「──うひょー、ここが海王中学か」
先日加賀と筒井に誘われた、中学囲碁大会。
その会場にヒカルは訪れていた。
『ヒカルヒカル、有名なんです?』
「ああ、全国有数の進学校だぜ。こんな機会でもなきゃ一生来ることないよなァ」
『進学校?』
「……頭いいやつがいる学校ってこと」
『へぇ〜、頭の良い子たちですか! どんな碁を打つのか、楽しみですね!』
佐為と話をしながら会場の看板の立っている教室に入って見渡してみるが、まだ葉瀬中のメンバーは誰も来ていなかった。
「えーっと、ここか。ちょっと早かったな、筒井さんたちまだ来てないや」
『今日はどういった大会ですか?』
「3人1組で2勝した方が勝ちらしいよ。──あ、トーナメント表はこれか。えーっと、葉瀬中もあるな。男子8校に女子6校? 少ないんだな」
『ワクワクしますね……、ああ早く打ちたい。ドキドキします』
そんな頬を染める佐為に向かって、トーナメント表の前に立ちながらヒカルが何気ない風に言った。
(あ、今日オレ打つから)
『えぇ!?』
(最近、お前ばっか打ってるじゃん。たまにはオレに打たせろよ。オレだってさ、お前の碁を見てちっとは刺激受けてるんだぜ?)
『ヒカル、ヒカルが碁を打ちたくなる気持ち、私もとてもよく理解できるのですけど、でも昨晩『あー明日は大会だな佐為』とか言って歴史の宿題させましたよね、私に!! あれは!?』
(別にお前に打たせてやるなんて、一言も言ってないし)
そんなヒカルの屁理屈に佐為が愕然とした表情を浮かべた。
『ヒカルズルイっ! 加賀のことをどうこう言えませんよ!?』
(オレはいーんだよ。大体オレは数合わせのおまけなんだから、好きに打ったって良いだろ)
『うぅぅ!! ヒカルのバカッ!! もう宿題手伝ってあげませんからね!!』
(うっ、それはちょっと困る……。げっ!! あの人うちのはす向かいの高田さんちの兄ちゃんじゃないか! やっべーッ!! 佐為、逃げるぞ!)
『ヒ、ヒカル!? 話しは終わっていませんよ!』
それからしばらく逃げ回って、加賀と筒井がやってくる。
ヒカルは二人に駆け寄って『知ってる人がいるから、あまり騒がないで目立たないで』と話し合って、そして囲碁大会が始まった。
席順を決めて、組み合わせ通りに座っていく。
そんな中で時計が目に入ってヒカルが思わずポンと押した。
「何すんだ、まだ始まってないのに!」
対局相手にそう言われて慌てるがどうしていいかわからない。
そんなヒカルに助け舟を出すように、筒井が相手側の時計を押した。
「進藤くん、対局時計は押すと動き始めるから……」
「た、対局時計?」
「持ち時間一人45分。一手打つごとに押すんだよ、これを。わかった?」
「おいおい、騒がずに目立たずにじゃなかったのかよ?」
ニヤニヤと笑いながら加賀がそう言って、ヒカルは思わず赤面した。
(しょーがないだろ、大会なんて初めてなんだからさ!)
『やーいやーい、ヒカル怒られてる』
(お前も知らなかっただろーが! 秀策の時代に時計なんてないだろ!)
『私はそんな迂闊な行動には出ませんよーだ』
(このやろ……! もういい! お前なんか一切出てくんな!)
ヒカルが佐為に告げたタイミングで、係員の男性が話し出した。
開始を告げる合図だった。
「時間です。では、始めてください」
係員の言葉に、一斉に対局が始まった。
加賀は対局前の宣言通りに10分で対戦相手を下した。そして今日一番の目玉である、ヒカルの対局を見に行って。
何とも言えない表情で首を傾げた。
(う〜〜〜ん。いや、弱くはない。石の筋はしっかりしてるし、面白い形にもなってるんだが……。コイツこんなに弱かったか?)
