神の一手   作:風梨

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約8000字



第8話

 

 

「──うひょー、ここがかの海王中学か」

 

 加賀と筒井に誘われた、中学囲碁大会。

 その会場にヒカルは訪れていた。

 

『ヒカルヒカル、有名なんです?』

 

「ああ、全国有数の進学校だぜ。こんな機会でもなきゃ一生来ることないよなァ」

 

『へぇ〜、頭の良い子たちがいるのでしょうか? どんな碁を打つのか、楽しみですね!』

 

 佐為と話をしながら会場の看板の立っている教室に入って見渡してみるが、まだ葉瀬中のメンバーは誰も来ていなかった。

 

「えーっと、ここか。ちょっと早かったな、筒井さんたちまだ来てないや」

 

『今日はどういった大会ですか?』

 

「3人1組で2勝した方が勝ちらしいよ。──あ、トーナメント表はこれか。えーっと、葉瀬中もあるな。男子8校に女子6校? 少ないんだな」

 

『ワクワクしますね……、ああ早く打ちたい』

 

『ドキドキしますぅ』と頬を染めながら言う佐為に向かって、トーナメント表の前に立ちながらヒカルが何気ない風に言った。

 

(あ、今日オレ打つから)

 

『えぇ!?』

 

(最近、お前ばっか打ってるじゃん。たまにはオレに打たせろよ。オレだってさ、お前の碁を見てちっとは刺激受けてるんだぜ?)

 

『ヒカル、ヒカルが碁を打ちたくなる気持ち、私もとてもとても嬉しいですし、よく理解できるのですけど、でも昨晩『あー明日は大会だな佐為』とか言って歴史の宿題させましたよね、私に!! あれは!?』

 

(別にお前に打たせてやるなんて、一言も言ってないし)

 

 そんなヒカルの屁理屈に佐為が愕然とした表情を浮かべた。

 

『ヒカルズルイっ! 加賀のことをどうこう言えませんよ!?』

 

(オレはいーんだよ。大体オレは数合わせのおまけなんだから、好きに打ったって良いだろ)

 

『うぅぅ!! ヒカルのバカッ!! もう宿題手伝ってあげませんからね!!』

 

(うっ、それはちょっと困る……。げっ!! あの人うちのはす向かいの高田さんちの兄ちゃんじゃないか! やっべーッ!! 佐為、逃げるぞ!)

 

『ヒ、ヒカル!? 話しは終わっていませんよ!』

 

 それからしばらく逃げ回って、加賀と筒井がやってくる。

 ヒカルは二人に駆け寄って『知ってる人がいるから、あまり騒がないで目立たないで』と話し合って、そして囲碁大会が始まった。

 

 

 

 席順を決めて、組み合わせ通りに座っていく。

 そんな中で時計が目に入ってヒカルが思わず『ポン』と押した。

 

「何すんだ、まだ始まってないのに!」

 

 対局相手にそう言われて、ヒカルは慌てるがどうしていいかわからない。

 そんなヒカルに助け舟を出すように、筒井が相手側の時計を押した。

 

「進藤くん、対局時計は押すと動き始めるから……」

 

「た、対局時計?」

 

「持ち時間一人45分。一手打つごとに押すんだよ、これを。わかった!?」

 

「おいおい、騒がずに目立たずにじゃなかったのかよ?」

 

 ニヤニヤと笑いながら加賀がそう言って、ヒカルは思わず赤面した。

 

(しょーがないだろ、大会なんて初めてなんだからさ!)

 

『やーいやーい、ヒカル怒られてるぅ』

 

(お前も知らなかっただろーが! 秀策の時代に時計なんてないだろ!)

 

『私はそんな迂闊な行動には出ませんよーだ』

 

(このやろ……! もういい! お前なんか一切出てくんな!)

