R-18ものではありません
とても静かで、僕が感じる限りでは非の打ちどころのない様な平和な夜に、暖色に灯るデスクライトだけがこのトレーナー室の中でかろうじて光を放っていた。時刻は零時をまわろうとしていた。気晴らしに流した古いアルバムも終わりに近づいている。カップは明日洗うとして、机の上にはまだ手をつけていない書類が数枚残っていた。今日中に終わらせる必要はないが、僕としては休日に仕事を回したくはない。意地の悪い選択に悩みながらも、椅子に深く背をもたれ、天井を仰いだ。
数秒か数分かもわからない様な曖昧な時間が流れ、いつもならそうしているうちに眠りにつき、早朝に目が覚め、わずかな気力を振り絞って横にならなかった昨夜の自分を恨むのが定石だが、今夜は幸か不幸かそうはいかなかった。
誰かが部屋のドアを優しく叩いている。しかしこんな時間に来客の予定はない。申し訳ないが今夜は引き取ってもらって、どうしても必要な用事なら明日また来てもらうことにしよう。
「トレーナー?」
聞き慣れた声が聞こえた。聞こえたが、そんなはずはない。門限はとっくに過ぎているし、約束を取り付けたわけでもないのだ。
「寝ちゃった?」
しかしもし本当に彼女だとしたら、このまま帰らせるわけにもいかない。多分僕に話したいことでもあるのだろうと、朧気な足取りで向かい、静かにドアを開けた。
「こんばんは。トレーナー」
そこに立っていたのは紛れもなく彼女だった。美しく腰丈まで伸びた白銀のストレートヘアに、何か重大な宿命を宿し守っているかのような黄金色の瞳。右耳につけたイヤリングを模した耳飾りは、まるで先天的な符丁であるかのように輝いている。淡い花緑青のワンピースに薄いカーディガンを羽織った姿は、まさにウマ娘のその端正な容姿を見事に表していた。
「外出許可なら取ってきたから心配しないで。ん、別に用事があって来たわけじゃないの。ただちょっとした成り行きで」
「成り行き?」と僕は言った。
「そう。先輩にね、占いが好きな娘がいるんだけど、私の親友がその先輩に元気もらったんだって。それで彼女が『私も占いやってみようかなぁ』って。面白そうだったから試しに占ってもらったんだけどね、『今夜はトレーナーさんの部屋が吉です!』だって。ほんと面白い子」
「それでここに」
「だってせっかく占ってもらったんだもん。親友の期待を裏切るわけにもいかないじゃない。大丈夫。お仕事の邪魔はしないわ。それに明日はお休みでしょ?」と彼女は言った。そしてとくに断る理由もなかった。
「ありがと」と彼女は言い、部屋を見回した。彼女の瞳はこの平和な夜にとても好く映えていた。
「何か気になるところでも?」と僕は言った。彼女は僕にその瞳を向け、少しだけ微笑んだ。
僕は彼女を来客用のソファに座らせ、カップを洗いに行った。そして再びやかんに水を入れ、カップをもう一つ取り出し、湯を沸かし始めた。この頃には僕の眠気はもうすでに覚めきっていた。
「……あら、このアルバム、もうすぐ終わりそうじゃない。ねぇ、適当に選んでて良い?」と彼女はステレオの前に立って言った。そのときの彼女の尻尾は両脚の間に隠れていた。それは僕に彼女がここにきた理由を感じ取らせるには十分すぎるほど淡い姿で、僕はまるで彼女がどこか遠い場所にいるような心持がした。だから僕は彼女をその遠くて孤独な場所から引き戻す必要があった。
「大丈夫だよ」とだけ僕は言った。僕にはその言葉が的確なように思えたから、ただその一言だけを言った。
それからしばらく静寂が続いた。正確にはステレオから流れる時代の過ぎ去った儚げな音楽が流れていたが、僕たちは一言も言葉を交わさなかった。ただ映画の始まりを静かに見届けているような時間が流れていた。
二つのカップに白湯を注ぎ、机の上に置いた。彼女はソファに軽くもたれかかり、瞳を閉じていた。
「ねぇ」と彼女は瞳を閉じたまま言った。そして少しだけ間を開けてから、隣の席を尻尾で優しく叩いた。それに応じる様に、僕は彼女の隣に座った。
「少し話をしても良い?あなたはお仕事をしながらでも構わないわ」
「その話は仕事をしながらでも聞ける?」
「さぁ」と彼女は言った。相変わらず瞳は閉じたままだった。僕は少しだけ白湯を飲んだ。
そして彼女はゆっくりと話し始めた。
「……私ね、小さい頃からレースを見るのが好きだったの。
彼女の瞳はいつの間にか開いていて、心のうちを探るように僕の方を向いていた。