矛盾した物言いは比較対象を加賀にしたからだ。
現在のヒカルの碁は加賀と比較すれば弱い。
だがヒカルは以前、加賀と互角の勝負を繰り広げた後にハメ技で倒した。
そういう癖のある奴なのかもしれないとも思って観戦を続けたが、結局そのまま終局。順当にヒカルの勝ちになった。確かに勝ってる。勝ってるが……。
「お前!! オレの時にあんだけ綺麗にハメやがったのに、なんで今回は使わねーんだよ!? アホか!?」
「うるさいなー! いいだろ、オレの勝手じゃないか!」
「勝ったからいいものの、お前次やったら承知しねーからな!」
「イーッだ! 勝ったんだからいいだろ!?」
「オレはお前の本気が見たいんだよ!!」
「それこそオレの勝手だろ!」
向き合って歪み合う二人を、筒井が『まぁまぁ』と宥める。
そんな光景を見ながら、佐為は一人だけ別の人物のことを考えていた。
(……ヒカルも囲碁に目覚めかけている。そのキッカケはやはりあの子供。塔矢アキラ、やはり彼は特別なのかもしれない。……今、どうしているか)
そう思う佐為。
そんな塔矢アキラは、奇遇なことにちょうど同じ建物の中にいた。
「──わざわざ足を運ばせて申し訳なかったですね。キミがうちを受験すると聞いて……」
校長室の中で塔矢アキラは海王中学の校長と対面していた。
いくつかの言葉のやり取りの中で校長はアキラに囲碁部に入部してくれるように勧めていた。
キミのような人物がいるだけで周りの刺激になるから、と。
本心から大会参加を強制するつもりはない様子だった。
ただでさえ海王は囲碁の優勝常連校だ。
今更塔矢アキラの力が必要であるとは思えない。
だから純粋に指導者として、部内に良い影響を望んでの提案だろう事はアキラにも理解できる。素晴らしい校長先生なのだとも思う。だが素直に頷くことは出来なかった。
「校長先生……。校長先生がおっしゃられる程、ボクは強くありません」
「ははっ、いや謙遜されずとも……」
「いえ。本当にボクは……」
校長は謙遜と受け取った。
当然だ。プロでも通用する、そう言われている塔矢アキラの言葉である。謙遜と受け取るのが、むしろ普通だろう。
だがそんなアキラの脳裏には進藤ヒカルの姿が浮かび上がっていた。
あまりにも強大なカベとして未だにアキラの心に残り続けていた。
暗雲は、まだ晴れない。
「──ほら大将。結果報告してきて」
「ったく、アイヨ。葉瀬中、3戦全勝で勝ちっス」
筒井に背中を押された加賀が結果を報告して2回戦が始まる。
加賀は再び圧勝で勝利。その後に加賀はまず筒井を見る。
かなり厳しい展開だった。
──5目ほど足りずに負ける。これで1勝1敗。残るヒカルの戦績次第で葉瀬中の進退が決まる。
恐る恐ると本命のヒカルの碁を見てみれば。
「う〜〜〜ん。前回とおんなじ……。いや、勝ってる? ギリギリがほんとに好きだなあ! お前!」
「うるさいなー! オレの勝手だろ!?」
「あのなァ、お前の実力はこんなもんじゃないだろ? 遊んでんのか?」
「遊んでなんかいないさ。本気だよ」
「じゃあ、これはどういう結果なんだよ!? オレん時だけマジになりすぎだろ!?」
「良いだろ別に。加賀の時はその理由があったってだけさ」
「……ほぅ」
その時、筒井が中押しで負けた。
これでもう後はない。ヒカルが負ければ葉瀬中の敗退が決まる。本気を出してくれと筒井さんからも言われるかもしれない。ヒカルもそれを理解して、けれど筒井は何も言わずに席を立って去っていった。少しだけ不思議に思いながら背中を見送るヒカルの肩を、加賀ががっしりと掴んだ。
「……おい、実はお前には黙っていたんだが、この大会に優勝できなきゃ、葉瀬中の囲碁部は認めてもらえねえんだ」
「え!? 参加するだけでいいって、筒井さんが……」
