そんなとこ女の子と行ったら笑い物だ、とか言いそうなのに、よく承諾しましたよね』
「……うるさいなー、いいだろ別に。オレが誰と何処に行こうがさ」
塔矢名人と打った後に、シクシク泣いていた佐為としょうがなく対局していたら、夜にあかりが訪ねてきて、一緒に近所の中学校の学園祭に行く約束をしたのだ。佐為が面白がって言っているのはそのことだった。
あかりには助言を貰ったから借りがある。
そう思って素直に行くと返事をしたら、ヒカルが思った以上にあかりは喜んでいた。
『それはもう、もちろんそうなんですが。──あ、ほら見てヒカル! あんなところに碁盤が!』
「後で! あかり待ってんだから──」
「ヒカル!」
掛けられた声に振り返れば、そこにいたあかりは普段よりもおめかししていた。
「ごめんね、待たせたかな?」
「いいじゃん、似合ってる」
「うぇ!? そ、そうかな……?」
動揺を隠しきれずに前髪を弄り始める。
そんなあかりに首を傾げつつ、ヒカルはさっさと足を踏み出した。
「早く行こうぜ。たこ焼き奢ってくれるんだろ?」
「う、うん! お姉ちゃんに食券貰ったから! ……でも、そこは今きたとこって言うんだって、ドラマでやってたよ」
「お前、またドラマばっか見てんの?」
「そういうヒカルは最近囲碁ばっかりだもん」
打てば響くようにそう言われて、頷く他なかった。
「……そういや、そうだなー。で、いつもお前居るよな」
「え!? ……そ、そうかな?」
「そーだよ。あ、たこ焼きの後であそこ寄るけどいいか?」
「あそこって──」
ヒカルが指差した場所には、囲碁の看板が立っていた。詰碁のクイズをやっているようだった。
「また囲碁ー? ヒカルってば本当に好きだよね」
「……嫌なら別にいいけど」
「いーよ! 付き合ったげる! ──ほ、ほら、行こ?」
そう言ってあかりはヒカルの手を掴んだ。
たこ焼き屋に向かうために、あかりは初めて自分からヒカルの手を握った。たったそれだけで、もういっぱいいっぱいだった。
ヒカルもまさか手を握られるとは思っていなかった。
でもなんでわざわざ手を握るんだ? と疑問が表情にありありと現れているだけだった。
そんな初々しいというよりも凸凹な二人を見て佐為は思わず苦笑いしながら後ろをフヨフヨと漂ってついていった。
「──あーっと『塔矢名人選・詰碁集』?」
あかりに連れられて、熱々のたこ焼きを頬張ったヒカルが『碁』と書かれた小さな四角い看板のある場所にやってきて、真っ先に目に入ったのが『塔矢名人選・詰碁集』だった。
そんなヒカルの一言を聞いて、座っていたこの出し物をしている中学生の男の人──筒井がニッコリと笑って言った。
「詰碁の正解者に景品あげますよ」
景品。
そう聞いて、あかりが少し屈んで上目遣いでヒカルを見上げた。
カッコいいところを見てみたい、という女心だった。
「ねえねえヒカル、やってみたら?」
無意識の
『ヒカル! ほしーっほしーっ!』
「あーもー、ったく。やってみるか」
「うん! いいとこ見せてね」
「お、おう」
『きゃーきゃー!』
佐為の『きゃー』がどっちの意味でのきゃーなのか、聞いて見ようとも思ったが、どうせ囲碁のことなのでヒカルは聞くのを辞めておいた。
ちょうど前の人が終わったので、ヒカルが前に出る。
「次、いい?」
「どうぞ。じゃ、いくよ」
中学生の先輩の並べた詰碁は思ったより簡単だった。
これなら佐為に頼らなくても解ける。
そう思ってヒカルはトントントンと3手を示した。
周囲の大人たちがヒカルの解答に反応を示した。
「お──っ」
「正解正解。早いじゃないか」
「えらいえらい」
「わーっ。私、まだわかんないかも……」
周囲の大人達や最後のあかりの声に少し気をよくして、ヒカルは景品を受け取る。
──のだが。
「ぶっポケットティッシュ!? 詰碁集じゃないの?」
「あはは、今の問題じゃ詰碁集はあげられないよ。もっと難しいのやってみる?」
先輩が笑ってそう言って、ヒカルは何度も頷いて答えた。
「オッケー、もっと難しいのね。ほんとに大丈夫?」
