「ハスノはね、それが全部なんだよ」とは、今は何処への病院に担ぎ込まれてしまった母親の弁でございます。
あなや、あなや。察するに、何かこう、私の精神的なモノに多大な影響を与えそうな文言でございましたが、聞かされていた時の私ぁ、丁度、それを言われた前の日に出来た瘡蓋を弄り回しておりましたので、恐らくは一等肝要な“それ”が、何であるのか……さっぱり聞き逃してしまいました。いや、それで無くても、一言漏らさず拝聴したところで、馬の耳に念仏、馬耳東風、そんな様な結果でしたでしょう。
実のところ、───いや、まぁ、言わずと知れた事ではございましょうが、取り立てて何かこう、憎いだとか、恨めしいだとか、思ったりはしていません。何せ、元来は、私の方が幾倍に悪し様な行いを働いていたので、今更、偶々見てくれが女子になったから怯んだり何だりする、というのも、何だかおかしな話ではないですか。
ただ、その面様だけは、やはり不可思議に思われました。純粋無垢、とまでは行かずとも、まるで夢追い人のように。現実が見えていないようで、然れど、する事は地に足がついていて、けれど、やはりどこか夢現の中にいる。
矛盾の二字に内包された言葉の妙を、前世今生を含め、初めて実感いたしました。あれだけの嫋やかな雰囲気であれば、思うに、生来の気質がレースには向いていなかったのではないでしょうか。二束三文にもならぬ未練に足を絡め取られて、一生を、布団に首枷をされて過ごすのかもしれない。まるで蜘蛛の糸に目が眩んだ罪人の様相です。あ、これ、本日のカンダタジョークでございます。……ご容赦を。
あれから早、幾十日が経ち、明日明朝を以て、私は府中トレセン学園の門戸の内に、籍を置く事となります。期待は少し、不安が大半を占めるその胸中、表しきれぬ私の無教養が恨めしい。訳ないのでございますが、まぁ、のらくらやって行こうかな、と考えております。
「ねぇ、貴女」
中庭にて、半ば日課とも成り果てた掃除に精を出していましたところ、何やら鈴の音を鳴らしたような声が聞こえました。
見遣れば、私が庭に出た回廊の反対側、真向かいの2階。その窓から身を乗り出して、此方を胡乱げな眼差しで眺る誰かしらが、目に映りました。口の聞き方から察するに、使用人の類ではないのだろうと推察致しますが、と来ると、私としては皆目心当たりがございません。
「今ぁ、私をお呼びに?」
「ええ。具体的には、鼻唄を歌いながらご機嫌に掃除をして、昼食を取るのを半ば忘れかけているそこの貴女に、話しかけています」
「おや?───おぉ、こいつぁ失敬」
何だか揶揄うようなご様子で、白いんだか青白いんだか分からない髪を靡かせて、その方は言葉を紡ぎます。髪が青白い、という表現。言ってみて、何だか変だなぁ、と勘繰ってみましたところ、それはどうにも、こちらを見据える件の何某かの顔色、もとい皮膚やらが、ひどく白んで見えるのが原因のようです。
「ふふっ、噂はかねがね聞いていますよハスノイト。変なところで抜けていて、愛くるしい子だと。この分だと、噂には違わぬようですね」
「お、あぁ、はい。ありがとうごぜぇます?」
「もう少し話してみたいところなのだけれど、そろそろ向かった方が良いですよ。給仕の田辺さんが探していましたから」
給仕の田辺……あぁ、まずい。あいつぁ、時間に矢鱈とこだわる。中途ではありましたが、集めていた塵芥を取り集め、箒と小道具をしまいこみまして、一礼の後に私はその場を後にしました。
どうにか刻限に間に合わせ、前世においては類を見ない、今世においても中々上等な昼飯を頂いております。まぁ、基準的なニュアンスが、私の場合は大幅に平均を下回っているので、端から見れば、たかだかの握り飯と卵焼きでございます。
「お前さんよぅ、常々言っているがね、ウマ娘の、しかも育ち盛りが、そんな健康志向のダイエットマンみてぇな食生活はよ、良くないぜぃ。何かにつけちゃあ、おにぎりおにぎりとせがみやがる。もっと上等なモン食えよぅ」
「ん、ん〜。……んまぁ。んぐ。腹が一杯になるんなら変わらねぇす。その上に美味いとくりゃあ、言う事無しでさぁ」
「言ってくれるねぇ」
はて、そういえば。
「あのぅ、飯ぃ頂く前に、何だかメジロの親類?のような方に話しかけられたんですがよぅ、どなたか存じ上げてらっしゃいますか?」
「どんな感じだったよ」
「んぅ、と。白っぽい髪にえらく寒色の肌で……あ、でもそんくらいしか覚えてねぇす」