「お前に負担をかけまいと筒井がナイショにしてたんだよ。まぁ結果としては逆効果だったみてーだが」
そう言って加賀は次々に理由を付け足していった。
「それだけじゃないぜ。えーっと、将棋部の連中がよ──」
あることないことツラツラと並べる加賀。
佐為はそれを聞いて『ああ、嘘でしょうね』と思ったが、純粋なヒカルは思いっきり騙された。
「つ、筒井さんは囲碁部作りに熱心なだけだろ!? そんなの加賀が止めてやれよ!」
「だったらお前、真剣に打て! さァ、ホントの実力を見せてくれ! 早く打たねえと時間切れの負けになるぜ!」
このまま打っても負けないかもしれない。
だが加賀が見たいヒカルの碁はこんなものじゃない。
もっと鮮烈で美しい碁だった。
それが加賀は見たかった。
自分だってもっと打ちたい。
塔矢アキラと佐為の一局を見て思ってしまったのだ。
導かれるようにヒカルの心は動いていた。
──けれど、その手は止まってしまう。
ヒカルは加賀に勝った。
塔矢にも勝った。
それだけじゃない。
塔矢名人にも置石があるとはいえ勝った。それがどれほどすごい事なのか、ヒカルは実のところよくわかっていない。それでも周囲の反応を見ればある程度は想像がつく。
筒井は強いヒカルを頼って大会に誘ってくれたのだろう。
加賀もヒカルの強さを見越して誘ったのだろう。
求められているのは自分ではない。
佐為だ。
そう気が付いただけなら、ヒカルも強い気持ちで悩みを振り払って自分で打ったかもしれない。
あるいは涙に瞳を濡らしながら、佐為に今だけは打つように願ったかもしれない。けれどヒカルの選択はそのどちらでもなかった。
ヒカルの勝利は、これまで積み重ねてきた数多の棋士たちに勝利した上で成り立っている。
ヒカルの敗北は、ヒカルたった一人の敗北ではない。
爺ちゃんの、塔矢アキラの、塔矢行洋の、加賀の、敗北なのだ。
全力を出して負けたのならまだ納得できる。
精一杯やったんだと胸を張れる。
しかし佐為の力を借りずに負ければそれはもう全力じゃない。何故なら今まで佐為の力を借りて勝利したのはヒカルなのだから。自分の力だけで打って、その結果敗北すればヒカルは自分の選択に納得ができないと思った。
そう気がついてヒカルは俯いた。
(佐為……。打って……)
『……ヒカル?』
(オレじゃダメだ……。オレじゃ佐為みたいには勝てないよ)
『私に出てくるなって言ったくせに』
ちょっとした意地悪のつもりだった。
佐為だって打ちたかったのに除け者にされたから。
何より昨夜の宿題を手伝ったのにインチキみたいな言い方で騙されたから、ちょっと拗ねてそう言ってしまった。
それを聞いてヒカルは思わず涙を瞳に溜めた。
『わぁあ!! ヒカル! ごめんなさい、ごめんなさい!』
大慌てでワタワタとヒカルの周囲を動き回る佐為も目に入らず、ポロポロと涙を零したヒカルに佐為は気遣わしげに微笑んだ。
『悔しいんですねヒカル……。自分の力だけで勝てないことが……。大丈夫、2人で力を合わせれば逆転できます。絶対! 涙を拭いて打ちマチガイをしないで。いきますよ。──10の三 ツケ』
ヒカルは袖で目尻を拭った。
ヒカルの敗北は、ヒカルだけの敗北じゃない。だから、絶対に負けない。
ヒカルに不敗の心得が芽生えた瞬間だった。
「──筒井、やっぱアイツ只者じゃないぜ」
「あ、加賀。ごめんトイレ行ってたんだけど……」
「安心しろよ、アイツが勝った」
その一言に、筒井は驚きと喜びで顔を上げた。
「ホント!? 勝った!?」
「ああ、やっぱ実力隠してやがったな、あんにゃろめ。決勝戦が楽しみだ。ひょっとしたら優勝できるかもな」
「し、信じられない。ここまで来れるなんて、夢みたいだよ! ──え!? 次は海王だよね?!」