チラリと先輩が見るのは背後のあかりだろう、とヒカルは当たりをつけた。
問題ない、と示すようにもう一度大きく頷いた。
「わかった。じゃ有段者の問題だ。ボクでもこれは梃子摺るかな。3手まで示してね」
示された問題に、ヒカルはまたしても即答で3手を示した。
解答はまた正解だった。
「おお! また正解か」
「やるじゃないか坊主」
「いいぞ坊主、その調子だ」
「……やっぱり、ヒカル凄いかも」
正解したヒカルに、先輩が良い笑顔で缶ジュースを渡した。
「うん、正解。キミ、小学生だろ? 中々やるじゃないか。はい、缶ジュース」
「ええ? 缶ジュース!?」
「えっと、不満?」
「不満っていうか、詰碁集がもらえる一番ムズカシイのやってよ。オレが欲しいのそれだし」
「一番難しい……って、こんなの解けたら塔矢アキラ並みだよ? 本当にいいの?」
また背後のあかりを見て言う先輩にムッとしながら頷いた。
「いいの! って、塔矢アキラ? あいつってそんなにスゴイの?」
「え? うん、もうプロ試験に受かるんじゃないかとか。大人相手に指導碁みたいなことやってるとか、ウワサだけは聞くよ。彼はアマの大会には出てこないから、情報が少ないんだ」
「あー、そういや大会出たのかって聞くと変な顔してたっけな……」
まるで塔矢アキラを知っているかのような口ぶりに筒井は首を傾げた。
「……キミ、塔矢アキラと知り合いなの?」
「知り合いっていうか、まぁ。オレアイツに2回勝ったし」
「に、2回?! 塔矢アキラにかい!?」
「え? うん。まぁ1回目はあいつも油断してたかもしれないけど、2回目はマジだったぜ」
信じられないと顔に描いてある先輩の表情だった。
掛けているメガネの位置をクイッと直して気を取り直すように先輩が続けた。
「……それなら、この難問も解けるよね。さぁどうぞ。第一手が鍵だ」
信じてなさそうな様子に少しムッとしたが言ってもしょうがない。
そもそも佐為が打ったのだし、
それでも思考は乱れたままだった。
いまいち集中できずに2、3秒ほど沈黙して、答えを出すその前に。
「第一手は……ココだろ」
唐突にだった。
フラリと訪れたであろう人物が咥えていたタバコを碁盤に押し付ける。
そしてその場所は正解だった。
「おめー、こんなのも即答できねーのに、塔矢アキラに勝っただぁ? ケッ、やめちまえやめちまえ、囲碁なんて辛気くせーもん!」
「ああっっ! 何をするんだ!」
筒井が、慌ててタバコが押しつけられた位置を布で拭う。
「ふん! 塔矢アキラなんざ、あんなヤツ、オレに負けたサイテー野郎だ! しかも、どうやらお前みたいなザコにも負けてるらしいな? 随分下手くそになっちまったみたいだが、まぁ当然か。石ころの陣取りなんてくだらねー。将棋の方が1000倍オモシロイぜ」
「な、なんだと!!」
食ってかかったヒカルを無視して、ガラの悪い男はニヤリと笑った。
「んで、筒井。囲碁部をつくるってのはどうなったんだよ。三人揃えて団体戦に参加できれば部として認めてくれるって必死だったじゃねーか。条件次第で出てやってもいいぜ。オレの囲碁の腕は知ってるだろ、お前の1000倍強いぜ」
「碁盤にタバコを押し付けるようなヤツの助けなんているもんか!」
「ケッ、よくゆーぜ! このあいだ大会に出てくれって頭下げにきたのは誰だよ」
その通りだった。
筒井はつい先日この男に頭を下げてまでお願いしていた。
けどそれも過去の話だ。
碁盤を大切にしないヤツに頼んだ自分が情けない。
筒井はテーブルに置いてあった詰碁の本を掴んで将棋の駒の描かれた和服のタバコ男──加賀に押しつけた。
「ホラ! 詰碁の景品! これ持って、さっさとあっち行け!」
「へいへい。……『塔矢名人選詰碁集』?」
それまで飄々としていた態度を崩さなかった加賀が、それを見て表情を一変させた。
どこか余裕の無さすら感じさせる様子で奥歯を噛み締めて。
次の瞬間には手に持った詰碁をビリビリに破き始めたものだから、それを目の前で見たヒカル、あかり、佐為、筒井の4人は悲鳴のように驚きの声を上げた。
「くだらねェっ! 言ったろが! オレは囲碁と塔矢アキラが大っ嫌いなんだ!!」