 

 ヒカルが佐為に告げたタイミングで、係員の男性が話し出した。

 開始を告げる合図だった。

 

「時間です。では、始めてください」

 

 

 その後、加賀の対戦相手が吠えて加賀が罵倒しながらマウントを取って宣言通りに加賀が10分で対戦相手を下した。

 そして、興味津々にヒカルの対局を見に行って。

 何とも言えない表情で首を傾げた。

 

(う〜〜〜ん。いや、弱くはない。石の筋のしっかりしてるし、面白い形にもなってるんだが……。コイツこんなに弱かったか?)

 

 矛盾した物言いは比較対象を加賀にした場合の話だからだ。

 ヒカルの碁は加賀と比較すれば、それよりもどう見ても弱い。

 だが、ヒカルは互先で互角の勝負を繰り広げた後にハメ技で加賀を倒した。

 これからが本番なのかと思い見続けたが、結局そのまま終局してギリギリでヒカルの勝ちになった。

 

「お前!! オレの時にあんだけ綺麗にハメやがったのに、なんで今回は使わねーんだよ!? アホか!?」

 

「うるさいなー! いいだろ、オレの勝手じゃないか!」

 

「筒井が勝ったからいいものの、お前次やったら承知しねーからな!」

 

「イーッだ! 勝ったんだからいいだろ!?」

 

「オレはお前の本気が見たいんだよ!!」

 

「それこそオレの勝手だろ!」

 

 向き合って歪み合う二人を、筒井が『まぁまぁ』と宥める。

 そんな光景を見ながら、佐為は一人だけ別の人物のことを考えていた。

 

(……ヒカルも囲碁に目覚めかけている。そのキッカケはやはりあの子供。塔矢アキラ、やはり彼は特別なのかもしれない。……今、どうしているか)

 

 そう思う佐為。

 思い人である塔矢アキラは、奇遇なことにちょうど同じ建物の中に。

 海王中学に訪れているなんて思ってもいなかった。

 

 

 

 

「──わざわざ足を運ばせて申し訳なかったですね。キミがうちを受験すると聞いて……」

 

 校長室の中で、塔矢アキラは海王中学の校長と対面していた。

 いくつかの言葉のやり取りの中で、校長はアキラに囲碁部に入部してくれるように勧めていた。

 

 キミのような人物がいるだけで周りの刺激になるから、と。

 大会などに参加を強制するつもりはなさそうな様子だった。

 ただでさえ海王は囲碁の優勝常連校だ。

 今更塔矢アキラの力が必要であるとは思えない。

 

 だから、これは純粋に指導者として、部内に良い影響を望んでの提案だろう。

 それはアキラにも理解できた。

 

 しかし。

 素直に頷くことは難しかった。

 

「校長先生……。校長先生がおっしゃられる程、ボクは強くありません」

 

 校長はそれを謙遜と受け取った。

 当然だ。

 プロでも通用する、そう言われている塔矢アキラの言葉である。

 

「ははっ、いや謙遜されずとも……」

 

「いえ。本当にボクは……」

 

 しかし。

 その後に続いた深刻そうに吐露された言葉に、只事ではないと校長は察した。

 その時、アキラの脳裏には進藤ヒカルという少年の姿とその棋譜が浮かび上がっていた。

 あまりにも強大なカベとして、未だにアキラの心に残り続けていた。

 

 暗雲は、まだ晴れない。

 

 

 

 

 

「──ほら大将。結果報告してきて」

 

「ったく、アイヨ。葉瀬中、3戦全勝で勝ちっス」

 

 筒井に背中を押された加賀が結果を報告して、2回戦が始まる。

 

 加賀は再び圧勝で中押しで勝利した。

 その後に加賀はまず筒井を見る。

 その結果、5目ほど足りずに負けるな、と判断できた。

 

 そして、本命のヒカルの碁を恐々と見てみれば。

 

「う〜〜〜ん。前回とおんなじ……。いや、勝ってる? ギリギリがほんとに好きだなあ! お前!」

 

「うるさいなー! オレの勝手だろ!?」

 

「あのなァ、お前の実力はこんなもんじゃないだろ? 遊んでんのか?」

 

「遊んでなんかいないさ。本気だよ」

 

「じゃあ、これはどういう結果なんだよ!? オレん時だけマジになりすぎだろ!?」

 