「ああ、海王だ。んで、筒井。お前は本を捨てろ」
「えぇっ!?」
「お前に本はいらん。ジャマなだけだ! 捨てろ! 忘れろ! そんなもんに頼ってっから序盤負けるんだよ!」
「そ、そんなぁ! これはお守りみたいなもので……」
ウジウジと言い訳を続ける筒井から、本を奪ってぷらぷらと揺らして見せる。
「いいか筒井。お前にはそんなもんに頼らないで良い実力がある。──ま、このオレほどじゃないけどな」
「……ちょっと良いこと言ったなって思ったのに、その一言で台無しだよ」
筒井の軽口に、加賀は笑みを見せる。
「なっはっは、このオレだぞ? ──何より楽しみなのは、やっぱりアイツだよ。くっそ、今からでも大将替えたいくらいだぜ」
「そんなに凄かったの?」
「凄いなんてもんじゃねーよ。僅差の局面をあっという間にひっくり返して中押し。只者じゃねえよ」
あの加賀が、そこまで誉める対局だ。見ておくべきだった。
進藤くんを信じられなかった過去の自分を筒井は少しだけ後悔した。
「……そうなんだ」
「だから海王に勝てるとすれば、お前が序盤離されない事だ。さすがのオレも、海王の大将に勝てるとは言い切れねーからよ。アイツだけが勝ってもウチは優勝はできねーんだ。──頼んだぜ、副将」
「……ああ! ここまで来たんだ、頑張るよ!」
そこに係員からの一声が掛かった。
「男子決勝。海王中・対・葉瀬中。開始してください」
ヒカルたち葉瀬中メンバーは真剣な眼差しで対局に臨んだ。
そしてその頃、塔矢アキラも動いていた。
「──今日は悪かったですね、塔矢くん。わざわざ来てもらったのに、私の話ばかり聞いてもらって」
「……いえ。父が校長先生によろしくと言っておりました」
「ああ、行洋くんが。彼が海王の生徒だった時、私が担任でしたからねぇ。時々対局してもらったなァ、ハハハ。懐かしい思い出です」
父の話題となったことでアキラは思い出す。
碁会所に訪れた際に、緒方から聞いた話を。
『えっ……。父さんが進藤と打った!?』
『ああ、名人から聞いていないようだね。彼はキミを探して、この碁会所にまで来たんだよ。その時にちょうど塔矢名人も居てね。名人たっての希望で対局したんだ』
『そ、そうでしたか。……それで、結果はどうなったんです?』
『……聞きたいかい? おっと、そう睨まないでくれ、教えるよ。……キミが彼に二度も敗れたのは、マグレなんかじゃなかったよ。中押しで、進藤ヒカルが勝った。まぁキミと同じく3子のハンデはあったけどね』
衝撃的な事実だった。
その言い方では、3子ではハンデが大きすぎたということだ。
もしかしたらとアキラも思っていたが、まさか父に比肩するほど──いや、それは言い過ぎかもしれないが、だが本当に勝ってしまうなんて。
口元を押さえながらアキラは鎮痛な面持ちで言葉を溢した。
『……父さんが、負けた……』
『名人が研究会に誘うほどの逸材だった。残念ながら、断られてしまったけどね。──それに、キミを怖気付かせるほどの子でもある。うかうかしていられないのは、私や名人の方かもしれないな』
不意にアキラはそんな言葉を思い返す。
だから、その掛け声に気がつけなかった。
「──矢くん、塔矢くん」
「あ、はい!?」
「あはは、慌てなくて大丈夫ですよ。今日は中学の囲碁大会をやってるんです。どうですか、是非一目だけでも見ていって頂けませんか」
「海王囲碁部のレベルが高いことは存じています。でも、ボクは──」
「まァそう言わずに。ホラ、あそこですから」
気乗りしないアキラを連れて校長は大会を行っている会場に入っていく。
そしてアキラは驚愕の人物を見つける。
先ほどまで考えていた彼が、進藤ヒカルが大会に出ていた。
(進藤……! 進藤ヒカル!? なぜ、彼がこんなところに!?)