そんな加賀の様子に今まで頭に血を昇らせたまま黙っていたヒカルが口を開いた。
「塔矢アキラが大嫌い? なんだよ、お前、塔矢に勝ったんだろ? なのに、なんで嫌いとか言ってるんだ! ……アイツの才能に嫉妬してるのか!」
「このオレが、あいつに嫉妬だと……? よく知りもしねえガキが、調子に乗るなよ」
「ふん! お前みたいなヤツに塔矢が負けるもんか!」
「くっくっく、バカな小僧だな。オレが嘘なんざ吐くわけねーだろ。おい、いいかよく見てな」
そう言い放った加賀が、白い碁石を一つ手にとって曲芸染みた手つきでジャグリングを始めて両掌の中に碁石を隠した仕草をした。
「どっちだ? 石はどっちの手に入ってる? 当てたら何だって話してやらあ。その代わりハズしたら今度は碁盤じゃなくお前の手にタバコを押し付けてやる!」
「……ああ! 当ててやるよ!」
「キ、キミ!? やめるんだ、加賀はやるといったらやるヤツだぞ!?」
「ほぉ、覚悟しろよ? 筒井が言ったが、オレはマジで、やるといったらやるぜ? その覚悟があるんなら当ててみろよ。人を嘘つき呼ばわりしやがったんだ、そのくらい覚悟してるよなぁ?」
加賀の目は本気だった。
勝負事の経験が浅いヒカルでもそれはわかった。
背後からあかりがヒカルの手を掴んで、止めるように促すがヒカルに止まるつもりはない。
こんなヤツ相手に退いたなんて自分がきっと許せなくなる。
ヒカルは塔矢アキラに勝ったのだ。
そんな自分が塔矢をバカにする相手に退いたら、バカにしたことを許すのと同じだ。ひいては、それはヒカルが塔矢をバカにするのと同じだ。それは到底受け入れられない。
佐為の力を借りたとはいえ、いや。だからこそ自分がこんな奴を相手に引くわけにはいかないと闘志を燃やした。
最初は塔矢の才能に嫉妬してた。
だけど今は認めてるから。
ヒカルは半ばヤケクソ気味に加賀の左手を叩いた。
「こっちだ!!」
驚いた顔で、加賀は左手を開いていく。
そしてそこには『何もなかった』
「……お前の度胸は認めてやるよ」
そして右手も開いた。
そこにも『何もなかった』
筒井が悲鳴のように叫んだ。
「あっ石がないっ!?」
「こんな手に引っかかるとは……。ギャハハ、揶揄い甲斐のある奴だぜ! 囲碁なんかやめて将棋にこいよ。オレが一から教えてやっからよ!」
インチキでまともに勝負するつもりすらなかった加賀にムカムカとした気持ちが湧き上がってくる。
その気持ちのままにヒカルは叫んだ。
「お前に習うくらいなら一生将棋なんか覚えるもんか!」
「んだと!?」
「塔矢に勝ったって? どーせ今みたいにインチキしたんだろ! それとも塔矢が本気じゃなかったんだ! お前なんかどーせ囲碁から逃げて、将棋に行ったんだろ! このペテン師!」
「言いやがったな小僧! そこまで言うならオレの実力を見せてやる! ──どけっ筒井!」
「ああっ!?」
「ほら打てよ! オレが負けたら土下座でも何でもしてやらあ! その代わりお前が負けたら、インチキ呼ばわりした事を謝罪しながら、冬のプールにでも飛び込みやがれ!」
「ああ! プールでもなんでもやってやるよ!! その代わりお前が負けたら土下座だからな!?」
腕まくりして、ドスンと対局席に座ったヒカルは思いっきり佐為を呼んだ。
(佐為!!)
『わーい、対局対局♡』
佐為はこんな時でも対局が出来るのが何よりも嬉しいらしいが、ヒカルはそんな佐為にも目もくれず盤面に向き合って集中しながら一手目を放った。
「──……マジかよ」
加賀は冷や汗を流して盤面をじっと見つめる。
途中までは多少押されながらも、引き離されない程度の戦いになっていた。
それが変わったのはヨセに入る少し前の段階。
ある局面での一戦だ。
複雑な盤面だったこともあるがちょっとした一手から、いとも簡単にハメられた。
そのせいで石の流れが完全に断ち切られてそこから一気に崩された。
戦場となった右辺の加賀の石が、尽く死んでいく様に冷や汗が抑えきれない。
(ハメ技だと……?! このオレが、こんなガキにハメられるなんざ! 情けねえ!)