「そりゃあアルダン様でねぇかい。……ん?いや違ぇな。今は療治で屋敷にゃいねぇ」
言われてみて、考えてみて、二人して小首を傾げ、暫しの沈思黙考。後に数分、論を結ぶには至らず、やる事もあったので、その場はお開きとしようと、どちらが言い出すわけでもなく、そそくさと食器を片付けました。
はて、狐狸畜生に化かされたかな、なんて思っても、よく考えたらそもそも以ってこの屋敷自体が格式が高く、言い換えて、金が掛かっているので、畜生の如きが立ち入れる程、安い作りではありません。
ならば、予定か何かが中途で変わったのかな、と思い立って事務の方にお伺いを立ててみても、そんな報せは受けていない、帰ってきてすらいない、と仰います。
はて、はて。如何な理由と言えど、世にも珍しき転生をした身共からすれば、余り、大層気を揉む様な話では無いのでしょうが、この身になってから、より人に近づいたか、はたまた婦女子の性質かは判然としませんが、一握に満たぬ好奇心が、針で掌をなぞるかの如く私の思考を刺激します。
とうとう腹を括りまして、今日に於いて再びの中庭掃除へと乗り出しました。「ありゃあ、開かずの間じゃあございませんか」。おっといけない、思わず声が漏れちまいました。先程、件の方が身を乗り出していた場所を、脳味噌の中の屋敷の見取り図と見比べてみましたところ、開かずの間と使用人の中で噂される、知る限りではどなたも足を踏み入れた事のない不可思議なお部屋でごさいました。
「あら、珍しい」
先刻と似たような景観の中、違いと言えば傾く日差しと台詞のみ。恥ずかしながら、瞠目致しました。
「普通は萎縮してしまうものなのだけれど」
「こりゃあ、また、頓狂な事でございますなぁ」
「やっぱり抜けているのね」
「?。と仰いますと」
「耳よ、耳。ようく、目を凝らしてご覧なさいな」
………。おぉ、馬耳、いや、今生で言うところのウマ耳がついておりません。艶かしく翻る白髪があるのみでございます。
「貴女、中庭に人気が無いのとか、気づかなかったの?」
「あ、いや、その。中庭とは言っても、様相の限りでは庭園でございましょう?庭園てなぁ、大体が鑑賞の為のものですので、この場合、人気がある方が、恐らくは可笑しく見えると思いまさぁ」
「……そうなのね」
おや、これが俗に言う気まずい、でございましょうか。
「して、実のところ、あなた様はどちら様ですかね」
「ん?あぁ、まぁ、メジロの親戚ね」
………。こいつぁ、虎の尾を踏ん付けちまいましたかねぇ。
「こら、まぁ。私ぁ、あなた様の噂だけ、存じ上げておりますよ。もし、気を損ねる事が無いのなら、今日はもう刻限に暇がありません。明日、明後日にでも、また来ましょう。その時、緩と、言の葉を交わしてみませんか?」
「まぁ!なんていじらしい子なの。約束……いや、ただ、待っているわ。だから貴女も、来て頂戴」
ほら、見ませい。真性の部分がちょぴっとはみ出してるじゃあございませんか。
「では、相左様なら」
「またね」
言うが速いか、でございます。決して、気取られる事のないよう、前世に於いて、さんざと繰り返した───今生に於いてポーカーフェイスの名を冠しますそれを繕いながら、私は再び訪れた中庭を後にしました。
こりゃ、しくったかな。好奇心は猫を殺してしまうらしいですが、馬の場合だと、果たしてどちらが勝るのでしょう。いや、この問いについてはお気になさらないで頂きたい。切迫しているときほど、人ってなぁは、然程大した問題でもないことを、さも重要であるかのように語りたがるものなのです。
───はて、艱難の憂いは限りあると言えど、よくよく考えてみれば、その内実が一体、どれほど痛烈な物であるのか、考えた試しがございません。見知った上での序の口が、今生の、ウマ娘の、根幹に対しての負債であるとして、これから先、如何程の物に私は遭遇するのでしょう。
顎を摩り、首を捻り、少し唸ること数瞬。なんだか重大な何かが見え隠れしていた気もしますが、やはり無い知恵ではそれを察することは叶わないようでございます。
あんまり考えたって仕方が無いので、一つ伸びをして、それで以て、明日の事に私は思いを馳せる事と致しました。
※誤字、文法の誤用などありましたら、是非ご連絡ください。
本作は突飛なアイディアの元、習作の一環として進行させて頂いていますので、こうした方が良いのではないか等ご意見ございましたら、お気軽にコメントください。