「良いだろ別に。加賀の時はその理由があったってだけさ」

 

「……ほぅ」

 

 その時、筒井が中押しで負けた。

 ヒカルと加賀の会話を聞いていて、ヒカルが本気を出すつもりがないと知って。

 しかし、無理やり参加させた身で実力を出してくれとは、筒井から言うことはできずに席を立って去っていった。

 

「……おい、実はお前には黙っていたんだが、この大会に優勝できなきゃ、葉瀬中の囲碁部は認めてもらえねえんだ」

 

「え!? 参加するだけでいいって、筒井さんが……」

 

「お前に負担をかけまいと筒井がナイショにしてたんだよ。まぁ結果としては逆効果だったみてーだが」

 

 そう言って加賀は次々に理由を付け足していった。

 

「それだけじゃないぜ。えーっと、将棋部の連中がよ──」

 

 あることないことツラツラと並べる加賀。

 佐為はそれを聞いて、ああ、嘘だろうな、と思いながらも、まだ純粋なヒカルは思いっきり騙されていた。

 

「つ、筒井さんは囲碁部作りに熱心なだけだろ!? そんなの加賀が止めてやれよ!」

 

「だったらお前、真剣に打て! さァ、ホントの実力を見せてくれ! 早く打たねえと時間切れの負けになるぜ!」

 

 このまま打っても、もしかしたら負けないかもしれない。

 だが、加賀が見たいヒカルの碁はこんなものじゃない。

 もっと鮮烈で美しい棋譜だった。

 それが、加賀は見たかった。

 

 

 ヒカルは気にせずに打とうとした。

 何より自分のために。

 塔矢アキラと佐為の一局を見て、思ってしまったのだ。

 自分も、もっと打ちたいと。

 導かれるようにヒカルの心は動いていた。

 

 ──けれど、その手は止まってしまう。

 

 ヒカルは加賀に勝った。

 塔矢にも勝った。

 それだけじゃない。

 名人にも、置石があるとはいえ勝った。

 

 筒井さんは、その強いヒカルを頼って大会に誘ってくれたのだろう。

 加賀もそれを見越して誘ったのだろう。

 

 求められているのは自分ではない。

 佐為だ。

 

 そう気がついただけなら、まだヒカルも強い気持ちで悩みを振り払ったかもしれない。

 あるいは涙に瞳を濡らしながら、佐為に今だけは打つように願ったかもしれない。

 けれど、ヒカルの脳裏にあるのは佐為が齎した数多の勝利だった。

 

 もし自分が負ければ、これまで自分が打ち倒してきた相手にとって、あまりにも酷い仕打ちではないだろうか。

 これまで積み重ねてきた、数多の棋士たちに勝利した上で成り立っている。

 ヒカルの敗北は、ヒカルたった一人の敗北ではない。

 爺ちゃんの、塔矢アキラの、塔矢行洋の、加賀の、敗北なのだ。

 ヒカルの力は借り物だ。

 全力を出して負けたのならまだ納得できる。

 精一杯やったんだと胸を張れる。

 

 しかし、佐為の力を借りずに負ければ、その結果に自分は納得できないと思ってしまった。

 そう気がついて、ヒカルは俯いた。

 

 立ち上がるための火種はもうあった。

 あの日。

 塔矢行洋と打った日。

 ヒカルは確かに佐為の代わりになろうと打った。

 それが、新たなヒカルの心の支柱になった。

 

(佐為……。打って……)

 

『……ヒカル?』

 

(オレじゃダメだ……。オレじゃ佐為みたいには勝てないよ)

 

『私に出てくるなって言ったくせに』

 

 ちょっとした意地悪のつもりだった。

 佐為だって打ちたかったのに、除け者にされたから。

 何より昨夜の宿題を手伝ったのにインチキみたいな言い方で騙されたから、ちょっと拗ねてそう言ってしまった。

 

 それを聞いて、ヒカルは思わず涙を瞳に溜めた。

 

『わぁあ!! ヒカル! ごめんなさい、ごめんなさい!』

 