プロとアマの違いを挙げるのならいくつも候補が挙げられるが、その一つがこの『ハメ』である。
相手の手を誘導して逃れられない必殺の形にしてしまう。
読みと知識がなければ不可能な技である。
プロの対局はこのハメ合いを制したものが勝つと言われるほどの技術。
それをヒカルは使っていた。
そして一度ハメられて崩されたのなら、囲碁のルール上挽回するのは困難を極める。
一つの局面を潰された場合、他の局面で勝つしかないからだ。
だがもう中盤の終わりに近い状態。
ここから取り戻すのは加賀の実力では不可能だった。
「……くっ!! ……ありません……」
加賀の実力は中学生にしてはかなり高い。
アマとしても有段者レベルである。
それでも佐為には当然ながら勝てない。そんな彼が、佐為ですら容易には覆せない盤面を勝利に導くことなど当然出来ない。
加賀は不可能を不可能と判断できるだけの棋力を持っていた。
佐為は一局を終えて『るんるん』と楽しげに跳ねながらヒカルに話しかけていた。
『ヒカル! この者との一局は楽しかったです! 私の一手一手に面白い手を返してきました! ……けれど、本当はハメなんて使いたくなかったのですが……、どうしてもダメでしたか?』
(ダメ!! こいつは塔矢のこともバカにしやがったし、何より碁盤にタバコ押し付けたんだぜ? これくらいのお仕置きは必要だっての)
『……それは、確かにそうなのですが……』
「くそォ!!」
ダンと加賀がテーブルに両手を打ちつけた。
負けは負け。
勝負事の結果は絶対だ。
そういう意識があるからこそ加賀は悔しさに拳を振るわせた。
ヒカルはその様子を見て性根の悪い奴じゃないんだろうな、と思った。
だからこそ純粋な疑問が擡げてくる。
「なぁお前、なんでこんなに強いのに、塔矢のことバカにするんだよ。……オレの一手一手に面白い手も返してきたし、ほんとになんでだ?」
「……負けは負けだ! いくらでも話してやらあ!」
不機嫌そうに仏頂面を浮かべながら、加賀は約束通りに語り出した。
『土下座』を有耶無耶にするためでもあったが。
昔、父親に言われて将棋をやりたかったのに、囲碁教室に通わされていたこと。
そこで加賀はNo2だったこと。
No1には塔矢アキラが居て、どうしても勝てなかった事。
父親にはNo1になれと言われ続けていたが塔矢アキラのことは内心で認めていたこと。
そんな塔矢アキラに、父親との『塔矢に勝てなければ家に入れない』という会話を聞かれて勝ちを譲られたこと。
そんな事を、加賀は不機嫌に顔を歪めながらも正直に語った。
「……そっか。やっぱお前も塔矢のこと認めてるんだな、うん。あいつはやっぱりスゴイ奴だ」
「アホかお前は!!? 今の話を聞いてなんでそういう結論になる!? オレはアイツが大っ嫌いなんだよ! 理由はいま言っただろが! それ以上でもそれ以下でもねえ!! ……他に聞きたいことはねぇのかよ」
大嫌いとは言っても、認めてないとは言わない。
そんな加賀にヒカルはもう一つだけ質問した。
「もう囲碁はやらないのか?」
「……あー、そうだったな。オレに勝ったんだ。お前ちょっと耳貸せよ」
加賀はそう言ってニヤリと笑って、ちょいちょいとヒカルと筒井を手招きして3人で顔を寄せた。
「団体戦ん!?」
「そう。オレに、筒井に、コイツ。認めたくねーが、実力順ならコイツが大将。オレが副将。筒井が三将だな」
「小学生に大将をやらせるわけにはいかないよ! バレたらどうすんだ!」
「じゃ、コイツ三将な。で、筒井が副将。大将はもちろん、このオレだ」
堂々と続ける加賀に、筒井が慌てて肩を押さえた。
「ちょ、ちょっと待ってよ加賀!」
「た、大会!? そんなの出ねーよ! オレ、小学生だぞ!?」
「んだよ、オレの実力は認めてくれたんだろ? なら、一肌脱いでくれてもいいじゃねーか」
「うっ! まぁ、それはそうだけど……」
全く筋は通っていないのだが、加賀勢いに押されてヒカルも納得してしまって。
「よし!! 決まりだ。筒井、どーせ部員なんか一人も集まってないんだろ、よかったな大会参加で部ができるぜ」
「か、加賀……! でも、そんなこと……!」
「それにお前、コイツの力を見てみたいだろ? ……塔矢アキラに勝ったってのも、あながちフカシじゃねえかもな。あの海王には塔矢アキラもどきみたいなのがゴロゴロしてんだ、見てみたいだろ? コイツがバッタバッタと囲碁エリート共を薙ぎ倒していくのをよ。 ──で? いつだよその大会は」
「うっ。……今度の日曜日。10時からだよ」
「場所は?」
「──海王中学」
それを聞いて、加賀はニヤリと笑った。
面白くなってきたと思いながらの笑みだったし、なんやかんやで『土下座』を有耶無耶に出来たという安堵の笑みでもあった。
ヒカルは急な展開に右往左往しながらも、塔矢アキラもどきがゴロゴロしていると聞かされて、少しだけワクワクするのだった。
そして舞台は、海王中学へと移る。