「……そんなことはない。レースに出たい、走りたいと思う理由はそれぞれだ。僕はそれを知ってる」と僕は言った。本心だった。
彼女は少しだけ微笑み、また瞳を閉じた。
「ありがと。そう言ってくれると思ってた。……私がこの学園に来て、初めて選抜レースに出走したとき、これでやっと私の求めていた舞台に立てるって思った。デビューして、レースに出て、あのとき想像した感動を味わえるって。でも結果は散々だった。私もそのときは選抜レースも初めてだったし、やっぱり勝負の世界は甘くないなって思った。でも次は。って思った。でもそんな考えすらも甘かった。次の選抜レースも同じような結果になった。私はそこである可能性を感じてしまったの。もしかしたら私の求めていたものはやっぱり想像のもので、私はスタート地点にも立てないまま終わってしまうんじゃないか。こんな私が求めるのは傲慢だったんじゃないかって。ばかみたい。そのときまで自分が求めていたものが手に入らないかもしれないなんて考えもしなかったのよ。絶望したし、焦りもした。もし次も同じような結果になったら、私はこの夢を諦めるしかないのかもしれない。だとしたらそこまでの私はどうなるのよ。今までのことを捨てるなんて、そんな簡単なことじゃないわ。……でもあなたは、私に声をかけた。あのときどうして私に声をかけたのかは分からないけど……いいえ、分からなかったから、私は混乱した。こんな結果の娘にトレーナーが就くなんて想像できなかったの。もしかしたら悪魔なんじゃないかとさえ思ったわ。ねぇ、あのときの私はこんな状態だったのよ」
彼女の瞳はまたいつの間にか開いていて、僕を見つめていた。そしてその瞳を揺らしながら視線を落とした。彼女の黄金色は淡く、白みがかっていた。
確かに彼女は選抜レースで目覚ましい活躍をしていたわけではなかった。そして彼女の初めての選抜レースも本当は見ていた。見ていたからこそ、僕は彼女に声をかけた。彼女はレースに出走していた誰よりも冷静にレースを運んでいた。まだデビューする前の娘がそんなレース運びをするのはなかなか出来るようなことじゃない。彼女が選抜レースで勝てなかったのは、素質がなかったからではなく、単純に身体能力で劣っていたからではないかと思った。だとしたらそれは彼女一人で抱える問題ではない。そのための学園であり、そのためのトレーナーだ。だから僕は彼女に声をかけた。彼女のトレーナーに就いて、より効率的なトレーニングを重ねていけば、絶対にレースで勝てるようになると、本気で思ったからだ。僕はそのことを彼女に伝えた。いや、もっと早く伝えるべきだったのかもしれない。
彼女の視線が落ち着くまでにしばらく時間がかかった。そのときの彼女の気持ちは、僕には分からなかった。
彼女はゆっくりと口を開いた。
「……あのときあなたは、私を絶対に勝たせてみせると言った。一緒に勝利を掴み取ろうとも言った。私とは求めているものが違った。私はレースに出られるだけでよかった。もしかしたら私はこの学園の中で場違いな存在なんじゃないかと思った。それでもあなたは私のトレーナーに就かせてくれと言った。私は、私はもしかしたらあのとき、もうどうでもよくなっていたのかもしれない。もうこの先の可能性は無くなってしまうかもしれないから。たとえこの人が悪魔だったとしても、それでもここで私の数年間を無かったことにするくらいなら。でも、でもね、私はあなたのもとでトレーニングをしていて、あなたと、そしてこの学園の娘たちの思いに触れてきて、私は少しだけ、勝ちたいと思ったの。レースに出ただけじゃ、レースに出て、あの頃想像した感動を味わっただけじゃ、満足できないかもしれないと思ったの。おかしな話じゃない?私があの頃見てた娘は全員勝利を目指していたのよ。勝つことを目標にしてない私があの娘たちと同じような感動を味わえるわけないじゃない。
……ねぇ、私はね、トレーナー。今は本気で、勝ちたいと、あなたと勝ちたいと、そう思ってるの。だからね……」
そう言って彼女はその美しい黄金色の瞳を真っ直ぐに僕に向けた。そしてそのときには彼女はもう僕のそばに戻っていた様に感じた。
そしてゆっくりと、まるで僕の存在を確かめるように、彼女は額を寄せた。
「これからもよろしく。おやすみ、トレーナー」
彼女は静かに立ち上がって、ワンピースをなびかせた。