 大慌てで『ワタワタ』とヒカルの周囲を動き回る佐為も目に入らず、『ポロポロ』と涙を零したヒカルに佐為は気遣わしげに微笑んだ。

 

『悔しいんですねヒカル……。自分の力『だけで』勝てないことが……。大丈夫、2人で力を合わせれば逆転できます。絶対! 涙を拭いて打ちマチガイをしないで。いきますよ。──10の三 ツケ』

 

 ヒカルは袖で目尻を拭った。

 絶対に負けない。

 ヒカルに、不敗の心得が芽生えた瞬間だった。

 

 

 

 

「──筒井、やっぱアイツ只者じゃないぜ」

 

「あ、加賀。ごめんトイレ行ってたんだけど……」

 

「安心しろよ、アイツが勝った」

 

「ホント!? 勝った!?」

 

「ああ、やっぱ実力隠してやがったな、あんにゃろめ。決勝戦が楽しみだ。ひょっとしたら優勝できるかもな」

 

「し、信じられない。ここまで来れるなんて、夢みたいだよ! ──え!? 次は海王だよね?!」

 

「ああ、海王だ。んで、筒井。お前は本を捨てろ」

 

「えぇっ!?」

 

「お前に本はいらん。ジャマなだけだ! 捨てろ! 忘れろ! そんなもんに頼ってっから序盤負けるんだよ!」

 

「そ、そんなぁ! これはお守りみたいなもので……」

 

「いいか筒井。お前にはそんなもんに頼らないで良い実力がある。──ま、このオレほどじゃないけどな」

 

「……ちょっと良いこと言ったなって思ったのに、その一言で台無しだよ」

 

「なっはっは、このオレだぞ? ──何より楽しみなのは、やっぱりアイツだよ。くっそ、今からでも大将替えたいくらいだぜ」

 

「そんなに凄かったの?」

 

「凄いなんてもんじゃねーよ。僅差の局面をあっという間にひっくり返して中押し。只者じゃねえよ」

 

「……そうなんだ」

 

「だから、海王に勝てるとすれば、お前が序盤離されない事だ。さすがのオレも、海王の大将に勝てるとは言い切れねーからよ。アイツだけが勝ってもウチは優勝はできねーんだ。──頼んだぜ、副将」

 

「……ああ! ここまで来たんだ、頑張るよ!」

 

 そこに係員からの一声が掛かった。

 

「男子決勝。海王中・対・葉瀬中。開始してください」

 

 ヒカルたち葉瀬中メンバーは真剣な眼差しで対局に臨んだ。

 そしてその頃、塔矢アキラも動いていた。

 

 

 

「──今日は悪かったですね、塔矢くん。わざわざ来てもらったのに、私の話ばかり聞いてもらって」

 

「……いえ。父が校長先生によろしくと言っておりました」

 

「ああ、行洋くんが。彼が海王の生徒だった時、私が担任でしたからねぇ。時々対局してもらったなァ、ハハハ。懐かしい思い出です」

 

 お父さんの話題となったことで、アキラは思い出す。

 碁会所に訪れた際に、アキラを待っていたかのような緒方から聞いた話を。

 

『えっ……。お父さんが進藤と打った!?』

 

『ああ、名人からは聞いていないようだね。彼はキミを探して、この碁会所にまで来たんだよ。その時にちょうど塔矢名人も居てね。名人たっての希望で対局したんだ』

 

『そ、そうでしたか。……で、結果はどうなったんです!?』

 

『……聞きたいかい? おっと、そう睨まないでくれ、教えるよ。……キミが彼に二度も敗れたのは、マグレなんかじゃなかった。中押しで、進藤ヒカルが勝ったよ。もちろん、キミと同じく3子のハンデはあったけどね』

 

 衝撃的な事実だった。

 もしかしたらとアキラも思っていたが、まさか本当に勝ってしまうなんて。

 口元を押さえながら、アキラは鎮痛な面持ちで言葉を溢した。

 

『……お父さんが、負けた……』

 

『名人が研究会に誘うほどの逸材だった。残念ながら、断られてしまったけどね。──それに、キミを怖気付かせるほどの子でもある。うかうかしていられないのは私や名人の方かもしれないな』