校長に一声掛ける事も忘れてアキラはスイスイと人の波を縫ってヒカルの対局を見にいく。
同い年であると名乗った彼が嘘を言ったとは思えない。
だから、彼は小学生なのに中学生の大会に参加していることになる。
どんな経緯を経ればそんなことになるのか、とアキラの脳内は大混乱だったがそれでも足は止まらない。
そこに彼の対局があるならアキラは火の中でも飛び込んでいっただろう。
(中学生の大会に、制服を着て!? いったい、キミは何をやっているんだ……!!?)
『──ヒカル。いいですか、今まで直接言ったことはありませんでしたが、ただ観察するのではなく、私の一手一手に石の流れを感じてください』
(石の流れ?)
『ハイ。ヒカルは私に出会う前から囲碁に携わって来たと思いますが、明確な師匠は居なかったでしょう? ──私が導きましょう、虎次郎のように。彼は私の碁を非常に楽しんでくれていました。ヒカルにも、是非楽しんでほしい。そして、私と一緒に打ってほしいのです』
(って言われても、結構楽しんでるぞ?)
『ふふっそうですね。では、それをもっと楽しくしていきましょう。ヒカルがもっともっと夢中になってくれるくらいに。私はこれからヒカルに見せるための一局を打ちましょう』
そう言って、佐為は次の一手を次々と指し示す。
『この一局の石の流れをそのまま見つめなさい。ヒカルは今までにも経験があるはずですが、意識はしてなかったと思います。今回はそれを意識して、やってみましょう。──きっと、もっともっと、囲碁が好きになりますよ』
輝くような指先とはまさにこのことだった。
ヒカルは佐為が導くままに、海王の三将と相対しながら素晴らしい一手を重ね続けた。
加賀は敗北して、筒井は本を見なくなった事もあって海王に奇跡の勝利を得た。
残る対局は一つだけ。
──この場の視線は全てヒカルの盤面へと注がれていた。
教本としても良いほど対面した相手の実力を引き出す懐の深さを感じさせる一局だった。
その上で容易に石の流れが想像できるほどに美しい軌跡を盤面に描いていた。
『これで終局です、ヒカル。──この者もよくここまでついて来ました。そなたの力があって初めてこの棋譜は出来たのです。誇りなさい』
佐為の言葉は聞こえない。
だから代わりにヒカルが口を開いた。
「ありがとな、オレと打ってくれて。あんたが対局相手で良かった。──感謝してる」
「……こちらこそ、ありがとう」
そう悲しげに、けれどヒカルに認めてもらえた嬉しさを僅かに滲ませて言う海王の生徒に、海王の先生であろう者が肩に手を置いた。
「よく打ちましたね」
「ハイ……。
海王の三将は頬に伝う悔し涙を零しながら、それでもどこか晴々とした表情だった。
そうして盤面は終局を迎えた。
優勝は葉瀬中。
2勝1敗という素晴らしい結果で全国の頂点に立った。
と思ったら。
「──あれ……? あの子、進藤さんちの……」
「え?」
「あ、やっぱり! ヒカルくんじゃないか! キミ確か小学6年生のハズじゃ……」
「げぇ! 高田さんちの兄ちゃん!」
「……どういうことかね? キミ、葉瀬中の生徒じゃないのかね?」