 

 

 

 不意にアキラはそんな回想を思い返す。

 だから、その掛け声に気がつけなかった。

 

「──矢くん、塔矢くん」

 

「あ、はい!?」

 

「あはは、大丈夫ですよ。今日は中学の囲碁大会をやってるんです。どうですか、是非一目見ていって頂けませんか」

 

「海王の囲碁部のレベルが高いことは存じています。でも、ボクは──」

 

「まァそう言わずに。ホラ、あそこですから」

 

 気乗りしないアキラを連れて、校長は大会を行っている会場に入っていく。

 そして。

 アキラは驚愕の人物を見つける。

 先ほどまで考えていた、進藤ヒカルが、彼が大会に出ていた。

 

(進藤……! 進藤ヒカル!? なぜ、彼がこんなところに!?)

 

 校長に一声掛ける事も忘れて、アキラは『スイスイ』と人の波を縫ってヒカルの対局を見にいく。

 同い年であると名乗った彼が嘘を言ったとは思えない。

 だから、彼は小学生なのに中学生の大会に参加していることになる。

 どんな経緯を経ればそんなことになるのか、とアキラの脳内は大混乱だったが、それでも足は止まらない。

 そこに彼の対局があるならアキラは火の中でも飛び込んでいっただろう。

 

(中学生の大会に、制服を着て!? いったい、キミは何をやっているんだ……!!?)

 

 

 

 

 

 

『──ヒカル。いいですか、今まで直接言ったことはありませんでしたが、ただ観察するのではなく、私の一手一手に石の流れを感じなさい』

 

(石の流れ?)

 

『ハイ。ヒカルは今まで囲碁に携わって来たと思いますが、明確な師匠は居なかったでしょう? ──私が導きましょう、寅次郎のように。彼は私の碁を非常に楽しんでくれていました。ヒカルにも、是非楽しんでほしい。そして、私と一緒に打ってほしいのです』

 

(って言われても、結構楽しんでるぞ?)

 

『ふふっそうですね。では、それをもっと楽しくしていきましょう。ヒカルがもっともっと夢中になってくれるくらいに。私はこれからヒカルに見せるための一局を打ちましょう』

 

 そう言って、佐為は次の一手を次々と指し示す。

 

『この一局の石の流れをそのまま見つめなさい。ヒカルは今までにも経験があるはずですが、意識してではなかったと思います。今回はそれを意識して、やってみましょう。──きっと、もっともっと、囲碁が好きになりますよ』

 

 輝くような指先とは、まさにこのことだった。

 ヒカルは佐為が導くままに、海王の三将に相対しながら素晴らしい一手を重ね続けた。

 

 

 

 その後に、加賀は敗北して、筒井は本を見なくなった事もあって海王に奇跡の勝利を得た。

 そして。

 ──この場の視線は全てヒカルの盤面へと注がれていた。

 教本としても良いほど、対面した相手の実力を引き出す懐の深さを感じさせる一局だった。

 その上で容易に石の流れが想像できるほどに美しい軌跡を盤面に描いていた。

 

『これで終局です、ヒカル。──この者もよくここまでついて来ました。そなたの力があって初めてこの棋譜は出来たのです。誇りなさい』

 

 佐為の言葉は聞こえない。

 だから、代わりにヒカルが口を開いた。

 

「ありがとな、オレと打ってくれて。あんたが対局相手で良かった。──感謝してる」

 

「……こちらこそ、ありがとう」

 

 そう悲しげに、けれど堪えきれないような嬉しさを滲ませて言う海王の生徒に、海王の先生であろう者が肩に手を置いた。

 

「よく打ちましたね」

 

「ハイ……。(ユン)先生……」

 

 海王の三将が悔しそうに涙を零した。

 

 

 

 

 優勝は葉瀬中。

 2勝1敗という素晴らしい結果で全国の頂点に立った。

 

 と思ったら。

 

「──あれ……? あの子、進藤さんちの……」

 

「え?」

 

「あ、やっぱり! ヒカルくんじゃないか! キミ確か小学6年生のハズじゃ……」

 

「げぇ! 高田さんちの兄ちゃん!」

 

「……どういうことかね? キミ、葉瀬中の生徒じゃないのかね?」

 

 審査員の男性にそう言われて、こうなったかと空を仰ぐ加賀とは裏腹に、ヒカルを庇うように筒井が前に出た。

 

「スミマセン! ボクが無理に彼に頼んだんです!」

 

「……そうですか。では、葉瀬中は失格! 優勝は海王中!」

 

 失格。

 となれば、優勝しなければ囲碁部を作れると言う約束がどうなるのか。

 ヒカルは『オロオロ』とするが、そんなヒカルの視界に塔矢アキラが映った。

 思わず、今までの事も忘れて言葉が口をつついた。

 

「塔矢!? な、なんでお前がここに!?」

 

「──美しい一局だった」

 

 晴れ晴れとした表情で、薄く微笑みすら浮かべながらアキラはそう言った。

 もう暗雲を感じさせる姿ではなかった。

 清涼な風すら感じさせる、少し早い春すら感じるほどの清々しさを漂わせていた。

 軽く悔しげな色を滲ませながら塔矢は微笑んだ。

 

「悔しいよ。対局者が何故ボクじゃないんだろう」

 

 塔矢との会話が始まるな、と察した加賀が、とりあえずヒカルの疑問を解消するために耳打ちした。

 

「いい碁だったと思うぜ。ま、オレはとっとと将棋に戻りたいけどな。あと、優勝しなかったらどうとか、色々お前に言ったが、アレみんなウソだから」

 

「え!?」

 

「じゃーな」

 

 そう言い放って去っていく加賀をヒカルが見送って、一呼吸置いてからアキラが話しかけた。

 

「進藤くん。キミを超えなきゃ、神の一手に届かないことがよくわかった。だから……」

 

 真剣に、ヒカルの目を見つめてアキラは言った。

 もう春風の気配はない。

 剣呑と言ってもいい。

 それほどに研ぎ澄まされた真剣さのこもった瞳でアキラはヒカルのことを射抜いていた。

 

「ボクはもう、キミから逃げたりしない。──いつでも打とう。ボクはあの碁会所に居るから、キミの都合がいい日にでも。……じゃあ、ボクは帰るね。ほら、校長先生を待たせてるから……」

 

 そう言って指差した方向では、ふくよかな丸みのある男性が優しげに微笑んでいる。

 塔矢の視線に合わせて軽く挨拶するように手を振っている。

 

「じゃあ、進藤くん。また会おう。いつか、必ずキミに追いついてみせるよ」

 

 そう言い残して、アキラは去っていった。

 その足取りは軽い。

 今までの暗雲の気配など微塵もない。

 

 そんな塔矢の姿を見て、ヒカルも気が晴れた。

 これでいいんだと自然な気持ちで思えた。

 

『ヒカル。今の一局、どうでしたか。……感じるものはありましたか?』

 

 アキラが去った後で、佐為がヒカルに問いかける。

 それを聞いて、ヒカルの脳裏に蘇るのは先ほどの一局。

 対局中を思い返して。

 爽やかな風が通り抜けたような心地良さを覚えながら、ヒカルは力強く頷いた。

 

「うん……。佐為、やっぱ、お前って凄いやつだ」

 

 そんなヒカルの声に、佐為はとても嬉しげな微笑みを見せた。

 佐為は何よりも囲碁が大好きだ。

 ヒカルがもっと囲碁を好きになってくれたと思っての微笑みだった。

 

「──囲碁って、思ってたよりもずっと面白いかもな」

 

 脳裏に蘇る黒石と白石の星々。

 まるで、神様にでもなった気分だ。

 煌めく思考を感じながら、ヒカルは神様のような全能感に浸って満足げに鼻息を漏らした。

 

 季節は巡る。

 冬が過ぎ去って新しい季節が訪れる。

 

 ──門出を祝福する季節が訪れようとしていた。

 

 

 

 


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