審査員の男性にそう言われて、こうなったかと空を仰ぐ加賀とは裏腹にヒカルを庇うように筒井が前に出た。
「スミマセン! ボクが無理に彼に頼んだんです!」
「……そうですか。では、葉瀬中は失格! 優勝は海王中!」
失格。
となれば優勝しなければ囲碁部を作れると言う約束がどうなるのか。
ヒカルはオロオロと動揺するが、そんなヒカルの視界に塔矢アキラが映った。
「塔矢!? な、なんでお前がここに!?」
「──美しい一局だった」
晴れ晴れとした表情で、薄く微笑みすら浮かべながらアキラはそう言った。
もう暗雲を感じさせる姿ではなかった。
清涼な風すら感じさせる、少し早い春すら感じるほどの清々しさを漂わせていた。
そんな中に軽く悔しげな色を滲ませながら塔矢は微笑む。
「何故、対局者がボクじゃないんだろう」
塔矢との会話が始まるな、と察した加賀がとりあえずヒカルの疑問を解消するために耳打ちした。
「いい碁だったと思うぜ。ま、オレはとっとと将棋に戻りたいけどな。あと、優勝しなかったらどうとか、色々お前に言ったが、アレみんなウソだから」
「え!?」
「じゃーな」
そう言い放って去っていく加賀をヒカルが見送って一呼吸置いてからアキラが話しかけた。
「進藤くん。キミを超えなきゃ、神の一手に届かないことがよくわかった。だから……」
真剣にヒカルの目を見つめてアキラは言った。
もう春風の気配はない。
剣呑と言ってもいい。
それほどに研ぎ澄まされた、真剣さの籠った瞳でアキラはヒカルのことを射抜いていた。
「ボクはもう、キミから逃げたりしない。──いつでも打とう。ボクはあの碁会所に居るから、キミの都合がいい日にでも。……じゃあ、ボクは帰るね。ほら、校長先生を待たせてるから……」
そう言って指差した方向では丸みのあるふくよかな男性が優しげに微笑んでいる。塔矢の視線に合わせて軽く挨拶するように校長先生は手を振っていた。
「じゃあ、進藤くん。また会おう。いつか、必ずキミに追いついてみせるよ」
そう言い残してアキラは去っていった。
その足取りは軽い。
今までの暗雲の気配など微塵もない。
そんな塔矢の姿を見ても、ヒカルにはなんだかよくわからない。ヒカルの感覚でいえば急に塔矢が立ち直ったように見えた。
でも不思議なことだが、これでいいんだと自然な気持ちで思えた。
『ヒカル。今の一局、どうでしたか。……感じるものはありましたか?』
アキラが去った後で佐為がヒカルに問いかける。
それを聞いてヒカルの脳裏に蘇るのは先ほどの一局。
対局中を思い返す。爽やかな風が通り抜けたような心地良さを覚えながらヒカルは力強く頷いた。
「うん……。佐為、やっぱ、お前って凄いやつだ」
そんなヒカルの声に佐為はとても嬉しげな微笑みを見せた。
佐為は何よりも囲碁が大好きだ。
ヒカルがもっと囲碁を好きになってくれたことが嬉しいと感じての微笑みだった。
「──囲碁って、思ってたよりもずっと面白いかもな」
脳裏に蘇る黒石と白石の星々。
まるで神様にでもなった気分だ。
煌めく思考を感じながらヒカルは神様のような全能感に浸って満足げに鼻息を漏らした。
季節は巡る。
冬が過ぎ去って新しい季節が訪れる。
──門出を祝福する季節が訪れようとしていた。